灰沢トラン 3
「クソッ、あのババア本気でヤりやがッた。打ち所が悪かったらどうすんだ、ッたく」
右のこめかみを押さえたままでトランが口を尖らせる。
「でもま、エイボン先生の言ってることのが正論だけどね」
言い終えて、トランの睥睨から逃げるようにココロは視線を泳がせた。
夜の学校のどこまでも続きそうな長い廊下。まるで洞窟内でも探索するような暗闇を、壁に等間隔に並んだ蝋燭の炎が照らしていた。温かみすら感じられるその照明、しかし不思議なことに燭台の上で煌々と燃え続ける蝋燭が短くなる気配はなかった。
減らない蝋燭の明かりを隣に、二人は自分たちの部屋を目指して歩く。
自活するのだという決意の元、後にした夜の学校に併設する寮の、自分たちの部屋。逢魔ヶ通りに居を構えてからここ一年、立ち寄る程度になっていた部屋ではあるが、まだ自分たちの私物は結構そのままになっている。もちろん二人の制服もそのままだった。
これからエイボンは、神結に掛けられた記憶消去の術式を解く為の儀式を行う。その場に立ち会うのに、売れないロッカー風と半裸の忍装束ではさすがにまずいだろうということで、神結同様、トランとココロもお召し替えに向かう途中だった。
「にしても納得いかねェ。俺たちはあの女を助けてやッたッてのに、なんでこんな仕打ちを受けなきゃなんねんだァ」
「人助けなんてまっぴらゴメンだって言ってたのに、結局助けに行っちゃったもんねトラちゃん」
憤慨収まらぬトランの言を受けてなお、ココロは別段気にもせず継いだ。それがトランにとっては一言多いということにも気づかずに。
再びのジト目にようやくそれを悟ったココロが口笛を吹いた。ココロの下手くそな口笛にトランの気が治まるということもなく、当然の如く暴言を吐こうとしたトランだったが、それは自身のくしゃみに塞がれる。
「ほらランちゃん、さっさと着替えてこようよ。風邪ひく前にさ」
これ幸いとばかりに続けたココロから顔をぷいと向けて、トランは長い廊下の触台と同じく等間隔に並んだ窓を見た。
窓の外では、白い灰の闇が変わらず降り続いている。
この街と同じ名を自身に刻んだトラン。だがしかし、なんの感慨もなくその街を眺めた時、彼は深紅の双眸に別のものを見た。
まばらに落ちる白、その中でたゆたう――まだらの黄と黒。
トランが踵を返す。
「ああ、コロ。こんなんじゃどォにもこォにも俺の気がおさまんねェ。ちょッと頭を冷やして来らァ」
「なに言ってんのトラちゃん、さっきくしゃみしてたばっかりじゃんか」
ココロの言葉に振り返るでもなく、トランは告げた。
「すぐに戻ッてくッから、俺の制服も用意しとけよォ」
小さくなっていく背中は、やがて闇に呑まれて消えていった。
☆★☆
夜の学校の周りに立つ累々たる廃屋。
白い灰降る白い街並み。
人の。
そして妖の。
死んだように生きる彼らの墓標とも呼ぶべき、未完成のまま放置された作品の群れ。
崩れそうな白の狭間を縫って灰沢トランは歩を進める。夜の学校のチャペル内から見留めた、黄色と黒の生命体に導かれるようにして。
その生命体――黄色と黒のまだら模様をしたスズメバチの羽音が、急に激しく聞こえた。
空を行くその速度を速めたのだと気づいたとき、トランは四方を廃屋に囲まれた広場へと至っていた。
トランは歩を止めると、
「まァ、ドコ行ッたッて景色が同じッてことに変わりはねェけどなァ」
皮肉交じりに呟いた後で、スズメバチが飛んでいった方に視線を預ける。
そこにひとつの影を認めた。
