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ツィゴイネル★ワイゼン  作者: 夜方
6/18

橘神結 2 


 わたしはなんてバカなんだろう――、と橘神結は思った。


 後ろ手は縄で縛られ、首輪につけられた鎖を引かれては罪人のように歩かせられる。

 ボウズに近い金髪に顔半分をトカゲのタトゥーが覆った男の腕力に、華奢なからだは抵抗らしい抵抗も出来ずにただ引きずられていった。






 昨夜、明朝すぐにエイボンの元へは行かないと告げられた後で、明らかに動揺する神結に向かって「そう悲観する事はねェよ」と、トランは続けた。


「女、お前の記憶は術式発動以前の生活に関する記憶を失わせていくモンだ。だから、記憶を失ッていくという事実も、男達に追われた事も鮮明に覚えてんだろ? 術を解いちまえば、全部思い出す事に変わりはねェんだ。それまで我慢すりゃ良いだけの話だ」


 トランは実にさらりと言ったが、それで神結の気持ちが安らぐことなどもちろんない。

 現に必死で記憶を繋ぎ止めようと一晩中努力はしてみたものの、朝がやってきた頃には友だちの名前も、そして母親の顔も記憶からは綺麗さっぱりと消えていた。

 それでも、ダイニングへと出た時、目に映った人物の名前がすらと出てきたのは、ほんの少しの救いだった。


 背高に、ぶかぶかのパーカを着た、妙に人懐こい童顔の――藤林ココロ。


 全身黒づくめの、中性的な容姿のヤサグレ王子――灰沢トラン。


 トランは特殊な力の眠る宝石をくれた。身に危険を感じた際に使え、と言って。


 魔法というもののレクチャーは障り程度には昨夜聞いたし、目の当たりにもした。

 だが、神結にすれば自身の身に起こっている事象が〝それ〟のせいだとして、〝それ〟を扱う人間など住む世界の違う存在に他ならない。

 どうすればトリックもなしに普通の人間が宙に図形など描けるだろうか。別世界の非現実的な力――。それに対して、特筆すべき点もない極々普通の女子高生たる自分が抗う術などない。一人ぼっちなら尚更だ。

 だから声を荒げてしまった。


 しかし、さめざめと嘆息してみせたトランは、その後でこんなことを言った。


「お前にとッちゃ不本意かもしんねェけどな、女ァ……この逢魔ヶ通りに入ッてこれてる時点で、そもそもがお前は( ・ ・ ・)普通の人間( ・ ・ ・ ・ ・)じゃねェ( ・ ・ ・ ・ )んだよ( ・ ・ ・)


 だから。


 二人が出て行ったビルの一室で、橘神結はうんうんと唸っていた。紺碧の瞳を細めたり吊り上げたりして。集中した時の癖で、金髪をおさげ風に結ったトリコロールビーズの髪留めを無意識にいじりながら。

華奢なからだに纏ったキャメル色の制服は、昨日の今日で薄汚れていたが、神結は気にも留めずに机上の作業に向かっていた。

 朝食の残りのコーヒーを思い出したようにチビチビとすすっては、昨夜見た光景を思い出しながら宙に図形や文字を描いてみたり、机の上に小石を並べて、魔法陣を組んでみたりする。

 とはいえ、ああでもない、こうでもないと思考を重ね、改良を繰り返す事数十回。火種どころか隙間風ひとつ吹かない現状に、「だあー」と言って突っ伏した。


 昨日ココロにもらった水仙の切花。マグカップに水を張って挿した、それを眺める。


 ――そもそも火種が起こせるようになったからなんだっていうんだろ……。


 無人島くらいでしか、必要性を発揮しそうもないスペック。それに今更ながら思い至る。


 トランから貰った深紅のルビー(=パチモン)をテーブルの上で転がしながら、神結が溜息のひとつもつこうとした矢先、溜息より先に「ぐぅ」とお腹が鳴った。

 病人のように上半身を起こす。見れば、チビチビやっていたコーヒーもすでに空になっている。

 神結はブレザーのポケットをまさぐった。飴もガムも入っていないポケットには、スマートフォンがちょこんと収まっていた。昨日切り裂かれたダッフルコートと共に紛失したと思っていたスマホは、気づかぬうちに制服のポケットへと避難させていたらしい。

