第10話 白狼神社の巫女
意識は薄ぼんやりとしていた。
微睡の中で俺は身じろぎする。それに応じて何かが俺の身体の上から滑り落ち、それはまたかけ直された。
額に何かが当てられた。冷たい。ひんやりとした肌。だがそれは、水に濡れて冷やされているのだとすぐに理解できた。
少しずつ、瞼を開く。
目に映ったのは、古い日本家屋のような部屋だった。床は全面畳敷き。ちゃぶ台がどんと置かれ、その上には、今では懐かしさすら感じる煎餅が乗った皿。部屋の隅には箪笥が幾つかあり、これも時代かかったような装飾――といっても、昭和を感じさせる程度――が成されていた。
ここは……どこだったかな……?
見覚えのない? いや、俺は一度だけこの部屋に入ったことがあった。確かここは……。
ひとまず現状を確認しようと体を揺すって起き上がろうとした。
「あ……」
その時、俺の身体の上から驚いたような声がかかる。反射的にそちらを見上げると……いた。
清楚な黒髪をさっぱり流したストレートの少女。一見、身体はそこまで大きくもなく、むしろ華奢に見える――女だからそんなものだろうか――が、その実、足腰はしっかり鍛えられている。スカートの下にのぞく健康的な肢体が魅力的だ。
不思議そうに俺を覗き込む少女を、俺は知っている。知らない訳がない。なにせ、穂田と同じくらい俺と仲が良かった奴だ。というか、女子で俺と仲のいい子なんて、彼女以上の人はいなかった。
――……鹿目。
ほっそりした頬を軽く緩ませて、少女の表情は暖かいものに変わる。安心したような、それでいて、柔らかな笑み。
「よかった。大丈夫そうですね」
あの時と同じ、心が和むような笑顔を、鹿目琴葉は俺に見せてくれた。
「びっくりしました。床下から何か音がするから、気になって見に行って、そしたら風邪引きタヌキが雨宿りしてるなんて」
鹿目は薄く笑いながら俺の額に手をかざす。どうやら、意識を失くした俺を看病してくれていたらしい。タヌキに人間と同じような看病をするのもどうかと思うが、そんなところも鹿目の魅力だ。
鹿目は「ちょっと待っててね」と言うと立ち上がり、部屋から出て行った。ぎしぎしと、古い家屋特有の床が軋む音を立てて、彼女は部屋を遠ざかって行く。
俺の下には座布団が敷かれ、身体の上にはタオルが乗せられている。簡易な布団と言ったところか。
そういえば俺の身体は雨と泥に塗れていたはずだが。そう思って、身を捩じって身体を見るが、そんな痕跡はほとんどなかった。傍らに置かれた泥汚れの酷いタオルを見る限り、鹿目が拭いてくれたのだろう。
「……サンキュ」
届かないだろう言葉をポツリとつぶやき、俺はごろりと寝返りを打った。が、すぐに起き上りパタパタと畳の上を歩いて窓際に向かう。予想はついているが、やはり自分の現在地を確認しておきたくなったのだ。
暖かい室内で一眠りした御蔭か、辛さはだいぶ和らいだ気がする。
「……やっぱ、白狼神社か」
さっきも鹿目が「うちの床下で――」と言っていたので違う筈がないと思っていた。まぁ、予想通りだ。ここは白狼神社。鹿目の家である。
この家に入るのは、これで二度目だ。
窓の外は相も変わらずの土砂降り。雨粒一つ一つは小さいが、それが滝のように流れ落ちてしばらく外には出られそうもない。
金太と伊吹は無事だろうか? 昨日から一人で外に出ていたから会ってないが、流石にこの土砂降りでは巣穴から出ることもできないだろう。……心配、させてるかな。まぁ、帰った時に謝ればいいか。
「今日は外に出ない方がいいですよ。一晩中これでしょうから」
振り返ると小さな器を抱えた鹿目がいた――が、俺はそちらを一瞬見て、瞬時に視線を戻されることになった。物理的じゃないぞ、俺自身の意志でだ。
なぜなら、大きさ的に見上げる形の俺からすれば……鹿目のスカートの中が丸見えなのだ! 純朴少年にはこの程度でも結構きつい!!
