悪津ユエニ 1
ツクリモノじみた月明かりは儚く、カザリモノじみた街はぼんやりと。
息吹すら感じられない佇まいにしかし、それを否定するような街の灯は煌々と。
眩いネオンサイン。天を衝くサーチライト。
そのすべてが、うわべを飾るだけのものであったとしても。
「今夜も屑虫どもで溢れかえってるねぇ」
にぎやぐ街並みに、真紅の紅をひいた唇が小さく動いた。
圧倒的なまでの漆黒が、空を覆った『夜』。それすら誤認させるように、街は音と光で満ちている。
色とりどりのジュエリーボックスは、絢爛たるカジノシティ。わざわざ案内人を雇ってまでやってくる人間たち。求めるのは、快楽にギャンブル、そしてそれ以上の物。この街特有の毒気にあてられた有象無象。もはや病気と呼べなくもないだろうが、そんな屑虫が溢れているからにこそ、この街は相も変わらず、街として機能している。
人間と、人間以外の者たち。互いに価値の異なるモノ。
だが、価値が異なるからこそに成立することも当然ある。
流れゆく彼らをものともせず、女はただ、自らの路を真っ直ぐに歩き続ける。優雅に、そしてどこか浮世離れしたような佇まいと表情で。
やがて街を行く女が、その足を止めた。
女は着物姿だった。背と後ろ袖に三つ紋の入ったそれは礼装用のものだろうに、ゆったりと着崩されている。
葬儀場からふらと抜け出てきたかのような、どこか賑やかな街では浮いて見える全身に纏った黒。背中と後ろ袖にしつらわれた三つの紋は、丸に笹竜胆。だが咲いた竜胆の花弁と垂れた笹の葉の間には、『惡』の文字が浮かんでいる。
艶と若さに溢れた二十代前半といった風体に、やけにシックな黒の着物。そこに世辞のように、いくつかの赤が鮮烈な差し色として入れられている。それは優雅に泳ぐ鯉。だが、月明かりまでも吸い込んだかのような漆黒にたゆたう姿は、華やかさよりも侘しさの方が強い。
夜という名の水槽に囚われる鯉を傍らに、女は見上げる。ネオンの街を。
宵闇に紛れてしまいそうな全身の黒も、街自体が発光する眩さの中ではかえって目立つようだった。
両腕を組み、一際輝く一軒の建造物を左の瞳で見据える。
その建物は、街の瞬きを牽引するべく一層に賑やかな光と音を撒き散らしていた。
女の脇を往来する人の群れ。建物を目指す者たちは、老若男女問わず目をぎらつかせていたが、建物を後に女を通り過ぎる者たちの瞳の輝きは、すべからく失せている。
カジノ――『アンダー・ザ・ローズ』。
女は首をもたげた。
手櫛で適当に流したような黒髪は、零れ落ちそうなオールバック風。所々で乱れた毛先が揺れる。それは彼岸花にも似た姿。必要性も感じられない程、ざっくりと纏められた後ろには、色とりどりの玉かんざしが突き刺さっていた。
雑な仕上がりはともすれば、女を廃れた娼婦のように無様に見せたかもしれない。だが、ネオンの瞬きに煌めく黒髪と、崩れかけのそのさまはピタリと符合していた。背徳の街の住人なればこそといった姿は、どこか女の強い魔性を演出しているようでもあった。
建物の最上階へと視線を移す。前髪の軽くかかった左目。年に不相応な、老獪さを滲ませた単眼を細める――右の瞳は革製の眼帯で覆われていた。
アンダー・ザ・ローズの最上階に何かを見出すなど出来るはずもないことだった。そもそもが、誘蛾灯にも似た眩い光を放出する建物は、偽物の楽園を演出するばかりで『本当』など何ひとつ見せてくれるはずもない。
それでも女は、その内側で繰り広げられる何かに反応するように、瞳を緩める。真っ赤な紅のひかれた唇を、蛇のような舌が這った。
やがて、女はゆっくりと踵を返した。