長身痩躯。膝下まで届きそうな長い髪の毛は黒に近い濃灰。ミイラ男の包帯のようにグルグルと巻かれた拘束衣は、身体だけでなく顔まですっぽりと覆っていた。
拘束衣のマスク部、隙間から覗く薄い唇と双眸。右の瞳は髪の色と同じ濃灰色だったが、左の瞳は一見して解る明らかなツクリモノ。
その義眼に刻まれたもの――冠するようにして髑髏が抱えた時計の文字盤、ひとつしかない針はローマ数字の〝四〟を指し示していた。
「規律という枷を外し、独立での自由行動をとらせることで広範囲の偵察を可能とした、式・〝失踪者〟だッけか? こりゃ瞬の『目』より多いかもしんねェなァ」
あちこちの空で、蚊柱のように立ち昇るスズメバチの群れ、それをぼんやりと見上げてトランは呟く。
間もなくその一群は、集合地たる、拘束衣姿が空に向かって広げた両の掌に吸い込まれるようにして消えていった。
「でェ? 女の居場所を探し当てたッて黒薔薇の連中に知らせる訳かい? 『苦痛』よォ」
皮肉めいた口ぶりで、しかし深紅の双眸は真っ直ぐに射る。
その先で、
「連中の依頼など、お前らが白魅を叩きのめした時点で終了している。俺はただお前との、俺と同じく不夜城の最深部より産まれし、『黒夢』との再会に、ほんの少し興味が湧いただけだ」
拘束衣の切れ間、火傷跡のようにただれた皮膚の薄い唇がくぐもった声を発した。
「俺は別に興味ないけどなァ」
吐き捨てるようなトランの言を受けて、拘束衣の男はくつくつと笑う。
「お前になくとも俺には……いや、他の〝死〟の連中だって興味あったはずだ。お前の〝宣告〟、その正体について」
「はン、死という言葉に想起する十三の名を持つ者。その固有術式、通称――〝宣告〟か。確かに俺の〝宣告〟はお前にも、他の〝死〟の連中にも教えたことはなかッたさ。だからといッて、そんなことで共食いするつもりもねェだろ?」
トランは嘲るように言った。
だが、拘束衣の男は、苦痛と呼ばれた男は――、
「そんなこと? それで十分だろう? 元々厄災を撒き散らす為に創られたような俺たちが、厄災を撒き散らす理由なんて、そんなことで十分だろう」
同時に場の空気に緊張が走る。
羽織ったコートごとズタズタにされそうな殺意を感じて距離を離すトラン。バックステップで飛びざま、しかし苦痛は既に臨戦態勢を整え終えていた。
拘束衣の両手を突き出す。
「〝宣告〟――」
掌を中心として、同時に四つ描かれた六角形の陣が形成される。四つの陣が密着するように並んだそれは、蜂の巣の構造に模した陣。
「――〝死蜂空間充填〟」
苦痛が告げた。己が〝宣告〟――その名を。
同時に陣から無数のスズメバチが飛び出す。
ノイズのような羽音を撒き散らし、迫り来る、トランの視界を覆った獰猛な蜂、蜂、蜂の群れ。
目測の誤り――バックステップで離したはずの距離を一瞬にして詰められる。トランの舌打ち。しかし次について出たのは、
「噛み砕け・蒼い果実の・その蒼さを――」
詠唱。右の拳を突き出す。
「――〝螢跳浮爆〟」
自身に迫ったスズメバチのカーテン。その中心に青い燐光が出現、圧縮、そして――爆発。
刹那の出来事に、無数のスズメバチの死骸が粉塵と共に飛び散る。
その中へ、迷いもせずに跳躍したのは――苦痛。両の掌には六角形の陣――再びの〝死蜂空間充填〟を既に形成。
「俺が見たいのはそれじゃない、そんな普通の魔法じゃない」
スズメバチを散布しながら、拘束衣の長躯がその見た目とは裏腹の軽やかさをもって飛ぶ。
トランの発動させた炎と爆発の混成術式。その意図を理解すればこその、苦痛の追撃。
