悪津ユエニ 3
「シャッチョなんスか。あっこまで行っといて、おめおめ手ぶらで帰るなんてありえねっスよ」
蜜飴が、ほんのり赤らめる雪ん子の様相で頬を膨らませる。
勝者生存の街――〝キスアンドクライ〟。
毒々しいまでのネオンで飾られたカジノ、『アンダー・ザ・ローズ』を後にした悪津ユエニは、黒づくめの連中を引き連れて歩く。
蜜飴に咎められたユエニは、それでも禁煙用のパイプを転がすだけだった。
「これでいいのさ、限られてる中にしちゃ最低限の仕事はさせてもらった訳だしねぇ」
交渉の腰を折った蜜飴を叱るでもなく、ユエニは歩く。
その言葉の通り、背後を煌々と照らす黒薔薇の居城を振り返ることもなかった。
ユエニが蜜飴を介してジャガーノートから得た情報は、黒薔薇が『花嫁』なる人物を探していたというくらいのものだった。
だから、その『花嫁』を黒薔薇より先に押さえようと思った。
ジャガーノートが失踪したことで、然したる配下も持たない黒薔薇はフリーの人間を雇わざるを得ないはず――ユエニの推測は当たった。白羽の矢が立ったのは、刀工の本業とは別に、攫い屋を副業としていた白魅一派。黒薔薇の配下から間もなくして情報はもたらされた。
雇い主の正体も知らない彼らがその仕事に就くころ、ユエニが雇った人間も彼らに近づいた。おそらく〝魔法薬〟の効果だとも知らず、連中は自らの意志で彼女を拾ったと思っているはずだ。
あの、――赤毛のノラを。
本来の手筈通りなら、厄介な狼男を始末するのは彼女の仕事だった。
そして隙を見て『花嫁』を連れ出す。だが、不測の事態にその目論見は破綻した。第三者の介入なぞ、ユエニは全く予想だにしていなかった。情報不足による計画の頓挫は、そのまま自身の失敗に過ぎない。それを人のせいにするつもりもないが、それでも――。
――運び屋程度の認識に過ぎなかったあの花キューピッドが、そこまで無茶の効く連中だったとは……。
くぐもった声を上げながら、ユエニは自分の右目に触れた。眼帯をめくり上げる、と次の瞬間には、仰々しい籠手が右の瞳を引き抜いていた。
先刻、蜜飴は銀足の能力を気配に重さを分け与える、と言ったが正確にはそうじゃない。ユエニだけが知り得る〝雪足〟の能力、その神髄は容積を自在に操るということにある。
一見ユエニの影に潜んでいるかに見える銀足は、普段その容積を限りなくゼロに近づけることで、自身の気配を消しているのだ。〝影〟に潜む、というなら銀足ではなく、もう一人の女の方だった。
天涯孤独となったあの日に、持ち得た二つの切り札。銀足を右腕と呼ぶなら、左腕と呼んでも過言じゃない存在。だが、忠義をもって尽くしてくれる銀足に比べれば、彼女とはあくまでビジネスライクな関係性だった。
元々は彼女の十二の兄弟、その一人のワザだという蟲躁術。〝失踪者〟と名付けられたその技術を流用した監視用の羽虫は潰され、モニター用の義眼も無駄になった。闇となった眼窩から、にわかに血が染みだすのも気にせず、ユエニは潰れた瞳を放り棄てる。
文字通り、手札を全部失ったユエニは苦笑っていた。紛れもなく苦笑には違いない。だが、それはどこか愉快気でもあった。
『花嫁』が花キューピッドの手に渡り、だいぶ時間も経つ。もう手遅れだった。ユエニにも、黒薔薇にも。
おそらく、黒薔薇はまだそこまでは辿り着いていないだろう。だが、教えてやる義理もない。花キューピッドの行動は明らかだ。『履歴書』程度とはいえ、連中の後ろ盾くらいちゃんと調べてある。そして間違いなく『花嫁』を保護した連中の後ろ盾――〝不夜城〟最高の魔導師たるエイボンと揉めるなぞ、悪津商会にも黒薔薇にも出来やしない。
とはいえ、だ。連中が『花嫁』を押さえたその時点においては、まだ話に絡める手綱は握られていた。まだ奪い去るチャンスはあったはずだ。だが、ユエニが送り込んだ彼女はといえば、自身に与えられた手綱を躊躇もなく切り離した。
兄弟喧嘩なんて割に合わない――そう言い残して。〝六〟時を示した髑髏時計のタトゥーと、〝沈黙〟の名を刻まれた彼女は、ちゃっかり代金を請求して、姿を消した。
