藤林ココロ 1
「――結論を言えば、そりゃ魔法だな」
語り終えた神結の薄暗い表情を見るでもなく、トランはさらりと言った。
「やっぱりー、そうだと思ったんだよ! ね、ランちゃんに聞いて良かったでしょ」
ココロは満面の笑みを向けたが、神結の顔に色が差すことはなかった。
付き合い程度の空想話で返された――そんな神結の心情に気付いて、トランが舌打ちする。
「あのなァ、お前だって知ッてたんだろが、〝魔法の金〟の事。だったら多少はそッち方面に明るいと思うだろうが、普通。まるッきりの素人かよ。ッたく、説明からかよ……」
ふいに神結の額に右手をかざしたトランは、親指と人差し指を擦るような仕草。
と、次の瞬間にはブワッと白い羽虫が集まるようにして、一枚の紙が指と指の間に現れた。
「魔法使いッて存在が結構身近なモンって知ッてたか、女。マジナイ程度の術具なら今じゃ通販で買える時代ッてこッた。コイツはその辺で簡単に手に入るような安モン。人払いの〝言霊符〟ッてヤツだ。ナマイキにも追跡封じの印も書き加えられちゃいるが、記憶操作なんて高等術式、こんなモンじゃ組めるワケねェの。お前を襲ッた連中ッてのは、邪魔されずに純粋に狩りを楽しみたいッていうだけの、ゲス野郎だろうさ」
唖然とする神結の前で、トランはレシート状の紙切れを破り捨てる。
「そこで、さッきの〝魔法の金〟の登場だ。女、出して見せろ」
神結は財布から一万円札を取り出すと、テーブルに置いた。
三人共にしばしの沈黙。やがて、トランの視線に気付いた神結が説明を始める。
「えっと、いつからわたしの手元にあるのかは分からないんですけど、たぶん……」
そんな事どうでも良い、というトランのジト目に気付いて。神結は慌てて言葉を紡ぐ。
「……壱万円って書かれた上の、数字の末尾、1・0・1・5はわたしの誕生日なんで、なんとなく憶えてたんです。で、使って手元を離れても、また一万円札が手元にある時は、必ずこの番号のお札、つまり、これが入ってるんです。だから、魔法のお金って内心呼んでて……」
神結の説明はまだ続きそうだったが、トランが制した。
「コロ、お前だって錬金術くらい知ッてんだろ?」
「お金がない時にトラちゃんが宝石のパチモン作ってる例のアレでしょ」
「俺が作ッてんのは宝石じゃなくて魔・法・石。……それはさておき、これは、錬金術と物質間移動の術式を用いた高等術式だぞ。ある一定の時間が経過したら手元に戻る自己演算の術式を組むッてのはそんなに難しい事じゃない。でも、これは消えても不自然じゃないように、一万円札がたくさんあるトコ、例えば銀行のような所に入れられた時点に、それを自ら認識した上で戻ってくるよう術式が組まれてある。さらに言うなら、つまりそれだけの額を簡単に出し入れできる人間でも同意。この術式のスゲー点は、だ。この札自体が場所や人を自ら判断して術式を発動させられるってトコだ」
「おおー!」感嘆の声を上げるココロ、きょとんとしている神結。
「女、お前の記憶消去の術式はお前の記憶を失わせると同時に、お前に関連する人や物からもお前の情報を失わせちまうッていう超高度のシロモンだぞ? て事はだ、その術式を組んだのと、この一万円札の術式を組んだのはドーイツとみて間違いねェだろな」
説明を受けて、ココロが再び感歎の声を上げる。
「やっぱりランちゃんはすごいね! ヒーローだね!」
「ッせェよ」ぶっきらぼうに呟くトラン。その後で、
「で、だ。こッから導き出せる推論。お前に解ッか、コロ」
一人思案するココロが、ぽつりぽつりと話す。
