第27話 冬山登山
冬山は危険の宝庫。
チャレンジの際には十分な準備を怠らぬよう。
神社の年末年始は特に忙しい。
今年もアルバイトでやって来た巫女は朝から晩まで交代しながらのてんてこまいだった。神社に来た方々への案内であったりお守りの販売などなど。片田舎の小さな神社だが、それでも人が来ない訳ではない。
もちろん、神社の一人娘である鹿目琴葉も、バイトの巫女に交じって業務をこなした。鹿目にとって正月は、ただひたすら忙しい日々なのである。
三箇日が過ぎ、冬休みも終わりに近づいてようやく解放される。だが、鹿目はその次の日からも毎朝の境内の掃除がある。将来はこの白狼神社を継ぐ立場にあるのだから、毎日の研鑽は欠かせない。
それは三学期が始まっても変わらず、毎日が修行の日々。
そんな毎日を送る鹿目にとって、神社の仕事をせずに山に行く週末は、何よりの楽しみになっていた。
「うっわぁ……今年も避難小屋が見当たらねぇな」
大山六合目。標高1350m。見渡す限りの銀世界だ。
大山では、だいたい五から六合目付近から一気に視界が開ける。標高の差から、高木に分類される植物の分布が減少するためだ。
さらに冬の大山の積雪は二メートルを優に超える。六合目に設置されているはずの避難小屋も、その煙突がかろうじて確認できる程度だった。
「去年もこうでしたから……」
「去年もですか!? 山の上こんなに積もるんだぁ……知らなかった」
感嘆を漏らしながら背負ったザックを重たげに下ろすのは若杉結月。毎日の地味なトレーニング、週末を潰して挑む登山に馴染むことが出来ず一人、また一人と減って行った今年の山岳部員の中で唯一、現役活動を続ける女子生徒だ。
「今はまだいい方だぞ。三月は山頂の雪が解けて、それが夜には冷え固まってガッチガチの氷。一歩足を踏み外したら……ギャーー!!!! ……ってなるからさ。ぜひともお楽しみに!!」
「楽しみじゃありませんよ……やっぱみんなと一緒に辞めればよかったかな……」
「はっはっは、逃がさんぞ!」
「穂田先輩の鬼! 悪魔! 変態! ロリコン!」
「若杉さん? 何かおかしなのが――」
「はっはっは! 褒め言葉をありがとう!」
「穂田君! 褒められてませんよ! 全く褒められてませんよ!!」
「なに言ってんだ。年下の女の子にこき下ろされるなんて、俺にはご褒美さ!」
「うわ、先輩ドMだ変態だ」
三人の声が、喧しく厳冬期の大山に反響する。
しっかりとした準備を整え、さらにその日の天候にも左右される冬の登山。それは、僅かでも判断を誤れば一瞬で命の危機に瀕することを意味する。さらに、雪崩や天候の悪化など、冬は夏よりもさらに危険が高い。例え登山になれたプロであっても、一瞬の判断が命を分ける場面だ。
「お前たち。もう少し静かにしろ」
「あ、すんませーん」
流石に騒ぎ過ぎたのか、顧問の霊山から注意が飛ぶ。穂田はそれに適当に返しながら腕時計に視線を落とした。六合目に到着し、休憩を始めてからそろそろ十分が経つ。山行を再開するにはちょうどいいだろう。
冬山はとにかく寒い。山行の間はしっかり着込んだ防寒対策の服装と行動で生じた熱から暑くも感じる。だが、ひとたび休憩を入れると、火照った体は冬の冷気によってあっという間に凍えてしまう。寒さで体が冷えると動きも鈍る。冬登山の休憩は、体を休められかつ身体が冷えすぎないよう絶妙のタイミングを計ることも重要である。
穂田たち大神高等学校の山岳部は休憩時間を十分と定めるようにしていた。夏でも冬でも、これがベストだろうと言う結論に至っているのだ。最も、全国的にもこれが平均的なのだが。
「それじゃ、出発するか。この先は道幅も狭いし雪庇も出てくる。周囲をよく確認しながら行くぞ」
穂田はザックを担ぎあげ、足のアイゼンを確認。手元のピッケルを握り直し、準備を再確認しながら告げる。
「あと、若杉。もしも怖くなったらすぐに言うんだぞ。無理は禁物だからな」
「はーい。でも大丈夫ですよ先輩。今日は天気もいいし」
「無理はいけませんよ。万全の体調でないと何が起こるか分かりませんから」
「もう! 鹿目先輩も心配し過ぎです!」
気合たっぷりに反論する後輩――若杉の様子を見て、穂田は苦笑しながら「ま、なんとかなるか」と、楽観していた。
***
大山山頂は殺風景だ。冬のこの時期は特に。
山頂には小屋が一軒あり、山頂を示す石碑が建っている。今は、その全てが雪に埋もれていた。まさに、一面の銀世界である。
「ほとんど平らですね。夏とは大違い」
「うんうん。二人の……“そこ”みたいにな」
「穂田君!!」「穂田先輩!!」
「うははははーっ!! 俺は事実を言っただけ――あっ……がふっ」
