悪津ユエニ 2
〝勝者生存の街〟――。
〝不夜城〟の二階層に位置するのは、ツクリモノじみた月明かりに浮かぶ、カザリモノじみた街。
希薄な外観を払拭するような、煌々と輝く街の灯。それは色とりどりのジュエリーボックスを連想させて、尚更に浮世離れして見せた。
泡沫の夢と現。偽りと欲に満ちた悪徳の街。第一階層、〝灰の街〟の面影もない絢爛たるカジノシティ。
その一角、黒の外観に毒々しいまでの赤のネオンを灯したカジノハウス、その名を『アンダー・ザ・ローズ』。
そこでは様々な人種、そして人外の者たちがそれぞれの価値に応じたモノ目当てに、時に命ですら等価のギャンブルに興じている。
常に孕む熱気、それを階下に置いたアンダー・ザ・ローズの一室。同じ建物内とは思えぬほどにしんと静まり返ったその屋内で、一人の女性が横たわっていた。
窓から零れるキラキラとしたネオンの明かりに照らされる女は、まるでパーティー用に仕立てられた美しい細工のシャンパンゴールドのドレスを着ていたが、天井を見つめる瞳はおぼろげで見開かれたままだった。
どこからか飛んできた蝿が女の右の眼球の上で足を休めようとした時、フォークがそれを払う。
夜の闇に半分溶けるようにして、男がそこにいた。木製のテーブルに横たわる女の傍らで、革張りの椅子に腰掛け、黒のスーツの胸元にナプキンをかけた男が。
光の加減で紫がかって見える黒い髪と瞳。サラサラの髪の毛が真ん中で分けられたその額には紋様のような痣が刻まれていた。それは星型で、五つの先端が丸みを帯びた形はヒトデのようでもあり、花弁を広げた黒い薔薇のようでもあった。
逃げた蝿を男が感情なく見上げるのと同じくして、部屋の扉がけたたましい音を立てる。
扉へと振り返りながら、男がナプキンで口元を拭った。開け放たれた扉の先から白色灯の光が差した時、振り返った男の口端からは確かに赤い液体が滴っていた。
男の視線の先で、扉の向こうから転がるように入ってきた人影が床に蹲る。それは執事風の衣装を身に着けた、黒の長髪と褐色肌の持ち主。
蝿を見るのと同じ視線が向けられたそこで、先刻、〝灰の街〟で白魅との会見を終えた男は、苦痛に顔を歪めていた。
と、のそりと扉の奥から別の影が現れる。
鋼の如き筋肉の塊で形成されているような大男。精悍な顔つきをしたその大男は短髪に顎鬚を生やしていたが、そのどちらもが似合いもしない鮮やかなオレンジ色だった。
「やっぱりフリーランスなんぞに任せるもんじゃねぇなあ。『花嫁』の奪取は失敗だとよ。連中の使えなさに保険で雇った〝死〟も、これで無駄になっちまったってわけだ」
吐き捨てた大男は、蹲る褐色肌の男の腹部を躊躇いもなく蹴り上げた。
「所詮は我らが神となる子を孕むだけの肉に過ぎないとして、手に入れない訳にはいかないだろう? 取りあえず、俺が動いて白魅のガラを押さえるぞ。良いな、『ソニヤ』」
そして座ったままの男へと視線を預ける。大男の額にもまた、黒い花弁が開いていた。
わざとらしく間をもたせた後で、ソニヤと呼ばれた男はやはり感情もなく口を開く。
「今は派手に動けないと言ったはずだ」
納得できないとばかりに大男が唸る。
「失敗したとはいえ、白魅のヤツが何も知らないとは限らんぞ? 俺たちの『力』を使えばヤツが嘘を吐こうが情報を引き出すなど訳もないだろうが」
険しい口調の大男の言葉に揺さぶられる事もなく、ソニヤは平然と告げた。
「引き換えに白魅は死ぬが、な。今は三強との関係をこじらせる訳にいかないということくらい、お前だって理解しているはずだ。なに、時間もチャンスもまだ十分にあるさ」
