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ツィゴイネル★ワイゼン  作者: 夜方
7/18

灰沢トラン 2


 僕もまだ救われるかな――。


 所有者がメンテナンスへと出す隙を狙って連れ出したあの日。少年は――うわべだけ時の止まった少女のからだに改造された少年は、そう言った。


 だから実に容易く答えた――救ってみせる、と。


 実際には自分たちより年上で、でも時を止められてのちの十年を、この汚泥の世界で生き延びる為だけにふいにした少年。不夜城での生きる術を時に他者から、時に自ら望んで、彼は刻んできたはずだ――未発達なこころとからだに。


 ジャガーノートのような『攫い屋』に攫われて、『調教屋』や『造型師ピグマリオン)』あたりに初期設定デフォルト状態に造り直された存在を、この世界の住人は『知育玩具』と呼んでいる。

 調教、開発、改造、躾を通じて肉体も精神も適切に支配する術を持ち主は学び、また玩具自身も持ち主の欲求を満たす方法を学んでいく。

 やがて持ち主が満足できるほどに仕上がった頃には、精神性も同調の域に達した知育玩具もまた持ち主と同じくして満たされる。

 しかし、その後に待っているのは絶望だけ。成長した者、『大人』にとって知育玩具は必要ない。だから――廃棄される。

 常に誰かの所有物として、永い月日を生きてきた彼が、未だ廃棄されずにいるということ。その存在価値を維持するため、飽きられないためだけに彼がしてきたこと。これからも続けていくこと。それを想像するのは容易く、しかし言葉にするのは難しい。

 陳腐な言い方をすれば、最低よりも最低。最悪よりも最悪。時に与える者であり、時に与えられる物としての日々。満足させつつも、その先を常に垣間見せ、興味を失わせず、焦らし、蜜色を垂れ流す。下世話で愚劣な行為。それだけを実直に勤勉に邁進する毎日。快楽の先の快楽を求める生涯学習こそが、唯一の生存戦略。

 短くも長い十年という歳月。彼は、それ以外の生き方を忘れてしまった。救われたい、そう願いつつも此処でしか生きてはいけない。人生の放棄、それが彼の結論だった。

 容易く差し伸べたはずの救いの手、一度は掴んだと思った彼の手はもうそこにはなく、二度と戻らない。あるのは空。空しさと後悔、ただそれだけ。


 救えなかった――。拭えない過去に、下唇をぎゅっと噛みしめる。


 偶然か、必然か。別離から間もなく自分たちの前に現れたのは、少年と似通った外見上の特徴を持った人物だった。

 金髪に碧眼。そしてあどけない少女の貌。すべてが、性別までツクリモノだった少年と違っていても、彼女の横顔に苦い思い出を重ねなかったかと問われれば嘘になる。それは初めから、彼女が逢魔ヶ通りへと駆け込んできた瞬間から分かっていたことだ。


 だから、考えるより先に手を差し伸べていた――あの少女、橘神結へと。


 そして、彼女は差し伸べた自分の手を確かに握ってくれた。

 贖罪のチャンスだったなんて思ったつもりはない。少年の人としての生に救いが訪れないこと。それは未来永劫に確定してしまったことだ。もはや自分には何かする術も、関わる権利すら持ち得てはいない。だが、それでも再び誓うことはできた。


 今度こそ救ってみせる――






 ――と、まあコロのヤツはそんな事を考えているに違いない。


 内心でゲンナリしながら、隣を駆ける灰沢トランは思った。

 漆黒の天蓋の下、白い灰の舞う夜しかないような街の薄闇で、光源もなしに左耳の黒色石のピアスが鈍く輝く。

 

 攫い屋、ジャガーノート――。かつて格闘技の三冠王者として、最強にして最凶の暴君と呼ばれた男。


 その世界で強すぎたがゆえに、正規の試合を組んでもらえなくなった男は、ジャパンマネーの甘い汁に惹かれて受けた八百長試合で、将来を期待されていた対戦相手を、ただの気まぐれから再起不能にした。

 興行主や裏の連中に追われ、〝不夜城〟へと逃げ込んだヤツは、多くの者と同じく、この世界でのし上がる事を諦めたらしい。結果、ヤツは不夜城で攫い屋として生きていく道を選んだ。それは造型師ピグマリオンあたりと組んで、知育玩具を作り出す最低な仕事。

