灰沢トラン 1
ツクリモノじみた月明かりは儚く、カザリモノじみた街はぼんやりと。
息吹すら感じられない佇まいにしかし、それを否定するような街の灯は煌々と。
夜を切り裂く人工照明の灯と、灯と、灯。眩いばかりのそれはまるで誘蛾灯の燈火。
天を衝くサーチライトは、漆黒の闇に飛ぶ鳥たちを撃ち落とすかのよう。
色とりどりのジュエリーボックス、絢爛たるカジノシティ。
その中を二つの影が駆け抜けた。
街に渦巻く誘惑など見向きもせず、飛び込んだのは数あるカジノハウス、そのひとつ――『アンダー・ザ・ローズ』。
この街の根底に潜む欲望、嫉妬、怒り、諦め、様々な感情が絡み合い、もはやタール状と化した暗黒、さらにその最奥を目指すようにして地下駐車場を駆け下りる。
B3と記された非常灯の明滅。立ち止まる影の内、表情を曇らせたのは背高の人物だった。ショーはすでに佳境へと近づきつつある――濃褐色の瞳でぼんやりと、裏切られた期待を見留めた。
四方から車のヘッドライトに照らされた中心、およそステージとは呼べそうもないコンクリートの床で、少女はひたすらに上昇っていた。
呆れるほどにガーリィなリボンでポニーテール風に結った金髪、潤ませた瞳は左のみの碧眼。本来のものと思しき濃茶をした右の瞳、そのすぐ下の頬には、ブルーのカラコンがへばりついている。
十代半ばといった未成熟なからだ。リボンと同じビビッドピンクなワンピース、その薄い布の裏でナニカが蠢くたび、少女の甘美な矯正が漏れた。
僕もまだ救われるかな――。
確かに聞いたはずの言葉に、背高の彼は下唇を噛みしめる。
必ず救ってみせる、そう伝えた彼の眼前で、救われたいと願ったはずの『少年』は、『少女』の容貌をした『少年』は、冷たいコンクリの床で忘却の彼方にまどろんでいた。
と、クライマックスを嘲るような拍手。柱の影から現れた男が、ライトに照らされる。
ストライプのスーツ越しに解るほどの筋肉の隆起。はだけたシャツから覗かせた厚い胸板と顔中に走る幾つもの傷跡が、百戦錬磨の獣の王を連想させる浅黒い肌の男。アメコミの舞台よろしく、背徳の街の約束事のような怪人の登場。
それを受けて口を開いたのは、長身の彼ではなく、その隣に立つ小さな影だった。
「よォ――『ジャガーノート』。クソッたれな『攫い屋』稼業は相変わらず忙しいらしいなァ?」
奏でられたのはハスキーヴォイス。
背高の人物とは頭ひとつ以上も小柄で、華奢な体躯。漆黒のショートヘアーと愁いを帯びた長い睫毛に、透き通る肌。その白に浮かぶのは深紅の双眸。
たてがみのような髪を掻き毟り、獣の王、ジャガーノートはくつくつと笑う。豪放を絵に描いたその姿にはどこか似つかわしくない卑屈な笑い。
「随分な挨拶じゃねぇか『花キューピッド』。こっちは親切で現実ってモンを教えてやろうと、舞台まで用意してやったってのによぉ……」
「現実ゥ? そりゃあなんの?」薄い唇が滑らかに動き、ハスキーヴォイスが遮る。
だが、
「お前らはこのクズを救いたかったんだろ? だからわざわざ連れ出したんだろ? なのに、心の底までこの街に浸かっちまったチークガングの檸檬ちゃんは、ペットマイハウス、結局自分から俺んトコに戻ってきちまった。現実には戻れないという現実、それこそが『此処』の現実だ」
ジャガーノートは高らかに告げた。それはまさしく勝利宣言。
しかし深紅の双眸は、じっと見据えたままで、「ふゥん」と嘲笑うように言っただけ。それはまるで、自分達が正義の味方なぞではないとでも言うよう。
