第19話:夏だ! 海だ! ……山のタヌキに海?
夏だ!の4回目。
今回はちょこっと長め、そして節目に当たります。
夏と言えば海、海と言えば――
「夏だ! 海だ! 海水浴だぁーーー!!!!」
「だぁーーーー!!!!」
金次と共に叫ぶ俺! 目の前に広がるはどこまでも青い海。透き通るような青さの空。うん、水平線が分からないほどの一体化! すばらしい!!
「うるさい!」
「がふっ……」
また伊吹にタックルをかまされた。その勢いで、俺は真っ白な砂浜を転がり落ちていく。
「あ~~~目の前がグルグルするんじゃ~~~」
「あーにぃちゃん待って! 僕も行く~!」
と、金次も大はしゃぎで俺の後に転がり落ちて来た。それを大きなため息をつきながら伊吹が追いかける。うん、いつもの光景だ。
夏真っ盛りの八月。俺たちは、住み慣れた山から遥々遠出して、この海岸までやってきた。以前は海水浴場だったのだが、立地の悪さから経営が成り立たなかったとかで地元民の隠れスポットな場所になっている。今日は人間の姿もなくタヌキの貸切場だな!
そもそも海に来ることになった理由は、いつもの俺の話だ。
大山タヌキ集会にて、海とはどんなところかを俺は力説していた。が、多くのタヌキは海にあまり興味を示さなかった。海の恵みを深く感じてないからだろうか。その辺りは、俺にもよく分からない。
ただ、そんなタヌキの中でただ一匹、猛烈に興味を示した者が一匹――金次だ。
どこまでも続く海。水平線すら見えなくなる、空と一体化する蒼。真っ白な砂浜。ちょこちょこと磯を移動するヤドカリなど海岸生物。
その話に、金次の好奇心は急上昇した。
是非行きたい! 絶対行きたい! 行かないなら僕一人で行く!!
そこまで言われたらほったらかすことも出来ず、俺は金太と二人で海に行くことにした。うん、伊吹は誘わなかった。
理由は……大山から海に行くにはそれなりに歩く。山の麓にある狼町までの道のりより長い。必然的に、車が多く行きかう道路を横断するのだ。以前、車に轢かれかけた伊吹のことを考えると、とてもそこまで一緒に行こうとは言えなかった。
車の通らないあぜ道や脇のけもの道を進めば、車に出くわすこともなく安全に金太を連れて行けるだろう。
そう思って二匹で行くことにしたのだが、それを聞きつけた伊吹は「あたしも行くわ!」と、何やらやけに気合を入れて同行を申し出た。
「……たぶん、今回ならベストタイミングが……」
とかなんとか呟いていたが、俺には何のことかさっぱり。まぁ無理やりにでもついて来そうだったのでどうしようもなかったが。
そんな感じで、俺たち三匹は海へとやってきた。
「うわぁ……すっごーい!! ホントにすごく広い川だぁ!!」
「川じゃなくて海ね」
「そうそう、海海。にぃちゃんの言った通りだ! お空と海の境目がわかんないや」
俺を転げ落としたことには一切触れず、伊吹と金次は目の前に広がる青い海に目を奪われていた。
砂浜に顔を突っ込んでしまった俺は、どうにか顔を引っ張り出して霞む視界でそんな二匹を眺める。
「あ、僕喉乾いちゃったし。ちょっと飲もうかな」
「あ、あたしも。ここまで飲まず食わずだったもんね」
二匹はそう話し、海水をペチャペチャと飲み始める。
俺は「あっ……」と止めようとしたのだが、時すでに遅し。二匹はしっかり海水の洗礼を味わったようだ。
「ひぃひゃ~ん。ほほのひふ、ひゃらいひょ~……」
「遅かったか……」
金次が涙交じりに振り返った。舌をだらりと流し、おかげで声も酷いものだ。伊吹は激しくせき込みかなり辛げだ。ま、普段のことを考えれば、伊吹は別にいいや。
「海水は塩辛いから飲むなって言ったろ? あーあ、しばらく我慢しろって」
「ふへぇ……ほんなひはらいはんへ、ほもはなはっはひょ~……」
「なんて言ってんだか分からねぇよ……」
「ケホッケホッケホッ……はぁ……あんた!! どーゆーことよこれ!」
「いや、伊吹も話聞いてないかったのか」
「こんなことならもっとしっかり言いなさいよね! あーもぅ! 舌がダメになるかと思ったわ!」
伊吹はまた咳き込み、恨みがましく俺を睨む。
「ま、いい気味ってことで……あ」
「ほほぅ。あんた、あたしが苦しむ様を見て楽しんでたと……ほうほう……」
伊吹の顔に何か黒い煙が立ち込める。これは……うん、ヤバい感じだ。
「金次君、ちょっとこのバカを海に放ってあげましょう」
「え? でもそんなことしたら……」
「こいつは海をたっぷり堪能したいらしいからね」
「そうなの!? さっすがにぃちゃん! じゃあ僕もお手伝いする~」
いや、待って! 金次あっさり洗脳されんなよ!
