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ツィゴイネル★ワイゼン  作者: 夜方
9/18

橘神結 3


 ガチリ、と閂の外れる音が廃ビル内に響いた。


 その音にビクリと身を震わせても、神結は床に星の図形を描くことををやめなかった。

 指先から滲み出た血の色は変色し、所々が擦れた図形であっても、魂を削って描いたそれは、消えることのない星型として、その印をコンクリートにしっかりと刻んでいた。

 建てつけの悪い扉が閉じてすぐ、ガラスの割れる音が聞こえた。


「クズがっ! なにをしてるっ‼」


 慌しくやってきた白魅は、神結の左のおさげを鷲掴みにして床から引き剥がした。やがて訪れたのは、泡を食った男から一転しての笑い声。それも人を馬鹿にするような、渇いた笑いだった。


「まさか、魔法の真似事か?」その笑いは、やがて爆笑と呼ぶに相応しいものに変わる。


「確かにここはふざけた世界だ、もちろん魔法だって存在する。だが、だからといって、なんの予備知識もない普通の人間がいきなり使えるものだと思ったのかね? 全く全く、クズの分際で自殺でも試みてるのかと肝を冷やした。おかげでせっかくのアイスコーヒーが台無しだ」


 神結自身分かっていなかったといえば嘘になる。だが白魅にはっきりと言葉にされると、いかに自分が無駄なものに希望を見出そうとしていたのかを思い知らされる。 

 そして、それを受け入れるということは、そのまま絶望へと変わるということに他ならない。未だ白魅に引きずり起こされたままの神結だったが、鷲掴みにされた頭部に痛みすら感じなかった。ここにあるのは橘神結という名の虚ろな存在――擦り切れた心と体。

 追い詰められた彼女が、その名すら捨て去ろうとしたまさにその時、鉄格子の窓の外で火の粉が舞った。

 

 白魅の皺が一層深く刻まれる。


「あれはザラキの炎? あの馬鹿、何をしている!?」


 状況を把握するべく窓へ近づこうとした白魅に、神結が引きずられる。


 と。


「――何をしている、だと? そりゃお前の事だろ、クサレ外刀工がァ」


 声が聞こえた。

 それは紛れもなく、聞き覚えのあるハスキーヴォイス。

 

