橘神結 1
「クソッ! クソッ! あのガキどこ行きやがった‼」
黒塗りの路地に、怒号が響く。
共に黒のロングコートを纏った二人組。声を荒げるのは、金髪のボウズヘアーに、トカゲのタトゥーで顔の右半分を覆った男。もう一人の男は、色褪せた茶髪に、顔中バランスも関係なく幾つものピアスを付けていた。
しばらくとりとめも無い口論を続けた後で、二人の男たちは走り始める。
「――もう大丈夫だよ」
物陰に隠れる少女にその声がかけられたのは、二人組が通りの奥へと消えた頃だった。
スラリとした人影が身を起こす。
立ち上がった後で、栗色の長髪を後ろで束ねた髪留めの鈴が思い出したように「リン」と鳴った。
身の丈に合わないブカブカのパーカを着た、見上げるほどに背高の彼は、人懐っこい童顔で微笑んでいた。
少年とも青年ともつかぬ『彼』に手を引かれ、立ち上がる。暖かい掌。怯える少女が握ったそれは、無我夢中で逃げ込んだ暗闇で、差し伸べられたただ一本の救いの手だった。
いまだ止まぬ震えと力ない足取りに、少女がふらつく。そのからだを彼が抱きとめた。
彼の温もりの中で一瞬放心して、「す、すいませんっ」彼女は慌てて身近に手をつく。
と、彼女は先刻まで身を隠していた物の正体に気づいた。
路地の闇で、言われるがままに身を隠したそれは、リヤカーのように人力で引く屋台。
夜店の屋台にも似たその店舗部分に、しかし氷菓子だとか、チョコバナナのような類の物はない。そこには、いくつかの小さな小瓶と色とりどりの花が敷き詰められている。
花の香りに、心が安らいでいく。そして、恐怖にしか支配されていなかった感情に、僅かながら変化が生じていく――それは『不思議』に惑う感覚。
思えば、屋台の裏に身を潜めただけで明らかにマトモじゃない二人組をやり過ごせたのも不思議なら、通りの先に広がる景色も、そしてこの通り自体不思議だらけ。
お世辞程度に夕暮れ時の、沈みゆく陽光が差し込む薄暗い通り。おそらく傾舞奇町の区画と区画を繋ぐであろうこの通りは、つまりは抜け道になるはずだった。
しかし、この通りへと足を踏み入れる者は誰一人としていない。通りの先の煌びやかな道を行き来する人の群れは、まるで視界にすら入らないように素通りしていくだけ。
「いったい……ここは……?」
うわ言のように疑問を口にした少女へと、すぐ傍に立つ彼が口を開いた。
「ここはね、『おうまがとおり』って呼ばれてるんだ。一応、江戸時代の参勤交代の度に、ここを大名やらを乗せたお馬が通っていたからだって言われてるけど……」
少しだけ口をつぐんだ彼を見上げるようにして、小柄な少女は大きな瞳で見つめる。彼女に見劣りしない、彼のつぶらな濃褐色の瞳とが重なる。
「……丑三つ時って言葉知ってる? ここはいつでもそんな状態らしくて、その感覚のない人……つまり、見える人しか入れない通りなんだ。だから魔が逢うと書いて『逢魔ヶ通り(おうまがとおり)』とも呼ばれてる」
逢魔ヶ通り――。初めて耳にする単語を、少女は反芻する。
「そんな不思議な場所じゃ不思議な力の〝カカリ〟も特別らしいよ。『水仙』の花言葉は『神秘』。数多の神秘の影に隠れれば、人目をやり過ごすのもそんなに面倒じゃない、ってね」