土地の権利を持つ者。いわば最上階でふんぞり返る絶対者たちは、貪欲だ。下々の者は絶対者の庇護とともに、おこぼれを預かる形で暮らしている。そのこと自体に文句はない。そういう世界でしか生きられない人間というのも往々にしてあるものだ。だから、好いてはいなかったとしても、女はこの街自体に文句はなかった。
絶対者たちが陽光をも我が物とし、建物の中階にあたるこの街には数時間しか陽が差さなかったとして、ここにやってくる屑虫も、ここで暮らす自分ら屑虫も、何の問題もない。それが女の結論だった。
時間の感覚すら喪失してしまいそうな、長い長い夜の街。だから漆黒を切り裂く灯りは、高く、遠くへと向けて照らされる。
そして、決して照らされることのない足元には、敗れし者たちの骸が並んでいる。
勝者生存の街――通称、〝キスアンドクライ〟。
天国に一番近い場所は、たぶん地獄にも一番近い。
権力者たちに見初められ、甘露の限りを味わった後に残るのは、ささやかな幸せになど共感できなくなった体だけ。やがて飽きられても、転売され、しゃぶり尽くされるまで、様々な用途にリサイクルされる。
素晴らしきはエコロジカルな世の中――、女の口元に冷めた笑みが浮かんだ。
往来の激しい通りの脇、彼らが目もくれず通り過ぎるそこには、ほとんど裸同然の若い男や女がいた。長い習慣の果て、お決まりのねだり方で往来へと虚ろな瞳を向けている。
転用の果て、捨てられた者たち――ノラ、と呼ばれる者たちだった。
この街には腕っ節自慢が往々にして居て。だからその理屈によるなら、そいつらの行きつく先は荒事師と相場が決まっていそうなものだ。
だが、世の中、そう上手くは出来ていない。誰かを殺すことなんて簡単な話。殺すことより、人知れず確実に処分する方が肝心なのだ。だからこんな街でも重宝されるのは殺し屋よりも廃棄業者の方だったりする。街で名の通った、本当の意味での殺し屋なんて〝死〟に代表されるようなほんの一握りに過ぎない。
そう。殺処分なんて、言うほど簡単じゃないのだ。転用の果てに廃棄代もケチられた人間が、エコの名のもと、路地裏のノラとして生きていくなんてザラの話だ。
「ここを知りすぎて下に降りられないって事こそが、ホントの地獄かもしれないねぇ」
女は呟き、廃棄寸前の彼らを一瞥する。一瞬若い男と視線が重なった。
下着一枚の姿に逞しい体つきの男が、媚びた笑みを浮かべながら四つ這いで近づいてくる。
女は溜息をひとつ吐くと、愛玩動物の習性で縋りついてきた男の顔面を蹴りあげた。
きゃん、と悲鳴を上げて転がる男など気にも留めず、女はさっさと視線を移す。
腕組をほどくと、左の小袖へと伸ばした右手を引き抜く。女の右手は黒い革のグローブで覆われていた。それは黒色の包帯でグルグル巻きにしたような作り。その手で取りだした禁煙用のパイプを咥えて、左の奥歯で噛みしめる。
通りの光景を確認するように、もう一度だけ眺めた。
この数日、目に留まった赤毛の女。その姿はもうないようだ――、大して珍しくもないその結論へと至る。
昨日までここにいた廃棄寸前の女など、別に気にするものでもない。それが当たり前の世界だった。今は、どういう形にしろ、需要がある者の元へと連れていかれたか、下の階へと降ったか。もしくはこの地獄から真の意味での『解放』を得たか。どうであれ、ここではさも珍しくない話。
とはいえ、だ――。ノラの集団に混じった、その女のことを思い出す。
あの赤毛の女は、はたから見ても綺麗な顔立ちだったし、スタイルも申し分なかった。どこまで仕上がっているのかは分からないが、まだ開発のしがいもあったろう――