そして、窓に覗くネオンへと視線を移す。
「今はせいぜい隠れるがいい。だが、必ず迎えに行くぞ……」
その時だった――。
――「誰をだい?」
まさしくその瞬間を狙い澄ました一言が告げられる。
扉を開けざま、当然のように口を開いたのは――悪津ユエニ。左の単眼が三日月に輝く。
転瞬、憤怒の表情で大男が叫んだ。
「貴様ッ‼ 古売屋如きがここになんの用だッ‼」
巨体を揺らし、今にも飛びかからんとした時、ユエニの背後の扉が木端微塵に砕ける。
大男の初動を収めるには十分すぎる演出だった。
ゆらと姿を現したのは巨大で白い塊。無骨で簡素ささえ感じられるつくりの球体、そこから生える銛のような五本の爪。ユエニの背後には、その頭部すら雑作なく引きちぎれそうな程のサイズをした『手』が浮かんでいた。
「感情的に突っ走るんじゃないよ、『ソウビ』ぃ。アンタ頭悪いんだからさぁ」
扉の奥へと消えていく巨大な手を振り返ることもなく、ユエニは躊躇いもせずにくつくつと笑った。
激昂する大男のソウビの後ろで、褐色肌の男も立ち上がる。
だが、ユエニは臨戦態勢の二人を無視するように、ソニヤだけを見つめていた。
「お食事中のところ悪かったねぇ、ソニヤ。だけどアンタ、アヴァロンに入り浸りでなかなかこっちに降りてこないだろぉ。こんな時くらいしか捕まえらんないと思ってねぇ。アタシったらもう辛抱たまんなくてやって来ちまったよ」
ソニヤは席を立つこともなく、口を開く。
「その割には十分すぎる装備じゃないか、悪津の社長さん」
ユエニは、不幸を連れ立ってきたかのような、帯までも統一した黒色の着物姿。その下から右半身を覆った黒い外装が覗いていた。
インナースーツのようにピタリと張り付く滑らかさとは裏腹に、物々しくごつごつとした突起が所々に突き出ている。
鈍色に輝く薄手の、しかして仰々しい籠手。その右手で適当に流した黒髪を掻き上げる。彼岸花の花弁がひとつ増え、後ろ髪に荒っぽく突き刺しただけの玉かんざしが、ネオンの光を受けて色とりどりに煌めいた。
「ちょいと前までこの街一番の勢力だった黒薔薇さんの居城に、身ぃひとつって訳にはねぇ」
それを合図に、全身を黒の外装で固めた集団がユエニの背後を埋めた。鈍色に輝く細身は宇宙服にも似た仕様。局所をプロテクター状の装備で固めて、頭部にはフルフェイスのヘルメット。
黒づくめの集団は揃いの自動拳銃、その六つの銃口を迷わずソニヤに向けた。
「泣いて喜んでくれても構わないよ。城を落とすにゃ心許ない兵力さ。言うなりゃアタシら平和の使者ってくらいのもんさね」
「『狂戦士の甲冑』の複製か。それはそれで戦争でも始められそうな代物だとしても、だ。古売屋の一個小隊に制圧されてしまう程度のものでは、街一番の勢力だったなんて言葉も、今はもう虚しいだけだな」
ソニヤは口元を拭ったナプキンを横たわる女の顔へと掛けながら、継いだ。
「力の陰りをまざまざと感じさせられるよ。つまりはこれが現実というものなのだ、と。望んで上を目指した代償とはいえ、失ったものの大きさには呆然とさせられるばかりだ。もはやカス札ばかりしか残されていないとは、な。易々と侵入を許してしまうようなカス札に、古売屋程度に内通するカス札。そんな手札じゃ、もうこの街でポーカーゲームも出来やしないだろう。……だとして、だ。たかが古売屋は古売屋らしく、身の程をわきまえるべきと思うが、な」
「おやおや、まだ前戯も終わっちゃいないのに。弱気とみせて、随分と急かすじゃないか」
「古売屋、お前は演出家としては三流以下だ。ならば、お前の過ぎる三文芝居に、俺がこれ以上つき合う必要がどこにある?」