「クマサガワシンジ――」継いだハスキーヴォイスに、少女の表情がわずかに惑う。だが、その余韻に浸る間も惜しむように、少女は再び快楽の海にまどろんだ。
「――確かにそのクマサガワ『元』少年の両親がオレらの依頼主だ。だがなァ、別に人探しの依頼なんてオレたちゃ受けてないワケ。その元少年を一旦は連れ出したのは、オレの隣のお人好しが、ソイツのたわごとを信じたってだけの笑い話さ」
お人好し――そう称された背高の彼は、幼さの残る童顔に苦さを浮かべて俯く。栗色の長髪を一つに結った髪留め、それを飾る鈴も彼と同じく沈黙を続けていた。
そんな彼を気に掛けるでもなく、深紅の双眸の持ち主は、携えていたものを放った。
離れて立つジャガーノートが反射的に受け止める。それは、カップ咲きのピンクの花弁に彩られた小さな花束。その花の名を――。
「チューリップ、花言葉は――『永遠の愛』。十四の時に失踪して長くも短い十年という歳月。父と母は息子の死を受け入れた。彼らの最後の願いは息子が失踪する直前に会ッた人物に、その花を贈る事。死を受け入れてなお自分たちの中で愛しい息子は生きている、そう誓いを立てる為のささやかな儀式として、なァ」
ジャガーノートは顔を歪める。花束を放り棄て、踏み潰した。
「あぁそれでか、そんな染みったれた願いだからか。クセェ臭いしかしねぇワケだ」
だが、深紅の双眸は揺るがない。
「そうさ、染みッたれな願いさ。だとして、死を受け入れてなお永遠の愛を誓うなんてのは、永遠の苦しみを背負うッてのと同義。それを何の罪もないソイツらだけが負うッてのはおかしな話。それは誘拐の主犯たるクソったれこそが負うべきだろォ? オレたちの仕事? そんなモン最初ッからマトはテメーだよ、ジャガーノート!」
響き渡るハスキーヴォイス。
応じるようにジャガーノートも吼える。
「底辺の『魔導師』風情がいきがるなよッ‼ 好きな名で呼んでやる、林檎ちゃんか? 苺ちゃんか? お前らも変態どもの慰みにしてやるよおッ! 腐りゆく内臓とは裏腹にぃッ、年を取らない身体に改造してなあッ‼」
それを合図に、柱の影から四つの影が姿を現す。
異常な筋肉の発達をしたマスクマン。背徳の街の怪人、その分かり易すぎる手下たち。鈍重な見かけに反して俊敏に走り出す。
「その魔導師風情に恐れをなして、攫い屋如きに成り下がッたテメーに言われたかねェな」
紡ぐハスキーヴォイスを置き去りに、背高の人物が動いた。
先刻の苦さはなりを潜め、その瞳には別の厳しさが満ちる。少年の容貌に凛々しさを纏った彼は、身の丈に合わないブカブカのパーカをはためかせ、僅か三歩でマスクマンの眼前へと迫った。三段跳びのように跳ねた彼の、くしくも少女(=少年)と同じくポニーテール風に結った栗色がなびく。その髪留めの鈴が、そこでようやく思い出したように「リン」と三回鳴った。
四人のマスクマンが拳を振りかぶる。しかし、鈴を鳴らした後、彼はその直前で急ブレーキするや、反動を活かしたまま前転へと姿勢を変えた。
それはまさに鉄棒競技の大車輪。目に映らないポールでもあるかのように宙で空を掴むや、縦に横に回転し、マスクマンを翻弄する。そして未熟そうな童顔からは想像できない冷徹さで、的確に拳や膝を叩き込んでいった。
「……あれも〝魔導〟かッ!!」憎々しげに言葉を吐いたジャガーノートは、
