第28話 厳冬大山救出劇 その1
最終局面突入しました。
って、これタヌキの日常の話なのにいつの間にか登山の話がメインじゃね?
その日、俺はいつもの見回りをしていた。そこで偶然、冬登山をする鹿目たちを見つけ、そちらの後をつけていた。あらかた見回りが終わったところなので、ちょうどよかった。
そして、その判断は正しかった。
鹿目の姿が稜線から下へと消えた瞬間、俺は我を忘れて駆け出した。背後からジンと金次が口々の俺を呼ぶが、猛吹雪で俺の耳に届かない。
「ニ、ニーサン! アンタなにをっ!?」
「と、止まるでゴワス!」
「悠治さん……!」
頭上からヤマネたちが泡を食って俺を静止させようとする。が……遅いっ! なことに耳を貸す俺じゃないっ!!
「掴まってろ! 振り落すぞ!」
笠の下に向かって怒鳴り、俺は雪煙を巻き上げながら走った。
穂田たちとは離れた地点からだったから気づかれていない。だが、例え気づかれようと気づかれまいと、どうでもいい!
山頂に向かって伸びる稜線を横切り、急斜面に身を躍らせる。下には雪というクッションはあるが、身を投げたそこは真っ逆さまに落下するような崖だ。
雪の上に着地すると同時に、生じた衝撃で表層の雪が滑る。滑り落ちる雪の塊を踏み台に跳び、また別の雪塊を滑らせる。自力で走るより、こうした方がまだ距離を稼げる。
――いた! 鹿目!!
鹿目はピッケルを雪に押し付け、全体重をかけて耐えていた。その甲斐あって鹿目の落下速度は徐々に落ち着いてきている。
――なんとか……なる、か。って、俺がヤバい?
慌てて落下する身体をどうにか制御し、雪に取りつく。人間よりも軽い身体は、覚束ないながらも何とか急斜面の雪の上で静止するに至った。
「……あーー、どうにか無事か。あっぶねー」
「それはウチラのセリフや!! ニーサンいきなりの無理心中は感心せんわ!!!!」
「あ……わりぃわりぃ、ちょーっと焦ってさ」
俺は乾いた笑い声を上げながらネンを宥める。だけど、咄嗟のこととはいえヤマネたちには悪かったな。
大晦日のあの日以来、俺は鹿目の周囲を蠢くナニカが気になって仕方なかった。いつか、明日か、明後日か、ナニカが災厄をもたらすんじゃないかと気が気でなかったんだ。
結果的に鹿目は“滑落”という事故に遭ったが、なんとか最悪の事態――急斜面を滑り落ちて大木に激突とか――ならなくて一安心だ。
「――兄貴ッ!!!!」
と、斜面を駆け下りてくる二つの影。
金次とジンか。
ジンの奴、そんな慌てた声出さなくても……ん?
その時、俺の耳に音が聞こえた。「ゴォォ……」という圧迫感のある轟音……。
「兄貴ッ!!!! すぐに離れなせぇッ!!!!」
「にぃちゃん逃げてっ!! 雪が落ちて――」
雪が落ちて? なんか嫌なフレーズ……まさかっ!?
顔を上げた俺が笠の隙間から見たのは、濁流のごとく落ちてくる白。純白とはまさにこのことかと思うほどの白。俺の視界一面を覆い尽くすような……!!
「ヤベェッ!!!?」
俺は反射的に真横に飛んだ。その勢いを殺さずそのまま走り抜け――気づいた。
――っ!? 鹿目はっ!!!?
斜面を横切り、いくらか走ったところで振り返る。
視界にとらえたのは、轟音と共に流れ落ちる白い濁流。その隙間に、目立つ赤いウェアが一瞬の火花のように煌めき――押し流されて消えた。
――……ぅそ、だろ……ウソだろ……こんなの、おかしいって……
「あーもう、九死に一生やこんなん! ニーサン無茶せんといてや!?」
「兄貴! 無事で何よりでさぁ。……はぁ、ひやひやしやした……って兄貴!?」
雪崩はまだ続いている。俺は、雪崩に並走し、斜面を駆けおり始める
「ちょ!? ニーサンもうやめ――乱心はアカンて――」
「――るせえ!!!! 黙らねぇと食うぞ!!!!」
喧しいヤマネどもを怒鳴りつけ、なおも足は止めない。駆け下り、勢いのついた体は止まらない。視線はほんの一点を見据え、決して外さない。
――あそこだ! あそこに鹿目は埋まって流されてる。そのはず!!