彼は色とりどりの花の中から、白色の切り花を一本抜き取ると、少女へと差し出した。
「オレは『藤林ココロ』。花キューピッドやってるんだ、ヨロシクね」
『花キューピッド』という言葉にリヤカーをちらと見ながら、戸惑いつつも少女は、
「わたしは、カミユ――『橘神結』です」
その切り花を受け取った。
二人は、全長百メートル程の逢魔ヶ通りを並んで歩き始める。
リヤカーを曳くココロの足取りに合わせて、彼の後ろに結った髪の毛が犬のしっぽのように揺れていた。
ふわふわの毛並をしたパピヨンだとか、ポメラニアンだとかを連想させるそれに導かれて、神結は歩く。ココロの足取りはゆったりとしていたが、脚長の歩幅に、神結はとたとたと追いすがった。黒いタイツには伝線の後も生々しかったが、滲んだ血はすでに乾きつつあった。
「えっ? 高校生なの!?」自己紹介の後、それがココロの第一声で、神結はほんのちょっと困ったような苦笑を浮かべる。そう言われるのが常といわんばかりに、少女の対応は手馴れたものだった。
あらたまるでもなく、「それで、一体どうしたの?」さもなく尋ねたココロ。
神結は自らに起こった、いや、今も起こっている不思議な、そして恐ろしい現象について説明を始める。
正直に言えば、自分自身に起こった出来事を神結も理解出来てはいなかった。だから、上手く説明も出来なかったし、根底では他人に伝えた所で馬鹿にされるか、変な目で見られるかのどっちかだろうと諦めてもいた。
それでも、たどたどしくもすんなりと話す気になれたのは、今はまだ神結も半信半疑であっても『ここ』がそれを話しても許されるような、薄気味悪いながら不思議な空気に満ちていたから。そしてそれ以上に、全てを受け入れてくれるようなココロの人なつこい笑顔に、自身でも思いがけぬ程にあっさりと心を許してしまっていたからに他ならなかった。
そして話し終えてのち、神結が一笑に付されることはなかった。
真剣に耳を傾けていたココロは唸りながら、「トラちゃんに相談すれば……」とか、「ランちゃんだったら何とかしてくれるかも」頭を悩ませている。
――どっちかの人に相談したら、何か良い対処法を教えてもらえるのかな……?
そんなことを神結が考えていると、ありきたりな、そして少し古めかしいジェスチャー。クリーム色の裾の中に隠れた右の握り拳と左の掌をココロは打った。
「よし、やっぱりトラちゃんに相談しよう」
――相談の相手は、トラちゃんの方に決まったのかな。
ぼんやりと見つめる神結の脇で、ココロはリヤカーと押手の間に身体をすべらせる。
「任せといて、助けてあるからねっ。さあ、行こう」ココロが告げ、リヤカーが動き始めた。
ココロがトラちゃんと呼ぶ人物は、逢魔ヶ通りの端にあるパン屋でバイト中との話だった。
――閉じられた店舗の並んだ通りで?
眉をひそめつつも、神結は歩き始める。
と、その時だった。夕刻以上の宵の闇を醸し出していた通り、そこに定時きっちりの夜の訪れを知らせるように、等間隔で並び立つ街灯が灯っていく。
それは、歴史の教科書に載る明治とか昭和の初期とかを連想させる、ガス灯にも似た淡くおぼろげな灯り。
正直、それで通りの風景が一変する事もなかったが、神結は気がついた。
――潰れてる訳でも、シャッター街でもない……?