 そんなゲス野郎には、その生き方に見合っただけの罰をくれてやった。

 だから、それで終わりだった。その件は、それで終わりのはずだった。


 だが、ココロは救えなかった少年の姿を、あの女、橘神結へと重ね合わせている。縛られているのだ――呪詛のごとく。


 舞台の去り際、ジャガーノートが残していった傍迷惑な贈り物。そして、面倒事という意味では、ヤツはもう一つ贈り物を残していった。


 トランは、昨夜の事を思い出す。






 予期せぬ客の来訪は、深夜近くの事だった。

 

 半ば倉庫と化した二階のゲストルーム、その部屋に神結を休ませた。

「ちゃんと眠れるといいけど」ココロが呟いた時、リヤカー搬入口たるシャッターが叩き鳴らされる。宵の束の間、一息ついていた二人はぎょっと顔を見合わせた。


「なんだよ、今日は随分と客の多い日だなァ」


 皮肉めいた言葉を紡いだトランとは違い、弾かれたようにココロは飛び出して行った。

 心身ともに疲れ切った女の子が休んでるんだぞ――、もちろんそんな心情なればこそ。勢い込んでシャッターを開放する。だが、その先を一目見た瞬間にそんな気持ちも萎れて果てた。

 見なかったことにしてもっぺんシャッターを閉め直そうか、思う間すら与えられずに、


「夜分遅くに邪魔するよぉ、花屋ぁ」


 声が響いた。甘たるく、それゆえか、聞いた者を引き付ける魔性でも備わっているかのような声が。

 宵の闇に、三日月に輝く左の単眼。背徳の街の故買屋、悪津ユエニがそこにいた。


「別に気にしちゃいねェよ、シャッチョさん。無理から自分のペースで交渉すんのがアンタの、悪津商会の、ヤリクチだもんなァ」


 及び腰のココロとは違い、好戦的な声を上げたのは、その後ろから顔を出したトラン。

 ユエニはくつくつと笑う。左だけの視線はココロを通り過ぎ、トランに向けられていた。


「でェこんな夜分に、二階の住人( ・ ・ ・ ・ ・)が手土産もなしになんの用だよォ?」


 明らかに敵意むき出しの言葉。振り返り諌めることも出来ずに固まるココロを放っておいて、トランは悪名高い女社長の挙動を見据える。

 夜の支配者とでもいうような全身を覆った黒に、はべらせた鯉の赤。それ以上に鮮烈な、真っ赤な紅のひかれた薄い唇。そこに禁煙用のパイプを咥えながら、


「なにねぇ、ちょいと話を聞きに来ただけさね。まあ話を聞きたがってる御仁はアタシじゃなくてこちらの人だけど」


 ユエニが言うや、その後ろに控えていた男が歩み出る。

 仕立ての良い、三つ揃いのスーツを着た老紳士風の男。悪津ユエニの背に隠れ、その時まで気付かなかったが、それはなにも男の存在が希薄だったからという訳ではない。ユエニが女性にしては百八十近くあるだろう長身に、合わせてゆったりと着崩した着物姿だったから、その陰に隠れて見えなかっただけの話。男は神経質そうな線の細さこそあれ、平均的な身長と、なにか相対する人間に居心地の悪さを覚えさせる妙な気配の持ち主だった。

 老紳士は、威厳でも見せるように、宵の闇を吸ったやけに重々しい杖をアスファルトに付き差し、その上に両手を添える。撫でつけた髪と、皺のまじる好々爺といった風体に、いやに鋭い眼光。


 男はさも気に入らないようにユエニに尋ねる。


「本当にこいつらだというのか? こんな冴えない花屋風情が、本当に私の商品の行方を知っているというのか?」


 他人事のように進展していくやり取りに、しかし穏やかでないものへと空気は変わりつつあった。そしてそれは、ユエニの言葉で確信に変わる。


「ええ、大叔父。昨日、彼らが揉めたというのが、ジャガーノート及び大叔父の商品に関して現状ウチが入手した情報としちゃあ最新、最後のものになりますねぇ」


 改めてトランは男の正体に気がついた。

 通称、〝キスアンドクライ〟と呼ばれる勝者生存の街。その中でも、『組合』と呼ばれる組織の顔役の一人。攫ってきた人間を、街好みの『知育玩具』と呼ばれる存在へと仕込むのを稼業とする者たちの棟梁。悪津ユエニに勝るとも劣らぬ悪名たかき男――調教屋、玩木屋畜禅。