「解ってないねぇ、ソニヤ。付き合いってヤツは必要さね、女には特にねぇ。焦らして、甘噛みして、蕩けさす。大した前戯もなしに、食うことばっかり考えてちゃあ、女の扱いが上手いとは世辞にも言えないねぇ。見て御覧よ、その女。呆れちまって言葉もないってさ」
掛けられたナプキンを震わすこともない女を指して、ユエニは他意もありげな言葉を吐く。
そして丸に笹竜胆の――『惡』の字の三つ紋入りの着物を捩らせて、意地も悪く笑ってみせた。
刺すような悪意に、ソニヤは肩を竦めてみせる。そして感情もなく言った。
「そんなに前戯が好きだというのなら古売屋、お前の醜い肉体もじっくりと愛でてやろうか?」
途端のことだった。黒い外装に覆われたユエニの右半身が震え出す。
弄られて痛み出したのは、物々しい鎧で隠したその内側。共振のように、黒い外装で覆った集団へと感染していく。
「ちょっと撫でただけで随分な反応じゃないか。なるほど、たかが前戯に拘る訳だ。敏感過ぎだろう、お前の肉体は」
フルフェイスのヘルメットは、一様にユエニへと視線を預ける。震えに、もはや定まらぬ銃口は戦意を喪失したかのように下に向けられていた。
「たかが人間の分際で、狂装〝ウールヴヘジン〟を纏い、正気でいられる精神力には感心するとして、所詮は無理やりに押さえつけているのだろう。十年前に刻まれた苦痛と憎悪を糧に、な」
部下の前でユエニは震えを抑えることもできなかった。強い疼きに、左手で右の眼帯を押させる。正確にはその下に眠る深い傷を。
顔色は見る間に青ざめていった。先ほどまでの饒舌ぶりが嘘のように、その口元からは荒い呼吸が吐き出されるだけだった。
ソニヤはユエニの過去を――傷口を、曝け出していた。完全に虚を突かれ、出鼻を挫かれたにも関わらず、主導権はすでにソニヤの元へと戻りつつあった。
出来やしないと告げたポーカーゲーム、例えカス札ばかりとはいえ、ジョーカーを持っていないとは言った覚えはない。相手のことを調べ上げた上で臨むのが心理戦の鉄則。だとするならば、一部の人間しか知りえない情報をこのタイミングで切ったソニヤの判断は間違いのないものだった。
現在のユエニを縛りつけたのは、ユエニ自身の過去。抗うことすら許されなかった少女が、歪んだ優越感の証明として右半身に刻まれたおぞましい傷跡。そして失った右の瞳。
ソニヤにすれば、そもそもが商売人の口車に乗って交渉の場に立つ必要などなかった。だとしても、その手腕は一介の商売人から戦意を喪失させるには十分だったはずだ。
「下らないな、古売屋。浅知恵を総動員した挙句、先に動揺したのが自らとは。俺のいる時を調べるためだけじゃなかったのだろう? 内通者に盗聴器を仕掛けさせたのは。俺とソウビとのやり取りから聞き得た情報で、これからの交渉を優位に進めようと思ってのことだったのだろう?」
ガタガタと震えるユエニは返す言葉すら絞り出せなかった。
「分をわきまえるべきだったのだ。しょせんお前は、父親離れ出来ないだけの小娘に過ぎやしないよ。黙って、しおらしく死んだ父親の情報を求めるためだけに、この街で古売屋稼業に専念するのがお似合いの、な」
ソニヤは革張りの椅子にゆったりと腰かけたまま、しかし完全にユエニを見下しながら継いだ。
「お前が何を考えてここに来たのかは知らないが、その本題にすら触れさせず交渉を終えてしまって申し訳ないな。だが古売屋、これでおしまいだ。お前の芝居も、小道具ももう不要だよ」
ソニヤがちらと一瞥した先で、褐色肌の男が頷く。