 白魅が神結の身体を引き寄せる。守るべき人間を、でなく、守るべき商品を扱う所作。

 その中にあって神結は確かに見た。扉の向こうの闇に紛れるような全身の黒、その闇で深紅に光る双眸の持ち主を。


 優雅さすら感じる仕草でタバコに火を点ける、灰沢トランが確かにそこにいた。


 実際に目の当たりにしても、にわかには信じられなかった――まさか彼が、ヒーローじみた自己犠牲の精神を鼻で笑った彼が、危険を冒して助けに来てくれるなんて……。


「いよォ、女ァ無事かァ?」


 声を掛けられてようやく我に返った。神結は小さく頷く。


「あの役立たずども何をやって……」


 白魅の苛立ちの言葉を遮るように、トランは紫煙を吹いた。


「お前の使いッぱ共は、ヘタレなくせにお人好しな、俺のしもべAにブッちめられてるだろォさ」


 ココロがあの危険な二人組と交戦中と聞かされて、神結の鼓動は激しくなる。だが、神結が口を開くより先にトランが続けた。


「そんで白魅ィ、刀作りに精を出してりゃいいはずのお前は、裏稼業にまで手ェだして、なんのつもりだ?」


 長い顎鬚を弄りながら、白魅は卑屈そうに笑う。


「なんのつもり、か。せっかく来てもらってなんだがねぇ。白馬の王子、いやこの場合、さしずめ黒衣の王子気取りの、どこの馬の骨ともわからんヤツに教える義理はないねぇ」


 言いながら後退する白魅に抱えられて、神結も後ろへと引きずられる。


「まァ、どォでもいいけど……」投げやりな言葉の後、


「……その到来・目覚めて・ざわめけ――」


 静寂の部屋で、トランの声だけが聞こえた。


「――〝冬虫夏騒ジターバグ〟」


 告げると同時に、トランが指に挟んでいたタバコを弾く。


 抱えられた左腕がきつくなるのを感じながら、神結はそれを見た。弾かれたタバコは一筋の弾丸の如く、白魅の正面目指して迫っていた。

 掴んだコートの裾で白魅はそれを防ぐ。


 着弾――同時にタバコはその形状を変えた。


 爆ぜながら、夥しい白の羽虫が飛ぶようにして舞った。今の今までタバコだったはずのそれは、この瞬間には白い霧状となって白魅と神結の周囲を覆い尽くす。


「魔導師かっ‼」白魅が声を上げた。


 白い霧はやがて、黄、緑、青、と変色していく。


 きれい――、この状況にあって神結は瞳を奪われた。


 それは白魅とは別の意味での驚愕。変色花火のような色彩の変化に、束の間心が躍る。

 だから、ふいを衝かれたはずの白魅が、すでに薄靄の中で臨戦態勢を整え終えていることに気づけなかった。


 ベルトのバックル部を引き抜いた白魅が、左後方を薙ぐ。蛇腹状の刃が、霧の一端を切り裂いた。


「チッ……」舌打ち。裂かれた霧の合間で、一瞬の内に死角へと回りこんでいたトランが、神結へと伸ばした右手を戻した。


 そのままバックステップで距離を取ろうとするトランへと向きざま、神結を手放した白魅がコートの裏地に仕込んでいたナイフを引き抜く。

 刀部がやや丸みを帯びた形状のそれは、弧を描くように飛ぶと、トランの左肩を切りつける。失速することなく回転を続けたままでナイフは、部屋の窓のひとつ、その鉄格子を切り裂いて空の彼方へと消えていった。


 その間、ほんの数秒。

 それでも白魅から解放された神結は、トランの元へ駆け出そうとした。しかし、そんなわずかの努力すら許されなかった。一歩目を踏み出す間も与えず、神結の全身には蛇腹の刃が巻きついていた。


 神結の喉元へと剣先を押し当てた白魅が、コレクションでもひけらかすように言った。


鞭刀ベントウ――、百足ムカデ


 外刀工白魅の一品、それは同時に束持つ右手を返しただけで神結の命を奪うことなど容易いという意思表示。

 希望に向けて駆け出そうとして一秒後、神結はすでに詰んでいた。

 

 変色する霧が消えゆく中で、傷口を見もせずにトランは深紅の双眸で白魅を射る。


「で?」次は、と尋ねるトランに、離れて立つ白魅が「なにも」と答えた。


「ベタな展開ですが、彼女を傷つけたくなければ無駄な抵抗はやめてもらいましょうか」


「今さらの無抵抗要求かァ? この状況じゃあ、膠着状態しか生まねェだろ」


「膠着状態、実にいいと思いますね。俺ならば、その間に戦況を変える手のひとつや二つ考えつくだろうしねぇ」


 トランの皮肉に、白魅はゆったりと間を持たすように返した。


 罠だ――神結は思った。

 もうすぐ依頼者がやってくる、白魅はそう言っていた。だからこのやり取りは、援軍が駆けつけるまでの時間稼ぎをする為のものだと、神結は思った。


「好きにしな」溜息交じりにトランが呟くのが聞こえる。


 ――だが、本当にそれだけだろうか? 

 神結の中で何かが引っかかる。白魅はあの危険な二人組と揉めた時、あっさり「殺すぞ」と言い放った。それはつまり、白魅にはあの二人を相手にしても凌駕するほどの術があるということではないのだろうか?

 

 神結は危険を報せようとした。

 だが、それはすでに遅かった。


 パンと何かの切り裂かれる音。

 