背後からは慌てて俺を止めようとするジンと金次。頭上からは死に物狂いで俺を止めようとするヤマネ――ほとんどネン――が毛を引っ張る。だが、そんなものでは今の俺は止まらない、止められない。
俺の頭にあるのは、この山で築いてきた野生動物との絆じゃない。ただひたすらに、影から見守り続けた友人。それだけだった。
吹雪は、その勢いをさらに増していた。
***
雪崩の勢いは徐々に治まり、発生地点からだいたい四百メートルくらいは降っているだろう。
ここは、おそらく元谷の上流地点。
大山は現在“死火山”分類される嘗ての火山のなれの果てだ。火山活動の終わった山に成長はなく、後は崩れゆくのみ。そうして崩れた山の一部が、この元谷を流れ落ちている。年中大量の土砂が流れ着いており、冬の今は広大な雪原へと変化を遂げている。
そして今、土砂の代わりに大量の雪が流れ落ちてきた。それを追い駆ける俺たち共に。
「……はぁはぁはぁ、や、やぁっと追いつきやしたよ。兄貴ぃ……一体全体、急に、どうしやしたんで……」
「にぃちゃーん。ジンさんの言う通りだよ。どうしたの?」
二匹が心配そうに声をかけてくるが、俺の耳には届かない。俺は雪崩れた雪に前足を突っ込み、後ろ足で蹴り出す。ただ一点に向かって、必死に掘り続ける。こと、ここに至って頭の上のヤマネたちは当然、ジンに金次も俺の眼中にはなかった。ただひたすら、雪を掘り進める。
――鹿目、鹿目っ!! ここだろ!? 絶対ここに居んだろ!! 早く、早くしないと!!
雪崩からの救助の目安は十五分。それは埋没者が窒息するか否かだ。
十五分を過ぎてしまうと窒息の可能性が大幅に高まる。十五分以内で救出にできた際の生存率が九十二パーセントに対し、十五分を過ぎてしまった者の生存率は三十パーセント。まさに雲泥の差である。
――クソッ、長い棒でもあれば! 俺の身体が“タヌキ”じゃなかったら!!
雪崩に巻き込まれた物の命を救うには、まずどこに埋まっているのかを知らなければならない。やみくもに掘ったところで、見つかる訳がないのだ。
だから、冬山登山の際は長い折り畳み式の棒を用意し、それを雪に差し込んで埋没者を探す、見つけたら迅速に雪から掘り出すのだ。
だけど、俺はタヌキ。代わりになる木の棒がその辺で取ってこれたとしても、それを扱える手がない。結果、山勘で掘り出すしかないのだ。
何もしないよりはマシ。考えて、無駄に時間を減らすよりはずっとマシだ。無駄に時間を浪費するなど、俺は考えてない。
ある程度掘り、見つからなければ鼻を。雪に耳を押し付けて聴覚を。雪に埋もれた鹿目を野生の勘でひたすら探す。
だけど、現実は甘くない。
「クソ、クソッ、クッソォ!! 見つかりゃしねぇ!!」
頭を振り、邪魔くさい笠を外して投げる。急激に寒さに襲われたヤマネたちは慌てて金次に向かい、その毛に体を埋める。
「ニーサン!! アンタなにすん――」
「うっせぇ!! 今話しかけんなッ!!」
一喝。ネンはそれで、言葉を失くしたように口を開閉させる。むろん、俺はそんなの気にせずひたすら雪を掻き出す。
「兄貴」
「……ここでもない。次っ」
「兄貴っ」
「あと……たぶん五分もない。急がねぇと……」
「兄貴ッ!!!!」
突如、背中から押えられ俺は顔面から雪に叩きつけられる。……こんな暇はないってのに……。
「……邪魔すんじゃねぇ!! 俺は――」
「兄貴!! テメェは、今何をしようとしてやがる!! 薄情しやがれ!!」
払いのけようとする俺の肩口にジンが牙を突き立てる。激痛が走り、俺はとっさに言葉を飲み込まざるを得ない。
「テメェがなにしようとしてんのか、オレたちにきっちり説明しろ!!」
何って……鹿目を助け……。だが、今まで見たこともないような鋭い形相で睨みつけるジンの様子に恐怖を覚えた。口は動くが、言葉が出ない。