逃げようとした穂田の背中に二人のザックが叩きつけられ、穂田は顔面から氷雪の山頂に突っ伏す。平らに近く、新雪で柔らかいからこそ笑いごとで済まされる行為である。
「ちょっ!! 今日が新雪じゃなかったら俺このまま滑落――」
「先輩がセクハラしなきゃいいんですよ」
「穂田君。言っていいことと悪いことがあると思います」
「……ってぇことは、二人とも気にし――ぶはっ!!」
力いっぱい二人によって氷雪に顔をうずめられる穂田。穂田が同期と後輩から制裁を加えられるのは良くある光景だった。たまに顧問まで加わることもあるのだから。
「…………」
その顧問である霊山敏弘は難しい顔つきで空を見ていた。遠くの空に、厚い雲が確認できたのだ。おそらく、そう遠くない内に雲は大山に到達する。
――ここで過ぎるのを待つか……小屋の入り口も掘り出されているから……。
「穂田」
「ふぁい……なんすか先生」
顔面雪まみれの穂田が駆け寄ってきた。霊山はその情けない姿に「はぁ」とため息を吐き、だがすぐに表情を改める。西の空の雲を指差し、
「早めに降りるべきと思うか、ここで過ぎるのを待つか。どうだ?」
「うぃ? あー、さっさと降りちまったほうが良さげですかね? 若杉が内心参ってきてるみたいですし。一晩明かせないこともないスけど、その場合は滑落が怖いんで」
若杉は山頂アタックの途中で突風にあおられていた。その時に、表層まで上がってきた恐怖心が、穂田の脳裏に焼き付いている。このまま山頂に留まると、それがさらに上乗せされて、最悪降りられない状態に達する可能性もあるのだ。
「そうか……分かった。それで行こう。先頭は私が行く。穂田は後ろについて若杉のメンタルケアを頼む。鹿目にも伝えてくれ」
「うっス。了解っス」
若杉と鹿目の元へ戻って行く穂田。この後の予定を伝え、二人とも下山の準備を整え始める。
同じように準備を整えつつ、だが霊山は拭うことが出来なかった。頭に残り続ける不安を。
そして、それは現実となる
***
「ひっ……」
穂田が心配していた若杉のメンタル面。それは限界を迎えようとしていた。
天候が崩れる前に――そんな希望をあざ笑うかのように、天気は急変した。横殴りの風が柔らかい新雪を巻き上げ、視界を奪う。吹き飛ばされそうな風が襲い、足に力を籠め、手に持ったピッケルを深く雪上に差し込み踏ん張る。
――かなりひどくなってきたな。
穂田は忌々しげに空を見上げ、かといって足を止める訳にもいかない。稜線の上で立ち止まるのは危険すぎで、だからと言って山頂に引き返すには離れ過ぎだ。現実的でない。
「ぅぅ…………」
「若杉、頑張れよ。もう少し下りれば、風も弱まるはずだ」
「頑張りましょう。怖くても降りるしかありませんから」
「は、はいぃ……」
最後尾を歩く穂田が、すぐ後ろの鹿目が若杉を励まし、何とか一歩ずつ歩みを進める。しかし、全く容赦のない風はそんな山岳部メンバーに襲いかかり、また歩みが止まる。
急な天候の崩れ。粉雪をふんだんに纏った暴風は、一瞬で命を奪う狂風に変わる。
――今は……八合と七合の間くらい……か? まだまだあるな。
ここまでの踏破感覚から計算して、穂田は現在地を予測する。六合目よりも下に行けば高木も現れ、多少なりとも風を遮ってくれる。何人かの登山者が残した足跡もあり、安全に下山できる可能性も高い。踏ん張りどころは、今だ。
「先輩……もう……」
「なに? 聞こえないな、今は歩く! 泣き言言う暇は、六号より下に下りてからだ」
なんとか若杉の精神を保ち、七合目まで下りることが出来た。ほとんど雪に埋もれているが、かろうじて見える木造の看板がそれを教えてくれた。風も、さっきよりはマシになっている。
「ここまで下りればあと一息ですよ。頑張りましょう?」
「は、はぃ――あ!?」
その時だった。一際強く風が吹き込み、若杉がかぶっていたニット帽が風に舞う。ニット帽はくるくると風の中で舞い、やがてパサリと雪の上に落ちる。穂田たちとは少し離れた位置だ。
「あ……」
「待ってて、取って来るから」
精神的に限界を超えかけている若杉には辛いと判断し、鹿目が慎重にニット帽を取りに行く。
……それが、運命の瞬間だと知らずに。
「――鹿目! 動くな!」
空の様子、先行していた霊山がそれに気づいたのは、鹿目がニット帽にたどり着いた時だ。
遅かった
霊山がそれに気づいた時、鹿目はすでにその上に居た。雪庇の上に。
「――え?」
鹿目の視界に映る帽子が、突如上った。いや、鹿目が下がったのだ。踏み抜いてしまった雪庇が崩れ、崖下へ。
「……え……?」
振り返ると、駆け寄ろうとする若杉を引き留める穂田がいた。だが、それもすぐに白の世界へと変わる。
自分が落下しているのだと気付いたのは、その時だった。
――うそっ……!? あ!