しかし。
目測の誤り――今度は苦痛の。
術式の爆風に乗って、場からの離脱を狙ったかに見えたトラン。だが粉塵の先、遠くの廃屋、その壁に張り付いていたのは、薄汚れたコートだけ。
それを苦痛が視界に捉えた瞬間だった。
告げられた声――
「〝冬虫夏騒〟」
――詠唱もなしに。
苦痛が振り返った左後方、その間近に一瞬だけ出現した〝装飾陣〟――並列する黒い羽根のモチーフは、変則的な七芒星。
その中心を狙い通すようにして、タバコのシルエットが着弾。同時に苦痛の周囲を白い霧が覆う。
白い霧はやがて、黄色へと変色し、やがて緑色に、そして詠唱のさなか、青色へと変わる。
「剥き出しの空・羽の折れた髪飾り・疾れ――」
散布した黄と黒の群れが急転、さながら蜂のシールドを苦痛が纏ったその瞬間、
「――〝電光屑華〟」
青色の霧が激しく明滅。まるで水面を電光が走るような。
苦痛の全身を青い光は駆け巡り、火花が舞い散った。
脆くも剥がれ落ちるシールド。崩れ去る蜂の死骸、その累々たる焦げ屑。だが、苦痛は――。
「炎に爆発。電撃に麻痺。追撃付加の混成術式に、組み合わせによる相乗効果を前提とした属性変化仕様の霧。術式の〝崩し〟対策に発動時間を極力抑えた〝装飾陣〟も、それを補い魔力の節約を兼ねた〝短文詠唱〟も、いかにも奇をてらう『技能型』の好みそうなスタイル。だがなトラゥム、俺が見たいのはそれじゃない。そんな普通の魔法じゃない」
微動だにしていない。
右目に浮かぶのは冷淡な色。その濃灰の瞳が見つめる先――上半身が露になったトランの左肩。
そこに刻まれるのは。拘束マスクから垣間見せた印と同じ物。髑髏に時計盤――指し示す数字だけが異なる者。
合わせ鏡のように向き合う、もう一人の自分。
いまだ帯電の明滅を残す両手で悠然と、しかし既に、〝死蜂空間充填〟が形成される。その振る舞いは、まるで殺意を奏でる指揮者。
離れて立つトランは、
「崩される心配がないからッて〝装飾陣〟曝け出しちゃ制限の無さにかまけてヘタな鉄砲撃てる、『特殊型』のお前とは違ェんだよ、コッチは。にしても、その変な衣装に魔法防御の術式組んでるッてのはズリィんじゃねェか?」
継ぐようにして詠唱破棄の、
「〝螢跳浮爆〟」
爆発。
さらに距離を離す。
そして廃屋の影に身を隠した。
追撃するでもない苦痛の嘆息。
「こんなモノでは本気を出せないと言うなら少し雰囲気を出してやろうか。……先刻の式・〝失踪者〟、その一部は戻さないままに独立行動を続けさせている。〝失踪者〟の能力は広範囲偵察の他に、適当な戦闘要員を確保することだ。今頃エイボンの学校には〝失踪者〟によって作られた戦闘人形、〝審判を受ける者〟が押し寄せている頃だろう。どうだ? 人質を取られてもなお本気を出す気にはならないか?」
くぐもった声を聞き終えて、トランは声を上げようとした。
生半可な魔導じゃエイボンは揺らぎもしない――、と。
だが、声を上げるより早く、身を隠す廃屋の壁の一部がパンと音を立てて弾けた。土くれは宙でくるくると回転しながら、銀製のコイン状の物へと形を変える。
「〝瞳子〟……」
トランの呟くその眼前で、コインに刻まれたジト目の模様がウィンクした。心配するな――、とでもいうように。
そしてコインは砂となり土に還る。
それを見ながらトランは、ケータイに吊るされたブードゥー人形を一体もぎ取った。
「……言われなくてもこッちはこッちで手一杯だッての」
トランの右手で、人形は音もなく燃焼を始めた。