俺は場の空気の変化を感じ取り、速やかにその場を離れる……が、その前に伊吹のタックルで砂浜に叩きつけられる。そして、回り込まれた二匹の突き飛ばされ、海に突き落とされた。
「ゴボガボガ……だぁああああああああ、かれぇえええええ!!!!」
***
その後、近くの磯に出向いて海藻やらヤドカリやらを齧ったり、磯に住む小魚を食べてみたり……俺たちは思い思いに海を堪能した。
うん? せっかくの海なのに泳がないのかって? 海で泳いだらさ、毛に海の成分がこびり付いてべたべたするんだ。
帰りに川で洗えばいいんだけど、全身の毛がべたべただと、とてもじゃないがやってられん。気持ち悪い。そもそも俺は泳ぎは得意じゃないんだ。だから、波打ち際でぱちゃぱちゃするだけで充分だった。
砂浜には、スナガニとかの生き物がいて、そいつらを観察するだけでも面白いからな。
そうして、のんびり海を満喫していた時だ。
「にぃちゃーん」
金次がなにか丸い大きなものを転がしながらやってきた。
それは、緑のの球体に黒の波線を書いたような物。
「金次!? それ……」
「えへへぇ……砂浜に落ちててさ、すっごく気になるから持ってきたんだ。にぃちゃん分かる?」
分からない……わけがない。夏と言えばそれ。夏の果実と言ったら、それ以外に他はない!!
「スイカ……だと……!?」
「スイカ? へぇ、そんな名前なんだ。美味しいのかなぁ?」
「美味しいに決まってんだろ! みずみずしくて、甘みたっぷりで……サイコ―の果実だ!! なんでここにあるのか知らねぇけど……」
「でも、そんなのが見つかるなんてラッキーじゃない? 早く食べましょうよ」
寄ってきた伊吹もノリノリだ。俺は早速スイカの硬い皮にかぶりつき――
「か、かたい……」
「あんた……歯が弱ってるんじゃないの? 貸しなさい。あたしが――」
伊吹もスイカの皮に牙を突き立て、弾き返される。金太も同様だった。
「硬い……わね。どうする? これじゃあ食べられないじゃない」
「いや、一つ手がある」
俺は少し離れた所にある磯を指した。
「あっちの岩場の方なら、硬い岩がいくつもある。そこでスイカをぶつけて割るんだ」
「おお!! さっすがにぃちゃん! あったまいい!!」
「別に誰でも思いつくじゃないの……」
伊吹が失礼なことを言ってるように思うが気にしない。俺は金太と一緒に頭でスイカを押し、えっちらおっちら磯場までスイカを運んでいく。
よく見ればこれは“大栄スイカ”ではないか? 鳥取県の名産果物と言えば“20世紀なし”が有名だが、大栄町で栽培されるスイカも名産品だ。
それが、こんな誰が来るか分からない砂浜に放置って……大方、ひそかに海水浴に来たグループがあまりの楽しさにスイカの存在を忘れたとか……そんな感じ? だけど、忘れるもんかなぁ? スイカって。
だってスイカだぞ! 果物の中でもキングオブキング!! 皆で食べるもよし、半分にしてスプーン片手に齧りついてもよしの夏最高の果物! 俺の大好物!