 履歴も電話帳の欄も空白になってしまった見掛け倒しのスマホ。ぶら下がったキャラクターストラップのキュアちゃんは、今日も不必要に満面の笑みを振りまいている。

 もはやリアルの象徴と化していた彼女とスマホから目を逸らすように、窓から外を眺めた神結の瞳に、見知った顔が映った。


「恵太くんだ……」


 ランドセルを背負った栗生恵太が菓子工房ドゥ・フロコンの店内へと入っていく。

 

 その光景に我に返った神結は、壁に掛けられた時計を見た。逢魔ヶ通りを覆った時間の感覚を麻痺させるスカイグレーの空気のせいで、気づかないうちに時刻はとっくに昼を過ぎていた。

 なんとも気の抜けた話。朝には相当に滅入っていたはずの精神も肉体も、無益な作業に熱中していたおかげでそれなりの気晴らしになったらしい。そんなことを一人納得すると、なおさらお腹が空いてきた。

 何か食べ物を取りにキッチンへ、立ち上がった神結だったがふいに思いたつ。


 あの二人は夕方までには帰ると言っていた――自分にできることなんてたかが知れているけど、お腹を空かせて帰ってくるなら、夕飯くらい作っておいてもいいかもしれない。

 料理はそんなに得意じゃないけど、カレーだったら作れる。ただのシャッター街にしか見えなかった通りには、肉屋も八百屋もあった。それならカレーくらいお手の物、だ。それにハンバーグは適わないけど、わたしのカレーは絶品だってトモダチも言っていた、気がする。

 そこまで思案して、誰のハンバーグに適わないのか、そしてもはやトモダチの名前すら思い出せない自分自身に直面しては、簡単に芯が折れそうになる。

 しかしそんなモヤモヤを患っている間にカレーのレシピまで忘れるのはごめんだった。奮い立つように顔を上げる。

 そして……。


 ――ついで、ほんのついでに、ドゥ・フロコンで小腹を満たす為にパンを買ってこよう。


 あの緊迫した最中、美味しそうなフルーツデニッシュが店内に並んでいたのを神結は見逃さなかった。

 神結は、ブレザーの内ポケットから取り出した財布をぎゅっと握り締める。財布の中の『魔法の一万円札』は、昨夜トランによって本物の魔法のお金であることが立証された。とはいえ、普段は普通の一万円札となんら変わりないらしい。


 それなら――と、芽生えた罪の意識を、空腹を口実に角へと追いやる。


「ちょっと行ってくるね」可憐に白い花弁を広げる切花に留守番をお願いすると、傍らでキュアちゃんは後押しするような笑顔。踵を返す間際、テーブルに置いてある深紅の石を掴み取るとブレザーの右ポケットへ。そのまま足早に階段を駆け下り、リヤカーを通り過ぎ、神結はシャッターの前まで辿り着く。

 彼女の進撃を阻む最後の砦、そのシャッターをか細い腕で押し上げると、ドゥ・フロコンは目前だ。神結は、待ち受けるフルーツデニッシュ目指して歩き始める。


 と、その時だった。


「――おめでとうございまぁす。貴女は選ばれましたぁ」


 神結が振り返った先で、あのタトゥーとピアスの二人組が立っていた。






 これから自分が何をされるのかは分からない。だが、そんな輩に捕まってしまった理由が、「ちょっと小腹が空いてたもので」ではあまりに情けない。


 わたしはなんてバカなんだろう――、噛みしめるように神結は自らの愚かさを悔いた。

 

 二人組の男たちに捕らえられ、引きずり廻される恐怖。それを思えばこその後悔。だが、それはどこか他人事のようにぼんやりとしていて。

 捕らえられた間抜けな理由と、罰ゲームを思わせる間抜けな格好。男たちが「速く歩け」だのと喚かなければ、神結は眉間に皺を寄せてさめざめと溜息を吐いていたかもしれない。