 

 まさかあの少年が玩木屋の商品だったとは――、ちらと覗いた先で、致命的な事実にココロが息を呑む。もちろん最悪を想定して。

 玩木屋とその手勢だけならまだしも、多勢に無勢な組合を相手にするなどおよそ正気の沙汰じゃない。


 かく乱か隠ぺいか――、ココロが一瞬の迷いに確たる言葉を発せずにいる中で、


「ああ、確かに俺たちゃジャガーノートと揉めたぜ」


 トランが選択した答えは――真実。


 見る間に瞳を厳しくする玩木屋。その隣の悪津ユエニは小さく、ほうと呟く。


「だがなァ、そりゃ単純にムカついてジャガーノートをぶッちめたッてだけの話だ。アンタんとこの商品にゃ最初ッから興味もねェよ」


 それだけの話と、トランは欠伸まじりで継いだ。

 しかし、玩木屋が納得する事はない。


「どうであれだ、小僧。少なくとも、お前らが私の商品と最後に接触したというのなら、これでおしまいという訳にはいかないだろう」


 小さく溜息を吐くトラン。


「あのなァ、確かにジャガーノートをアンダー・ザ・ローズでぶッちめた時、知育玩具もそこにいたさ。だが、だからといってなんだ? それだけの話だろが。ひょッとして俺らが拾ッて帰ッたとでも思ッてんのか? んなわきゃねェだろ、〝魔法薬フォーチュンクッキー〟にどっぷり浸かった知育玩具なんて維持費ばッかでなんの役にも立たねえッての。なんなら、ジャガーノートもソイツもまだいんじゃねえのか? アンダー・ザ・ローズの地下によォ」


「ジャガーノートが『黒薔薇』の子飼いなんてこと、〝キスアンドクライ〟の住人なら誰でも知っている。アンダー・ザ・ローズもその他も、黒薔薇の関連施設は真っ先に捜索したさ。それで見つかってるなら、わざわざこんなとこまで私が足を伸ばす必要があると思うか?」