すんと鼻を鳴らした男は部屋の隅を見上げた。その視線から逃げるように、部屋の角の陰影と同化していた影が動く。黒い埃にも似たそれは一匹の羽虫だった。
その翅を翻す直前に、褐色肌の男は羽虫目がけて跳躍する。
虫は――交渉における優位性は、男の右の一振りで容易く砕けた。
だが……。
「――それならそれで気付いて然るべきだろうけどねぇ」
真紅の唇が滑らかに動く。
ユエニの顔には、無慈悲な嘲笑が張り付いていた。最初からそんなもの無かったとでもいうように、右半身の震えはすでに止まっていた。
褐色肌の男は確かに羽虫型の盗聴器を屠った。だが同じくして確かなことがあった――宙に留まる男は体を変えられない。
男の眼前に向けて、巨大な影が走った。
大男のソウビですら霞んでしまう、巨大で白い球体。突然の出現は一瞬の内に空気が詰められた風船にも似ていた。
床に亀裂が走り、二つの穴が生じる。床に叩きつけられたのは、球体から生えた不格好な二本の腕、その反動で球体は宙へと飛んでいた。
轟という音が空気を震わせる。力任せに振るわれた右腕に、銛の如き尖端が伸びる。それは刃物というより鈍器を思わせる五本の爪。
すでに事は終わっていた――空間ごと、巨大な右腕が薙いだその時には。
羽虫を砕いた次の瞬間には、褐色肌の男自身が真二つに切り裂かれていた。
「貴様ッ‼」
男の二つの半身が床に落下していくその中で、ソウビが吼え、力任せに右拳を振るう。
ハンマーで殴られたようにへこみをつくった白い球体は、窓ガラスを粉々にして、〝勝者生存の街〟のネオンの中へと消えていった。
砕け散ったガラスの欠片が、街の灯を受けてキラキラと輝く。
だが、ユエニは球体を目で追うこともない。単眼は、二つに裂かれた男へと向けられていた。
「狼男の鼻がいいってことくらい先刻承知。だからその留守を狙って盗聴器を仕掛けた。ってことは、だ。狼男が見つけることも想定してるってさ、気付いて然るべきじゃあないかい」
嘲笑を張り付けたままのユエニだったが、
「最初からそれが狙いか」
苦虫を噛み潰すようなソニヤの言葉を聞いては、たまらず声を上げて笑いだした。乗る必要もない口車に乗せられたアンタが悪い――、とでもいうように。
考えるまでもないことだった。
今この場においては二人の思惑は別物。自身の領分に土足で上がりこんだ身の程知らずに力を誇示しようとしたソニヤと、ただ交渉の場に立ちたかったユエニ。
仕事という観点において、その時点で商売人の本懐はほぼ遂げられていた。
ソニヤの失態は、商売人を交渉の席に居続けさせたというその一点に他ならない。
「この程度で不死身の狼男が死ぬこたないだろが、それにしたって厄介だからねぇ。この憐れな吸血鬼どもの忠実な番犬は……てか、まあアンタらは実際吸血鬼っていうより、どっちかっていったら蜜飴に近いんだっけかぁ」
不敵にも、この瞬間に主導権を握って交渉を始めたユエニ。情報戦というなら、ここかららが商売人の本領発揮だった。
悪津商会は古売屋、その商品は値の付くものなら形があろうがなかろうが。商売相手の情報くらい当然押さえてある。ポーカーゲームは終わっちゃいない……
……しかし、驚愕の声を上げたのは、意外にも黒づくめの集団の中からだった。
「――えっ、そうなんスか!」
力なく首を垂らしたユエニ。仕事の場であることも一瞬忘れて、袖から出した禁煙パイプを口に突っ込んだ。
「蜜飴ぇ、なにしてんだいアンタ?」
黒づくめの集団のひとり、フルフェイスのヘルメットを外したそこには、ビビッドピンクのショートヘアー。
「なにって、シャッチョの護衛に決まってるじゃないっスか」