 神結の目に、切り裂かれ先端のひしゃげた、さっきとは別の窓の格子が映った。

 砕かれた鉄格子、それが入場の許可だとでもいうように、導かれた粉雪のような白が、ふわり、ふわりと屋内で舞っている。


 宙を落下しては、音もなく消えていく灰。

 そして、風きり音。


 廃墟の部屋の宙を、弧を描きながら飛んでいた。彼方に消えたはずの、あのナイフが。


 トランは微動だにしなかった。

 ただ、笑みを浮かべたように見えた――最後に、悲しげな微笑を。


 ナイフは、トランの額に突き刺さると同時に爆発した。






「――爆刀ばくとうツツガ」灰沢トランの顔を木っ端微塵に吹き飛ばした短刀を、白魅はそう呼んだ。


 轟音の後、大の字に倒れた灰沢トラン。開きっぱなしの下顎を辛うじてぶら下げたまま転がる彼の、破れた黒色のシャツを貼り付けた上半身は、胸の辺りまで炭化していた。


「ホーミングミサイルって知っているかね? 目標へ誘導するシステムを組んだミサイルなんだがね、爆刀、恙のシステムもそれと似たようなものだよ。狙いを定めた対象を追跡し、命中するまでアタックを繰り返す。魔導師の魔法なんて馬鹿げたものは必要ない、術式なんてその程度のものを組めれば、後は刀の性能だけで十分。命中後は刀身に仕込んである火薬が爆発すると共に、血中のヘモグロビンを鉄に変換する薬液を撒き散らし燃焼する。まあ、薬液の科学反応自体は一秒と持たないから、そこは改良の余地有りだがねぇ」


 白魅はトランの死体を見下ろしながら、一人悦に入るように話した。


 全身を締め付けていた、蛇腹の刃が緩められる。


 嘘――。


 解放された神結は、よろめきながら駆ける。 


 嘘だ――。彼はあの瞬間、罠だと解っていなかったはずが無いのだ。


 そして、トランの亡骸へとしがみついた。

 

 なのに、それなのに――、自分を人質に取った白魅に言われるがまま、抵抗も、避けようともしなかった。罠だと解っていたからこそ、最後の瞬間に彼はあえて受けたのだ。悲しげな笑みを浮かべたままで……。


 彼が――、自己犠牲の精神なんてまっぴらゴメンだと言っていた彼が、自分の命も顧みず助けようとしてくれた。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 

 トランへとすがりついたままで、神結のたがは外れた。

 決壊――。涙と鼻水で顔中をぐしゃぐしゃにして、慟哭が溢れだす。

 

 神結の背後で、白魅は饒舌に語り続けていた。


「お前、裏稼業になぞ手を出して『なんのつもりだ』そう尋ねたね? 刀作りだけしてりゃいいものを、ってね。そうじゃあないんだ、そうじゃあ。俺がいくら芸術品を創り出せても、凡人どもが使いこなせなければ宝の持ち腐れ。芸術品とは、百パーセントの理解があって初めて本来の輝きを取り戻すのだ。『なんのつもり』か? 愚問だね、これは芸術家の芸術家による芸術的行為に他ならない。まあ、もう聞こえてないだろうけどねぇ」


 言い終えて白魅は微笑む。それは芸術的行為の余韻に浸る、うっとりとした表情。

 だが、だからこそに。その邪魔をするような、神結の泣き喚く声は耳障りだったのだろう。「黙れ、クズが」転瞬、白魅は神結の髪を鷲掴み、床に転がした。

 白魅の般若顔。下弦の月のような瞳は、トランと相対していた時以上の憎しみで満ちていた。


 倒れ伏した神結の泣き声がピタリと止まる。ゆっくりと白魅を見上げた顔は、相変わらず涙と鼻水でぐしゃぐしゃ。

 しかし、その瞳には悲しみとは別の色が灯っていた。

 それは、わたしはわたしが終わりだと思う最後の最後の瞬間まで足掻いてやる――、その誓いを果たす為の感情などではない。そんなこと、もうどうでも良くなっていた。怒りだけがあった。白魅を、そして自身を許せない、激しい怒りだけが。純粋な感情は、絶望を凌駕していく。


「ふーっ、ふーっ」と、荒い呼吸のまま立ち上がった神結が、再び叫ぶように声を上げた。

 腕をぐるぐる振り回しながら突撃するさまは、癇癪を起こした子供の喧嘩さながら。あっさりと突き飛ばされて、神結は床に転がる。純白のドレスが砂埃に塗れていく。しかし怒りが燻ることもない。躊躇なく二度目のアタックを決行しようと身を翻す。


 その時だった。

 明らかに白魅の表情が変わった。


 突撃体勢を整えた神結を前に、まるで緊急避難でもするようにバックステップで距離を取るや、白魅は蛇腹の鞭刀、百足の束を握りなおす。

「これは……一体、何が……」うわごとのように白魅が呟く。そこには、先刻までの饒舌で余裕に満ちた男の姿はなかった。

 傍目にも分かるほど狼狽する白魅。それが自身の気迫に圧された訳でないことくらい、今の神結にだって分かる。だから、神結は振り返った。

 そして、白魅の見ているものを見た。


 声が聞こえた。

 聞き覚えのあるハスキーヴォイス。


「おいおい、まさかこれで終わりか? 散々もッたいつけといて、本当の本当に、これで終わりのつもりだッたのか?」

 