 トランは話を切り上げようとした。


「だッたらだッたで移動したッてだけの話だろ。なんにしろ、そッから先の事なんて俺らが知るわきゃねェだろが」


 だが玩木屋は、「それを信じる信じないは、私が決めることだと言っているのだ」


 瞬間、空気がひりつく。その中で、「そォゆう事かよ」トランが不満を露わにする。


「有無も言わさずお得意の拷問にかけて、情報を引き出そうッて腹かよ。親切にもコッチはそれこそが徒労だッて教えてやッてんのになァ」


 ココロの背後に控えていたトランが歩を進め、ココロの右隣に立つ。


 そして。


「さッきからの話は聞いてたよなァ、俺たちが少なくともジャガーノートを軽くいなせるくらいの力は有していると……つまりはその上でッて事で良いんだよなァ?」


 一瞥したトランの瞳、その真紅が輝き、ココロは否応なく覚悟を決めさせられる。

 トランが真っ直ぐ射抜いた玩木屋の隣で、悪津ユエニは愉悦の入り混じった顔を浮かべた。


「くはっ、がっつくじゃないか花屋ぁ。内なる野性に身を任せて猛るなんてさぁ、最近の若いもんにしちゃ見上げたもんだ」


 雑に結ったオールバック風を尚更に掻き乱しながら、継いだ。


「そうだねぇ。それならそれも良いかもねぇ。若さの色に充てられて、力づくで犯し犯されるってのも、たまには悪くないかもしれないねぇ」


 玩木屋がアスファルトに突き刺した杖をゆっくりと引き抜く。右手に掴んだそれを振り上げた瞬間、トランが叫ぶ。


「コロッ!」


 弾かれたようにココロは、右足を踏みしめた。

 その足を起点に、黄色い光が四方へと走り抜ける。それは一瞬のうちに枝分かれし、幾つもの光の線となって、漆黒の闇に覆われた逢魔ヶ通りを駆け巡っては消えていく。

 杖を振り上げたままで、目をむく玩木屋。初動で動きを封じたココロが次の手を開示する。


「通りの右手に四人、左手に五人、隠れてる。あと多分、悪津ユエニの背後にもう一人」


 静寂に満ちた通りに、ココロの声は凛として響き渡った。

 忍ばせた戦力を曝け出され、号令の機を逸した玩木屋は表情をますます変えた。


 急襲からの多勢という単純にすぎるまでの戦術は、単純すぎるからこそに強力だ。

 だが、それも初手たる急襲が成功してこそのもの。数の利は残っていても、戦術が看破されてしまえばいやでも慎重にならざるを得ない。


 玩木屋の動きは抑えた。だが、一層厄介な相手は残っている。前哨戦を経て視線を移したココロだったが、当然のように、悪津ユエニは笑っていた。

 暗闇の中に浮かび上がる、透き通った白い肌。右の眼帯は闇に溶け、まるで窪んでいるかのよう。そんな無残な屍骸に似た光景に、似つかわしくないまでの美しく愉しげな笑み。

 真っ赤な唇は滑らかに動いた。


「なかなかに便利なものだよねぇ――〝陰陽五行風水術〟ってのは」


 ココロが用いた術式がそれであったとして――こんなにも容易く看破されるなんて。思考麻痺の玩木屋同様、行動不能のスパイラル。歌うようなユエニの声に、動きを封じられたのは、今度はココロの方。

 だが……、


「売れるモノなら形があろうが、なかろうが、なんであれ。故買屋ッてなそういうモンだと知ッてはいても、シャッチョさん、あんたにゃ頭が下がるよ。まさか俺らみたいな端の人間の情報まで押さえているとはね」


 トランの繊細なつくりの左手が、軽くココロの肩に添えられていた。その掌の温もりに後押しされて、ココロは再び力強く悪津ユエニの顔を見据える。


「まあ、基本情報くらいにはねぇ」


「〝キスアンドクライ〟でも情報戦ならあんたに敵うヤツァそうはいないだろうさ。押さえといた手札をここぞッてタイミングで切る勝負感の良さも込みでなァ。とはいえ、だ。俺も予想外だッたぜ? そこまでッてのは。俺らの情報までッてのは、よ」


 へえ、と呟いたユエニは、「じゃあどこまでならアンタの予想の範疇だったんだい?」


「ジャガーノートの情報が、ヤツの手下から流されたものだッてトコまでだなァ」


 昨日蹴散らしたジャガーノートの手下たち、覆面レスラーにも似たマスクマン。彼らは自分のボスの情報を悪津商会に売っていた――トランはさもなく指摘した。


「まあ、あくまで予想は予想でしかないけどねぇ」ユエニは愉しげにパイプを転がす。


「シャッチョさん、アンタは、欲しいと思ッた物はどんな手段を用いてでも手に入れる。そこに拒否権はきッと、ない。人を裏切らせるなんて何とも思わない思考は、まさしく背徳の街の思考そのもの。だとしてその体現者という意味では、アンタは清々しいまでに貫き通してるよ。それが当たり前の世界に生まれ育ち、その生き方を全うできるッてな意味じゃ、その稼業は天職と呼べるだろうさ。アンタの常識が、世界の常識と成り得る街ならば、なァ」


 ユエニとは対照的に、まるで愉しくもなさそうに、トランは吐き捨てた。


「褒め言葉と受け取っとくよ」肩を竦めてみせた後で、ユエニは継いだ。


「仕入れ先をバラしちまうなんて商売人の名折れだけどねぇ。ま、アンタらに関しちゃあ、『履歴書』程度にしか情報は押さえちゃいないし、うたっちまったとこで損も得もないんだけどさ」


 ユエニの回答を受けて、チョコレート色の小箱を取り出したトランが、一本引き抜く。

 辺りを覆った沈黙を、甘い香りが包んだ頃、ココロはようやくトランの顔を見た。


「あの……ランちゃん」


 緊張も途切れたように、トランは欠伸まじりの紫煙を吐いていた。

「なに?」と呟くトランに、「いや、なにじゃなくて」ココロは気もそぞろに口を尖らせる。


「ど、どうするのさ?」


 幸か不幸かの膠着状態に、しかしトランは「もうどうもこうもなんねェよ」言うや、


「なァシャッチョさん。心理的優位を元に喧嘩するアンタが続けるつもりッてんなら、この時点で、基本情報くらいにしか押さえてない、なんて事実を俺たちに晒す必要もねェもんな」