 それは時効までの逃亡生活を送っていた犯罪者が、捕まって逆にほっとしましたなどという心境ではない。単純に自身の脳内が現実に追いついていないだけのことだった。

 捕まって早々、再び額に押し付けられた〝言霊符ルーンカード〟のせいで、こめかみに走る痛みがスムーズな思考回路の阻害をしているのは間違いないとしても、神結は自分の見ている景色がどうしても理解できない。それ程に、今いるこの場所は現実味がなかった。


 神結が男たちに引きずられていったのは、逢魔ヶ通りの中心にそびえる老朽化の著しい三階建ての、ココロが決して立ち入るなと念を押した、あの〝不夜城〟と呼ばれるビルだった。

 漆黒の闇のような屋内へと入った瞬間、全身を包んだのは圧迫と解放を同時に味わうような奇妙な感覚。それは初めて逢魔ヶ通りへと足を踏み入れた瞬間に似ていた。

 しかしそれを懐かしむ間もなく、気づけば神結の目前に広がっていたのは、逢魔ヶ通りのトリックアートなど比にならない程の荒涼たる大地だった。

 在るのか無いのかも分からない地平線は、どこまでも続くような闇に呑まれて見えない。夜が支配したかのような薄闇の街で、明けることもないように見える空には、星ひとつ輝いていなかった。

 辺りには、逢魔ヶ通りの店舗ですらがまだ人の温もりを感じさせる、真の意味での廃墟が点在していた。ただそこに並び立つだけのそれは、もはやただのオブジェにしか見えなかった。


 そして、粉雪のように舞い散る――白。


 それ自体は十二月という季節なら別段珍しくない。だが、この街には十二月としての肌寒さが全く感じられない。確実に矛盾していた。

 その白は神結の肩に止まると、空気に、というより薄闇に溶け合うようにして消えていった。


 雪じゃなかった。


 舞い落ちては、決して降り積もる事のない白――それは灰。

 

 映画とかテレビのニュースとかでは割とおなじみの世界。核戦争なんかが勃発して死の灰が空を覆うだとか、大規模火災が街を呑みこんで黒き曇天は未だ晴れずといった光景。


 ああ、そうか、それなら空も見えない訳だ。でもそれなら〝不夜城〟っていうより不『昼』城だね――。逃避気味に回答を導き出して、うんうんと頷いた神結は慌ててかぶりを振る。

 

 決して降り積もらない灰が闇を生み出していく大地で神結は振り返った。そこには寂れた地下鉄の入り口にも似た建物があったが、その先には紛れもなく逢魔ヶ通りの風景が在った。そもそも小さな廃ビルの一階部に、空と大地があって良いはずがなかった。


 広大な世界の終わりの一端で神結は完全に途方に暮れたが、男たちは質問に答えるつもりはないらしい。代わりにタトゥーの男がニタニタと笑いながらこんなことを言った。


「地獄へようこそ、お嬢ちゃん。逃げ回ってくれたのにご愁傷様だけどなぁ、死の使い魔たる俺たちを、『メメント・モリ』を相手にした時点でお嬢ちゃんの命運は尽きてたって訳だ」


 ここが本当に地獄なのか、『メメント・モリ』という単語が何を意味するのか、そんなことどうでも良かった。ただ、なぜ世界はこうなってしまったのかを教えてほしかった。

 なのに、タトゥー男はニヤニヤと笑っているだけ。ピアス男にしても、興味も無さそうに宙で人差し指をくるくると動かしているだけだった。

 だが、なんの意味もなさないようなそれを理解した瞬間、神結の目は釘付けになった。


 それは落書き。味も素っ気も無い一筆書き、しかしそれをピアス男は――宙に( ・ ・)描いていた。


 舞い落ちる灰、その白をまるで水彩絵の具のように人差し指で伸ばし、新たな白に行き着くとそこからまた線を伸ばして、宙というキャンバスにクロッキーしていく。

 描き始めの線が消える前には、ストリートアート風にデフォルメされた髑髏のキャラクターが完成していた。

 