「……ハッ、言わんでも分からぁ。さっき雪崩に巻き込まれ人間を助けようってんだろうが。んなこと、兄貴の弟分たるオレが気づかねぇワケねぇ」
ジン、なんか言葉遣いが変わってるような……そんなことに今更気づいたが、今は関係の無い話だ。
「あの人間、近頃兄貴が気に掛けてた――いや、ずっと気にしてた奴なんだろ。そいつを助けてぇって思うのは、当然だよなぁ。伊吹の姐御の二の舞なんて兄貴は一ミリたりとも望んじゃいねぇ。たとえ偶然の産物だろうと、見過ごすわけがねぇ!! そうだろがッ!!」
そのまま俺の頭を噛み砕かん勢いで、吐き捨てるようにジンは言った。
「……お、俺は……」
言いたい事は解ってる。だけど、きっちり自分の言葉で言え。ジンは、俺にそう訴えかけている。普段よりも乱暴な……いや、おそらくこれはジンの素なんだ。普段は俺を兄貴と呼び慕うけど、その裏に隠してきたジンの素の姿。それを曝け出させるほど、俺は不安定になっていた……のだろう。
『おめぇ、焦りすぎなんだよ』
いつだったかな。この山に入って最初の集会。その時に嘉六が俺に行ってくれた言葉が蘇る。そう、鹿目が死ぬかもしれないという状況に、俺はまた焦っていた。俺一人じゃ、ただのタヌキでしかない俺一匹では何もできないんだから。
初めて山に来たあの日々と同じで……
だから、
「悪い、ジン。金次も、ヤマネたちにも、悪かった」
まずは謝ることにする。なりふり構わない行動で、こいつらに迷惑をかけたのは事実だ。
「それで、俺はさっきの人間――鹿目を助けたい。だから……無理にとは言わないけど、手伝ってくれ」
「ハッ、やっと素直に言いやがったか」
ジンは鼻息荒く俺の前に立つと俺を見下ろし、ニンマリと笑みを浮かべる。
「あっしが兄貴の頼みを断るなんてある訳ないでしょう。さっさと掘り出してやりましょうや!」
「えーと、ウチラも手伝いたいんは山々なんやけど……さすがにこうさむうては……」
「難しい、でゴワス」
「ご、ごめんなさい。悠治さん」
ジンに次いでヤマネたちもそれぞれの意志を示してくれた。手伝ってくれるのは無理、か。
「いや、無理はしなくていいよ。あ、頭の上に戻れよ」
ヤマネたちが俺の頭の上に登り、俺は笠を被り直す。人間ほど自由ではない前足だが、何度も同じ動作を繰り返すのだから笠を被るのはお手の物だ。
「…………」
「金次?」
最後。金次だけは押し黙ったまま反応がない。
きちんと答えを聞きたいのだけど、さっきも言ったように今は一刻を争う。時間がない。
「……始めよう。急がないと、あいつが窒息しちまう」
「へい! ですが兄貴、一体どこに埋まってるんでしょう……?」
「それは……――!?」
その時だった。俺の中のナニカが弾けたような感覚がしたのは。
――なんだ? 今の……?
分からない。ただ、身体の奥底でナニカが弾け、今までなかったような感覚が目覚めている。そんな感じ。いうなれば――第六感?
「――ここだ」
俺はそれに引っ張られるように移動し、ある地点で立ち止まる。
ここだ、ここに鹿目が埋まっている。理由はさっぱりだけど、絶対ここだ。
「ここに居る筈だ! ジン、手伝ってくれ!!」
「お任せくだせぇ、兄貴!!!!」
ジンが走り寄り、俺と向かい合う様にして雪を掻き出す。前足で掘り出した雪を後ろ足で蹴り出す。ずっと前、巣穴の拡張のため穴を掘り進めていたのと同じ要領だ。
だいぶ掘り進み、さっきまでならここにはいないと諦めて掘る場所を変えていた。だが、今はひたすら掘り続ける。確信を持って。
すでに雪崩の発生から二十分は経過している。雪崩に巻き込まれた人が生存する確率は、三十パーセント。だいたい三分の二の確率で死んでしまう。
――でも三分の一で生き延びれる。それならっ!!
ひたすら、さらに掘り進める。
そして、雪崩の発生から三十分は経過しようという時だ。
ガリッ!