「と、見せかけて、ってのも交渉事にはつきものだけどねぇ」


「まさか。そこまでの交渉術をこの場で披露するッて? アンタが? アンタにとッてなんの利益にもならないこの場において?」


 長身のユエニが見下ろすその顔めがけて、トランは紫煙を吹いた。


「そもそもコロの地脈探索に引ッかかったのは、アンタじゃなくてほとんどが調教屋の手下だろ? 履歴書程度にしか知らないとはいえ、〝魔導〟の精通者相手と知りながら自分の兵隊も連れてきちゃいない。最初ッからアンタ自身は喧嘩するつもりないんだろ? なら話は簡単だ。アンタじゃなく、調教屋如きが相手なら、話は簡単だ」


 ユエニは身を捩りながらくふふと笑った。


「大叔父、今回は完全にしてやられましたねぇ。それでもってんなら、一門全部引き連れて出直した方が良さそうだ」


 玩木屋畜禅は感情に任せて、杖をアスファルトへと叩きつける。

「これで終わると思うなよ」言い捨て、逢魔ヶ通りの闇へと消えていった。


 その背へと続いたユエニは、少し振り返ると、あっけらかんとして言い放った。


「ああそうだ、花屋。またそのうち届け物の仕事があるから、宜しく頼むよ」


「おい、こんな状況にしといてなんの冗談だよ」


 トランの文句に、細めた左の瞳が言っていた――此処はこういう世界だろ。


 あこぎに過ぎる人使いの極み。以前に一度だけ、そして二度と関わりたくないと願った悪津商会からの仕事を思い出して、ココロが身を震わせる。


 嘆息するトランとココロを置き去りに、悪津ユエニもまた、通りの闇に消えていった。






 ジャガーノートとの件は終わったはずだった。だが、終わってなお、ヤツはその影をちらつかせる。遺していったのは面倒事と、後悔という名の呪詛。

 だから隣を駆ける横顔、その瞳をきつくするココロの内心を知っていればこそに、


「探索術式の技術くらい上げとけよ、そしたらこんな面倒な事にならねんだからよォ」


 トランはいつものように舌打ち混じりで呟いた。


「しょうがないじゃんか、人払いのルーンで、地の〝龍〟が断ち切られちゃってるんだもの」


 ダボダボのパーカをはためかせて、隣を走る藤林ココロが口を尖らせた。


 ココロが地の脈を探索術式として使用した『陰陽五行風水術』は、この国の魔術と呼ばれる類のものの中では割とポピュラーな方に位置する。

 自然界の万物には〝龍〟と呼ばれる脈が存在するという考えに基づいた〝龍脈〟操作術。大陸から伝わり、独自の発展を遂げたそれは、様々な形に姿を変えてこの国に関わってきた。とはいえ、とある事情でその技の一端が使えるからといって、その術がわりとポピュラーだからといって、使いこなせるかどうかはまた別の話で。

 だからこそ、神結探索の為に走らせた地の〝龍〟も、あっさりと安物の〝言霊符ルーンカード〟で防がれてしまったりするのだった。

 

 それを十分に理解していればこそ、あえてトランはさめざめとした口調で付け加える。


「だからァ?」


 うっ、と言葉を詰まらせた後で、「……ゴメンなさい」十センチ以上背高のココロが、まるでトラン様のご機嫌を損ねないよう上目遣いで謝罪する。

 よし、とでもいうようにトランが頷いた時、スマホの着信音が鳴り響いた。


 神結が連れ去られた〝不夜城〟内へと突入する直前、トランは一本の電話を入れておいた。通話先の人物は、「何よっ、いま授業中なのよっ!」授業中であるにも関わらずしっかりと通話に出た後、子供特有の癇癪じみた声で喋りたてた。

「緊急だ」トランが言い、「掛けなおす」と一方的に切られてから、五分と経たずしての着信であるから、発信先は言わずもがなである。


 足を緩めたトランが、ストラップのブードゥー人形を揺らして、通話アプリをタップする。


「で、なに? 問題でも発生した訳?」スマホの向こうで美空向日葵がまくしたてた。


 発生した『問題』が、今日の仕事、ニホンスイセンの件とあたりをつけて話す向日葵に、トランが短く説明する。


 ふーん、と唸った後で、「ちょっと待ってて」という向日葵の声。しばしの沈黙の間、離れた場所で講義する教師らしき男の声が聞こえた。おそらく向日葵が廊下でこのやりとりをしているのだという察しは、二人ともすぐについた。


