エピローグ
フワフワと浮かぶ星が窓を抜けていった。
あの日よりもはっきりと形作られた星は、降り続ける灰の闇に触れても消えずに空へと昇っていく。
橘神結はそれを目で追った。
魔導師ごとに基本図形の異なる――〝装飾陣〟。それを知られることは〝崩し〟に繋がるから、滅多やたら人目につく真似をしてはいけない。そうエイボンは言っていた。
しかし神結は、宙にしっかりと描かれた五芒星、それがちょっとした存在証明のような気がして、心のままに再び指をなぞった。
夜の学校の寮。キャメル色のブレザーが掛けられた簡素な部屋。まだ何もないその部屋の机上で、陶器製の小鉢に飾られたブリザーブドフラワーだけが鮮やかな色を灯していた。
あれから一週間が経っていた。
その後、灰沢トランが夜の学校へとやってくることはなかったが、藤林ココロは神結を訪ねてきた。保存処理の施された花々の小鉢は、ココロが持ってきてくれたものだった。
鉢の中では淡い黄色と白が小さな花弁を広げていたが、ミニバラの黄色に比べ、白は少し傷んで見えた。
「ホントは活きのいいうちに薬液に浸けなきゃダメなんだけど、せっかくだしと思ってさ」
そうココロが言った。
それは紛れもなく『始まりの日』に贈られた水仙の花。
だからその少しの傷みですら、愛おしく感じられた。
それもまた、わたしがこの〝世界〟で生きているという証明。足跡なんだ、と神結は思った。
魔法のように時の止められた、白い花弁から目を離す。
窓の脇に掛けられたブレザーのすぐ隣を星が通り過ぎていった。
ポケットから覗く携帯ストラップのキュアちゃんは、「行ってらっしゃい」とでも言うように今日も相変わらずの笑顔。
そして相変わらずの窓の先の風景に、神結はココロの話を思い出す。向こうでは数日前に、この冬初めての雪が降ったらしい。
でも、白に染まる風景が住み慣れた街にはいまいちピンとこなくて。心の奥で尋ねた。
――アスファルトにはまだ雪が残っていますか?
スラリとしたスタイルに素っ気なく結っただけの黒髪が良く似合う、イタズラっぽい目をした橙ちゃん。眼鏡の似合う知的女子のイメージを裏切る、意外に天然な真実ちゃん。
――こちらは変わらず、積もることもなく降り続いているよ。
二人の友だちは、記憶の中でいつものように微笑んでくれる。
二人の笑顔に、神結は一人頷いた。
だが、神結は知っていた。
実際には、二人の友だちは微笑んでもくれないということを。
神結個人の記憶消去の術式は解除された。しかし、神結に関連する全ての事象、そして人に対する『橘神結』という存在の記憶消去の術式は、依然継続して作用していた。
エイボンは、強大な術式ゆえ神結一人の術式を解除した時のような簡単な作業ではない、と言った。そしてそれ以上に、いま神結に関する情報を他者が思い出すという事は、神結だけでなくその情報を共有する者にとっても、危険が及びかねないとも言った。
エイボンは、神結の記憶消去の術式を完全には解除しなかった。そして、それは神結自身が望んで決めたことだった。
だから、友だちの記憶に神結は存在していない。こんな状態で会えても、微笑みどころか苦笑いを浮かべられるのが関の山だろう。
だけど、神結はそれで十分だと思った。
決して会えなくとも、二人が神結のことを憶えていなくとも、自分は二人のことを鮮明に憶えている。今はそれで十分だと思った。
先の星を追うように、〝灰の街〟の空へと描かれた星が旅立っていった。
緩慢であちらへこちらへとフラフラとした動きは頼りないものだったが、しっかりと五つの鋭角を刻みつけたそのフォルムはどこか誇らしげでもあった。
星がどこまで飛んでいけるか、それは神結にも解らない。それでも、「がんばれ」と小さく呟いた。
この空は、この世界だけの空。繋がっているのなら同じ空の下、橙ちゃんや真美ちゃんとも、そしてお母さんとも繋がれているような気がするのに。この空は、今までの空とは別の空。
普通の学校に普通の友だち。そしていつだってお母さんがいてくれた当たり前の日々。一週間前までの世界、普通のわたしに未練なんて山のよう。
「またお母さんのハンバーグ食べたいな……」
それでも神結は、悲しみではなく希望としてその言葉を紡いだ。
廃墟と薄闇の街。一風変わった同級生との学び舎が、今のわたしの居場所。それは現実から隔離された世界。別の世界。
でも、まだ現実の世界には帰れないとしても、この世界もまた現実には違いない。
いつ戻れるとも知れない非日常な日常に、それでもわたしは生きていく。
あの日、『物語』は始まったのだから――
〝不夜城〟の第一階層――〝灰の街〟。夜しかない街の空で、天を目指し小さくなりつつある星へと、神結は思いを籠めた。
――これは他の誰でもないわたしの『物語』だ。
と、なんとなく背後に気配を感じたような気がして。
あと、彼らの――ヤサグレ王子とヘタレだけど心優しき忍者の物語だ。
苦笑いで付け足した。