ジンの爪が硬い何かにぶつかった。
「――てっ! 氷でやんすかね?」
「いや違う!」
見えてきたのは氷じゃない。黒い鋼の質感。登山用のピッケルだ。
鹿目はこのピッケルを持っていた。バンドで腕から離れないようにして。なら、
「ジン! もう少しだ!」
「了解っす!」
ジンと俺はピッケルの周りをさらに掘り進める。そして、ほどなくして……
「見つけた!! 鹿目だ!!」
ついに赤いウェアに身を包んだ鹿目の姿が見えた。口元を手で覆い、僅かな間の呼吸源を確保している。
エアポケットの確保。雪崩に巻き込まれた際の、少しでも延命するための措置。僅かな空気と、軌道の確保が、鹿目の命を繋いでいたのか。
「……まだ生きてまさぁ。ただ、両足の骨がやられてやす。このまま山に残してても、危ないかと……」
「ああ、救助を待つしかないか」
空を仰ぐ。天候は悪化の一途を辿っており、吹雪は強まる一方。霊山先生が救助の妖精は出してくれてたから、いずれ人は来る。来る、が……。
――この吹雪。ヘリは出せそうにないし、雪崩がまた起きないとも限らない。二重遭難を恐れて人が来ないってことも……。
鹿目を見る。雪に埋もれていたところから掘り出せたはいいが、今度は荒れ狂う冷風に身体が冷やされるだろう。窒息は免れたが、次は凍死の危険性が残る。
「……横穴を掘ろう。少しでも体温の低下を抑えないと」
「分かりやした。それじゃあ」
ああ、始めようか。
そうジンに言い、次に移ろうとした時だった。
「まだ、助けようとするの」
周りを吹きすさぶ凍風よりも冷たい、氷点下すら温く感じるような冷気を纏った声が投げられた。
「……金次?」
振り返り、金次に目を向ける。金次は斜面を下り降りる風に真っ向から立ち塞がり、氷のような眼差しで俺を、そして倒れた鹿目を見据える。
「そいつ、人間だよ? ねぇちゃんを殺した人間なんだよ? なのに、どうしてにぃちゃんは助けようとするの?」
「金次、お前……」
「にぃちゃんは、にぃちゃんは悔しくないの? 怒らないの!? 人間に!? 僕たちのねぇちゃんを奪ったあいつらを憎もうとはしないの!?」
先ほどのジンに迫るような、それすら上回るような覇気を纏った金次の怒り。冷たい大山の空気をびりびりと緊張させる。そして、どこかどす黒いオーラのようなものを纏っているような、圧倒的な黒さ。冬の白さとは正反対の、金次の内に秘められていた黒。
「坊主……おめぇ……」
ジンすら圧倒する金次は、もはや今までの彼と同じには見えない。それは……そう。あの日の、大晦日の夜に白狼神社に現れた黒いナニカに通ずる。
「分かんないよ。僕にはもう……。にぃちゃんは、ねぇちゃんを亡くしておかしくなったんだ。人間の所為で、おかしくなっちゃったんだよ!!」
金次の怒りを、俺は真っ向から受け止めるしかない。言い返す言葉すらない。
俺は元人間だから……だから、鹿目を助けた?
違う。
俺に取っては鹿目も、伊吹も、金次も、ジンも、ヤマネたちも、この山で出会った連中皆、これまでの人生で俺がかかわった奴みんな、亡くしたくない連中なんだ。
「おかしい……か」
だけど、金次の怒りを、憎しみを、否定はできなかった。
俺自身、あの日あの時、そしてあれから、憎み続けてたんだ。助けられなかった、俺自身を。
だから、山の巡回なんて行うようになった。あの日の贖罪のために、俺自身の心の整理をつけるために……。
今回の鹿目を助けたいというのは、贖罪じゃない。俺が自分の意志で、自分でやるべきと思うからやるんだ。だったら、
「坊主、テメェ兄貴向かって何言って――!!」
「分かった。金次」
「兄貴!?」
俺の言葉にジンが驚き、金次もピクリと耳を動かす。
金次は人間を憎んでいると言った。なら、このままここに居ても金次にとっていいことはない。そして俺に取っても……今の金次は……、邪魔でしかない。
「分かったよ。……また雪崩れたらいけないし、お前はさっさと逃げてろ」
金次の双眸が丸く見開かれる。だけど、俺はそれにも気づかないふりをして笠を外した。
「先に、こいつら連れて戻っててくれ」
「ニーサン……」
「お前たちだって、このまま雪原に居たら凍死するぞ。金次と一緒に、どっか避難した方がいい」
三匹のヤマネは俺の頭の上で固まる。
俺は金次に歩み寄り、その頭に笠をかぶせる。前足でゴムを引っ張り、金次の顎にかけてやればそうそう外れはしない。
「それじゃ金次。後でな……ジン、さっさと横穴を掘るぞ」
「り、了解でさぁ、兄貴」
ジンと二匹で鹿目を引き摺り、移動する。金次は、固まったように俺たちを見つめていた。
吹雪は、収まる気配がない。