通りに並ぶ店舗は、その全てが古めかしく、すえた雰囲気を醸し出している。
だが、その全ての店内には商品が平然と並んであった。それは八百屋や肉屋であり、雑貨屋であり……。
神結が顔を向けると、びっくりした? とでも言うようにココロは口元を緩ませている。
しかし、一転その表情に少しの曇りが差すと、ココロは歩みを止めた。
ココロが見つめる先へと神結も振り返る。通りの中心地、そこにはひとつだけ何の変哲もない、しかし、不安を煽り立てるような色濃い影がそびえていた。
それはまごうことなき一軒の廃ビル――。
不穏に、胸の内がざわめき始める。
立ち尽くす神結へと、ココロが口を開く。父親が子供を諭すのにも似た厳しさで。
「あれこそは――〝不夜城〟。異名や例えなんかじゃなくて、本物の〝不夜城〟。カミーユちゃんは、あそこに一人で近づくような真似しちゃいけないよ」
まもなく、二人は目当てのパン屋へと辿り着いた。
おとぎ話に出てくる丸太小屋のような小さな店には、『菓子工房ドゥ・フロコン』と記された看板が控えめにぶら下がっていた。
程なくして扉が開き、奇妙な組み合わせの二人が姿を現した。
一人は、上等にしつらわれた紺色の制服の上にポンチョを羽織った少女。柔らかな栗色をしたショートヘアーの彼女は、これまた高級感漂う赤色のランドセルを背負っていた。
その後ろに立つのは、ひょろりとした体躯の男。薄汚れた、オリーブ色のモッズコートを着た彼は、バケットの覗く紙袋を抱えていた。二十台前半といった若さだろうに、癖の強い髪の毛はモジャモジャで、細面に無精ひげを生やしている。
笑っているような細い瞳に、しかし覗くのは疑り深い老人にも似た色。それはどこかずる賢いキツネを連想させた。
ココロと神結をくりとした瞳で見比べた後、小首を傾げてニコリと微笑んだ少女は、
「ごきげんよう」
縁も所縁もなさそうなモジャモジャ男を連れて、通りの闇に消えていった。
二人の姿を見送った後で、「じゃあ入ろっか」ココロが促す。
備え付けの鐘を鳴らしながら神結がドアを開くと、小さな店内のショーケースの奥からぬっと人影が姿を現した。
縦にも横にも大きな体躯。ボウズ頭に口の周りを囲んだヒゲ。いかつい容貌のオヤジは、無言のままで小柄な神結を見下ろす。
店の入り口で神結は固まった。
それに気づいたように、そして無言のオヤジの代わりのように、その後ろからひょっこり頭を覗かせた人影が、「いらッしゃい」と声を上げる。
店の呼び込みとしては何ともやる気のないものだったが、その薄く小さな唇から発せられた声音は、どこか人を引き付けるハスキーヴォイス。
神結の前までやってきたその人物は、身長百六十センチに満たない小柄な神結が少しだけ見上げる程度の背の高さ。エプロンの下の黒色のシャツとパンツは、細みの身体に張り付くバレエダンサーとかフィギュアスケートの選手を連想させる衣装で、女性的な身体の線を鮮明に映しだしている。
前髪が少し重めの漆黒のショートヘアーはサラサラで、そこから覗く左の耳たぶにはゴツゴツとした形状のいくつもの面を持った、鈍く輝く黒色石のピアスをしていた。
長い睫毛。世の女性以上に女性的な容姿に、双眸に浮かぶのは息を呑む深紅の色。
その瞳に釘付けになる神結の後ろから、ココロの元気な声が響く。
「トラちゃん、お客さん連れてきたよー」
ちらと逸れた深紅の双眸。ココロの顔を一瞥するや、その美しい形の唇からはあからさまな溜め息が漏れた。
「なんだ、コロかよ。ッてか、さッき別れたばッかだろが」
「えへへー、ゴメン」ココロのどこか他人事の返答を見るでもなく、深紅の瞳の持ち主は、「で、なに、コロの妹?」伝線の目立つタイツに薄汚れた制服の、ちょっぴり未発達な神結をちらと眺めて言った。
「んな訳ないじゃん、オレの境遇くらい知ってるだろ」
真顔での冗談に、真顔で返すココロ。真っ直ぐな返答に、面倒くさそうに頭を掻いて、
「一息つくまで、なんか食べて待ッてな」
真紅の双眸の主の、実に投げ槍な言葉を受けてなお、ココロは「やったー」と喜ぶ。
