表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/35

第32話 下山届

 三月。


 大山にはまだ厚く雪が積もっており、ガチガチに固められたそれはより一層の危険を伴っている。

 だが、それは1500mを越える高所においてのことであって、標高500mほどの位置にある狼町には春の息吹が吹き込み始めていた。

 どこか肌寒く、しかしどこか温かみのある日差し。風に乗って届けられた匂いは、爽やかでやさしい、ふわりとした感覚。それを意識した時、彼は長い石段を登りきっていた。


 少し古めかしいが、威厳のある社。鳥居を潜り抜けると参拝者に向かって力強い眼光を向ける二匹の狛犬が目に飛び込んできた。

 狛犬の姿は一般的なものと少し違う。狛犬は獅子や犬をモチーフにしているが、この神社の狛犬は獅子とは言い難く、犬というには野性味が強い。

 ここで祀られている白狼の眷属――狼をモチーフにしたらしい。狼も犬も元は同種で、ほとんど変わりないと言っていいかもしれないが、人に慣らされた犬と野生で生きる狼では大きく違う。

 この神社の狛犬は、そんな今は日本にいない狼のイメージが強く現れている。


 彼は懐から十円玉を取り出すと賽銭箱に投げ入れ、鈴を鳴らす。

 ガランガランッと鈴が軽快に鳴り、彼は二回お辞儀。柏手を二回打って最後にもう一度、一礼する。


「これでよし、と」


 彼は一つ満足げに呟くと、回れ右をして境内の中を当てもなくぼんやりとふらつく。しかし、その足取りは確実にある場所を目指したものだった。

 ほんのりと香る梅からは遠ざかり、彼は確信を持って歩みを進めた。


 程なくして、神社の裏手に周った彼は、目的としていたそれを見つける。それは一本の巨木だった。

 幹の中ほどに巻かれた注連縄。見上げるほどの高さに、枝を本堂に寄り掛からせるようにして広げている。その枝の一本一本に小さなつぼみが見える。このぶんだと、今月末から来月には開花だ。


 この神社――白狼神社の御神木であるヤマザクラの木だ。樹齢は400年ほどになる。


 立派な、見る者を圧倒するような巨木だが、彼の目的は御神木ではない。巨人のようなヤマザクラの足元に佇む。一人の少女。

 普段は神社の修業で巫女服に身を包み境内の掃除をしているのだが、今日の彼女はそうではない。

 三月という時期だからか多少薄着。しかし流石に寒いのだろう、膝の上には簡単に畳んだ上着がある。普段は制服、神社では巫女服、そして部活動では登山スタイルで彼女の私服姿を初めてみた彼は、少し足を止めた。


 ――いや、らしくないな。


 女子の私服姿に心揺さぶられるわけではないが、誰にだって馴れ馴れしく接することが出来るのは自分の短所でもあり長所の一つだと思っている。見慣れた少女のいつもと違う服装を見たところで、いまさら何か思うのも無粋だ。自分らしくない。


 彼は肩の力を抜き、少し湿った境内をわざと音を立てながら近づいた。案の定、少女の首が彼に向いた。少女は柔らかく微笑み、ぎこちない動作で椅子(・・)を動かして身体ごと向き直った。


「よっ、まだ慣れてないのか?」

「はい、車椅子って案外大変で」


 タイヤの外側に付属するハンドリム――車椅子を自分で動かす時に使うリング――を回し、穂田の元に来ようとする。穂田は、すっと歩みを早め、鹿目が動き出す前に傍まで近づいた。

 鹿目はハンドリムにそえていた手を離し、首を捻って神木であるヤマザクラ――その根元に目を向ける。つられて穂田もそこに目をやった。

 ヤマザクラの根元、そこに小さな社があった。人形遊びに使われるような大きさの、言われなければ気付かないような社。ヤマザクラの幹に覆われるように、埋め込まれるようにしてそこにある。


「本殿では山神の白狼を祀っているのですが、こちらでは白狼に化けたタヌキが祀られているんですよ。えっと……ほら、社の奥に小さな箱が見えますよね」


 穂田が何か言う前に鹿目が説明した。

 確かに、小さな社の奥に押し込まれるような形で箱が安置されている。


「あれはその神様。山神の真の姿であるタヌキの時の毛が入っているとか。こちらの社には毎年の十五夜に団子をお供えするんです。……毎年山のタヌキに持ち去られますけどね」

