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第2話 さぁ、山で暮らそうか

 ガサガサガサ。


 さわり心地最高の毛が、芽吹いたばかりの雑草を揺する。ここもやっと雪解けの波が届き、ようやく地上に顔を出せたのだろう。


 ガサガサガサ。


 普段なら気にも留めない下草が、今は俺の視界いっぱいに広がり、未知の世界を演出してくれる。普段よりも目線が一メートル以上下にあるだけなのだが、たったそれだけで景色とは大きく変わるのだなと俺は感心した。

 小学生の頃か。自然学校に行ったときに、虫眼鏡片手に地面に這いつくばってひたすら草木溢れる大地を凝視し続けた経験が思い起こされる。あの時もそうだった。とても身近なのに、こんなにもいつもと違う世界が存在するのだな、と。




 ……って、少し詩人っぽく感想を述べてみたがどうだろうか。正直そんなことでもしないと気が滅入りそうだった。


 俺は突如としてタヌキになってしまった。これまでの十六年間、ずっと暮らし続けてきた町から、突如として逃げ出さなきゃならなくなった。

 タヌキと言えば森の中で暮らす動物だ。そんなイメージだけで、俺はとにかく山に来たんだ。俺の住んでいた町のすぐ近くに位置する山に。

 本当なら町に居たかった。だけど、家に居つこうとしても追い出されるしかなかった現実が、否が応にも思い知らせてくれたんだ。俺はもう、町では暮らせないんだと……。




 この山は、小さいころから慣れ親しんだ場所でもある。慣れ親しんだ、といっても整備された登山道や、そこに行きつくまでのアスファルトの道路は、だ。道の片鱗すら存在しない森の中は、俺にとっては完全に未知の世界だった。


 山の名前は【狼山(おおかみやま)】。実はもう一つの名前があり、読みは同じで【大神山(おおかみやま)】という。大神山の方が隠された名前になっているのは近くに存在するかなり有名な神社――【大神山神社】と被るから。なんとも気の抜ける話だ。

 が、狼山という呼び名にも由来がある。

 嘗てこの狼町――俺の住んでた町――が大飢饉に晒された際、山神だった白い狼が豊穣をもたらしたのだとか。この伝説は俺の住んでた町――狼町(おおかみちょう)の神社【白狼(はくろう)神社】にて語られ、今も祀られている。

 ここまで詳しいのは地元民として当然――なんだが……当の神社の娘である鹿目から聞いたのだ。まぁ、それは現状と然したるつながりはない、と思う。


 とにかく俺はタヌキになり、そして自分の住処を探して山に来た。そういえば、俺は直感的に山に入ったが、タヌキが山のどこで暮らしているのかなんて少しも考えてなかった。


 ――やっぱ、町に戻って暮らすか? ……いや、だめだな。


 僅かに脳裏をよぎった案は却下だった。


 町で暮らすとしてもどこで寝る? 食料は?

 タヌキの食性は雑食だ。つまりは何でも食べられる。肉も、魚も、虫も、木の実も、野菜も、果ては人間の残飯だって食べられるだろう。町で暮らすとなると、食料のほとんどは人間の残飯に限られる……と思う。

 贅沢な話だが、人の食べ残しなんてあまり食べたくない。潔癖症って訳でもないが、別の生物の唾液が害にならないとも限らないからな。

 もちろん、町で暮らすことを諦めた理由はそれだけじゃない。むしろもう一つの理由が重要だ。

 町中にタヌキが出没したら、人間は果たしてどう思う?

 答えは簡単だ。こんな田舎の町、タヌキが出たら食害を心配されるに決まっている。せっかく苦労して育てた畑の作物を食べられたら敵わないからな。親父が、それで何度かイノシシやシカを狩りに出かけたのを俺は知っている。

 だいぶ昔のことだが、東京の川にアザラシが現れたという話を聞いたことがある。詳しい事情は覚えてないが、アザラシは一時、川のアイドルのような状態だった。その年の流行になるほどだ。だが、それは【東京】という大都会に【アザラシ】という本来いる筈の無い野生動物が出現したことによって起きた流行だ。

