藤林ココロ 2
「――来たみたいだゼ」
今にも崩れ落ちそうな五階建ての廃ビル。その三階部の窓から、離れた別の廃ビルを覗き見ていた彼女はそう言った。
「特徴はどんなだ?」トランが訪ねると、
「うーん、ちょっと待て、よ」
そう言って彼女は――千枝者原キキは、瞳を細めた。
灰沢トランと藤林ココロが激闘に終止符を打ってのち、傍らの橘神結は安堵と未だ燻る危機感の中で実にぎこちない笑みを浮かべていたが、思い出したように表情を変えた。
「そういえば、その人がもうすぐここに誰かやって来るって……」
トランが鋭い視線を送った先で、『その人』こと白魅鍔鳴がもはや約束事のように「はい、スイマセン」と憐れな声を発した。
どうしてそんな重要な事黙ッてた――つい数分前までは神結のウェディングドレス姿に爆笑していたトランが機嫌を損ねるより速く、ココロが口元に人差し指をつき立てた。
階段を昇るコツコツいう足音の後、開いた扉の先で人影が姿を現す。
構えるトランとココロの背後から神結が覗くと、その人物は以外にも女性だった。
目尻が少し吊り上がり気味のはっきりとした二重瞼の瞳と、ショートヘアは翡翠色。
神結以上に特殊な外見をした彼女の口元で、バブルガムが膨らんでいる。それがなんだか不思議系少女に、ボーイッシュな雰囲気を加味して見せた。
どこかシスターを連想させる衣装は、黒の修道服に似た作り。胸元の第一ボタンを外し、バッジやピンなんかをいくつか付けて適度に着崩したそれに身を包んだ彼女は、バブルガムをパチンと破裂させた後で呆れ果てたように言った。
「やっぱり、あんたたちかぁ」
神秘的な翡翠色の彼女の口元、弾けたバブルガムからグリーンアップルの瑞々しい香りがあたりに拡がる。
秘め事が見つかった者よろしく、バツの悪そうなトラン。対照的にココロは声を弾ませた。
「キキちゃんだー。なんか久しぶりだね、キキちゃん」
悪態でもつくようにトランが続ける「でェ、キキ。なにしてんだよ、こんなトコで」
「なにしてんだ、じゃないゼ。おれは〝魔導〟の反応が〝灰の街〟の中で感じられたってエイボン先生が言うから、こうして見に来たんだよ」
キキと呼ばれた翡翠色の彼女は、早口でまくし立てた後、神結の存在に気がついた。
口を衝いて出るのは誹謗中傷ばかりのトラン。代わってココロが説明する。
聞き終えたキキは、神結へと歩を進めると、こんなことを言った。
「へえー、じゃあおれたちと一緒だネ」そして続けて、
「よろしくカミーユちゃん。おれは千枝者原キキってゆうんだゼ」
緩ませた瞳の、印象的な翡翠色に釘付けになりながら、
「こちらこそよろしくお願いします」何に対してかも分からぬままに神結は答えていた。
自分より少し背の高い彼女の瞳に見とれていた神結は、トランの声で我に返る。
「ッて、のんびりしてる訳にゃいかねんだよ、キキ。その迂闊なバカ女が黙ッてたせいで後手後手だッ。もうすぐここにやッてくるヤツと鉢合わせする前にさッさとずらかんぞ」
遠慮なく放たれたトランの非難に、神結が声を詰まらせた隣で、ココロが口を開く。
「でもさ、トラちゃん。それならそれで証拠隠滅とかしなくていいの? 白魅だってこのままって訳には……」
「その必要はねェよ」ココロの話を中断させてトランが続ける。
「コイツらは仲間割れの挙句、バカ女の捕獲に失敗した。そんなトコでこの話は終わりだ。白魅はここで下手打ッたなんてばれりゃ今後の仕事の信用、更には本業の方にも支障が出る訳だから絶対口は割らない。なァ?」