「――売り物になったかもしれないねぇ」
いろんな味を覚えさせて、苦痛と快楽の区別もつかない混沌の中、永遠に縛り付けてやるのも悪くない。
『造形師』にでも預けて、アタシの顔を見るたびに嬉ションするくらいに仕上げてもらえば申し分もないだろう。商売人の口ぶりに、しかし背徳めいた想像を巡らせて、くつくつと笑う。
その後で、ふと気がついた。
辺りには、甘い香りの名残が微かにあった。
ふんと鼻を鳴らすと、禁煙パイプを大きく吸って何の色も付かない息を大きく吐く。
パイプを転がす口元が緩んだ。
だが、それは先ほどまでの笑みとは質の違うものへと変わっていた。たかが禁煙用のパイプに、苦さの付きまとうような……。
と、ふいに女の後ろから声が聞こえた。
「――あれシャッチョ、懲りずにまた禁煙始めたんっスか?」
振り返るとそこに、女子高生風の少女が立っていた。
短めのセーラー服。太腿も露わに、伸びた両の足にはルーズソックス。制服の差し色とスカートはビビッドなピンク色で、同色のセーラータイがひらめいている。その上に、灰色のパーカを羽織り、ネズミの耳みたいな飾りのついたフードを被っていた。
これまたビビッドピンクなショートヘアーの下、大きな瞳で女を見つめるその姿は、外人のコスプレにも似た不自然さだった。
「『蜜飴』、何してんだいアンタ?」
呆れ顔の女の問いに、
「仕事熱心なアメコは、シャッチョの護衛に決まってるじゃないっスか」
ネズミパーカのポケットに両手を突っ込んだまま、女学生風はあっけらかんと答える。
「何度も言ってるじゃあないか。アタシには『銀足』氏が付いてるって」
女が言うと、街のネオンを浴びる女の影が揺らめく。いつの間にか、女のすぐ横に寄り添うようにして、白いレインコートのフードを目深に被った小さな影が現れる。
「『ユエニ』、蜜飴には何を言っても無駄だ」
それは少年の声だった。紛れもない、子どもの体躯から発せられた少年の声。だがその言葉の端々には、窘めるような、年長者じみた重さが垣間見える。
「あぁーアメコのことぉ、銀足さんがバカにしたぁーっ」
女学生風が頓狂な声を上げた。
怒りの表現らしく頬を膨らませてみせたが、色白の頬はほんのり赤くなるばかりで、それが伝わる様子もない。どこか寒風の中で駆けずり回る雪国の幼子を連想させた。
身の丈に合わないコートから突き出た小麦色の足。ハイカットのスニーカーが小石を蹴る。
「蜜飴、お前ひとの話聞くつもりないだろう」
少年の当てつけのような言葉は、床を転がる小石と共に女学生風へと届けられる。
「そんなことねっスよ、アメコちゃんと聞いてるっスよ」
「ならば、護衛などしなくて良いと理解できるはずだろう。そもそもお前は戦闘要員じゃないのだから」
「アメコだって戦闘くらい出来るっスもん。気配を断つのだってホントは得意だから護衛だって出来るっスもん。アメコ天才っスもん。何やらせてもそれなりに上手いっスもん。床上手っスもん。なのに銀足さんなんて、アメコよりちょっと有利なくらいでそんな偉そうにしてっ」
「有利も不利もなにも、そもそもお前は、護衛の仕事が何たるか分かりもせんだろうが」
「分かってるもん、アメコ分かってるもん。だけどアメコ、銀足さんみたく色黒じゃないから、気配を断つのとかちょっとだけ不利なだけだもん。アメコだって黒ギャルになりたかったっスよ。だけどアメコ、メラニン色素が薄いから焼いたってヒリヒリするだけなんスもん」
「そういうことではなかろうがっ」
白いフードとネズミのフードのやり取りに、女はさめざめと嘆息した。