そんな二人のやりとりを、神結はきょとんとしたままで見つめていた。
パンがメインの菓子工房ドゥ・フロコンのショーケースには、四種類だけケーキが並んでいた。
そこからココロはモンブラン、神結はショートケーキのセットを注文する。
この数分、いまだ強張ったままの神結に気づいたココロが、ひそひそ声で耳打ちする。
「大丈夫だよ、お金の心配はしなくて。ああ言ったからにはランちゃんのおごりだから」
「はあ……」呟く神結。二人の間の微妙な空気に気づくでもなく、ニコニコと笑顔のココロ。そんな二人の丸テーブルへと、小学校の中学年といった男の子が、お盆を持ってやってくる。
ケーキとコーヒーをテーブルに並べる男の子を、ココロが紹介してくれた。
「ここの店長、厳さんの息子さん、栗生恵太くんだよ」
空になったお盆を胸元に抱えると、父親に比べ大分愛想の良いショートヘアーの男の子は照れたようにペコリと頭をさげる。
「初めまして」と笑顔を向ける神結を見ながら、
「厳さんも無口だけどすごく良い人だから安心してね」ココロが付け加えた。
恥ずかしながら――と肯定するように再びお辞儀をして、少年は店の奥へと駆けて行く。
テーブルに並べられた二種類のケーキは、そのどちらもが小さな宝石飾りを思わせるような、見た目にも手の込んだ物だった。
バランスよく乗ったイチゴとホイップクリーム。計算されつくされた繊細さは、いかつい店主の厳さんには似つかわしくない気がした。だけど――人を見た目で判断してはいけません。誰かのそんな言葉を思い返しては、神結はその思いをぐっと飲み込む。だけど、それを誰に言われたのか『思い出せない』自分に気づいては、どうしようもない悲しみに襲われた。
それを表に出さず、自身をごまかすように神結はショートケーキを口に運ぶ。
瞬間、幸せが口の中に広がった。
お世辞などではなく、そのショートケーキは本当に素晴らしいものだった。甘さのバランスとか、クリームやスポンジの舌触りだとか、もったいぶった例えなんてどうでも良かった。それは神結が今までに食べたショートケーキの中で最高の逸品だった。
だから言葉なんて何もいらない。美味しい物を食べて幸せを感じられるなら、今この一時だけでも悲しみを紛らわせてくれるのなら、それで十分だった。
気づけば、寒さも厳しくなりつつある十二月の街を駈けずり回って上気した体温も、汗の引きに応じて冷えきっていた。それでも人の温もりと湯気の昇るコーヒー、そして小さな幸せが、自分の芯に染み入るのを神結はまだ感じることが出来た。それが救いだった。
そんな神結の心境に気づいたかどうかは定かではない。それでもふいに声が聞こえた。
「大丈夫だよ」
この日何度目の「大丈夫」だろう。だが、微笑むココロの言葉に安っぽさはない。
神結がはっきりと「うん」と頷くのを見て、ココロは話し始める。
そのほとんどは、トラちゃんはすごい人だとか、ランちゃんに任せれば間違いないとかいう話だった。なんとなく相槌を打っていた神結は、そこでようやく気がついた。
「あの……トラちゃんも、ランちゃんも、さっきの人ですか?」
その問いにココロは実にあっけらかんと答えた。
「うん、そうだよ。結構長い付き合いになるけど、まだどっちで呼ぶか決めかねてるんだ」
あまりに迷いない返答に、神結はつい声を出して笑う。
ようやく緊張の糸が途切れた神結を、今度はココロがきょとんとしたままで見つめていた。
ココロの話によれば、神結が最初見た時、女性と信じて疑わなかったあの深紅の瞳の持ち主、「トラちゃんランちゃん」は男性なのだという。
――王子様みたいだな……。何となくそんな風に思った神結が、彼が『ヤサグレ王子』であると思い知らされるのは間もなくしてのことである。
続くココロの話を聞きながら、神結の脳裏に新たな疑問が浮かぶ。
先刻の薄暗がりではおぼろげに見えていたココロの顔は、店内の照明の下ではより一層幼く映る。一見、正面からは活発そうなショートヘアーに、だけど長く伸びた後ろを結った髪の毛は栗色。