とまぁ、それはいいとして……俺と金次と伊吹の三匹はたっぷり時間をかけて、ようやくスイカを磯場に運び込んだ。海岸の地形上、砂浜から岩のゴツゴツした場所まではけっこうあるんだよな。
「それで、どうやってぶつけるのよ?」
「ああ……落とす?」
「落とす?」
俺の答えに伊吹が訝しげに返す。
俺の考えはこうだ。まずスイカを小高い岩の上に運ぶ。で、それを突き落として、硬い岩場でパキッと割る。……以上。
「落とす。でいいんじゃね?」
「そんな、乱暴ね。もうちょっときれいに割る方法はないの?」
「しゃーねぇだろ。人間みたく道具がある訳でもなし、スイカを支える手があるわけでもなし」
前足をかわりに使えないこともないが、いかんせんバランスが悪い。それよりか、自然の力――重力に頼った方がいい。
「それじゃ、早く運ぼうよ。僕もうおなかペコペコ」
「……ちょっと不安だけど、失敗したらあんたの所為ってことでやってみましょうか」
失敗? あるわけないって!
俺たちは比較的緩やかな岩場に登り、その上にスイカを安置。落下地点を確認して準備完了。
「よし、じゃ行くぞ!」
グイッとスイカを押すと、スイカは最初はゆっくり、あとは一気に岩場から落ちていき……下の岩礁に激突、破裂。そして……その多くが波間に消えていく。
「……あれ?」
「にぃちゃん、スイカ……」
金次が全てを言う前に、俺は岩場から駆け下りた。
そこにあったのは砕けたスイカの残骸。いくつかの破片はタイミングよく流れてきた波に飲まれていき、残ったのは少量の欠片のみ。
「あーあ、あんたの所為でスイカのほとんどが流れちゃったじゃないの」
「う……」
「このちょこっと残ってる奴、食べれるかなぁ……」
磯場に残されたほんの少しのスイカ。それを金次は不思議そうに鼻先で嗅ぐ。
砕けちまったが、残ってるスイカはスイカだ。食べれないことはないだろう。
……そう言えば、伊吹も金次もスイカを食べた事無いんだよな。ずっと山の中に居たなら、人間の畑にも出向いてないなら、確実に。
「ほら、食べてみたら? こんだけしかないけど、スイカはスイカだぞ」
「え……? あんたは?」
「俺は……ほら、前に食べたことあるし……二匹とも食った事ねぇんだろ? ちょっと塩味付いたかもだけど、試しに食ってみろって」
「でも……」
「いいからいいから。俺は……ちょいとその辺のヤドカリでも食ってみるかぁ!」
「にぃちゃん、ヤドカリって食べれるの?」
「いや、知らねぇけど。物は試しだ」
俺は適当に、そうはぐらかしてヤドカリを探すフリをする。
うん。妙な義理かもしれないけどさ。スイカを台無しにしたの俺だし、いつか、まともなスイカを二匹には食わせてやりたいな。とりあえず、今日はスイカはお預け。
――やっぱ喰いたかったなぁ。未練がましいなぁ俺。
***
海岸は、見事な夕日に彩られた。少し前までは蒼だった海は、今は赤の混じった色へと変化している。綺麗な、美しい夕焼け。
俺たちは海岸遊びの疲れからかぼんやり砂浜に佇み、その夕日を目に映す。こうやって、夕焼けを眺めるのって、いつ以来何だろうなぁ……。
「山の中だと見れなかったわ。太陽って、こんな風にも見えるのね」
「ああ……山の中じゃ、こう見える前に稜線で隠れちまうからなぁ」
俺と伊吹は、独り言のように呟く。金次はだらりと身体を投げ出している。その身体は、夕焼けに彩られ一瞬茜色に染まる。そして、それは俺たちも同じ。
ふと横を見れば、茜色の伊吹がいた。
「きれいだな」
何の飾り気もなくそう思った。
「え……?」
「あ……いやいや……ほら! 夕焼け、夕焼けの事!!」
「あ、うん……」
いっけねぇ。つい口に出てた。うっかりしてたな。
だけど、そう口にしたらあの日の山頂のことが脳内を過る。そう言えば、今意識し始めたこれは、あの時と同じような……。
「……ねぇ! あんた」
と、なにやら伊吹が切り出す。何か用でもあるのか、少し、いつもと雰囲気が違う。
俺の心がざわめくのを感じる。
「……ん? あー……なに?」
「えと……その……ちょっと、話したいことがあって……いいわ。帰りながら話すから。
「……ああ、分かった……」
伊吹は俺の答えに少し安堵したように、俺の隣に付き話し出す。
同時に、俺も少し安堵する。が、胸の高鳴りは一層激しくなった。
なんなんだろうな……これ……?