蜜飴はあっけらかんとして答えた。
ユエニは禁煙パイプを、吸う、というよりもはや齧っていた。
「だーかーらぁ、アンタは戦闘要員じゃないって言ってるだろう」
蜜飴は、ユエニの小言に付き合うつもりはないらしい。話題をさっさと変えた。
「それよりいーんスか? ここ地上二十階っスよ。落っこちた銀足さん、たぶん死んじまってるっスよ」
項垂れるユエニの影から、少年の声が聞こえる。
「ワシはピンピンしとるわ」
その声に、蜜飴はあからさまに舌打ちして。
「ああ、あれが気配に重さを分け与えるって例の能力、〝雪足〟ってやつっスか。なんだ、落っこちたのは本人じゃなかったんスね」
それはそれ、とさっさと話題を変える蜜飴は目を輝かせて、
「それよりなんスか、さっきの。黒薔薇どもが、アメコたちアカナメ寄りって話……」
だが。
「古売屋、貴様どこまで知ってるッ‼」
井戸端会議よろしく、瞳を輝かせて尋ねる蜜飴の言葉は遮られる。
蜜飴の再びの舌打ちを無視して、ユエニが左の単眼を大男へと向ける。憤怒に満ちたソウビを見据えてなお、ユエニはのんびりと言った。
「ソウビぃ、アンタは声帯まで筋肉で出来てんだからさぁ、めたらやったら叫ぶんじゃないよ」
侮辱であったとしても、その言葉を待っていたと言わんばかりにソウビが拳を握り締める。
一撃で巨大な球体を屋外へと弾きだすさまを見せつけられた黒づくめの集団に、緊張が走る。揃いの自動拳銃の照準を慌ててその巨躯へと合わせた。
ユエニ――、自身のすぐ間近で臨戦態勢を整える銀足が呟くのと、ソウビがその一歩目を踏み出すのは同時だった。
怒りに顔を上気させつつも、これから自らが振るう暴力を想像してか、笑みすら浮かべる鬼人。しかし、その背後にいるソニヤの顔に、動揺の色は既にない。
おそらく、この後の展開を受け入れたということだろう――ユエニの思考はそう結論付けた。つまりは暴力で決着をつける、という筋肉莫迦の単純明快な思考に則るのだということを。
蜜飴のせいで交渉のペースは完全に横道に逸れた。ここからの修正は不可能だろう。部下の躾けがなっていないと言った玩木屋のジジイの顔を思い出しては、なおさら食傷気味にも拍車が掛かる。
だがそれより何より、黒薔薇をこれ以上刺激するのは得策でない、と背徳の街を生き抜いてきた本能が告げていた。
小さく嘆息した後でユエニは呟く。「潮時だろうねぇ……」
正直戦争はゴメンだった――あくまで自分は商売の為に交渉の場にいるのだから。
「……取りあえずどこまで知っているかというのなら、アンタら作黒薔薇が純粋に血を求めてるって訳じゃないってことくらいのものだねぇ。雑食性かも、なんて話に関しちゃあ、そこいらの噂好きと変わらないよ」
ユエニは声を張り上げた。駆け引きも何もない、本心からの一言だった。
その後で、降参とでもいうように軽く両手を挙げる。
鈍色に輝く籠手、その『右腕』が小刻みに震えた。
それは、自身の傷を塞ぐように半身を塞いだ、巨大な絆創膏の一端――狂装・〝ウールヴヘジン〟。
ソニヤが言った通り、精神力で抑え込んでいるといえば聞こえはいいが、つまりはユエニの心地よい憎悪を拠り所に住み着いているだけの代物だった。
コントロールなぞあってないようなもの。ユエニを守ることなど二の次で、自らに対する敵意を察知するや自動で破壊の限りを尽くす殺戮兵器に過ぎない。この瞬間にも〝ウールヴヘジン〟は、生唾を呑むような、嚥下反射の姿勢を整えている。
とはいえ、ユエニはご所望ならば、身に着けた鉄壁にして大量殺戮兵器たる外装を脱ぎ、傷跡もいまだ生々しい肉体を曝すことすら意に介していなかった。