 俺のいる街は、世間の雑踏から置いて行かれたようなド田舎の町。汽車は一時間に一本通るか通らないか。住民の大多数は農家を営んでいるか小さな商店をやっているか。高校だって、一学年一クラスの寂しいもの。

 こんな町にタヌキが出没して、果たして東京と同じ状況が起こるか? 答えは否だ。起こる訳がない。

 それに町での暮らしはまだ危険がある。簡単に言ってしまえば、交通の問題だ。

 人の目を避けて動き回ることになるこれからを思うと、夜間の活動がメインになる。夜は交通事故に遭いやすい。現に生前(?)の俺も、交通事故に遭いかけたことがある。文化祭の準備で夜遅くまで残った時のことだ。

 あの時は、心臓が止まるかと思った。安全を確認したと思って道路を渡ると、無灯火の車が突っ込んで来たんだ。反射的に横断歩道を駆け抜けて事なきを得たが、あれ以来、車の音に関しては酷く敏感になったものだ。


 そう言った理由から、タヌキになった俺が町中で暮らすのは危険だと思う。

 だから俺はこうして山の獣道すらない森の中を進み、巣に仕えそうな場所を探すのだが……


「は、腹減って来たな……喉も乾いたし……」


 考えなしに山に突入したのは失敗だったのか、すでに山に入ってから丸一日が経過していた。空腹で足元はふらふらするし、何より喉の渇きが酷い。


「ハッハッハッハッ……」


 息遣いも荒い。丸一日歩き続けたせいか、足は鉄棒の様に重く、今にも倒れてしまいそうだ。

 町を飛び出してきたとき、まだ俺の中で後悔や苦悩があったのだろう。ホントは離れたくない、だけど離れなきゃならない。

 俺は町を、仲の良かったみんなの元を一人離れるのが嫌だった。だけど状況は許してくれない。だからがむしゃらに、無理やり、引き摺る思いを引っ張って山に突入したんだ。そして、それを振り払いたくて、ただひたすらに道なき山道を歩き続けた。

 それが今に至るのだろうな。


「……くそっ」


 思わず近くの木に拳を叩きつけ――それが出来る筈もなく、頭を寄りかからせる。


「なぁ、穂田、鹿目……俺、結局死ぬのかな」


 二人とも俺の葬式には来てくれてた。今まで見たこともないくらい、その表情は歪んでいた。それでも二人は、自分にできるやり方で俺を送ってくれた……と思う。なのに俺は、あいつらから離れ、焦った気持ちのまま闇雲に走って、結局訳の分からないまま死んでいくんだろうか。


 ――ああ、なんで……だよ。せめて……







 ザザザ……

 ――!!


 ピクリと、形の良い俺の耳が動く。今、何か聞こえた。


 ザザザ……。


 やっぱりだ。タヌキになって五感が鋭くなったのか、一度捕らえた音は消えることなく耳に反響する。ついで、鼻孔をくすぐるほのかなニオイが伝わってきた。今まで嗅いだことのないニオイだ。だけど、なんとなくその正体が分かる。鼻孔をくすぐるほのかなニオイ。同時に耳にこだまするせせらぎ(・・・・)


「水だっ!!!!」


 それを確信した瞬間、俺の身体はどこにそんな力が残っていたのかと驚くほど素早く跳ね起き、湿った地面を踏みしめて駆け出した。

 疾走する。

 四本の足がしっかり地面を捉え、前足が雪を踏みしめ、後足が雪を蹴り出す。枝に僅かな葉の芽を芽吹かせているいくつもの巨木を躱し、ぐんぐんと俺は一点を目指して走る。徐々に、耳にこだまするせせらぎは大きくなり、鼻孔をくすぐる水のニオイも強くなっていた。間違いない。この先に、この先に水があるっ!!