 花キューピッド専属の仲介屋として、向日葵は様々なネットワーク及び麻里を介して、同業者、ひいては〝不夜城〟内の情報収集に余念がない。

 持ち歩くノートパソコンにはその情報が詰め込まれていたし、素早くアクセスやその他の動作も万全に期す為スマートフォンも数台所持している。二人組の風体だけを頼りに、素性を調べる事など彼女にすればお手の物だった。


 間もなくして、「――あったよ」という向日葵の声。スマホへとココロも耳をそばだてる。


「ザラキとシイラギっていうコンビね。タトゥーの金髪ボウズが『不知火しらぬい』のザラキで、顔中ピアスが『つむじ』のシイラギ」


 トランの舌打ち。「クソッたれ、二人とも『一族』のモンかよ、ッて事は……」

 継いだトランへと、向日葵が割って入る。


「それはないから安心して。二人とも一族の鼻つまみって感じで相手にもされてない半端者。だから半端者同士でツルんで、ケチな悪さしてるんでしょ。そんな訳で一族の上のヤツや、ひいては更にその上、『鞍馬くらま』の連中が出しゃばってくることもないわ」


 トランがタバコを咥え、火をつける。そして安堵ともに煙を吐き出した。だが、


「今回の件に〝メメント・モリ〟が絡んでるッて話は?」


 ついでのように口にした質問、その声音に遊びはない。


「上の階の住人が〝メメント・モリ〟を雇ったらしいって噂は今朝けさイチで入った情報だけど、雇用主も目的も不明。今回の件と関係があるかって言われればそこまではちょっと……」


 歯切れの悪い向日葵、その後で気をとりなすように続けた。


「……ただ、さっき話した二人組は半端者同士だから、まともに仕事の斡旋も受けられないみたいで、今は他の人間と組んで、っていうかほとんどそいつの使いっぱしりみたいになってるみたい。そいつの名前は――『白魅鍔鳴シロミツバナリ』って男よ」


 トランの眉根が吊り上る。


「白魅? 外刀工ゲドウコウの白魅か? あの野郎、人攫いのバイトまで始めやがッたかよ。黙ッて刀作りに精だしてりゃいいものを」


「連中のアジトは〝不夜城〟の一階、〝アッシュトレイ〟にあるって話だけど、正確な場所までは……」


 向日葵は続けたが、言葉は尻すぼみに消えていく。それを耳にして、直接通話口越しでなくとも聞こえるようココロが声を張り上げた。


「でもさ、〝キスアンドクライ〟まで行ってないって分かっただけでも大分絞り込みやすくなったよ! ね! トラちゃん」


 神結の身柄が〝不夜城〟の『第一階層』に留まっているらしいと分かった所で、広大なガレキの街から、探索術式も使えないままに人一人を見つけ出す事がどれほど困難か……。


「結局しらみ潰しかよ」それが分かっていればこそに、トランは大仰に溜息をついた。



    ☆★☆



 舞い落ちる白の中を駆けてきたトランの瞳の先で、数ある廃墟のひとつ、その屋上からココロは躊躇することもなく飛び降りた。

 左手で空を掴むと、見えない鉄棒で大車輪からの宙返りを繰り返しては、落下の勢いを殺しながら地面へと着地する。空に幾つもの見えない〝脈〟が張り巡らされているかのように。


「どうだったランちゃん?」

 

 質問を口にするココロに、トランの嘆息。


「東のオブジェを幾つか巡ッちゃみたがよ、何の手掛かりも見つかりゃしねェ」


 何かあれば互いの〝装飾陣デコレイション〟を打ち上げて報せることにしていた。それが無かった時点でココロも答えは解っていたが、それでも聞かずにはいられなかった。

 ココロの中で募る焦燥は目に見えて分かるほどだったが、それは仕方なしに付き合っているというテイのトランとて同じだった――〝不夜城ここ〟では一分一秒が命取りになるとも限らない。


「そうだ! オブジェに住んでる連中に聞いてみるってのはどうかな?」


 妙案とばかりのココロに、トランは答えない。雄弁に沈黙が語るのは、「却下」の二文字。


〝不夜城〟の第一階層――〝灰の街(アッシュトレイ)〟。

 そこに広がる累々たる廃墟を『オブジェ』と呼んだのはトランだった。

 気の難しい芸術家が作り出しては、気に入らないとばかりに次々と廃棄される魂の宿らない作品達オブジェ。それは失敗作フェイルにして紛い物(フェイク)廃品オブジェだった。