自身の心的外傷が誰かの慰みとなって、交渉が捗るというのなら価値もあろう。ユエニにすればその程度のことだった。心的外傷なぞ、交渉の手札にも過ぎなかったのだから。
しかし、そうはならなかった。
「止まれ、ソウビ」
ソニヤの声が屋内に響く。紛れもなく停戦のための言葉。
それが自身の言葉が本心からのものであると気付いたからであろう、そう察したユエニではあったが、射るように自身に向けられているソニヤの視線を受け止めては背筋を何か冷たいものが伝う。それは限りない程の修羅場を潜り抜けてきたユエニだからこそ感じとれた直感的な何か。
たった今――死線を回避した。そう本能が告げていた。
男の漆黒の瞳は、まるで深淵のようだった。
他人の人生なぞ思うがまま、とユエニは自負している。しかし、言葉もなく男は告げていた――人の命ですらがなんの価値もないものだ、と。
ソニヤの本性を垣間見た気がした。価値観の違いという言葉では計り知れない、本性の違いを。
連中は紛れもなく捕食者だ。だとして自分たちは餌にも過ぎない。人の皮を被っちゃいるが、交渉の真似ごとですら気まぐれで付き合っただけだ。狂装〝ウールヴヘジン〟の、自立神経反射による見敵迎撃機能ですら、間に合わなかったかもしれない。
おそらく殺されていた――自分が外装を脱いでいたなら。これ以上ソニヤを踊らせていたなら……。
喉の渇きを覚える。それでも余裕綽々の笑みを浮かべた。怯えを気付かせないために。
ソウビはわなわなと震え、だがソニヤの言葉に従った。八つ当たり、部屋の壁を踏み抜く。
三つの穴が部屋の壁に刻まれる頃、この日初めてユエニは、ソニヤと正面から対峙した。その時には、既に恐怖を外装の最奥へと封印し、商売人の表情を取り繕っていた。
横たわる女に目もくれず、ソニヤはテーブルの上で指を絡ませる。
「それで小売屋。結局のところ、この交渉における落としどころを、お前はどこに持っていくつもりだったのだ?」
右の籠手に挟んだ禁煙用のパイプで騒々しく頭部を掻く。オールバック風の黒髪は乱れに乱れ果てた。
そしてユエニは視線を逸らすこともなく、図々しくも言葉を吐いた。
「古売屋はねぇ、必要性があるモノならなんだって買い取るのさ。いつ使うとも知れない情報だって、力を失った者の所有する分不相応な金のなる木だって、ね」
「狙いはこのカジノ、か」
不躾な言葉を聞かされてなお、ソニヤは口端を緩める。
それもまた、ユエニがこの日初めて見たものだった。そして同時に、ユエニは受け入れざるを得なかった。このゲームの終幕を。
「そのつもりだったんだけどねぇ」
だから、早々と続けた。
右の眼帯を掻きながら、力なく笑う。費やした労力には見合わない成果に、無性に煙草が吸いたくなった。
「まあそんなとこさ、いらなくなったらいつでも言っとくれ。アンタんとことは長くお付き合いしていきたいからねぇ、それなりに色はつけるつもりさ。さて。邪魔したねぇソニヤ、なんなら部屋の修繕費は商会に請求しておくれ」
禁煙用のパイプ。それを投了の合図のように、ユエニは再び咥えた。
だが、それでも最低限の成果は遂げたはずだ――とユエニは一人納得する。ゆえに、この街における必要性と重要性を知らしめるべく、最後の言葉を告げた。
「値の付くものならなんだって、てぇのが古売屋の信条。良かったら頼ってくんな。悪津商会にはなんでも取り揃えてあるよ。無くした誰かの宝物だろうが、――花嫁だろうが、ねぇ」
その言葉に瞳を厳しくしたソニヤを置き去りに、ユエニは『惡』の三つ紋を翻した。