……穂田あたりなら、「眼福だぁ!」とか騒ぎそうだと思う。
……あ、一言言っておこうか。真っ白だったよ。
そんな俺の様子を、鹿目は不思議そうに見ていた。まぁ、鹿目からすれば、その辺の野生動物と一緒に居るにすぎないので、羞恥心とかそんなものは微塵も感じていないだろう。逆に、自分以外誰もいないところでイヌやネコにスカートの中を――偶然――覗かれて恥ずかしがる女子はそうそういないだろう。少なくとも、俺の人生の中ではそんな女子いなかった。……いるかな? 実際のとこは、よく分からん。
鹿目は縁側から外を眺める俺の横に座り込むと、抱えていた器を置いた。中には真っ白な液体が溜まっており、暖かな湯気を立ち昇らせている。湯気から漂うほのかな香りは、うん、良い匂いだ。
「牛乳は飲めますよね。熱いから気を付けてください」
鹿目の言葉で器の中身が何かを確信した俺は、最初はゆっくりと、温度がちょうどいいことを確認してからは「ペチャペチャ」と温められた牛乳を飲み始める。辺りに牛乳が飛び散ってしまうが、これはタヌキである以上どうしようもない。鹿目には悪いが、後で拭いてもらおう。
うまいな。俺の家では朝は緑茶と決まっており牛乳など学校の支給物でしか飲んだ覚えがない。さらに俺は、コーヒーの苦みに魅せられてからは、もっぱらそちらが好みだった。ちなみに俺達が通っていた高校では、昼食は弁当なのだが牛乳だけは配られる。理由は……なんだろうな、分かんね。
現在時刻は、午後十八時を回っていた。夜行性の俺の意識は、徐々に覚醒しつつある。
***
最後まで牛乳を飲み干した俺は、ちょこんとそこに座って鹿目を見上げた。鹿目は、相変わらず柔らかな笑みを浮かべたままそこにいる。
しばらくの間、特に何も起きることなく時間は過ぎ去った。いや、一つあるとすれば……非常にくすぐったいことだろうか。
サワサワと、俺のさわり心地抜群――自称――な毛が揺れる。首の下あたりから背中、そして尻尾にかけて、ほっそりとした指が肌に触れるか触れないかの絶妙な部分を撫でていく。それも、これまた絶妙な力加減で。その度に俺の身体はピクリと、またはビクリと震えるのだ。
くすぐったい。とんでもなく、くすぐったい。正直我慢していられるのが奇跡なくらい。偶に体勢を変えたり、少し遠ざかってみたりするが、瞬時にその手が俺の逃亡を阻害する。自然に逃げることを全く許さない。
考えてみれば、それは予想できたことだ。
誰だってあるだろう。道端でイヌやネコ――飼われていても野生でも構わない。とにかくイヌやネコを見つけたら、なんとなく近寄って撫でたくなる。人間の不思議な性だ。ふかふかの毛を持つ動物を見ると、どうしても撫でずにはいられない。
そして、俺は忘れていた。鹿目は極度の動物触りたがりな奴なのだ。
例を挙げればきりがない
高校からの帰り道、野良ネコを見つければ「チチチ」と口の中で猫を呼び寄せ、警戒を解いたネコが近寄ってきたら撫でる。十分が経過して、俺と穂田が飽きてそろそろ行こうと言っても、無言でネコを撫で続ける。先に帰って、コンビニに行こうと一人で家を出たら、同じ場所で未だ野良ネコを逃がさず撫で続ける鹿目がいる。この間、一時間は優に経過していたはずだ。
山岳部での活動中。山の動物でクマの話が上がった時だ。俺達はどうやったらクマから逃れられるか、一般的なクマに出会った時の対処法から希望観測的な逃亡の仕方について議論を始めた矢先、鹿目はただひたすらにクマの毛の触り心地について自論を展開した。部活時間の限界まで。この日はトレーニングもせず、ひたすらクマの毛についての知識を植え付けられた。つーかこの時の鹿目の話からすると、鹿目は本物のクマの毛を触った経験があると思う。それも、生きたクマの毛。
ここまで話せばわかるだろうか。鹿目は動物の毛については異常なのだ。
他人――男女問わず――の髪の毛にも反応することから、毛フェチと言ってもいい。ちなみに、鹿目は学校で――本人のあずかり知らぬところで――アイドル扱いされているのだが、毛フェチな事実を確信しているのは現時点で俺と穂田くらいである。