付き合いの長い馴染みとはいえ、彼女が一度姿を消したのなら、少なくともユエニには探し出す術はない。
「やっぱりアタシの顔を見るだけで嬉ションするくらい、従順に仕上げてもらうべきだったかもねぇ」
苦笑交じりに続けて。それでもなお、最低限の仕事は果たせたと内心で呟く。
黒薔薇との一件は街中に知れ渡るだろう。街で一目置かれていながら、現状の力で手を出せる存在という点では、黒薔薇は実に都合が良かった。多少拗れたとしても、カモられるのは衰えたと認識される側だからだ。
そう。間違いなく、黒薔薇の一族は落ち目だった。それはつまり、かつて三強の傘下以外で唯一最大の勢力を〝不夜城〟の二階層に築いた一族ですらが、〝私的楽園〟では歯が立たなかったことを意味している。
多くの勢力を解体し、だが精鋭は手元に残していたはずの黒薔薇。しかし、それですら最上階の壁は厚かったということだろう。
ならば、愚かな思考に走ったとしても仕方がないのかもしれない。結局、『花嫁』の正体をユエニが知ることはなかった。だが、それは実際知る必要もないことだったとユエ二は結論付ける。
ソウビは言っていた――『我らが神となる子を孕むだけの肉』、と。それが『花嫁』を手に入れるべき理由だと。
神を創り上げ、人心を得ようなぞ、およそ余裕のある者の発想ではない。特別な力を持つ聖女や魔女なんかを媒介に、そういった存在をでっち上げることも出来なくはないだろう。だとしてそれは、そんな方法に頼らざるを得ない程に、連中の衰退を証明しているようなものだ。
戦慄を感じたソニヤの気迫。あれは死にゆく者の最後の足掻き、そう呼べるものだったのかもしれない……。無益な『花嫁』の用途と同じくして、ユエニは、黒薔薇は終わったと結論付けた。
この先、落ち目の権力者は狙われることになるだろう。だが敢えて真っ先に揉めてみせた自分たちにすれば、認知度が上がるだけで損はない。
要は誰が一番にやれるかだ。リスクはある、だが可能性としては悪くない――解っていても、行動に移せるか否か。それこそが、その後の印象を決める。
衰えたという認識があっても手を出せずにいた街の連中の中で、悪津商会だけが黒薔薇相手に揉めてみせた。それこそが事実であり、結果だ。経緯なんてどうでもよいこと。商売人にすれば、必要なものなんて結果に過ぎない。今後、黒薔薇相手に揉める連中なぞ、自分たちの二番煎じ、三番煎じに過ぎないだろう。
――最初から、それがすべてだった。
カジノなんてどうでも良かった。
出鱈目、というよりソイツは物のついで。オマケみたいなモンだ。
叩いて埃の出る物件は、叩いて叩いて叩き尽くして骨の髄までしゃぶり尽くす。それが商売人の性。だとして目的以上を求めるのは勝負師の了見だろう。欲をかきすぎりゃ身を滅ぼすと解っていても、欲をかくからこそに博打は止められない。
ゆえに、潮の目くらいは心得ていた。費やした労力には見合わない成果だとしても。自分は博打うちではなくて商売人なのだから。商売人の本懐は遂げていた。ならば自分は付加価値を逃したに過ぎない。仮に『花嫁』を手に入れられていたって、カジノとの取引につかうこともなかっただろう。最低限、この街に向けて力を示すことは出来たのだ。
――だから十分だった。
背徳の街、〝勝者生存の街〟。信じられるもなんてない街は、疑心暗鬼の鳥の籠。
だから誰かを守るための秘密は、誰かを傷つけるためのものとして、罪悪感の欠片もなく売り飛ばされる。狭い籠の中で鳥たちは囀りたくてしょうがないのだ。
そして当然それは金と力のある者のところへと集まってくる。鳥たちだって莫迦じゃない。ただ囀ったって得にならないことくらいは知っている。
悪津商会は財の方は申し分ない。しかし力を有するものとしての認識は薄かったはずだ。だが、その見方も今日の一件を通して変わるだろう。価値があるなら形があろうが、なかろうが。なんだって買い取るのが古売屋の信条だが、今後は形のないモノ――情報の売り手が、少なくとも三割増しになるだろう、そうユエニは踏んでいた。