 やがて、乱立する木々に覆われた視界が晴れ、一面に白い石が敷き詰められた場所にたどり着いた。今までの湿った腐葉土とは違い、石の大地はひどく走りにくい。だが、今の俺はそんなことには目もくれず、ただ一点に向けて走った。

 そう、すぐ目の前に迫った川辺に。山から湧き出た、天然の水へ向けて。


「水だぁぁあああああああ!!!!!!!!」


 激しい水音を立て、俺の毛深い体は川に吸い込まれていった。




***




「……ゲホッ!! うえぇ、ゲホッゲホッゲホッ……ああチクショー、はしゃぎ過ぎた」


 鼻の奥に水が入って痛い。以前よりも毛深い肌に濡れた毛がぴったり張り付いて気持ち悪い。おまけに体が震える。すげぇ冷たい。

 川を流れる水は、この春に融けた新品の天然雪融け水。十二月の終わりから降り積もった雪が三ヶ月の時を経て、内包し続けた新鮮な水を川に開放しているのだ。冷たいのは至極当然。急激な温度変化で大事に至らなかっただけよかったのだ。

 俺は全身をブルンと振り、纏わりつく水分を飛ばす。それで全てが飛ぶわけでもないが、何もしないよりはマシ。というか、自然とこの行動を起こさせた。


 犬みたいだな、俺。……あ、タヌキってイヌ科の動物だ。


 さて、いつまでも体を振っていても仕方ない。というか、俺は何のために川に飛び込んだ? 水を飲むためだ。勇んで飛び込んだ所為で鼻に入ってしまいしばらくむせていたが、もう落ち着いた。お待ちかねの水分補給タイムだ。


 ――……ん?


 あれ? なんだ? うまく水が飲めない。というか、水が口に吸いこまれない、つか吸い込めない。しばらく四苦八苦してみたがうまくいかない。

 くそぅ、なんだよ! やっとたどり着いた水分を目の前でお預けか!? ふざけんな!! 水! 水分! H2O! の・ま・せ・ろ・よ!!!!


 タヌキは頬をうまく使うことが出来なかった。おかげで吸い込むという行動が難しいらしい。しばらく悪戦苦闘したがうまく飲むことは出来ず、少し考えてみる。

 タヌキはイヌ科の動物だ。だったら、イヌと同じ飲み方で飲めるはず。が、あいにく俺の家ではイヌなんて飼っていなかった。飼っていたのはカヤネズミだ。


 とにかく、テレビや近所の野良犬を見た時の水飲みを思い出す。えっと、確か、舌を柄杓みたいな形にして掬いあげるんだっけ?

 方法が浮かんだらすぐに試すべき。俺は舌を水に浸けて掬い取る様にして水を飲もうとする。が、これでもうまくいかなかった。持ち上げるまでは行けるんだが、口に水を入れる前に水が零れ落ちてしまう。

 いや、この方法で口の中辺りまでは水柱を持ち上げる事が出来た。そこから全て零れてしまうが、その前に口を閉じれば飲めるのでは?

 もう一度、俺は同じ方法で水をすくい取り、水が口の中に入ったところで閉じる。すると、なんとこれまでうまくいかなかった水飲みが――少量ではあるが――できたのだ!

 口内に広がる水の冷たさに思わず顔を顰めさせる。頭を持ち上げ、なんとか水を喉の奥に水を流し込む……。


「…………う、う、ウマイッ!!!!」


 染み渡るような天然水の味と雪解けの冷たさが身体全体に行き渡る。キュ~~ッと全身が引き締められるような思いと、五臓六腑に行き渡る素晴らしき水分。

 な、なんだこれは!? 今まで使うこともなかった言葉だが、“甘露水”とはまさにこのことなのか!!!?

 水の飲み方を覚え、さらにこの川の水の味を知った俺の舌はもう止まらない。舌を川に浸ける。掬い上げる。立ち上がった水柱を()む。口内に取り込んだ水を喉の奥に流し込む。この動作を、俺はお腹が水でいっぱいになるまで続けた。()められない()まらない、だ。


 気づけば辺りは月明かりに照らされていた。もう夜も遅い時間だ。

 水を飲み、一息ついた俺は辺りに意識を向ける。

 轟々と流れる川。ゴロゴロと巨大な岩が辺りを埋め尽くしている川辺。川の上流には、「標高一二○二メートル」の大神山の頂がそびえている。

 この辺りには山岳部時代にも来たことがあった。止めどなく流れ続ける川は、自然の雄大さをひしひしと感じさせ、俺も感銘を受けた場所だ。確か、標高は800mくらいだったか。道なき道を行ったが、結局、知ってる場所に出たんだな。