 消えゆくキャラクターを目に、神結はぼんやりと思い出す。


 藤林ココロの言葉――不思議な場所じゃ、不思議な力の〝カカリ〟も特別らしいよ。


 灰沢トランの言葉――そもそもがお前は普通の人間じゃねェんだよ。


 結局、逢魔ヶ通りでは実践できなかった不思議な力――魔法。

 ひょっとしたらここでなら、宙に浮かぶ魔法陣――〝装飾陣デコレイション〟を自分も描けるかもしれない、そんな好奇心に目前の恐怖が薄らぐ。

 後ろ手に縛られた両手を動かした。それはもちろん、自身も宙に描画できるかを試してみたかったから。でも、後ろ手に縛られた指を動かしたところで、その背後を見ることなんて出来るはずもない。確認しようのない図形の作成に勤しむこと自体、徒労に過ぎなかった。


 モゾモゾとした神結の動きにピアス男が気づく。

「さっさと行くぞ」言葉尻の厳しさは、これ以上余計なことを喋るな、というタトゥー男への忠告も含まれているようだった。


 肩を竦めたタトゥー男を一瞥したピアス男に鎖を引かれ、罪人の現実へと引き戻される。ぐいと力任せに引かれ振り返る間際、遠くの空に、神結は立ち昇るサーチライトの如き光を見た。それは天を衝く仄白い光の柱であり、同時に塔のようにも見えた。

 そしてまごうことない廃屋の闇で、人とも獣ともつかぬ幾つもの瞳が爛々と輝いていた。

 神結は小さく悲鳴を上げたが、男たちは当然説明する気もないらしい。混乱の中に突き落とされて、何ひとつ分からないまま、罪人のように神結は歩く。

 なぜ世界はこうなってしまったのかを神結は教えてほしかった。一人せせら笑っていたタトゥー男はご機嫌だったから、尋ね方次第では案外簡単に口を滑らせたかもしれない。

 しかし、ほんの少しの好奇心に身を委ねたせいで、そのチャンスもふいにしてしまった。


 わたしはなんてバカなんだろう――。神結が己の愚かさを三度目に悔いた時、タトゥー男が目的地に着いたと告げた。


 廃墟の一角。三階部が斜めに切断されたようにして露呈する廃ビルと思しき建物。とはいえ、街に広がる建物は見る限り廃墟であり、他の廃墟との区別などまず付かない。

 その廃ビルへと連れて行かれた神結は、小部屋へと通される。


 そこに女がいた。

 擦り切れたTシャツと赤のホットパンツ。長く伸びた足には力なく、小刻みに揺れていた。

 ブリュネットのロングヘアーの若く美しい容貌。だが、その顔は薄汚れ、目は虚ろだった。本来なら魅力的に映えるはずの燃えるような赤毛も、色褪せ、まとまりなく広がっている。どこかそのさまは、壊れかけの人形を連想させた。


 女は、ふらふらと神結の元までやってくると、その頬に触れた。

 神結は小さく悲鳴を上げる。女の俯いた長いまつげの奥、その瞳には、どんよりと濁る闇だけが広がっていた。

 その闇に吸い込まれそうになる錯覚に、神結は衝動的に逃げ出そうとする。だが、一歩目を踏み出す間も与えられず、その身は壁へと打ち付けられた。部屋には女と神結の二人だけだったが、首につけられた鎖は部屋の外まで伸びている。部屋のすぐ外には例の二人組。異変を感じては力一杯引かれる鎖に、神結は抵抗をやめた。

 女のなすがままに、からだを任せる。「うぅあぁ」としか言わないその女が助けてくれることはないらしい。


 それでも神結は頭を巡らせた。自身の現状は、まるでドラマや漫画の人質のようだった。なら、そんな時機転を利かして脱出する方法といえば……


「すいませんっ、おしっ……トイレ……トイレに行かせて下さいっ」

 

 衆人環視を逃れて細工をする鉄板の常套句。


 ――鎖を外せなくたっていい。それでもトイレに使えそうな何かがあれば、その確認が出来るってだけでも後々それが活きた情報になり得る事もあるはずだ。


 と、そこまで考えて、


 ――でもここから出られたとして、どこに逃げたらいいというのか? 