二日目にして早々と諦めかけた禁煙に、自販機でも――と視線を巡らせた矢先、見知った顔が映る。女が小さく舌打ちする頃には、レインコートの少年、銀足の姿は消えていた。
「おお、悪津の」女へと真っ直ぐ歩を進めながら、その男は言った。
初老といった様相の男は、杖を握っていたがその必要性を感じられない程に足取りはしっかりしている。そして街の灯に鈍色に輝くその杖も、杖というより鉄パイプじみて見えた。
仕立ての良い三つ揃えのスーツ姿。白のまじる髪を後ろに撫でつけ、口元には髭を蓄える。品の良い老紳士といった風体に、鉄パイプ風の杖だけが明らかに浮いていた。
「しばらく会合にも顔を見せないから心配していたよ、悪津の」
スーツ姿の若衆を後ろに、男は女へと微笑んで見せた。それは久しぶりに会った孫娘と好々爺のやり取りにも似ていたが、その瞳はまったく笑っていなかった。
「すみません、商会の仕事が忙しくて『玩木屋』の大叔父にもなかなかお会いできませんで」
女も応じるように笑む。だが、やはりその瞳も笑ってはいない。
玩木屋と呼ばれた男は、元気で何より、と小さく頷いてみせながら快活に笑った。
「のう悪津の、いや『ユエニ』や。たまには顔のひとつも見せてくれないと、老いぼれの私は忘れられてしまったのじゃないかと不安になってしまうよ」
女は顔に笑みを張り付けたまま、内心で溜息を吐く。
女は知っていた。男が、『玩木屋畜禅』が自分を下の名で――ユエニと呼ぶ時、それが何を意味しているかを。普段は歯牙にもかけない癖に、こうして『後見人』たる存在と権利をひけらかすのは、面倒事が発生した時なのだということを。
女は理解していた。背徳の街で古売屋を始めた先代『悪津商会』の父が殺され、幼かった自分が跡を継ぐ段に、玩木屋を始め『組合』の重鎮三名が自身の後見人になってくれたのが、同情でも何でもないということくらい。小娘ならば与しやすいと踏んでのことだというくらい。
だがそれから時も経ち、この街における立ち位置も随分様変わりした。代替わりして十年、悪津商会は古売屋の域を超え、この街の天秤に影響を与える程の存在へとなりつつある。
〝不夜城〟の最上階に君臨する絶対者の庇護を受ける者たちと、その他の勢力。有象無象のバケモノどもに搾取の限りを尽くされてきた者たちが、自衛のため、そして少しでもこの街で優位に立つために結束した集団――『組合』。
女にすれば、組合内の古参とはいえ、もはや時勢に取り残されつつある『調教屋』の顔色を窺う必要もないことだった。だからこそ……、
面倒なことを言いだす前にもはや玩木屋など消してしまっても――、影の奥から聞こえた銀足の進言に僅かに揺れる。
だが一瞬の思案の後で、結局女はこう言った。
「で、どうなんです、大叔父はお変わりないんですか?」
玩木屋は虫も殺せぬ老人のか弱さで、力なく話す。
「それがちょっと困った事になってしまったのだよ」
わざとらしく目を瞬かせながら続けた。
「実はある顧客から『知育玩具』を預かってたんだが、それが再調整寸前に逃げ出してしまってね。探させてはいるんだが見つけられずにいるんだ」
玩木屋はうなだれてみせたが、女は感慨もなく口を開いた。
「たかが知育玩具のひとつやふたつくらい、大叔父なら替えの品を提供するくらい訳ないことでしょうが。それももっと目新しい新品で返すことだって出来るでしょうに」
さらりと言った女へと、玩木屋は薄暗い眼を向ける。
「ユエニ、事態はそう簡単じゃないんだよ」玩木屋はどんよりと落とした声音で継いだ。
「その知育玩具の持ち主は、ジャガーノートだ。お前も知っての通り、ジャガーノートのバックにはアンダー・ザ・ローズの主、『黒薔薇』の連中が控えている。それを考えればおためごかしな別の品でごまかせるものでもないだろう」