「あれは〝魔導〟とはちょッと違ェな。ところでお前、今『ケツモチ』いないんだッてェ? それじゃあ俺も安心でテメーをボコれるなァ」
すぐ間近で聞こえた声に、我に返る。深紅の双眸の主は、既に距離を詰め終えていた。
コンマ二秒で臨戦態勢を整えた、二つの影が交差する。
気勢とも怒声ともとれないジャガーノートの声が響いた。
「吹っ飛べ‼」
そして――、
口元を緩めたのはジャガーノート。
弱者を嬲る特権を得た、絶対者の愉悦に浸ったままで、昇りつめていく。
――だが、
その視界には、もう何も映っていなかった。自身の想像通りの結果、それ以外には……。
「終わったの?」
折り重なる四人のマスクマンを後ろに、栗色の彼が尋ねると、ハスキーヴォイスは「まァな」と応える。
「…る…エく……ルえク……」ジャガーノートは大の字に転がったまま、虚ろな瞳を地下駐車場の天井に向けていた。もはやその口からは、言葉にもならない記号が溢れ出るだけだった。
真紅の双眸の主は、空笑を浮かべるジャガーノートの傍らにしゃがみこんだ。
「うわコイツ、ナマイキにも魔法返しの術式からだに彫ッてやがんの、放出系の〝魔導〟だッたらヤバかッたかもなァ」
嗜虐的な微笑が灯る。吹っ飛べ、そう叫んだジャガーノートの切り札を嘲笑うように。
「ッても、消えねェ陣を残したままにしとくなんて愚の骨頂だな、これじゃ〝脆弱性〟衝いて〝崩す〟なんて楽勝だァ」
ジャガーノートの胸板に刻まれた二重螺旋に、取り出したマジックインキで線や円を描きこむ。それは程なく元の二重螺旋の墨の色と同化して、全く別の図形の刺青となった。
栗色の髪を揺らしてやってきた背高の彼は、先刻踏み潰されたチューリップの花束をジャガーノートへと手向ける。
「脳内の報酬系に直接作用して、過度の快楽状態を維持するタイプの〝魔法薬〟。原料はベラドンナとグリーンマン、それにアルラウネ少々だっけ?」
「そ、本来ならコイツら攫い屋ッてより、調教屋やら開発屋に、改造屋。そして、その三種兼業の造型師あたりが好んで使う魔法薬。カプセル状のモンを口腔から直接摂取するのがフツーだけど、粉末状にしたモンを鼻腔から取り入れてもこの効果ッてワケ。まァ、魔法で〝カカリ〟を上げちゃあいるけどよ、鼻腔から吸収したそれが、興奮して分泌された脳内のアドレナリンと結びついた瞬間にドカンッ、てなァ」
「まさかジャガーノートも、他人の人生メチャクチャにする為に使ってきたクスリが自分に使われるなんて思ってなかっただろうね」
一人夢想に耽るジャガーノートの胸で、花弁を垂らすチューリップ。それをジャガーノートが手にした時、勝負は既に決していた。散れぢれの花弁から白い粉塵が零れ落ちる。
深紅の双眸が、背高の人物へと向けられる。
「おそらく『キスクラ』の彫師あたりにでも入れさせたジャガーノートの魔法陣は、術のカカリが効きすぎちまうモンに書き換えといた。この幻術が醒めても、『此処』にいる限りどッかの誰かの魔法の残滓に触れるだけで発狂しかねないだろなァ」
無邪気なほどの微笑。まるで子供が一生懸命に作った砂の城に満足するような。だがそこには完全なる悪意が満ちていた。
溜め息まじりに、背高の彼は瞳を逸らす。程なくつぶらな双眸は、再びそれを捉えた。
ブロンドをへばりつかせ、涙と鼻水塗れになった顔、しかし紛い物のオッドアイは真っ直ぐにこちらを見ていた。
困惑と当惑の入り混じる少女の容貌。上昇りつめた後は、ただ落下して現実へと舞い戻るだけ。それをまざまざと実感しているような貌で、呟く。