商会をここまでにしたのは自分だという自負がユエニにはある。
つまりは自分にはその才能があったのだ、と。だから野垂れ死にのように、無様な最期を遂げた父親にはつまり才がなかったのだろう、とも。
この最低な街で、男手ひとつで育ててくれた父親。その顔は、正直もう思い出せもしない。だがそれでも良かった。寄りすがるべきものを残してくれたから。
復讐――いや、正確には違う……『理由』を、だ。
拳闘士は試合に出るため、苦しい減量に耐える。言うなれば、そういった理由がユエニには必要だった。復讐心すら、自身にとって都合の良い理由として、糧としていく。
そして父親を殺した存在の情報を手に入れるその日まで、ユエニの化身ともいうべき商会は、この街の有象無象共を呑みこんで成長し続けていくだろう。
「――それで、どうする気なのだユエニ」
ひとり感慨に耽るユエニを我に返したのは、その影でふいに上がった声だった。
「銀足氏、どうする気、とは?」
「いかな黒薔薇とはいえ、あの件を知っているというのはおかしいだろう」
銀足は言いにくそうにごにょごにょと話す。
ユエニは、言葉を濁した銀足の『あの件』の当たりを早々とつけた。
「アタシの半身の件かい? まあたしかに、この体のことを知ってるのは一部の人間に過ぎないからねぇ。本来ならソニヤが知るはずもない訳だし、だからきっと銀足氏は身内にスパイがいるんじゃないかと心配してるんだろぉ?」
銀足は神妙に「うむ」と答えたが、ユエニは特に考えるでもなく、
「まあ、考えられるのは一人しかいないさねぇ」
実にあっけらかんとした言葉に、銀足は言葉もなかった。
「そんなもん、なんとしたって黒薔薇との繋がりを切りたくなくて、尻尾振りまくってる落ち目の調教屋しかいないだろうさ」
「玩木屋か」
「現状の商会の状況を見るに身内の線はまずないだろう。となりゃあ、アタシの秘密を知り得る三人の後見人のうち、切羽詰ってるのアイツだけだしねぇ」
ひとつ唸った後で銀足は、
「なあユエニ、やはり玩木屋は消すべきだろう。なんなら今からワシが行ってくるぞ」
確かに後見人とはいえ、玩木屋を残しておく必要性は今のユエニにはない。玩木屋がユエニにとって、害となることはあっても、利となることなどまずないはずだ。
しかしユエニは、「どうだろうねぇ」躊躇いがちに言った。
玩木屋から失踪した知育玩具の行方を尋ねられた時、ユエニは花キューピッドのところへと案内した。それは花キューピッドがジャガーノートと揉めていたと知っていたからではあるが、もちろんその時には知育玩具も、半殺しにされたジャガーノートもユエニが掌握していた。
たかが人間に過ぎないジャガーノートと揉めるくらいには力があると認識していた花キューピッド。彼らに玩木屋の目を向けさせる形となったが、なんならもう少しマシに煙に巻く方法もあったはずだ。
〝不夜城〟の外へと問題を飛散させるリスクを犯してなお、敢えて半分の正解へと玩木屋を導いてやったのは、背徳の街を生きるユエニ特有の直観が閃いたからに他ならない。
その時には、その直感の意味をユエニ自身知りえてはいなかった。だが、現状を整理するに、その行動は正しかったと言えなくもないだろう。
幸か不幸か、『物語』はあの二人を中心に動き出した。
物語は、山あり谷あり、紆余曲折を経るもの。言い換えれば、頼んでいなくともあの二人の下にはトラブルの方からやってくるということだ。
消えた『花嫁』――。
黒薔薇の暗躍――。
そして、この街の最奥より這い出てきた、『苦痛』の名を関する〝死〟――。
そんなつもりもなかったが、結果としては火種のほど近くに、たかだか調教屋風情に過ぎない玩木屋を導いてやったことになる。
銀足からの申し出に、ユエニは長い付き合いになる後見人の顔を思い出して、
「それもまあ、まだ死んでなかったらの話だけどねぇ」
味の薄れたたパイプと一緒に吐き捨てた。