「えっと、使っても必ず戻って来るってことは、つまり長い時間を共にしてたってことだから……解った! このお札は呪符の役割も果たしてたってことだっ。呪いをかけるように、長い時間をかけて記憶消去の準備をして、徐々にその効果を発動させたんだ。だからカミーユちゃんが見たっていう光る部屋も実は偽りの記憶。その部屋も最初から別の部屋だったんだ。これは時間をかけてでもカミーユちゃんの存在を世の中から人知れず忘れさせて……誘拐しようとした組織的犯罪の仕業だねっ。どう、合ってる? 合ってる?」
目を輝かせるココロは、トランの顔を食い入るように見る。
しかしトランは、「これだけのヒントで結論なんか出せねーッての」さめざめ言った。
「トラちゃんが聞いたんじゃん」文句を言うココロを放っておいて、続けるトラン。
「まァ長い時間の中で呪符が霊符になッた、ッて点は同意できるな。女ァ、札を破ッてみな」
「えっ」言葉を詰まらせつつも、口答えできないような深紅の双眸に射られて、神結は札を両手で持つと少しの力を籠めた。しかしほんの一ミリとてそれが傷つくことはない。
「えっ? えぇーっ!?」思い切り力を籠めても、一万円札はうんともすんとも言わなかった。
「霊符ッて解るか? まァ守護符みたいなもんだ。仮にソイツが呪いの産物だとして、そこまで昇華しちまッたら、この符が離れる事はまずねェだろな。一生付きまとうだろさ」
「ひゃっ」と声を上げて投げ出した札がひらひらと机に落ちる。今までとてもありがたがっていたお札を涙目で見つめる神結。それを見て、ココロが訊いた。
「で、結局のところ治せるの? カミーユちゃんの記憶」
トランはさらりと告げた。
「まァな、〝魔導〟を持ッて組んだ術式なら、崩せるッてのも道理だ」
あまりにあっけない一言に、放心する神結。
これで悪夢が終わる訳ではない。だが、少なくとも問題の一つは解決するはず――。神結へと頷いたココロが満面の笑みを浮かべる。
「そっかー、じゃトラちゃん、さっさと術式解いちゃってよ」
「無理、俺には出来ねェもん」
……。
「なんだそりゃー‼ 今までさんざん講釈たれといて出来ないとはなんだー‼ ヒーローとまで言ったオレに申し訳なくないのかー‼」
ココロはワナワナと肩をふるわせて叫んだが、トランは鼻で笑った。
「誰も頼んでねェだろが、そもそもヒーローッてなんだ!? 意味解ッて言ッてんのか、コロ?」
それは、その、と歯ギレの悪くなったココロは神結に援護を求める。
「言ってやってよ、カミーユちゃん。ヒーローのヒーローたる由縁を!」
目まぐるしく変わる状況の変動に、神結は完全について行けていない。この数分のうちに天国と地獄の心境を味わい、思考は麻痺していた。しかしそれでもなんとか呟いた。
「えっと……『自己犠牲』の精神とか……?」
聞いていたトランは、ついには声を上げて笑い出す。
「自己犠牲? そいつァドコの中二病だ? 否、実行に移しゃあ、そりゃあもはや超二病と呼べなくもねェなァ。そんなクソッたれな偽善で飯が食えッか! 危ない橋を渡るッて事自体、俺はまッぴらゴメンだねッ!」
「サイテーだぞっ! ランちゃん‼」
その後しばらく口論は続いたが、この無益な争いから身を引いたのはトランだった。
「……そもそも俺が出来ないッて言ッただけで、治せねェとは言ッてねェだろが。いかに高等だろうが〝魔導〟のワザをもッて術式組んでんならよ、それを解くぐらいお手のモンだろうさ。あのババアにとッちゃあ、よ」
ふくれっ面のココロは、「それならそうと先に言ってくれればいいじゃんか」
宥めるでもなく、トランが言った。