 そしてそこに住まう者たち。〝不夜城〟での厳しい生存競争に敗れ、身を潜める負け犬の群れ。神結捜索の為、オブジェ内に入る度、彼らは蜘蛛の子を散らすように退散し、物影へと姿を隠す。

 決して自分に害の及ばぬ所で人の不幸を愉しみ、自分より弱い存在が迷い込んだら迷わず牙を剥く最低のハイエナたち。それは生存本能の賜物で在り、此処で生きていく為の術。力ない敗者の末路には相応しい姿かもしれない。だが、だからといって、ずっと卑屈に引き篭もる彼らに、トランはイラつき、ココロは憐れんでいる。


灰の街(アッシュトレイ)〟の住人から協力を得られないことなんて、トランが否定しなくとも、ココロとて解っていたはずだった。しかし募る焦燥が完全に思考を麻痺させていた。急がなければという焦りだけが。

 それでも、悪い想像を追い払うようにかぶりを振るココロは、力強く言った。


「探そうトラちゃん、絶対にカミーユちゃんを助け出そう」


 やる気も無さそうに、だが、トランははっきりと告げた。


「面倒くせぇッたらねェな。ッかしコロよ、俺は諦めたなんて言ッた覚えはねェけどな」


「えへへ、ゴメン」ココロの顔に少しだけ笑みが戻る。


 二人で回ったオブジェの数は十六。ここには、あとどれほどのオブジェが立ち並んでいるのか。ひょっとしたら限りなど無いのかもしれない。永遠に続くような薄闇と舞い落ちる白、そして無限に思える廃墟の群れ。

 その中をしかし躊躇いもせず、トランは駆け出そうとする。


 その時だった。


「ランちゃん、あそこっ‼」ココロが叫んだ。


 ココロが指差した空で、燐光が頼りなげに浮かんでいた。

 おぼつかずフワフワと浮かんでは、点滅するように闇に紛れて消えていくさまは花火に見えなくもなかったが、その儚さはせいぜい線香花火の明滅だった。


 消え往く寸前に見えた金色の光、その形は――〝☆〟『星』。それは紛れもなく……


「……〝装飾陣デコレイション〟」トランが呟く。


 同時に二人は星の下目指して走り始めていた。左右にはまだ足を踏み入れていない廃墟がいくつも点在していたが、もうそれらに目をくれることもなかった。


 目的の場所まで後わずか、鉄屑が形成する巨大な山を曲がりきったところで声が響く。


「おいおい! マジか? マジで見張りの甲斐ありってか!?」


 目的地たる廃ビルを目前に、並び立つ二人の男。金髪のボウズに顔の右半分をトカゲのタトゥーで覆った男と、色あせた茶髪にバランスも関係なく顔中にピアスをつけた男。


「アイツらか?」


 駆けるトランの隣でココロが頷く。そして、「トラちゃん――」


「あン?」


「――行って」


 凛として言い放ったココロに、言葉を返すでもなくトランは更に加速する。


 無視するように素通りするトランへと、


「俺たち〝メメント・モリ〟から逃げられると思ってんのかゴラァ‼」


 タトゥーの男が怒りを露に吼えた。


「お前らがァ?」転瞬、深紅の双眸が一瞥。


「紛いフェイクがッ」


装飾陣デコレイション〟を目指していたら贋物イミテイションに出会いました――性質タチの悪い冗談に気を悪くしたとでもいうように、トランの瞳に敵意が宿る。


 しかし、トランが動くより、タトゥーの男が動くより、先に動いたのはココロだった。

 トランと男の間を断ち切るべく、地面に六本の両刃のナイフが突き刺さる。


「ここはオレ一人でいいから」


 持ち手が輪状の、普通の物より小さな作りのナイフは、『クナイ』と呼ばれる代物だった。

 ココロに急かされて、トランはもう一瞥もくれることなく廃ビルへと駆ける。


「そうかいそうかい、まあいいや。あっちはあっちでなんとかすんだろ。こっから俺ぁ趣味に走っからよぉ。誰ともつかねぇ消し炭になる前に、聞いといてやる。コゾウ、名乗りなぁ」


 怒気と愉悦の入り混じったタトゥー男の後で、


「伊賀十七代、藤林心霞フジバヤシシンカ――、参る」


 その背に、名乗りを上げるココロの声が聞こえた。

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