「はい、スイマセン」と合いの手。
「それに外刀工の白魅といえば『キスアンドクライ』でもそれなりに名の通ッた刀工。そのマニアは三強、『鞍馬』んトコにも、『大蛇』んトコにも多勢にいんだろさ。下手にソイツらと揉めようなんてヤツもいねェだろ? そんな訳で白魅が消される事もまず無ェよ。だから……さッさと服着て必死で嘘つけよォ!」
「はい、スイマセン」痺れ気味の足で、ヨロヨロと白魅が立ち上がる。
「そんで俺たちはさッさとずらかんぞ」
タバコを咥えながら、トランは足早に扉へと向かう。
流れる紫煙に導かれるようにして、残った三人も後に続いた。
四人は廃ビルを後にする。
そして……。
四人は白魅のビルの斜向かい、さらにその隣に位置する廃ビルの三階部に身を潜めていた。白魅のビルからは、百メートル以上は離れているだろう。
しばらくして、白魅が一人残る部屋の窓、爪ほどの大きさにしか映らないそれを遠目に眺めていたキキが、「――来たみたいだゼ」と、言った。
いつ止むとも知れない白の灰が、空から舞い落ちては積もることもなく闇に溶けて消えていく。その景色は変わることなどなかったが、それでも夜は存在するというのか、数分前に比べ、街を覆う闇が色濃くなったように感じられた。
宵の闇に呑まれ、もはや窓の位置など何となく分かる程度の視界の先で、千枝者原キキは確かにそれを視認する。
不思議系少女の外見に、大人の真似をする少年のような話し方のキキ。
「男、だネ。さっきのヤツより更に背が高い……ナンてんだろ、紳士、ってゆーより、執事風の衣装……褐色の肌に、黒くて長い髪……」
と、「ああっ‼」神結が声を上げた。
どうしたの、と尋ねるココロに、制服に着替えた神結が継ぐ。
「すっかり忘れてましたっ! あの廃墟に女の人がいたんです、赤毛のっ!」
擦り切れた格好と、色褪せたブリュネット――記憶を頼りに思い出す。廃墟でお色直しを担当していた、虚ろな瞳の女のことを。
お前はまたそういう大事な事を――トランのジト目がそう言っていた。だが、神結が視線を逸らした先でココロが言った。
「オレが乗り込んだ時には、そんな人いなかったよ」
そして、トランもそれに同意する。
「おれも見てないゼ」小さく振り返ったキキも小声で継いだ。その後で、口元に人差し指を立てると、件の廃墟に顎をしゃくった。
「静かに。あれ『ライカン』だゼ、それも『人狼種』。アイツら夜目が利かない代わりに聴覚と嗅覚は優れてるからさ、あんまり大きい声は出さない方がいいゼ」
キキの大きな瞳に浮かんだ厳しい色に、意味も分からずに神結は慌てて口元を塞いだ。
その傍らのトランが小声で、「ふゥん、じゃあお前と一緒だな、『バケネコ』」
今度は振り返りもせずに、キキは見事なローキックをトランに命中させた。
「確かにキキさん、猫っぽい人だけど……」
怒られそうだからその渾名には触れずにおこう――と、神結は神妙に頷く。
「……あっ」キキが小さく声を上げた。
「もう一人、誰か来たゼ」
神結は窓を遠くに眺めたが、今や漆黒の闇はその正方形すら形作らせてはくれなかった。
隣のココロは筒状にした掌越しに窓を覗いてみたが、「うーん」と唸ると彼特有の人懐こい笑顔を浮かべて、ダメでしたとジェスチャー。トランに至ってはキキから伝えられる情報頼みなのか、その輪に加わろうとすらしない。
「でェ、今度のヤツの特徴は?」
やっつけ仕事のように尋ねたトランだったが、
「うーん、とネ……黒に限りなく近い灰色の髪、膝下に届くくらいうんと長いゼ……包帯みたいに全身グルグル巻きのあれは……拘束衣、かな? ……そんな感じだから男か女かも……」