「へぇ~~、俺全く知らなかったぞ」

「今回の私も、きっと山の神様のご加護があったからこそなんでしょうね……」


 鹿目は自分の脚に視線を落としながら言った。

 もう二ヶ月前のことだ。冬の大山に入った鹿目たち大神高校山岳部。その帰りに鹿目が雪庇を踏み抜き滑落。さらに雪崩に巻き込まれた。

 当初は絶望的な状況だった。なにせ滑落した先で雪崩に巻き込まれたのだから、どこに埋まっているかの検討すらあやふやだったのだ。その上、その日の大山の天候は急速に崩れ出し、ヘリはおろか直接向かう事すら困難な状況だ。結果、鹿目は一昼夜雪崩に巻き込まれたまま放置されることとなり、どんな人間だろうと生きていられるはずがなかった。


 だが、鹿目は生き延びることが出来た。

 雪崩に巻き込まれた際にもみくちゃにされた両足は粉砕骨折したが、それ以外は大きな後遺症を残すこともなかった。心配されていた凍傷も大したことはない。

 とは言っても粉砕骨折という現実は大きく、あの事故の後数回にわたって手術を繰り返している。そして、ようやく通院に切り替わりこうして実家に戻ってこれたのが昨日だった。

 両脚にはまだ痛々しいギプスがつけられたまま。だが、それでも以前の明るさは戻ってきていた。


「神様のご加護ねぇ……。ま、鹿目ほどの可愛い子なら神様が贔屓したっておかしかないよなぁ!」

「ちょ、ちょっと穂田君!」

「でも、タヌキの神様ってんなら、自分の眷属?みたいなのを寄越してても不思議じゃねぇよな。現にあの時は……」

「あ……」


 鹿目はあの日、ほとんどの時間、気を失っていた。気づいたら病院のベッドの上に居たのだ。だがたった一つ、ほんのわずかな時間だが覚えていることがあった。


「鹿目も、見たんじゃないのか? あいつを」

「……はい。幻だと言われても反論は出来ませんが……見た、と思います」


 梅の香りをほんのり纏った風が吹き抜ける。かすかに鼻孔をくすぐる甘い香りに――自分たちの言葉に、二人は沈黙した。


「俺もさ、思うんだよ。あいつ――悠治は、タヌキに乗り移ったんじゃないかって。だってあのタヌキ、やけに俺たちの前に現れるしさ」

「私も、同じことを考えてました。あのタヌキに会ってから、十九川君がいなくなった悲しさがだいぶ薄れてしまったように思うんです。もしかしたら……って」

「……ひょっとして悠治、あのタヌキになってんのか?」


 確信を突くような、胸を突くような予想。偶然にも――それは鹿目の希望と同じだった。悠治は、タヌキとなって大山のどこかで暮らしている。私たちのことを見守ってくれている。


 ――あ、だから……


 だからあの時……初めて会ったあの時、あんなにも和やかな気持ちになれたのだろうか。笠を被ったタヌキの、無垢な表情が浮かんで鹿目はクスリと笑みを浮かべる。次いで、初めて会ったその日の出来事が走馬灯のように駆け抜け……


 ――……!? もし、もしもあの時のタヌキが悠治君だったら……私……


「ん? どーした?」

「い、いえ! なな、なんでもないですよ!」


 それが真実だった時のことを考え、鹿目は顔が真っ赤になるのを感じた。「いけない。話題を変えよう」そう心で言い切った鹿目は慌てながら次の言葉を口にした。


「そ、そう言えば若杉さんは?」

「ああ、あいつなら目ぼしい奴を見つけたって学校で追いかけまわしてるらしいぜ。新しい部員探しに躍起になってたぞ。霊山先生も辞めちゃったしな」

「そうですか……」


 霊山は山岳部の顧問だった。だが、鹿目の遭難事故の責任を取って辞めることになったのだ。顧問も居なくなり、鹿目が部活動に参加できない状態になった今、山岳部の存続は絶望的だ。

 穂田は楽観視しているが、まだ一年生の――唯一の一年生の――若杉としては、どうしても続けたいらしい。あの事故以来、彼女の心象にも何か変化が起きたのだろう。今までよりも熱心に、必死になって山岳部のトレーニングに部員勧誘にと奔走している。