つぶらな瞳は、それよりも濃い焦げ茶の色。そして無邪気すぎるほどの笑顔――それは少年としか形容しようにないような……。
見上げる程の長身だから、年長だと思っているだけで、本当の年齢は分かっていない。
――同年代の男子との接触もあまりないし、もともとうわべで人を見る目も持ち合わせてはいない。身長にしたって自身のクラスだけでなく、学年全部合わせても一番小柄な自分をスタンダードとして捉えること自体間違っているような気がする……。
神結はその疑問を口にしようとしたが、それより先に、店の奥から答えがやってきた。
エプロンを外した細身のシルエットは、皮製のコルセット状の腰当て、その前部の紐の結び目を直しながら歩いてくる。
腰当てのせいで更に細く見えるシルエットは、より女性的。腰当ての左右に付いたポケット、その右部には縒った手芸糸に両手足をビーズ玉で留めた、色とりどりの天然石を頭部に見立てた五体の人形がぶらさがっていた。
そして、左のポケットから流れるようにチョコレート色の長方形を取り出す。無駄などまるでない、優雅ささえ感じさせる手際でそこからタバコを一本引き抜くと、同様に取り出したジッポライターで火をつけた。
一瞬だけ怯んだ神結だったが、彼がゆっくりと吐き出した煙からはタバコ特有のヤニ臭さはない。紫煙からは、バニラと何かの花の香りが混じったような甘い匂いがした。
――これほど自然にタバコを吸う人が自分と同じ未成年のわけ、ない。
納得する神結の前で、
「灰沢トランだ、よろしく」
ハスキーヴォイスの彼は一応の挨拶はしたものの、別段握手を求めるようなこともせずにココロの方へと向き直す。
そして。
「でェ、コロ。何がお客さん、だよ。面倒ごとに巻き込まれてる感満載の幼児体型の妹キャラじゃねェか。また馬鹿馬鹿しいお人好しか? ボランティアの人助けも、くそッたれなタダ働きもなしだッて言ってんだろ」
遠慮もなしに吐き捨てた。人生を斜に見るような実にヤサグレた物言い。
それにココロが噛み付く。
「だって、カミーユちゃんは困ってるんだよっ! 困ってる人は助けてあげなきゃ!」
「幼児体型の人助けなんかしたトコで自己満足しか残らねェだろが、いるかよそんなモン」
「それでも見てみぬ振り出来ないだろっ!」
「それで痛い目見たばッかだろが」
ココロの反論の芽を次々と論破し潰していくトランと、最終的にお金じゃないだろ、と精神論にすがるココロの討論はその後五分以上続いた。
出口の見えないやりとりに、二人の視界から一線離れた場所で、か細くも上がった声。
「わたしの悩みを解決するのは、無理だってことくらい分かってますけど……」
神結の一声。ちょいちょい出てきた『幼児体型』には触れないことにした。
あなたには出来ないだろうけど――、そう言われて少しだけ眉根をつり上げたトランが、神結へと視線を移す。もちろんそれには気づかないふりをした。
「……お金ならあります。もちろん大金じゃないけど、それでもわたしの全財産」
キャメル色のブレザーの内ポケットから取り出したのは、二つ折のベージュ色の財布。そこから一万円札を引き抜いた。
「協力してくれるならお支払いはします」
口ではさらりと言いつつも、自身の『切り札』から神結は紺碧の瞳を離せずにいる。
――お母さんにも教えてない、わたししか知らない秘密、これは……これは……
「――〝魔法のお金〟、か」
ふいに響いた声に、驚いたのは神結の方だった。まるで自分の頭の中を見透かしたかのように告げられたそれは、灰沢トランのハスキーヴォイス。
短くなったタバコを吸ってはゆっくりと煙を吐く。その後でテーブルの上の灰皿でタバコを揉み消しながらトランが言った。
「さすがに腹も減ッたしな。……ま、話はメシでも食いながら聞くとするさ」
☆★☆
ココロとトランの住居は、菓子工房ドゥ・フロコンの斜向かいにある二階建てのビルだった。とはいっても、その外観は、お世辞にも綺麗とは呼べそうにない。