 立っていた――灰沢トランの死体がそこに。

 

 先刻と変わらない姿。焼け爛れた上半身、そして黒く変色し所々に空いた穴から内の骨が露出する損傷の激しい下顎。そこから上には何も無く、薄明かりに照らされて虚無だけが佇んでいる。

 頭部を失いバランス悪くたゆたう姿は、紛れもなく動く死者(リビングデッド)。しかし、先刻と一つだけ違ったのは、損傷激しい下顎の上にお世辞程度にも上顎が引っ付いていたことだった。


 それが何を意味するのか――? 神結が、白魅が、疑問を浮かべるより速く、突如としてトランの皮製のコルセット、その右ポケットのスマホから吊るされたブードゥー人形のひとつが、音も煙もなく燃焼を始める。

 同調するようにトランの失われた顔面に変化が生じた。それは人体の形成のビデオを巻き戻しに見ているような光景だった。


 白魅が戦慄く。


「馬鹿な……死を無かったことにするなんて、魔導師でも高位中の高位のワザだぞ」


 白魅が声を絞り出し終えた頃には、すでにトランの顔は復元し、炭化したはずの上半身には傷ひとつとして残っていなかった。

 トランは先刻と同じ悲しげな微笑を浮かべている。長い睫毛に憂いを帯びた美しい顔。


 だが、違った――と神結は即座に理解する。そして背中が泡立つ。

 悲しげな微笑などではなかった。あまりにもつまらないものを見たような、それは紛れのない嘲笑だった。


 トランの身に着けていた衣類が復元することはなかったが、唯一左耳の多面体の形をした黒色ピアスだけが何食わぬ顔で鈍く、怪しく、輝く。


 露となった白く細いトランの上半身。

 全ての傷が癒えたその肉体の左肩、先刻自身が刻んだはずの傷跡を白魅は見た。その傷も当然の如く癒えていたが、そこに白魅は別のものを見た。それは……


 刺青タトゥー――。冠するようにして髑髏が抱えた時計の文字盤。ひとつしかない針は、ローマ数字の〝十二〟を指し示している。


「おま……あん、た、ひょっとして……メメント・モリ……」

 

 顔面蒼白の白魅の言葉は、声にならない程に擦れている。長い白髪と顎鬚が、自制を忘れたように震え続けていた。


 そんな白魅の体裁などお構いなしに、トランが動いた。


「……漆黒の夜の墓守・捧げるは憐れみの歌・開け――」


 詠いながら歩を進める姿に、白魅は我に返る。からくも震える手で、コートの裏に隠す刃を掴みざま、投じた。

 トラン目掛けて放たれたのは先刻と同じ、爆刀、恙。


 しかし、二度目は無かった。


「――、〝黒棺クロヒツギ〟」


 トランが告げると同時に、トランの前方に更衣ロッカー程の闇がパックリと口を開く。爆刀、恙はその中へと飛び込むと、塗りつぶされた黒の彼方へと消えた。

 鞭刀、百足を持つ白魅の右手が震えていく。

 

 更衣ロッカーの闇の裏から、トランが覗いた。


「さァ、お仕置きの時間だぞォ」


 深紅の双眸に射られて、白魅の震えはさらにひどくなっていく――完全なる戦意喪失。

 

 闇の中へと手を伸ばしたトランは、何かを探すようにして漁った。

 程なくして右手が引っ張り出したのは、所々がへこんでいびつな形をした子供用と思しき金属バット。

 それを軽く振りながらトランは、


「――にひひひひひひ」と、笑った。



    ★☆★



「――お前さァ、魔力回帰用の人形一体作るのにどれだけの手間と時間が掛かッてるか、解ッてんのォ?」響くハスキーヴォイス。


「はい、スイマセン」即答――間髪入れぬほどの。

 冷たいコンクリの床の上、トランクス一枚だけの姿で白魅は正座していた。


 結局、いびつな形の金属バットが白魅に振るわれることはなかった。一応抵抗などというものをしてみようと蛇腹の刀を振り上げた白魅だったが、トランがコンクリの床にバットを叩きつけると、ビクリと飛び跳ねてその束を床に落とした。