「前にさ、あたしは別の山から来たって言ったでしょ」
「ああ、俺と同じで他所から来たんだろ。それがどうかしたのかよ」
「うん。実は、まだ……隠してることがあって……」
隠し事、ねぇ。面白そうな話だが、普段なら自分から顔を突っ込むことはない。だけど、今回は伊吹の方から話したいみたいだし、なら黙って聞くのが俺のやることか。
予想と少し違う話だったから、ほっとできるよ。
金次は少し先を朗らかに歩いている。道路の脇だから車が突っ込んでくることはないと思うけど、少し警戒したがいいかな。
「金次。歩道からは出ないようになー」
「はーい」
金次の元気のいい返事を聞き、意識を伊吹の方に戻す。その瞳は俺を捉えておらず、どこか遠くを見ているようだった。
「あたしが人間を嫌ってるのは知ってるわよね。でも、昔は――子供の頃は、そんなことなかったのよ。むしろ、人間のことが好きだったわ。いっつもご飯をくれるし、あたしの寝床を掃除してくれるし……」
「ふーん……ん? でもそれって……」
餌をくれたり部屋の掃除をするって……そんなの山で暮らしてたらあるはずがない。そもそも人間がタヌキに対してそんな面倒なことをする義理がない。ただ一つ、それがあるとしたら……。
「あんたならもう気づいたでしょうね。あたしね、昔は【動物園】ってとこに住んでたのよ。お父さんと、お母さんと、妹と、ね」
「【動物園】か……でもお前、あちこち巡ってたって……それにその首輪は」
伊吹の首には鉄製の首輪が巻かれている。以前は動物学者がタヌキの生態調査のために使われていたが、その役目も終わった今は無用の長物。伊吹にとって余計なもので、人間嫌いになった原点。
「待って。順を追って話すから。――動物園に暮らしてた頃は、何不自由なく育ったわ。餌は何もしなくても人間がくれるし、生活の場だって人間が整えてくれる。あたしは、人間はあたしたちのためになんでもやってくれる存在って、そう思ってた。……転機が来たのは、その動物園に来た鳥のから聞いた話よ。その鳥は動物園の外から入ってきて、余った餌をかすめようとしてきたわ。で、偶然子供だったあたしと鉢合わせしたの。あたしは初めて見る鳥がどこから来たのか気になったから尋ねたの。「あなたはどこから来たの?」って」
無邪気な質問。今の金太と同じで、ただ不思議だったから聞いてみた。ただそれだけの考えで、深い思惑なんて何もなかったんだろうな。
「その鳥は教えてくれたわ。あたしが世界の全てだと思っていた動物園がどれだけ小さな場所で、外の世界がどれだけ広いか。そして、あたしたち動物園の生き物は人間に“飼われてる”ペットに過ぎないってことを。……その時から急に動物園の中が嫌になったわ。ずっと家族と住んできた場所も、あたしを閉じ込める檻にしか思えなかった。人間の事も、あたしたちを外に出さず小さな檻の中に閉じ込めてる酷い奴って思うようになった。思えばあのころからね。人間が嫌いになったのも」
「……伊吹」
「あたしはその鳥に頼んで、外への抜け道を教えてもらったわ。もちろん鳥の道じゃなくて、あたしが通れそうな道。ちょっと穴を掘れば逃げ出せそうなとこだったから、一月もかからずに脱走できた」
脱走……か。大騒ぎになったのだろうか。たぶん、生まれて一年もたたない子タヌキがいなくなったから、動物園の人たちも必死で探したのだろう。でも、伊吹はここまで逃げてきた。
「あとは前に話した通りよ。最初に居ついた山でこの首輪をつけられて、どこの山にも馴染めなくて、行きついたのが大山。その間に人間には散々な目に遭わされてね。もう、大っ嫌いになったわ」