「ま、部活の方は若杉に任せればいいさ。次代を担うのはあいつだし、俺は悠々自適に……」

「穂田君。あなたも三年生なんですから、最後までサポートしてあげないと」

「わーってるよ。でもさ、ちょっとやりたいことがあって」

「やりたいこと?」


 穂田は腰に両手を当て、空を仰ぎ見る。天まで届きそうな神木の枝の隙間から蒼穹の空が顔をのぞかせる。


「あいつ、悠治みたいなタヌキに、もう一度会いたいんだ。そして聞き出すんだ。お前は悠治なのかって。あの日ははぐらかされた気がするけど、今度こそ確かめてやる」


 人によっては「お前は何を言っているんだ?」と馬鹿にするだろう。死んだ人間が別の動物に乗り移るなど、現実的にありえない話だ。一笑に伏す程度の馬鹿げた話。それに、来年度は高校三年になる穂田たちのことを考えたら、そんなことより受験に専念しろと怒るだろう。

 だが、この場には鹿目しかいない。だから穂田はその話題を持ち出した。そして、鹿目も同じようなことを考えていた。嘘のような、フィクションのような馬鹿げた話。だが、一笑に伏すことは出来ず、むしろ同じ思いを抱く。


「でも、タヌキの言葉なんて分かりませんよね」

「んだよなぁ……こうなったら俺も動物になってみるか? こう……キツネとかさ?」


 頭に手をやり、三角形の耳をまねて見せる。そんな穂田に、鹿目は思わず吹き出すのだ。


「やっぱ男のケモッ子ってのは需要がないよなぁ……」


 穂田ののうてんきなセリフは、風に乗って天に舞い上がる。







***







 バシャッ!!

 軽快な水音が谷間に響く。冷たい雪解け水を抱いた川を泳ぐ魚が、突如横合いから潜り込んできた毛を纏って小さな手に救い上げられ、硬い石が敷き詰められた河原に叩きつけられる。魚は激しく跳ねまわり、降り注ぐ月光を鱗で反射し煌めいていた。


「どうだっ! これで二十匹は獲ったぞ!!」


 俺は「カンベンしろ」というニュアンスを籠めて訴えかける。だが、生憎その程度で満足する連中ではなかった。


「悠治~、まだまだ足りないだよぉ~。もっと! この十倍くらいは欲しいだぁ」

「兄貴!! あっしにもたくさん恵んで下せぇ!!」

「おいおい、金魚の糞はほっとけ。それよりも態々町から出向いて来たオレにたっぷり献上しやがれぇ」

「悠治さん。僭越ながら、私ももう十匹は頂きたいかと。あ、あと他のタヌキたちにもお願いします」

「いや~今日は楽だねぇ。悠治、あたしと子どもたちの分、しっかり頼んだよ」

「今日も月がきれいだね。この魚は僕からの愛の形だよ、常盤」

「うれしいわぁ、ありがとう! 郁夫!」


 この野郎ども……俺をパシリ扱いしやがって……肩の傷が癒えて久しいのに! いい加減にしろぉ!!!!

 そしてリア充タヌキ!! それは俺が獲った魚だろうがッ!!!!




 と、言いたいところだが彼らに世話になったのは事実。俺はがっくり肩を落としながら冷たい川に戻る。

 あの冬山救助劇からすでに二ヶ月は経っただろう。

 俺はこの日、まぁ見ての通り、あの日協力してくれた野生動物たち一同に魚をプレゼントすることになった。ホントはもっと早く行われる――行わされる――はずだったが、俺が凍え死にしかねないからなんとか今日まで伸ばしてもらったのだ。

 散々愚痴られた日々ともおさらばである。

 ちなみに計画発案者は鈴之助。あの野郎にはあとで赤い斑点付きのキノコもプレゼントしてやろう。


 さて、こうして雪解け水を抱く川に入ると、タヌキとなって初めて飛び込んだ冬開けの川が思い起こされる。あの時はわき目も振らず、ただ水分が欲しい一心で飛び込んだ。今思えば、冷たい川に飛び込むなんて、急な温度変化によって下手すれば心停止を起こしていた可能性もある。最初のタヌキ集会の時に嘉六が言っていたように、あの時の俺は焦っていたのだということが良く分かる。