脳裏に過ったそれをすぐに行動に移す。右手で掴んでいたピッケルを構え、その刃を雪に押し付ける。全体重をかけて。
万が一滑落した時の対処法だ。全体重をピッケルに落とし、アイゼンをつけている足先は宙に向ける。あとはピッケルの刃で雪面を削りながら、摩擦で止まるのをひたすら待つ。もしもの時の訓練もしっかり受けているからこそ、こうして行動に移すことが出来た。
「――ッッ! …………と、止まった……?」
落下するスピード感が薄れ、止まったと自覚するにはそれから一拍の時が必要だった。本番に遭遇することは当然初めてだったが、どうにか滑落停止には成功した。
「ほっ」と安堵の白い息が零れる。
「……どうにか……?」
頬に白い粒が当たった。また吹きすさぶ雪なのだろうと思い顔を上げたが、違った。
鹿目の視界に映るは一面の白。雲の濁ったような白さではない。土や木の肌が混じったくすんだ白でもない。
純白。
真っ白なキャンパスに、煌めくような白い絵の具をぶちまけた混じりけのない白。
白が鹿目の視界一面を覆いつくし……。
雪崩に飲まれていった。
***
「ど、どうしよう……鹿目先輩が……」
すっかり狼狽える若杉を気に掛ける余裕は、穂田にはない。すぐに鹿目の無事を確かめようと雪庇の目前まで駆け――
「待て!」
霊山の鋭い静止の声に立ち止まる。
「先生! でも……」
「雪崩だ!」
思わず、見ると、雪庇が崩れた小さな衝撃で雪崩が起きている。瞬く間に穂田の眼下が埋め尽くされていく。
「そんな……ウソだろ……」
穂田は山岳部に在籍して二年だ。当然雪崩の知識もある程度持っている。雪崩に巻き込まれたら、十五分での救助が目安だ。スピードが命。
「先生! すぐに助けに――」
「――いや、このまま下山する」
だが霊山の判断は穂田の真逆だった。
「なに言ってんですか! すぐに助け――」
「鹿目がどこまで滑落し、どこで雪崩に巻き込まれたか判断がつくのか!?」
鹿目は滑落した先で雪崩巻き込まれたと予想される。鹿目が滑落停止を行っていたとしても、その軌跡はすでに雪崩に埋め尽くされ、鹿目がどこで止まったかの判断がつかない。
すなわち、探索する範囲はかなりの広範囲におよぶ。
「今から滑落した鹿目の所まで下り、さらに探索するとなる時間がかかりすぎる。レスキューを求めた方が無難だ。それに……」
霊山が示す先には、若杉がいた。
「このまま探索を開始すれば確実に二重遭難だ。これ以上、被害を増やす訳にはいかない」
「でも……」
穂田はそれでも食い下がれない。なんとか、鹿目を助けることは……だが、山岳部に在籍して二年――たった二年の穂田には、最良の判断を下せなかった。
霊山は穂田が葛藤している間に大山町の警察に連絡を取る。
「――はい、七合目で滑落後、雪崩に巻き込まれたと、方角は……」
連絡が終わるまで、穂田は何も言えない。
「穂田、下山するぞ」
断定する霊山に、穂田は何も言い返せない。強く唇を噛みしめるしかできなかった。
穂田は、そして霊山も、気付いていなかった。
鹿目が滑落した瞬間、雪原を駆けた一匹の獣がいたことを。