ビルの脇には出入り口があったが、リヤカーを引くココロはそこを通過し、ビルの前面にあるシャッターを押し上げる。リヤカー搬入用の出入り口であろうそこは、シャッターを上げると、もはや仕切りなどなく直接建物の内部へと通じていた。
一階部はその面積の半分以上をひとつの部屋が占めている。その部屋のドアの前にリヤカーを停めたココロは、「すぐ準備するから待ってて」言い残してどこかへ行ってしまった。
冷酷なヤサグレ王子と二人きりにされてしまった神結は、居心地の悪さから挙動不審にキョロキョロと視線を泳がす他に術もない。
そんな神結のことなど気遣う素振りもなく、トランはリヤカーの置かれたすぐ近くのドアを開けると、摘まれた花々をその種類ごとに束ねてさっさと中に入っていった。
恐る恐るトランの影を追うように部屋を覗いた神結の瞳に飛び込んできたもの。それを目に留めては自然と感嘆の声が漏れる。
「きれい……」
部屋一面を覆うような、赤に黄色に白、そして淡いピンクにオレンジ色。それは小さな花畑だった。
トランはその花畑の広がる部屋の角にある、木製机の上へと花の束を運んでいる。
「あのっ、わたしも手伝います」
神結もトランに倣うようにして花の束をまとめると両手で抱える。それは、先刻の水仙。ココロがくれた白く可憐な水仙の花は、丁度良いサイズに切り揃えてもらって神結の胸ポケットで揺れていた。
トランと神結が運んだ花々は、少し大きめの学習用といった形状の木製机に並べられる。最上段には、化学の授業で使うようなビーカーに線香花火の火花が十倍にもなったような物が浮かんでいて、それがこの部屋全体を照らしていた。
花々の置かれた机上の脇には、万力とコーヒーサイフォンを足して、ストロー状の官が何本もくっつけられたような奇妙な機械が置かれている。
「これって何ですか?」
先刻よりも打ち解けた声音で神結が尋ねると、トランも自然と口を開く。
「買ッてもらえなかッたからッて、ただ花の生命を奪ッちまうのは可哀想だろ。だから、花びらから香水を作るのさ。天然の香水を」
そういえばリヤカーにも小瓶が何本か乗せてあったな――、ぼんやり思い返していた神結の右手をトランはすっと握ると、その甲へと机の上からとった小ビンを振った。
ふわりと心が華やぐような香りが舞う――天然のローズ・ウォーター。
「素敵な香り」
自然と神結の顔に笑みがこぼれる。
それを見ていたトランも微かに微笑んだ。
――この人こんな表情もできるんだ……。
と、神結がそう思った次の瞬間には、トランは目を逸らしてさっきまでの無関心面を決め込んでいた。
ひょっとしたら見透かされるのを嫌ったのかもしれないな――、なんて考えていると、思い出したようにトランは腰当ての右ポケットを探っていた。
ジャラジャラとした人形たちが小刻みに踊る中、現れたのは黒塗りのスマートフォン。どうやらあの人形たちはスマホのストラップだったらしい。
「それってお守りのブードゥー人形ですよね」
手先の器用な友だちが同じような物を作っていたのを『思い出せた』神結は尋ねたが、自分で作ったんですか? とまでは続けられなかった。
彼は、神結の質問など無視してメールチェックに余念がない。ただメールを読み終えて「ふゥん」と唸っただけだった。
――これは、フレンドリーには程遠いかな。
潔くも神結があきらめた頃、部屋の外からココロの声が聞こえた。
「ご飯が出来たよ、二階に来てねー」
灯油ストーブの匂いがした。
キッチンは一階にあったものの、花畑の部屋に一階はほとんどが占拠されている為、食事は二階にある応接間で、だった。
お世辞程度のダイニングルーム。その二階の窓からのぞくと、菓子工房ドゥ・フロコンの明かりも既に消えていた。
夕飯は、ココロ特製のサバの味噌煮とご飯。それに豆腐とワカメの味噌汁。
正直なところ、ついさっきケーキセットを完食していたわけで。それ程お腹も空いてはいなかったが、この小一時間で自分の信念を、
――大和魂(こんな見てくれでも、英語の成績は特に悪いしね♪)。
から、
――今を大事に生きよう!