 あっさり心が折れかける。だとしても、何もしないよりはマシに決まってる、小さく神結はかぶりを振る。

 しかし、神結の眼前でしゃがみこんだ赤毛の女を見て、やはりあっさり心は折れた。

 

 膝立ちの姿勢で女は、まるで干上がった大地で零れ落ちて来る滴を待つように、口を広げていた。女が何を待っているのか、答えは明白だった。

 トイレに行かせて下さい、有らん限りを総動員して発した声。その勇気も、そして生理現象もまた「引っ込みました」と神結は告げた。

 そして抵抗なんて言葉も忘れ、成すがまま神結は身を任せる。完全に思考は鈍麻していた。


 間もなくして神結は部屋の外へと連れ出される。

 その姿を見て二人組は尚更にニヤついて見せた。女に着替えさせられた神結の姿。それは純白のウェディングドレス姿だった。


 晴れの門出には程遠い舞台。崩れ落ちそうな階段を昇った二階で、一人の男が待っていた。

 いつ切ったのかも分からない白髪は背中まで伸び、それに相応するように顎鬚も伸びた、背高ながら猫背の男。八の字の眉毛に合わせるように常に眉間に皺を寄せた瞳と、こけた頬が男の年齢を尚更に老けて見せた。

 

 初老のどこか情け無い般若顔――。それが神結の男に対する第一印象だった。


 男は、マントのように羽織った黒色のアーミーコートから手を伸ばす。男たちは揃いのように、三人とも黒地のコートを着用していた。


「俺は『白魅しろみ』という者だ、短い付き合いだがよろしくね」

 

 男から発せられたのは、予想以上に若々しい声。神結は戸惑う。


「これは失礼」白魅は、やたら紳士ぶって神結の後ろ手の縄を緩めると、わざわざ手錠のように前手に縛り直した後で握手した。

 

 当初神結は、自分を誘拐した黒幕はこの男なのだと思った。だからあれこれと質問を浴びせるべく頭の中をフル回転させたが、それもすぐに徒労だと思い知らされる。


「あと一時間もすれば、我々に君を捕獲するよう依頼した客が引き取りに来るだろうね。こういう仕事において依頼主側の秘密保持というのは基本中の基本。使いの者と面識はあっても依頼主が何者なのか。君をどうするつもりなのか。そんなこと、我々は知りもしないし、知ろうとも思わない。理由なんてどうでもいいのさ、金さえもらえれば。それがプロの在り方ってものさね。だから、君が何か質問しようにも我々は何ひとつ答えなど知らない。まあ、その分無駄が省けるってもんだがね。効率の良い仕事ってのもまた、プロの在り方ってものさね」


 語り終え、泣き笑いじみた微笑を灯した白魅は、ぐうの音も出ない神結を眺める。


「我々が知りうるのはこのミッション、そのコードネームが『花嫁ブライド』という事くらいのもの。だからそのドレスは依頼主へのサービス。ほんの詫びのつもりさね。プロの仕事だというのに引き渡しの期日を一日延ばす羽目になった馬鹿どもの詫びの、ね」


 振り返った白魅の顔が歪むのを見て、神結は慌てて視線を落とした。高説じみた解説に一人悦にいる男の朗らかさは、既に無い。

 白魅はねめつけるような視線で神結を見ていた。正確には神結の後ろを、だ。

 