「ま、そういうワケだから心配すんな」
どういう訳なのか全く分からない神結は、説明してくれそうもないトランではなく、ココロの顔を覗き込む。
気を取り直すようにココロは、
「『エイボン』先生って言ってね。『夜の学校』の教師にして〝魔導〟技術の第一人者なんだ」
「夜の学校――、って定時制のことですか?」
なんとなく呟いた神結に、
「夜の学校ッつッたら、夜の学校だ」
説明も面倒臭そうに、それだけ言い捨てたトラン。
そんなトランをココロが肘でこづく。チッ、と舌打ちするトランは、ふてくされつつも仕方なしに、続きを引き受けた。
「夜にやッてるッて意味では確かに定時制みてェなモンだが、今は学校の説明より〝魔導〟の説明のが先だろうよ。〝魔導〟についちゃ……口で説明されるよりも、目で見た方が分かりやすいか」
サバ味噌の汁だけ残った食器を避けると、テーブルの空いたスペースに腰当てのポケットから取り出したチョークで〝○〟『円』を描く。
円に重なるように一筆書で〝☆〟『星』を描くと、星の五つの角にライター。小石。タバコ。その灰。そしてサバの骨の一片を置いていく。
「ちゃんと後で掃除してよ」ココロの小言を無視して、トランはブツブツと一人言を始めた。
そして、一分程経ったところで。
「……我が求めに応え、火の精よ、その姿を示せ」
その瞬間、星の中心に小さな種火がふわりと灯った。
唖然と見つめる神結の眼前で、トランは星の一角に置かれたタバコに手を伸ばす。
「手品じゃねェぞ。これが『魔法』ッてヤツだ」
星からタバコを持ち上げると、種火はその姿を維持出来なくなったように消えていく。
「魔法ッてのはとどのつまり、ある理由や目的をなす為の手段であり、その結果としての事象に過ぎねェ」
発生させた手段で――目的を成す。消え往く種火で、トランはタバコに火を点けた。
「だが、今見た通りこの程度の火を起こすッてだけでも、陣を形成し触媒を用意し、呪文の詠唱が必要だ。より大きな力を発動させようとするなら、高度な演算を用いての陣の形成に、高位霊力を宿した触媒の必要性、そして長時間による詠唱と、尚更に途方もない労力を用いる事になッちまう。だから、魔法の発動という結果に至るまでの道程をショートカットさせちまおうッて技法をエイボンッてババアが編み出した。それが〝魔導〟。つまり、俺が見せた工程が足し算で魔法の発動へ至るものだとするなら、掛け算、そんでもしくは割り算で至ろうッて方法なワケだ。……コロ」
「はいよっ」ココロが小さく頷く。そして空へと一指し指で円を描いた。すると、少し離れた空に白い射的の的のような図形――〝◎〟『二重丸』が浮かび上がる。
「これが〝魔導〟の基本――〝装飾陣〟」
トランの声を合図に、ココロは右手を持ち上げた。
人差し指から小指までの指間には、先端が鏃状の小さなつくりのナイフが三本。ほんの少しだけココロは瞳に力を込めたが、その表情とは打って変わって右手には力を込める訳でもなく、投げつけるというより軽くスナップを効かせるようにしてナイフを空へと放った。
空に舞ったナイフはしかし、ピタリと一瞬中で静止すると、重力に引きずられることもなく、まさに矢のように飛んでは宙に浮かぶ的を射抜いた。
射的でいうなら七十点とか八十点とかの場所を打ち抜いて、壁に突き刺さったナイフを見やりながら、「ちゃんと後で穴ふさいどけよ」小言を返しつつトランが話を続けた。
「と、まァ、魔導初心者のコロでも印の刻まれたナイフの誘導位置として〝装飾陣〟を組むくらいの事は出来る。経験を積めば、魔法の誘導位置とするだけじゃなく、自身の術式のフォーマットを〝装飾陣〟に予め書き込んでおくだけで、短い詠唱や、なんなら詠唱破棄で魔法を発動する事も可能だ。