 慎重に足を川に浸け、じっと目を凝らして魚の様子を窺う。月光に照らされた川を見据え、次の獲物を探す。


「にぃちゃんにぃちゃん! 僕にもちょーだい」

「あーうん、順番待ってからなー」


 河原からまた新たなおねだりの声。俺はうんざりとした口調になって返す。


「あーにぃちゃん僕にだけ反応が薄いよ!! にぃちゃんのワガママの後押しをしたのは誰だと思ってるの!?」

「アーウンソウダネー。キンジクンノオカゲダネー」

「にぃちゃん!!」


 最近、金次がやたら生意気になってきた気がする。いやまぁ、伊吹がいなくなって以来の何かに憑りつかれたような狂気さが消えたのは嬉しい、ってか喜ばしいのだけど。

 ちなみに金次の言う通り――不本意だが――あの救助の一番の功労者は金次である。あの日、金次が一夜の内に山のタヌキたちを集めていなかったら鹿目はおろか俺も生きてはいない。金次は、図らずとも俺の命の恩人――恩狸――なのだ。


 だから、他の奴等にももちろんお礼の魚を振舞うが、金次にはとびっきりうまい奴を渡したいな。

 いつのまにか浮かんでいた笑みが川に写る。俺はそれに気づいて真剣な表情に戻し、目についた魚を天高く叩き上げる。




***




 ――………………あれ? 誰もいない?


 それから数時間後。もう深夜と呼ぶ時間も過ぎ去り、もうすぐ明け方に差し掛かるような頃、俺が魚を川辺に打ち上げて戻るとそこにはすでに誰もいなかった。

 代わりに、大漁の排泄物がこんもりと山積みにされている。


 俺はもはや躊躇すらせず鼻を近づけ、その臭いを嗅ぐ。


『本日はご苦労様でした。お先に失礼します。ところでお腹が痛いのですが……。 鈴之助』

『今日はうまい魚をありがとな。オラにも今度魚の獲り方を教えて欲しいだよ。 嘉六』

『ゴチ。 興六』

『魚っておいしいんだな。ネズミよりもずっといいね。今日はありがとう、ごちそうさま。 忠吉』

『あんた魚獲りが上手ねぇ。きっといい旦那様に慣なれるわよ。 辰巳』

『僕と常盤の愛情を深める素晴らしい春の月夜だったね。そうだろ、常盤。 郁夫』

『私と郁夫の恋心を深める素晴らしい春の月夜だったわね。ねぇ、郁夫。 常盤』

『あ、魚ありがと。郁夫&常盤』


 ……やっぱリア充タヌキ死ねッ!!


 まぁ、そんな感じで参加者のタヌキたちから温かい――二重の意味で――糞のメッセージが。

 うん。すっげぇ気分がよくなることが書いてあるのもあるんだけどさ……やっぱり、それを伝えるのが糞って……なぁ?

 おっと、まだもう一つ残っていた。


『魚とってもおいしかったよ。ねぇにぃちゃん。これからも僕と一緒だからね。たっくさんのことを教えてね。約束だよ。 金次』


 ……ふっ……はは。

 さて、いつまでもメッセージという名の糞の臭いを嗅いでいても仕方ない。俺もさっき獲った魚を食べて山奥に帰りますか。


「…………え?」


 そう思って、魚の方に足を向けて、俺はピタリと止まった。

 さっきまで誰もいなかった。何の気配もしなかった。なのに、そこには一匹のタヌキがいたのだ。


 毛はボサボサで、伸び過ぎた毛が目元を隠し表情は読み取れない。どこか枯れた大木のような雰囲気。だけど、言わずとも分かるようなすごい威厳――とでもいうべき何かを醸し出している。こいつは……タヌキ、なのか? いや。


「……うまい。ゴチになったぞ。悠治よ」


 しゃがれた声でタヌキは言った。初めて見るタヌキだ。だけど、俺はどこかでこいつとあった気がする。言葉を交わしたことなどないのに、良く知っている。直接名前を訊ねた訳じゃないのに、こいつが誰か分かる気がする。




「…………朧……さん?」

「時間じゃ。思い出せ、悠治よ」


 その瞬間、俺の脳裏がパッとまばゆい光に包まれる。暗い水底から一気に浮上したような、降り注ぐ日光を全身で浴びて目がくらむような。そんな感覚の末、俺は思い出す。




 あの日の、一年前の顛末を。


次回は0.5話です。

0話を読み返しておくといいかもしれません

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