「ジャガーノート?」女は左の眉尻を上げた。
「ジャガーノートが扱ってる品の調整は、たしか『兄弟』が専属では?」
『兄弟』という単語に、玩木屋の瞳がみるみる厳しくなる。理解していた上での一言ではあったが、玩木屋の気持ちが手に取るようで、女は内心でせせら笑った。
『兄弟』は〝キスアンドクライ〟では新参者ではあったが、腕の方は確かで、今や開発、調教、改造の三種兼業を総合的に行う『造型師』の代表格として、この街でその名を知らぬ者はいない。
肉体改造を専門とする『改造屋』。精神に作用し性格そのものを変容させる『開発屋』。外科的にしろ、精神的にせよ、医療的な分野のスキルが必要とされる両職種に比べれば、特別な、いわゆる資格的ノウハウを必要としない『調教屋』は易い稼業と呼べなくもない。ゆえに、玩木屋は一代で成功を収めることが出来た。暴力であれ、快楽であれ、〝魔法薬〟のような外因子の助けさえあれば、この街でしか生きられないからだに調教することなどそう難しい事ではないのだ。
餅は餅屋。三種の稼業が相互に機能していた頃、確かに玩木屋はこの街の顔だった。
だが、時代は移ろいゆくもの。盛者必衰の理によるなら、致命的。勝者しか生存できない街であれば、尚更に。今や時代の潮流は、三種兼業の造形師へと傾きつつあった。
みすみす新参者に客を奪われた玩木屋一門を束ねる調教屋の棟梁には、もはや『知育玩具』の生みの親、といった栄誉くらいにしか残されていない。
それでも、血よりも濃い絆――利潤と言う名の強い絆で結ばれた、マガイモノのファミリーの一員であることに変わりはない。ゆえに組合内では、古参の幹部たる玩木屋に気を使い、『兄弟』という言葉は禁句となっている。
唇をわなわなと震わせながらも、玩木屋は答えた。
「預かりの品は昔から私が見ていたのだ。あんな若造どもがやってくる以前から、私が専属で見ていたのだ」
唇と共に、玩木屋の体は端々まで震えが広がっていく。
扱っていた理由。それが、『兄弟』が来る以前の、まだ自分が全盛期だった頃から扱っていたというだけの事実――仔細を伝えるためとはいえ、自らの告白は本人が思っていた以上に屈辱だったらしい。恥辱にまみれた老紳士は、顔を赤らめ、怒りに震える。
ベルトにあたりカタカタとなる鉄パイプに、後ろに控える玩木屋一門の若衆の顔はどんどんと青ざめていった。宵の街で読みづらい連中の顔も、見れば所々に真新しいアザの跡が見て取れた。上面を剥がした老紳士と、青アザだらけの若衆たち。そこからの推理は実に簡単だった。
とはいえ、これから始まるお仕置きの時間につきあってやるつもりなんて毛頭ない。女はうんざりしながらも先を促す。
「それでどうするつもりなんです?」答えを知りつつ、訊いた。
〝不夜城〟の巨魁、拮抗する三つの勢力に迫らんとした次代の勢力――『黒薔薇』の一族。時代というレールに取り残されないためには、権力者との繋がりを絶やす訳にはいかないはずだ。
厳しい瞳で、まるで睨みつけるように玩木屋は言った。
「幸か不幸か、この数日ジャガーノートとは連絡がつかない。それならば、だ。ジャガーノートと連絡がつく前に、知育玩具を連れ戻す他にないだろう。ヤツが気付く前に連れ戻しさえすれば、そもそも最初から問題なぞ起きなかった事になる」
随分と苦しい解決策だねぇ――、もはや女は隠すことなく口元を緩める。
「それで、つまり?」莫迦莫迦しさを歌うように、女は尋ねた。
「つまり、分かるだろう? ここまで言えば。うちの一門で捜索の手は足りている。だが残念ながら、圧倒的に情報だけが足りないのだよ」