陣の基本図形ってのはその魔導師によって決まッてる。それがバレちまえば〝脆弱性〟突かれて新たな加線による図形変化で〝崩される〟ッて危険があッから、そこへの配慮としての秘匿性と、足し算式のモノに比べて発動時間が極端に短いッてのが短所としちゃあるけどよ。ま、誰かを少し幸せにする事も、殺す事も、魔法なら一瞬ありゃ充分だ」
表情一つ変えずに『殺す』という言葉を発したトランから、神結は慌てて目を逸らした。見ると離れた宙に、ココロの描いた〝装飾陣〟はすでに消え失せている。
顔色を窺うように視線を戻した神結は、少し上目づかいでトランに尋ねた。
「あの、それで……そのエイボンさんにお願いすれば、何とかなるんでしょうか?」
トランはあっさりと言った。
「ああ、あのババアにすりゃ、女、お前にかけられた術式なんてものの五分で解いてくれるだろうさ」
ココロと顔を見合わせる神結。ココロの瞳も、神結同様輝いていた。
「やったねカミーユちゃん、じゃあ明日さっそく……」
一際、明るい声を上げたココロだったが、トランが待てをかける。
「それがそうもいかねェんだ。明日は朝イチで仕事が入ッちまッてる」
「トラちゃん、それって『届け物』の仕事?」
「そ、届け物の、『花キューピッド』の仕事、だ」
トランは軽くスマホを持ち上げた。スマホからぶらさがるブードゥー人形が揺れる。それはどこか吊るされた者たちのようで、不穏の象徴にも似ていた。
不穏な夜の気休め、という訳でもないだろうが、トランが続けた。
「夕方までには帰るから、女ァ、お前はそれまでここで待ッてろ。ここにいれば、まァ問題ないと思うが、念の為これを渡しておく」
コルセットのポケットから取り出したものを、トランはテーブルに置いた。それは、彼の双眸と同じ、深紅の色をしたビーダマ大の石。
「この石の名は〝鳩血石〟。これには俺の魔力が籠められてる。自身の力になれと願い、石の名を告げりゃあ、火の精の加護がお前の助けになッてくれる。まァ普通の人間にとッちゃ、コロの言うとおり何の助けにもならないパチモンの宝石に違いねェが、魔術的潜在能力のある人間なら……」
「ちょ、ちょっと待って下さい! だったら普通の人間のわたしなんかが持ってても仕方がないですよっ」
慌てるように神結は口を挟んだ。
しかし、さめざめと嘆息してみせたトランは、「お前にとッちゃ不本意かもしんねェけどな、女ァ……」不穏な夜に、不穏な言葉を紡ぐ。
そしてやはり、それを見守るココロの不穏な夜も過ぎていった。
『惡』夢――、と共に。
☆★☆
一仕事終えた二人がその部屋を後にした時、時刻は既に昼を過ぎていた。
納得するとかしないとか、それ以前に混乱するだけの神結を置き去りに向かった東上野のビル。そこでココロとトランは、花キューピッドの、届け物の仕事を無事に終了させた。
「ああ! 窓に! 窓に!」そう言い終えて部屋で転がった『男』は、しっかりと『女』から贈られた花束を握っている。
ニホンスイセン――花言葉は『自分勝手な愛』。
男の事務所のほど近く、コインパーキングで待っていたモジャモジャ頭の男の車へと、ココロとトランは乗りこんだ。
「『麻里』ォ、お嬢はァ?」
トランが訊くと、アクセルを踏みながらモジャモジャ頭の麻里がぶっきらぼうに答える。
「わざわざこの為ってさんざ言い訳がましく繰り返して、三限目から登校したわっ」
男の事務所で別れるまではいたはずの、お嬢――こと、『美空向日葵』の姿は、フィアット・パンダの車内にはなかった。