デフォルト変更していた神結は、ありがたくこの団欒を満喫することにした。
なんのかんのあれこれと思いを巡らせたわりに、ペロリとサバ味噌定食を完食した神結。
「すごくおいしかったです。ココロさん、料理上手なんですね」
お世辞などではなく、ありのままの感想。
ココロはえへへと照れ笑いを浮かべる。
「ありがと。でも、本当はランちゃんの方が上手いんだよ。さっき食べたケーキも、作ったのトラちゃんだし」
やっぱり器用な人なんだ、と感心する神結の隣でトランはさっさと席を立つ。何か気に障ったかな――、神結は目で追ったが、夕食後すぐだというのにトランはさっさと歯ブラシを咥えて戻ってきた。
「ゴメンね、気にしなくていいから。ランちゃんの趣味は釣りと歯磨きなんだ」
朗らかに解説するココロに、「はあ」と神結の相槌。
再び席を立ち、うがいを済ませたトランは、今度はタバコを咥えて戻ってきた。ちなみに、歯磨き、タバコ、の悪循環はこのあと、四度繰り返されることになる。
トランがゆっくりと煙を吐いた。
「それで、何があッたのか話してみな」
金髪をおさげ風に結った、トリコロールビーズの髪留めを無意識にいじる。
そして、思い出すように神結は話し始めた。
――なんでもない一日だった。
いつもどおりの学校に、いつもどおりの授業。
暖房の効きが良くなくてあんまり暖かくない教室も、授業に先生が遅れてくるのもいつものとおり。本当になんでもない一日だった。
金髪に碧眼――。見た目がそんなだから、小さい頃からどうしても目立った。
敢えて目立たないよう努力するよりは、人に認めてもらえる『何か』が欲しくて、中学では自分探しの部活巡りなんてしてみたけど、最後の一歩が踏み出せず結局帰宅部の三年間。デビューはならず。わたしは生粋の日本人です感を意識して、あんまりちゃんとしてこなかった英語の勉強も拍車をかけて、出来上がったのは見た目外人の中途半端な日本人女子。そのうえ人見知りのくせに八方美人なところのあるわたしは、中学の三年間を通して『物語』に絡むこともなく、言うなればエキストラ、とどのつまり『友人A』というキャラクターを着実に確立させていた。
金髪に碧眼――。派手さは印象だけの。物語の主人公からは三歩離れたところでうろつく友人Aのわたしが、高校に進学したとして当然の如くデビューするなんてありえない。
そんな訳で、授業を終えると、友だちのマミちゃんとダイダイちゃんと、帰宅部であるそんな二人の友人Aたるわたしは早々に、マミちゃんは吹奏楽部に所属してたけど、今日は練習がないからってことで、久しぶりに三人で街へとくりだす(くり出すってあたりがわたしの精一杯)。
付き合って一年になるけどダイダイちゃんのセンスは良く分からなくて、立ち寄った雑貨屋で、薄紫色の野球のグローブみたいな頭をしたカントリーホリウチくんってキャラクターのスマホ用ストラップを購入してた。
同じシリーズ物でも、マミちゃんはバームクーヘンとキリカブを足したようなバアムくんストラップを、わたしはお花の衣装がいかにもガーリィなキュアちゃんストラップを購入。
その後、マックでお茶して、他愛のない話をして、わたしたちはドンキの前で別れた。
地下鉄で通ってるマミちゃんとダイダイちゃんはそのまま東神宿の駅に向かったけど、区内から通っているわたしは、お母さんと二人で暮らしているアパートまで歩いて帰った。時間はそんなにかからなかったと思う。