「そっか。いろいろ大変だったんだな。……でも、なんでそんな話を今――」
「――でも、もう人間のことは嫌いじゃないわ」
伊吹は、俺の疑問を遮って言った。そして、さらに続ける。
「だって、あんたと出会ったから。人間なんて、ひっどい連中ばかりだって思ってたけど、それだけじゃないって気づいたから。ちょっと変わってて、でも、あたしを気遣ってくれる優しいところもあるんだって、そう思えたから」
「伊吹? お前何言って――」
「あんたに、悠治に会ったから、あたしは人間を見直すことが出来たのよ。あんたみたいな、変な人間もいるんだなって」
……なに、言って……んだよ。伊吹……?
「もう、分かってるわよ。あんたが元は人間だったってコト。前言ってたみたいに、ジョーダンなんてごまかしはなしよ」
――…………は? なに、言ってんだよ……伊吹……?
「は、ははは、おいおいどーしたんだよ。頭打ったか?」
「あたしは大まじめよ。思うに、あんたって三月に死んだって言われてる“高校生”の人間でしょ。そいつは白狼神社の巫女や、前にあんたの巣の近くまでやってきた人間と親しかったらしいし。その二人と何度も山に来てたって聞いたから、たぶん間違いない。それに、やたら人間のことに詳しいのに口では人間に会ったことがないとか……おかしな話よ。極めつけは二ヶ月前の登山の大会。あの時のあんたの話。まるで実体験みたいに詳細だったからね」
――だから、何言って……。
「どーしてそうなったかは知らないけど、あたしはあんたに……悠治に会えてよかった。あんたみたいな人間もいるんだなって、ちょっと嬉しかった。しかも、それがあたしの身近な所に居るなんて、ね」
……あ? なんだこれ? 要するに、気づかれた? 別に気付かれるような態度をとっていたわけじゃない。むしろ逆だ。気づかれないようにしていたつもりだったのに、少しずつ出してしまったボロから感づかれた。こんな、非現実的なことを。ありえないような、馬鹿みたいな話を。
「……伊吹、どうして……そうしてこんなバカみたいな話をするんだよ。人間がタヌキにって……んなことあるわけ――」
「あんた、前に言ったわよね。自分は元人間だって。ずっと引っかかってたのよ。『目は口ほどに物を言う』を体現したみたいに真剣な目つきだったから。ずっと気になってた。でも、それも登山の大会の話の時にようやく分かったわ。あんたは元人間」
「どーせなら、名前も変えればよかったのにね」
そう、片目を瞑って付け足す伊吹に、俺は負けた気がした。
ははは、ダメだな。こりゃ、もう言い逃れは出来ないや。
「…………よく、気付いたな」
俺が、かろうじて、かすれるような声で告げると、伊吹の目がハッと開く。
やはり、驚きはあるんだろう。結局は、伊吹の推測にすぎないんだから。でも、俺はもう、秘密を隠してはいられない。伊吹も先に秘密を暴露したんだ。これで、おあいこさ。
「みんなには、言わないでおくわ」
「サンキュ。さすがに、みんなにバレたら、山にも居辛いからさ」
なんだろうな。また、ちょっと気まずい空気だ。俺は伊吹から視線を逸らし、頭上に向ける。今日も星空がきれいだろうけど、あいにく歩道の電灯がまぶしくて見えやしない。なんだか、伊吹との対話から逃がしてくれないような、そんな意志を感じた。
「それからさぁ……悠治」
伊吹は、なにやらさっきの話よりもさらに言いずらそうに切り出す。が、言葉が続かないのか口内でもごもごと何かを呟くだけだ。
「……なに? 聞こえないんだけど」