 神結の背後に立つ二人組、タトゥーの男が体裁悪く口を開く。


「そ、それでもこうしてちゃんと捕まえてきたんだから問題ないだろ」


「筋金入りの馬鹿どもかね、お前らは。これじゃ雑用に拾ってきたジャンク品の方がまだマシというものだね」


 淡々と白魅は言った。同意という訳でもないだろうに、赤毛女は「うぅあぁ」と呻いてみせる。


「本来、こういった攫い屋稼業とくれば、あのクソッタレな『ジャガーノート』あたりに舞い込む仕事。専門業きどりの攫い屋以上に、フリーの俺たちの方が使えると〝不夜城〟中にアピール出来るチャンスが巡ってきたというのに、みすみすふいにしかけるなんて、お前らは脳味噌という器官が欠落でもしているのかねぇ?」


 言い終えてせせら笑う。過呼吸じみて声をくぐもらせるさまは、八の字に垂れ下がる瞳と合わせて嗚咽しているようにも見えた。


 白魅のおよそ上品とは呼べない笑い方に、呼応してタトゥーの男もぎこちなく笑った。


「仕事もこなした訳だし俺たちゃ御役御免だろ? 俺とシイラギは飲みにでも……」


「ザラキぃ、依頼主の使いが来るまであと一時間と言ったはずだがねぇ。その間にまた逃げられるような失態を犯したら、――俺はお前らを殺すぞ」


 表情も声音も変えず、白魅はさらりと告げる。


「お前らは黙って外の見張りでもしているんだね」


 金髪に顔の右半分を覆ったトカゲのタトゥー。強面に束の間、怯えの色を浮かべたザラキ。そして、両の眉尻にピアッシングした金属の重みに比例するような、困り顔のシイラギ。

 二人組は完全に沈黙する。そしてその目から逃げるように、部屋を出て行った。

 その後ろ姿を見送るでもなく、白魅が言った。


「さて、あとたったの一時間だが君には気長に待っててもらおうか。丁重なもてなしなど存外だが、飲み物くらいは持ってきてやろう。まあリクエストには応えられんがね」


 神結の首から伸びる鎖の先を部屋の角に生えたフックに通し、南京錠を掛ける。

 神結を一人置き去りにして扉へと向かう白魅が、ふいに振り返った。


「我々は何も知らんと言ったね。でも、参考程度にここいらの常識で言えばね、攫われた人間に待っているのは、下衆な勘繰りをするならば、持ち主の性癖を満たす為だけの玩具。高尚ならば、現代後風のオブジェにされるってのが相場だねぇ。……あの壊れた女を見るがいい」


 赤毛の女は呆けたように、崩れかけの天井を凝視していた。


「馬鹿どもが、慰み用に拾ってきたあの女だって、元は君と同じ世界を確かに生きていたはずだよ。だがそんな世界の現実も、ここなら一日とかからずに忘れられるだろう。それでも君は運がいい方さね。少なくともあと一時間はまだ人間でいられるんだからね。これがジャガーノートにでも攫われたのなら、すでに君の人格なんてなくなってるだろうさ」


 続けて繰り返す――ジャガーノートじゃなくて良かったねぇ。

 それが誰かなんて知る由もない神結のことなど放っておいて、白魅はひとり悦に入りながら継いだ。


「最終的に壊れて捨てられるのは男も女一緒だがね、それでも俺は信じているよ。君ならきっと立派なクズになれると。お嬢ちゃん好みのロリコン趣味はここにはわんさといるからねぇ」


 言い終えて般若顔が笑った。泣き笑いといった複雑な、だが嗜虐に満ちた顔で。

 そして、締めくくった。


「……まあ、人生の終わりなんてこんなもんさね」


 間もなくして扉は閉じられる。ふらとした足取りの、赤毛の女も後に続いた。


 そして固い閂のかかる音が聞こえた。






 目を瞑り、そして開く。

 

 だが、瞳に映る悪い冗談のような世界では、儚さすら覚える白が相変わらず舞っていた。窓越しにその光景を少し眺めた後、神結は膝をつく。

 考える暇も口を挟む暇もなく、告げられた話は予想しうる最悪の斜め上を行っていた。

 

 ――何か考えなきゃ……でも何を?