「つまりアタシんとこの情報を寄越せ、と?」
「悪津商会は古売屋。売れるなら形があろうとなかろうと、何でも取り扱っているだろう?」
「そりゃまあそうなりますがねぇ。で、大叔父、そいつをアタシが提供したとして、アタシにはどんな見返りがあるんで」
「おいおい、まさか後見人たる私にたかろうってんじゃなかろうな」
玩木屋から好々爺の顔が消え失せる。眼光鋭く女を睨みつけた。
「いくら後見の大叔父とはいえ、商売人と客の了見を違えちゃあいけませんよ」
女は眼前の火の粉をさも愉しげに眺めていた。左の単眼を爛々と輝かせ、真紅の紅がひかれた上唇を嘗める。
獲物を捕食する寸前の蛇にも似た、その所作に玩木屋が声を荒げる。
「小娘が!」
棟梁の怒声に弾かれるように、一門の若衆が前に出る。総勢四名、揃いのスーツの胸元から煌めく刃が顔を出す。匕首。四本の刃先は迷いなく女に向けられている。
調教屋の基礎中の基礎たる、条件反射の象徴。若衆を恐怖のどん底に叩き落とす鉄パイプをひけらかし、玩木屋が下知を飛ばす。
だが……、
「自分の身の丈というものを体で思い出させてくれるぅ……ふっーん」
なんとも脱力感満載な言葉尻に、若衆は顔を見合わせ、棟梁へと視線を移す。
「やめ、やぁめんか、蜜飴、そこ、そこわぁーん」
玩木屋の顔を蜜飴が舐めつくしていた。
「玩木屋さんの顔の塩梅は怒り六割、とんがらし二割に、お味噌二割っス。ずばり今日のお昼は味噌チゲ定食だったっスね」
言い終えないうちに、今度は玩木屋の右耳にベロを突っ込んだ。
「あっ、玩木屋さん、べた耳っスね。アメコべた耳けっこう好物っスよ。べたの味から察するに、玩木屋さんの内心は焦り六割、恐怖四割っスね」
悶絶する棟梁へと若衆が駆け寄り、蜜飴を引き剥がす。それでも右はおろか左の耳垢まできれいにされた後だった。
「お、おま、蜜飴、なんのつもりら、このバカナメがっ」
玩木屋は怒声を上げたが、どこか恍惚としていて、呂律もいまいち回っていない。
蜜飴はきょとんとして言う。
「バカナメじゃねっス、ナメコ、〝アカナメ〟っスよ。玩木屋さん怒ってるぽかったから、アメコのスーパーな舌技ですっきりしてもらおうと思ったんじゃねっスか。出来るアメコのスーパーな気遣いじゃねっスか」
そのやりとりに、女は声を上げて笑っていた。
「知ってましたか、大叔父。人の家に勝手に忍び込んで風呂の垢を嘗めてる印象の〝アカナメ〟ですが、実際の主食はその人間の残した特有のもん、感情だとか記憶だとか、なんてんですかねぇ、言うなりゃ固有の人間らしさとでもいうヤツらしいですよ。元来が戦闘向きの種族じゃないから、危機回避のため誰もいない風呂垢に残ったその残滓を嘗めてるだけの話で、〝アカナメ〟いわく本来なら直接嘗めた方が感情も記憶も新鮮だし美味いんですと。非道を絵に描いたような大叔父ならば、良いダシも出てるでしょうしねぇ」
「ユエニ、おまっ、下の躾けはどうなっとるんだっ!」憤然とした玩木屋が声を荒げるのも無視して、女は笑い疲れるまで笑い続けた。その後で、
「大叔父、今回は面白いものも見られたし、お代は結構ですよ」
左の目じりの涙を拭いながら言った。
「おお、そうかそうか」玩木屋の顔が見る間に明るくなる。
「時にユエニ、本当にあるのだろうな情報は。さんざん勿体っぶったあげく……」
玩木屋の言葉を制するように、女は――、
「値の付くものならなんだって、てぇのが古売屋の信条。悪津商会にはなんでも取り揃えてありますよ。情報だろうがなんだろうが、ねぇ」
――『悪津ユエニ』は、言った。