鹿目の熱狂的なファンに冗談交じりでこの話をしたらマジギレされた。曰く「俺達の鹿目嬢を汚すんじゃない!」らしい。だが、その後ファンたちがやけに髪の毛を気にし出したのはなぜだろうか。
話を戻そう。俺はそんな裏事実がある鹿目と隣り合わせで鎮座している。さわり心地抜群――自称――の毛を持つタヌキの俺が、だ。
想像の通り、鹿目は無言で俺の毛を撫で続けた。無心に、無意識に、無表情に。
今なら分かる。あの時の野良ネコの気持ちが。こんな鹿目に撫でられたら、ある種の畏怖を感じて逃げられるはずもない。
時折「ふふ……」とか「あっ……」とか、しまいには「え、えへへへへ……」とか思い出し笑いみたいな妙な声を上げるのだから不気味すぎる。
おそらく、しばしの間はこの状況が続くのだろう。逃げられないまま。時刻を確認すると、すでに時計の針は午後二十一時を指していた。鹿目の手は、休まることなく俺の身体を撫で続ける。
「あ、もうこんな時間」
鹿目が我に返ったのは、二十一時三十分になった頃だ。
すでに俺の毛を撫で尽くしたであろうに、鹿目は時計を見ては名残惜しそうに俺の毛をいじる。いい加減にしてくれよ。
そういえば、こんな時間になっても鹿目以外の人間がいないな。
神社の方にいるのだろうか。だとしても、こんな時間まで誰もいないのは流石におかしいだろう。
鹿目は一人っ子で両親との三人暮らし。神社には他にもバイトで来ている巫女さんとかがいるが、境内に建てられた居住スペースに住んでいるのは鹿目一家だけだ。
「そっか、今日はお父さんもお母さんもいないんでした」
鹿目はそう呟くと、勢いよく立ちあがって部屋の隅にあるタンスに駆け寄る。
なんとなく俺も寄ってみる。鹿目はタンスの一番下の段を開けたので、俺でも中が見えるのだ。
そして気になる中身だが……酷かった。
俺が思わず「うっわぁ……ひっでぇ」と呟くほどに。
結論から言えば、鹿目は片づけ下手な人間だった。
タンスの中にはそれなりに可愛らしい衣服が――布きれと見間違うほどに――ぎっちりと敷き詰められている。否、押し込められている。どれかを引っ張り出せば、別の衣服も一緒に飛び出すと言えば、そのぎゅうぎゅう詰め具合が分かるだろう。
いつだったか、登山準備の際にあれもこれもと持ち込む荷物を引っ張り出した時のことだ。全部持って行くのは不可能で、厳選しようと穂田と相談していた。
山岳部に入って間もない頃、先輩にも荷物は最小限にと口が酸っぱくなるほど言われた。そんな中、鹿目はその全てをザックに押し込んだのだ。しかも入りきらないなんてことなく、全部押し込んでしまったのだ。
この時の「押し込めば大体大丈夫です♪(キラッ!)」という鹿目の言葉と輝かしい笑顔は今でも俺の眼に焼き付いている。もちろん、キャラ崩壊的な意味で。
「あそうだ。せっかくだから洗ってあげよっか♪ 泥だらけでしたもんね」
――……ふぁああ!!!!
鹿目のキャラ崩壊な一面を見せつけられた後にこれ!?
まてよ、俺は男だぞ! 鹿目と同い年の男だぞ! それを躊躇なく風呂に誘うか!? あ、いや、そうか。俺は今タヌキ。鹿目から見れば、その辺のイヌネコ同然の野生動物。野生動物への過剰干渉はどうかと思うが、少なくとも鹿目の目から見たら異性がどうかとか全気にならない状況。だけど、これはいいのか!? こんな、“見た目は小学生、頭脳は大人な元高校生探偵”と同じようなラッキースケベに遭遇していいのか!? ただの高校生に過ぎなかったタヌキの俺が!?
「それじゃバスタオルももう一つ出さないといけませんね~」
鹿目は寝間着と替えの下着、それからバスタオル、そしてついでとばかりに俺を抱え上げると歩き出す。華奢な女子と言えど流石は山岳部。タヌキ一匹程度の重さはなんともない。というかこれは本当にいいのか!? え? え? えぇぇええええええ!!!?
かくて、俺は風呂場に連行された。この先は……まぁ、うん。穂田なら卒倒もの。男ならだれもが望む混浴――人間と野生動物――を楽しみました。
ちなみに、俺、風邪引いてたはずだけど、なんかもうどうでもよくなってるな。