 もう少し先に進めば中国地方最高峰と名高い大山の頂も見える。そこまで行けば、ちょうどいい場所があるかもしれない。俺の当面の目的は落ち着ける巣を見つけること。できれば、人があまり来ないような秘境がいいな。

 水を飲んで一心地ついた俺の頭は徐々に冴えわたってきた。山岳部で(まれ)に行く谷間がある。ここからまだ距離もあるが、そこなら落ち着けるかもしれない。

 しばらく休んだことで足にも力が戻っている。俺は投げ出していた脚に力を籠め起き上がる。


「――おや? 小僧、やる気が戻ったか?」


 いざ動こうと言うときに、誰かから声をかけられた。瞬時に辺りを見渡すが、俺の眼は何も捉えない。轟々と流れる川に、ゴロゴロした岩、それにまだ葉っぱもつかない寂しい草木があるだけ。

 さっき気付いたことだが、タヌキの眼は夜も良く通る。人間だった頃よりも夜の景色がよく見えるのだ。さらに鼻も聞く。だから、夜に何者かの気配を見失うなんてないと思ったのだが、見えないものは見えない。まだまだタヌキの身体には慣れが必要だと痛感する。


「巣を探しておるのだろう。向こうの峠を越えた先に誰も使っておらん、空の穴がある。そこならお主が使っても誰も文句を言わんだろうて」


 峠を一つ越えた先。そこはちょうどこれから俺が行こうとしていた所だ。だけど、声の主が分からないというのが俺の中の不安を増大させる。


「あんた、誰だ? タヌキか?」

「タヌキ……ほっ、そうかもしれんの。タヌキ仲間の温情ということか」


 なんだろう、なんか胡散臭い気がする。月の照らす川辺を、じっと目を凝らして探してみる。だが、やはり声の主は見つからない。


「ではの。そうじゃ、腹が減っとるならキノコでも食えばよかろう。空腹で峠越えは厳しいぞ」

「あ、おい待ってくれ……!!」


 それ以上、声の主から何か聞こえてくるわけでもなく、仕方なく俺はそれに従いながら行くことにした。怪しいが、タヌキの事なんて俺はほとんど知らないから、藁にもすがる思いで、だった。




***




 道中で食べられそうなキノコを一つ食べ、夜通しで歩き続けた。たっぷり水分補給した御蔭か、朝を迎える直前に俺は目的地にたどり着いた。

 詳しい場所を聞いてなかったから巣の場所を探すのは骨が折れると思っていた。しかし予想は外れ、存外楽にその穴を見つけることが出来た。

 おっかなびっくり覗くと、それなりに深い穴だった。俺よりも一回り大きいくらいの口が開いており、中もタヌキ数匹は入れるだろうほどに広い。

 誰かが掘った穴だろうか。タヌキはアナグマの掘った穴を間借りすることもあると言うから、これもアナグマの堀った穴か? 軽快しながら穴の中を回ってみたが、俺以外の生物は誰もいない。居た痕跡すらなかった。むしろ荒れ放題である。いや、野生動物の巣穴に荒れ放題もないと思うが……。

 巣穴から顔をだし、辺りの地形を窺う。さっきの川よりはかなり規模も小さいが、まさに湧水といった感じの小川があり、水源は確保できる。食料は、明日からこの辺りを探ってみるだけでもいいだろう。

 凛と静まり返った谷間は、どこか神聖な感じもする。俺が記憶している限り、年に一度は確実に人間が入って来るが、それを除けば滅多に登山者も立ち入らないだろう。大山のハイキングスポットでも、かなりマイナーな場所だ。


 ――とりあえず、巣はここでいいか。嫌になったらまた移動すればいいし。


 ここまで来て、いまさら移動する気もない。俺は穴の奥に入ると、身体を丸めて眠りにつく。ここまでひたすら歩き続けて疲労もピークだったのだろう。微睡む時間もそこそこに、あっという間に熟睡してしまった。

 明日は、食料探しだな。




 タヌキになってから2日……3日目かな? 俺はようやく自分の巣穴を見つけたのだ。


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