「他に隠してる得物があるなら全部出しなァ」命令しながらトランがバットで壁を叩くと、総数二十にも及ぶ、様々な形をした刀剣類がずらと床に並べられた。

 そんな調子でトランが床や壁を叩く度、身に着けていた物は一つ、また一つと減っていき、白魅は今や下着一枚だけの姿となった。


 白魅を見下ろしながら、トランが深々と嘆息する。


「見たトコそんなに金も無さそうだしなァ。お前にゃどうやッてケジメを付けてもらうべきか……そもそもはこの女のせいだから、それはそれで『回収』させてもらうとして」


「はい、スイマセン」白魅の合いの手を聞きながら、顔をカピカピにした神結が「え?」と間抜けな声を上げた。

 さらりと告げられた新たな脅威に、たじろぐ神結。対照的にトランの顔は輝いている。


「そうだッ! これから先、お前の刀が売れたら八十パーが俺の取り分な。これッていい考えだよな、なッ」


「はい、スイマセン。それでどうかお願いします」白魅の返答に迷いは無い。


 うん、うんと頷くトランは、初めて見る無邪気で子供のような笑顔。その後すぐに、「くしゅん」と、子犬のようなくしゃみをしても、着ていたシャツをズタズタにされた怒りをぶり返すこともない。

 足取り軽く駆け寄ると、白魅の薄汚れたコートを羽織った。

「アハハー」と屈託なく笑うトランが波間を駆ける――そんな映像を逃避気味に想像してみたりする神結。

 まさにそんな時だった。部屋の扉が、建てつけの悪い音を軋ませた。

「え?」神結が再び、間抜けな声を上げる。


 そこに藤林ココロがいた――露出の激しい忍者のコスプレをした、藤林ココロが。


 全身タイツのように張り巡らされた網目状の鎖帷子くさりかたびら。その上にへそを覗かせて黒い一枚布を巻いただけに見える装束には、金色のステッチが施されている。

『忍者』というより、『くのいち』に近い姿。遠目にはスリット入りのミニスカートにしか見えない一枚布からは、カモシカのような足が伸びている。


「こっちも片付いたんだね。カミーユちゃん、痛いこととかされなかった?」


 細身に筋肉質なココロの肢体から目を背けては、伏し目がちに神結は頷く。


 と。


「遅ェんだよ、変態コスプレ忍者。で、ソッチも片付いたか?」


 さらりと吐かれた毒にココロが項垂れる。

『変態コスプレ忍者』の一言に、激闘以上のダメージを受けたのは一目瞭然。沈んだトーンのまま、それでもココロは答えた。


「……うん、あいつらの力の源は根こそぎ〝喰らい尽くした〟から、力が戻るにしても二、三十年は掛かると思う。今はただの人間と同じだから、大した悪さも出来ないよ」


 しかし、どうやら白魅はその連中に一縷の望みを託していたようで。

 見透かすようにトランがちらとその顔を窺うと、「はい、スイマセン」と言って平伏した。


「……ところでコロ、実はいい話があッてさ。今回の件で猛省した白魅くんは、お前だけには特別に、今後三割引きで商品を売ッてくれるらしいぞッ」


 ふいに明るい声で、トランが言った。

 それを聞いてココロの顔も明るくなる。


「ホントにっ!? 刀工、白魅の作っていったら、マニア延髄の品ばっかだよ‼」


「良かッたなァ」微笑むトラン。


 それを見ながら、神結はぼんやりと――三割引きで売りつけて、八割分が自分の取り分って……詐欺だっ‼


「あのっ、ココロさん……」神結が口を開いた時だった。

 

 深紅の双眸は、神結を射抜いていた。

 言うな、女――、その瞳は確かにそう言っている。

 それは同時に、お前は俺に助けられたのだからとても大きな借りがあるんだぞ、という搾取する側、支配者の向ける眼差しにも似ていた。


「え? なに? どうしたのカミーユちゃん」


「……なんでもないです」尋ねるココロに、はぐらかす神結。――ココロさん弱いわたしをどうか許して。内心で懺悔しながら。


「やったよ、オレ! カミーユちゃん、すっごいラッキーだよっオレ‼」


 ココロの満面の笑顔に促されるように、神結も笑みを浮かべた。

 それは危機を脱したという安堵の笑み。

 だが……。


 本当に危機は去ったのだろうか――?


 神結の笑みはどこかぎこちなかった。


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