「僕を……僕を、救ってくれるんじゃなかったの?」
背高の彼は言葉を失う。先刻の凛々しさが一転して陰ると、そこには頼りなげな少年の幼さだけが残る。
そして彼は歩き出そうとした、もちろん救いの手を差し伸べるために。
しかし。
「本当にそれでいいのか? お前は本当に、この世界から救われる事を、現実の世界に帰る事を望んでいるのか?」
微笑はなりを潜め、深紅の双眸が少女の容貌を射ていた。
少女の容貌をした少年は、おぼつかない足取りのままで立ち上がる。ワンピースのスカートから、粘液に塗れた蛭状のナニカが、崩れ落ちる。
「僕は……僕は……」床にねっとりとした足跡を残しながら、二人のもとまで歩いて来たかに見えた少年は、未だ夢想の中にいるジャガーノートの脇に蹲った。
ズボンのポケットを漁り、プラスチックケースを取り出す。
そしてカプセルを口に放った。一粒。二粒。三粒。それは間もなくして、少年を再び快楽の海へと沈めた。
「……救えねェんじゃねェ、今のコイツの救いはマドロミの世界にしかねェんだよ」
去りゆく二人の背に、狂ったような嬌声がこだましていた。
カジノシティの最東端には、古代ローマ時代を彷彿とさせる石造りの公園があった。
バロック様式の噴水でもあればさまになるだろうに、そこにはシティのサーチライトを数倍に膨らませたような白い光が伸びているだけだった。
天を衝く仄白いそれは光の柱であり、塔のようでもあった。
深紅の双眸に感情もなく、
「上に至るヤツにすりゃ天国への階段」
「下に下る人たちにとっては逃げ出すための非常階段、でしょ」
頭ひとつ分も上背の幼貌が継いだ後で、二人は光の塔へと飛び込んだ。
まるで舞台の場面転換。光の塔から抜けた先には、まったく別の光景が映し出された。
薄闇に、廃墟の立ち並ぶ街。はらはらと淡雪に似た白が降っていたが、二人の息が白くなる事はない。空から舞い落ちては、二人の肩で弾け、薄闇に溶けるように消えていく。
それは――灰。
悲しみに暮れる冬が永遠と続くのにも似た、そこは灰の降る街だった。
街のすべてを焼き払う大規模な火災にでも見舞われたような、だが立ち並ぶ廃墟の奥からは時折誰かの息遣いが聞こえる。
二つ目の廃墟を抜けたところで、栗色を揺らして童顔の彼が訊いた。
「近くまで来たんだし、寄ってかなくっていいの?」
尋ねられて見上げるように、だが真紅の双眸でねめつけるように、「どこに」とぶっきらぼうな言葉が返される。
「もちろん、『学校』に決まってるじゃん」
あっけらかんと話す、背高に童顔の――『藤林ココロ』を見上げる彼は、さめざめと溜息を吐く。そして、細い線を尚更に締め付けるコルセットのポケットから、茶褐色の箱を取り出しては一本引き抜いた。
紫煙を燻らせながら、
「『コロ』――、お前の稼ぎが少ねェから、俺ァこれからバイトだろが」
吐き出される煙からか、深紅の双眸からか、逸らした瞳で、
「稼ぎが少ないって、『トラちゃん』がやったって一緒じゃんか」
小声での呟き。
だが、しっかり聞こえてるぞ、そんなジト目に気付いた藤林ココロは、「えへへー、ゴメン」いまいち気もない、そんな謝罪。
にへらと笑うその顔めがけて、煙を吹きかけた。むせるココロを置き去りに進めた歩の先、やがて寂れた地下鉄の入り口にも似た建物が顔を現した。
その奥に微かに差す陽光を見留めて、彼は――『灰沢トラン』は、跳躍する。
そして――、二人は〝不夜城〟を後にした。