父親のコネクションやネットワークを最大限に生かして、小学六年生ながら花キューピッド専属の仲介屋をしてくれている向日葵だったが、どうやらここは学業を優先させたらしい。
――と、いえば聞こえが良いが、麻里の口ぶりからするに、どうやら二限目が嫌いな授業だったから、単に遅刻したらしいとココロは察する。ついでに、向日葵の代理人兼運び屋の麻里は、彼女の専属の運転手までさせられているようだ、とも察した。
今、自身の事務所で気絶する男は弁護士で、彼へと花を贈ったのは、以前に彼を雇った女性だった。そして、彼へと、その花と思いを送り届けるのが、花キューピッドの仕事だった。
救いのない話だった。DV癖のある夫との離婚調停にその女性は心身ともに参っていた。調停もようやく終えてみれば、実にそつなくこなしてくれたはずの弁護士が、今度は彼女のストーカーになっていた。
だから、トランは男の女に対する記憶を消した。男に施した記憶操作の術式は確実に作動し、二人組の侵入者も女のことも、彼は完全に忘れてしまった。
彼の人生において女性との関係性は元々存在しなかったものとなった。今後、彼女に関するキーワードを耳や目にするだけで、脳と心に刻まれたトラウマは無意識の内に彼自身をそれから遠ざけ、目を逸らせることとなるだろう。
術式は完璧に成功した。一応の証拠として、顔バレNGなのでフレームの脇から生えたトランとココロのピースサイン越しに花束を抱えて気絶する男の写メは、向日葵に送ってある。それはもちろん向日葵から女の元へも送られたはずだ。
だが、本当の所、それがなんの気休めにもならないことをココロもトランも知っている。
女はその男個人を恐れていたのと同時に、彼の『弁護士』としての力を恐れていた。弁護士たる彼がその気になれば自分の居場所を突き止めるなど容易い。そう思えばこそ女は姿を消した。そして、これからも一所に留まる事も出来ずに逃亡者のような生活を送るのだ。術式は完璧に成功した。だが、彼女にそれを知る術はない。
どういう経緯を持って彼女が向日葵と接触を持ったのかは、業務上のタブー、つまりは守秘義務の観点からトランもココロも知らされてはいない。
知らされたのは彼女の依頼内容。彼に、自分を諦めさせてほしい――ただのそれだけ。
彼女はこれから一人だけの旅を始める。時間が傷を癒してくれるその日まで……。
車窓から、傾き始めた陽をぼんやりと見上げ、ココロは会ったこともない女性をほんの少しだけ想う。
その後で、思い出してはトランの顔を覗き込むように首を傾けた。
記憶操作の術式は、基本相手の心理の隙につけいることでその確実性を高める。男の心理の隙をつく為、トランが恐怖的演出を図ったように。
しかし橘神結に施された術式には一瞬の目くらましこそあれ、その寸暇はなかった。ゆえに相当に高度な術式が組まれているということらしい。それは男の事務所に押し入る前に、トランからココロが説明されていたことでもあった。
……だが、それなら。
「ねぇランちゃん。そこまで術式のこと解ってるなら、ホントはカミーユちゃんに掛けられた術式の解除も出来るんじゃないの?」
ふとした疑問を口にする。思ったことを口に出し、それでいてなかなかに勘が鋭かったりするのが藤林ココロという人間だった。
トランが渋々と口を開く。
「……アルゴリズム解析は終わッてる、それでも成功率は七割ッてトコだ。そんなんで失敗でもしようモンなら、いろいろ浮き沈みの激しいあの女に悪ィだろ」
満面のココロの笑み。
「なんだかんだでトラちゃん、優しんだから」