半ばコリアタウンと化した百人町の白壁の建物、その407号室。それがわたしの家だった、はずだ。
わたしは鍵を外して、扉を開けた。
その瞬間だった。ただいま、すら言う間もなく、眩い光に包まれて目を閉じた。
それは『覚えてる』。
そして、何が起こったのかを確認するように目を開けた。ゆっくりと。
でも何も起こってはいなかった。いや、正確には『何も』すら存在してはいなかった。
わたしと母が生活していたはずの部屋はがらんどうだった。
沈黙――そして、パニック。わたしは、わたしの鼓動が荒くなっていく現実の他には、何ひとつ理解することも出来ない。
そんな中、ようやくにして気付いた希望。それは溺れる者が掴んだIT時代の藁。ダッフルコートの右ポケットをまさぐり、呼吸するのと同じくらい自然に使いこなしているスマホを取り出す。ストラップのキャラクターは、任せてと言わんばかりに満面の笑みを浮かべていた。
でも、悪い嘘のようにさっきまで普通に機能していたスマホは、うんともすんとも言わないどころか、履歴欄にも電話帳の欄にも登録は一件もない。
途方に暮れた――。
だから、駆け出した。
見れば隣の部屋に人が帰って来た気配はない。なら、頼るべくは友だち。あれからまだそんなに時間も経ってはいない。だったらまだマミちゃんもダイダイちゃんも駅にいるかもしれない。
最後の希望にすがるように、わたしは人の波を縫って駆けた。
そのわたしの眼前を、『二人』の影が遮ったのは間もなくしてのことだった。
わたしは駆ける足を止めた。恐怖で、だ。
目の前に立っていたのは、金髪のボウズヘアーに顔半分を覆ったトカゲのタトゥーをした男と、バランスもなにも関係なしに顔中にピアスをした男の二人組。風体だけでもそれなのに、ギラギラと輝く瞳が、尚更に異常性を増して見せた。
わたしが踵を返すより先に、タトゥーの男がヘラヘラと言った。
「おめでとうございまぁす。貴女は選ばれましたぁ」
ふいに男が右手をもたげる。そこから何かがふわりと舞った。
まるでレシートみたいだと思った瞬間、それはわたしの額へとへばりつく。
こめかみに「ビキリ」という痛みを覚えた時にはレシートは既に消えていた。
わたしは痛みに急かされるように、恐怖に背を向けた。
「まあ、まてよ」タトゥー男とは別の男の声がした。ダッフルコートの襟首をつかまれる。と、一瞬のうちにコートは男の掴んだ部分を起点として真二つに割けた。
わたしは悲鳴を上げた。
後ろで、タトゥー男がピアス男へと非難の罵声を浴びせるのが聞こえる。
わたしは割けたコートを男達の顔面へと払った。
そして、駆けた。
何度か躓いては、転がるようにして駆けた。
ブレザーは砂埃にまみれて、伝線したタイツ越しに膝からは血が滲んだ。
走りながら、何度も「助けて」って叫んだ。
でも周りの人達は、まるでわたしの姿が見えていないように、ただ通り過ぎていく。
だから結局、わたしには逃げることしか、駆けることしか出来なかった。
そして、駆けて、駆けて、闇のようにポッカリと開いた路地へと飛び込んだ。
神結の話はこれでおしまいだった。
だが、最後にひとつ付け加えるのだけは『忘れて』いなかった。
「……でも本当に恐いのは……あの男に何かされて痛みを感じてから……時間と共にいろんなことを忘れつつあるということ……わたしは、わたしの記憶を失いつつあるんです」