 灰が舞い、闇が降り積もるこの街を見ていたら、精神を肉体から放り出すのが一番簡単な方法に思えてくる――非現実な、今を理解するのに。

 風船のようにフワフワと浮かぶ神結はどこか他人事で、この世界を眺めながら空っぽの頭で白魅の言葉を反芻した。


『まあ、人生の終わりなんてこんなもんさね――』


 風船は空をたゆたい、空気が抜けるように萎むと、地面へと落下した。閉ざされた部屋のコンクリートの床、そのひんやりとした感触を膝越しに、神結は全てを受け止める。

 

 ――これは現実だ。


 もはや恐怖という言葉では足りなかった。一回転した感情は、今更震えも冷や汗も発してはくれなかった。ただ、この街のように神結の脳内は真っ白に侵食されていく。


『地獄へようこそ、お嬢ちゃん――』


 タトゥーの男は言っていた。だが本当の地獄はここにあった。神結の頭の中に。頭の中で次々と産み出される悪夢。それは最悪よりも最悪。永遠に続く悪い夢が行き着く先は、抜け出すことのできない虚無の世界。


 心が闇に呑まれる間際、神結は現実逃避の殻に逃げ込む。

 

 ――依頼者っていう人が悪い人とは限らないし。ひょっとしたら通学途中なんかにわたしに目を留めた白馬の王子様が……。

 

 空しい妄想。気づいた瞬間、重ねた積み木が壊れるように、神結の築いた殻が音を立てて崩れ落ちる。でも、ひとつだけ引っかかった……『王子様』というフレーズが。

 

 ――こんな時、あのヤサグレ王子なら? 


 しかし灰沢トランは言っていた。


『自己犠牲? 俺は危ない橋を渡るなんてまッぴら御免だね――』


 ヒーローじみた精神性など切って捨てた彼が、助けに来てくれることはないだろう。

 

 ――だったら藤林ココロなら?


『カミーユちゃんは困ってるんだよ、困ってる人は助けてあげなきゃ――』


 どこか頼りないけど、心優しいお人よし。何の見返りも求めずに手を差し伸べてくれた彼は本当に立派だと、神結は思う。


 彼はわたしを助けてくれた。恩人なのだ……。


 ――なのに、また彼の優しさにすがろうというのか? 恩人を危険に晒してまで、わたしは助けて欲しいと叫ぶのか?

 

 この二日、わたしは何をしていたのか……。


 ――恐怖を言い訳に被害者ヅラしていただけだ。そんなのはもう沢山だ。誰かが終わりだといったところでそんなの知ったことじゃない。わたしは、わたしが終わりだと思う最後の最後の瞬間まで、足掻いてやる。

 

 神結はひとり立ち上がる。首輪に繋がる鎖のせいで行動範囲は決まっていたが、学校の教室ほどの部屋を見渡すと行動を開始した。

 

 側面に取り付けられた四つの窓に鉄格子がはめられているのを確認する。鉄格子越しの先には、はらはらと雪のように舞う闇。そして終わらない夜。

 行動範囲の内にある鉄格子に近づくと、自身では決して外せない頑丈さであることを確認し、部屋の中央に戻る。

 部屋中には砕けた石片が幾つも転がっていた。神結はそれを拾い集めると、床に規則正しく並べ始める。

 五つ並べた石を行ったり来たりさせながら、コンクリートの床を指でなぞる。


 描いた図形は一筆書きの――〝☆〟『星』。


 ――あんな鉄格子なんて壊して、こんな鎖も断ち切って、わたしはここを出て行くんだ!


 縛られた手で、星を描く。


 ――邪魔をするっていうならあいつらもやっつけてやるんだ、魔法の力で‼


 神結は何度も、何度も星を描く。


 ――魔法の力で出て行くんだ‼


 擦り切れた人差し指の腹から血が滲んでも、神結は星を描き続ける。


 ――魔法の力で、出て、行ぐ、んだ‼


 思いとは裏腹に非力な自分が悔しくて、いつしか神結の頬を涙が滲んだ。


 ――魔法の、ぢがら、で……


 それでも神結は星を描くことをやめなかった。



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