「その……あたしね……さっきあんたの秘密を看破したうえで言うのもなんだけど……なんていうか……もう、チャンスはここしかない……っていうか……ああもう、言おうと思ってたのに……なんで……!」
「伊吹?」
さっきの話よりも言い辛い話って? 必死に言おうとして、しかし何かに駆られたように言葉を濁す伊吹に、ふと、山頂で考えたことを思い出す。そして、それが結びつく瞬間。
「あたしね! あんたの……悠治の事……?」
その時だった。前方からまばゆい光が俺の視界を遮った。伊吹も同様だ。
同時に聞こえてきたのは、これまでの人生で何度も聞いた重厚な音。重たい鉄の塊が、四つのタイヤで動かされるそれ。重厚なエンジン音。それよりも、さらにうるさい音。
――車……か? タイミング悪いな。
前から迫ってきたのは一台の大型トラックだった。車道の真ん中を走り、ふらふらとふらつきながら危なげなく……ふらふらと!?
「――ッ……金次!」
思わず俺と伊吹の前を歩いていた金太の名を叫ぶ。金次は状況が良く分かっておらず。目の前を蛇行するトラックに恐怖を浮かべてた。
同じだ、あの時と。俺は車に轢かれかけたことがあって、その時も、突然のことに頭が真っ白だった。このままじゃ、金次が!
「伊吹、お前は――!」
「先に避難しろっ!」
それを言う前に、伊吹も駆けだした。伊吹も以前轢かれかけたことがある分反応が早い。俺と同じように、金次を茂みに引っ張るために駆けだす。しかし、それは俺の方が早かった。二匹とも向かったってやることはない。なら――
「伊吹は先に避難しろッ! 金次は俺が――」
言いつつも金次に肉薄しその首根っこに噛みつく。前は伊吹だったが、彼女よりも小柄で軽い金次は咥えあげやすい。今回は馬鹿力の活用はなくて済みそうだった。
「悠治! 早く!」
――分かってるって――ッ!?
「悠治!?」
伊吹の悲鳴にも思える声が耳に木霊する。だが、それすら俺の意識には届かず、俺の視界は無機質なアスファルトだけになっていた。
何が起こった? そう疑問を抱いたのは一瞬。躓いたのだ。補修前のアスファルトの道路。その補修されていないわずかな窪みに躓いて。
距離にしてほんの数センチ。たったそれだけが、俺と安全な範囲との距離。その数センチが届かなかったから、俺は気づいたんだ
――あ、今度こそ終わった。
首を回すと、トラックは視界いっぱいになるまで迫っていた。逃げることはできない。
――……ウソだろ?
そう思った瞬間、鈍い痛みが俺の身体を襲った。
それだけだった。
その痛みは衝撃へと変わり、俺の身体は宙を舞う。ゆっくりと反転する視界の中、俺は見た。
――伊吹……?
全力でタックルをかまし、俺と俺が咥えた金太をトラックが迫る範囲からたたき出す伊吹の姿。歩道の電灯に照らしだされた、一匹の雌のタヌキの姿。電灯の光が、首に巻かれた武骨な首輪をきらりと瞬かせる。
時間はゆっくりと、永遠のような時間の中で少しずつ動く。
伊吹が尖った口を大きく動かした。それが意味する言葉は――
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!!!
大音響でトラックが鼻先を突っ切る。
それは、伊吹が口を動かしている間とは逆に、一瞬だった。その一瞬、十分の一秒にも満たないほんの一瞬のち、トラックは過ぎ去った。その後には、何も残っていない。
「……いぶき?」
伊吹の姿は、もう、どこにもなかった・
「いぶきぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!!!!」