「るせェ」むすりとしたトランに、
「えへへ、ゴメン」ココロが悪びれた風でもなく謝罪した。
間もなくして、車は逢魔ヶ通りも目と鼻の先といった路肩に停車する。
二人が降りると、運転席の窓から麻里が顔を出した。細い瞳に、人を嘲るような色が浮かぶ。
「お前ら、馬鹿なんだから、あんま面倒事に首突っ込むんじゃねえぞ」
馬鹿と言われたトランが噛み付く前に、麻里はフィアット・パンダのギアを入れる。
そして去り際、こんな事を言った。
「上の階の住人がメメント・モリを雇ったって噂がある。気ぃーつけな」
人を小馬鹿にして、さっさと逃げ出す。まさに童話に出て来る小ずるいキツネの手際の良さで、麻里はさっさと退場する。
小さくなっていくパンダをココロは見つめた。
〝死〟――。『苦痛』、『絶望』、『沈黙』……、『それ』に想起される十三もの通り名を持つといわれる災厄。不夜城の生み出した最凶最悪にして伝説の殺し屋。
どこかの誰かに聞いたそんなフレーズを思い出すココロを置き去りに、舌打ち混じりにさっさと踵を返して歩き始めたトラン。その背中をココロが追いかけた。
閉ざされたかに見えるシャッター街。昼から一転して夕闇のゴーストタウンにでも迷い込んでしまったかのような、トリックアートの世界。もはや慣れ親しんだ感覚に感慨ひとつ覚えることもなく、トランとココロは自分たちの暮らすビル目指して歩き続ける。
二階建てのビルを目前に控えた時、ふいに扉が開く音とカランコロンというおなじみの鐘の音が聞こえた。
二人の振り返った先、菓子工房ドゥ・フロコンの店先に、いつも以上に険しい顔の店主の厳さんがフライパン片手に立っている。怪訝に思う間も与えず、大柄な厳さんの後ろから半ベソの恵太が駆けてきてココロに抱きついた。
「……あのバカ女」一瞬にして事態を理解したトランが、橘神結が待っているはずのビルの二階部を見上げて舌打ちする。
泣きながら、それでも栗生恵太は必死に言葉を紡いだ――。
小学校から帰ってきて、ドゥ・フロコンの窓越しに逢魔ヶ通りを覗いた先で、橘神結はひょっこりとビルから出てきた。
昨夜のどこか怯えた表情の神結が、一人で逢魔ヶ通りへと姿を現したことに胸が騒いで、恵太は店の外へ飛び出だす。そして、声を掛けようとしたその時だった。
神結の背後に男が二人、忍び寄るのが見えた。金髪のボウズヘアーに顔半分をトカゲのタトゥーで覆った男と、バランスも何も関係なしに顔中にピアスが施された茶髪の男。
神結は一瞬怯んだが、すぐに手にした物を男へと投げつける。それは深紅の石だった。
真っ直ぐに飛んだそれは、タトゥーの男の眼前で火の玉へ形状を変える。
しかし男は動じなかった。簡単にキャッチすると、それをまるで飴でも食べるように口に放り込んだ。
声も出せずに呆然と見つめる神結の腕を男が掴んだ時、もう一人のピアス男が視線を送ってきた。恐ろしく冷たい目をしていた。
恐怖にたじろぐ前に駆け出した。だけど、飛び込んだドゥ・フロコンから父親を連れて戻ってきた時には、二人組も神結の姿も消えていた。
「火の眷属に連なる者――、クソッたれ、『こッち側』の住人かよ」
自身の見積もりの甘さに苛立ちながら、トランが声を上げる。「コロ!」
頷くよりも速く、ココロは軽く持ち上げた右足で地を踏み鳴らした。その右足を起点に黄色い光が四方に走る。それは次々と枝分かれし、やがて人の目にも留まらぬ程の光の線となって地を駆け巡った。
「マズいよ、ランちゃん……」黄色い光が消え往く中にあってココロの不安げな声。
そして続けた。
「……カミーユちゃんが連れてかれたのは……〝不夜城〟だ」