キキの言葉を聞いて表情を変えた。
自身の右隣に〝黒棺〟を展開すると、コインロッカーの闇を漁る。取り出した双眼鏡を構えながら、キキの隣に陣取った。
「なんだよランちゃん、双眼鏡持ってるなら持ってるって言ってくれたらいいじゃん」
口を尖らせるココロの言葉も耳に入らない程に、灰ビル内の光景に釘付けのトラン。
仕方なしに神結とココロは、キキからの情報頼みで耳を傍立てる。
「あとは、褐色執事と同じくらい背が高いってことくらいしか、あっ、まてよ……」
何かに気づいたキキの言葉を待つ。
「……顔はさっき言った通り良くわかんないけど、右目は間違いなく義眼だゼ……なんか模様か記号みたいのが刻まれてるけど……さすがにこの距離じゃ判別できな…きゃっ!」
ボーイッシュな実況中継の最中にあって図らずも少女の悲鳴を上げたキキに、ココロも神結も目を見合わせる。
顔を分かりやすいほどに赤らめて、視線を二人から逸らしながらキキは、
「いや、さあ、拘束衣のヤツが急におれの方に視線を向けたもんだから、目が合ったような気がして、ちょっと驚いちゃった、の、よ……ゼ」
歯切れ悪くゴニョゴニョと話すキキに、二人で大きく頷いてみる――なんだか少しほっこりしながら。
そんなやり取りの最中にあって、トランだけが無言のままで双眼鏡を凝視していた。
「もう行ったみたいだゼ」普通の声音でキキが言ったのは、少し経ってのことだった。
間もなくして、廃ビルから飛び出してきた白魅が、脇目も振らず宵闇の中を駆けて行った。
「全然わかんなかったよ」手筒の双眼鏡をキキに向けながら、ココロが言った。
「ライカンはビルの屋上から屋上に……ほら、なんてんだっけ? そうそう、パルクールでも決めるように飛んでは翔けてっちまったゼ」
夜目冴えるキキに、感嘆の声を漏らすココロ。
対照的に、神結の顔には緊張の色が灯る。
「……でも、その人が、鼻がいいっていうなら、また戻ってくるんじゃ……」
キキの言った『嗅覚が優れているらしい』という言葉。それを勘が良いと解釈した神結の心配を、トランはさらりと打ち消す。
「その心配はねェ、ソコはちゃんと手は打ッてある」新しいタバコの煙をふうと吹いて、
「結局、女、お前をさらッた理由は解らずじまいだが、少なくとも連中の正体は解ッた。〝不夜城〟広しといえ、人狼のライカンを飼ッてんのは『黒薔薇』の連中くらいのモンだ」
トランの発言を受けて、ココロが声を上げる。
「そっか! ジャガーノートだっ!」
その後で、両手を打つココロの古めかしいジェスチャー。
「カミーユちゃんを誘拐しようとした黒幕は、『黒薔薇』の一族だったんだ。連中は最近、〝私的楽園〟に進出したばっかだもんね。子飼いの攫い屋、ジャガーノートはこないだトラちゃんがぶっちめちゃってるし、自分たちは派手に動けないもんだから、よくある人攫いに見せかけるために、白魅一派に誘拐を依頼したって訳だ。手間のかかる記憶消去の術式を成功させたところで、当のカミーユちゃんを攫ってこなきゃ意味ないもんね」
「まァ、及第点ッてトコだな。魔法における解答ッてのは、その必然性にこそある。魔法ッてのは、とどのつまり、ある理由や目的をなす為の手段であり、その結果としての事象に過ぎねェ――ッてな。カミュの記憶消去の術式で言うなら重要なのは、『誰が』じゃなくて『何のために』、ッて事になる訳だが、……まぁ、コロにしちゃ今のは良い線行ッてたと思うぜ」
トランは、一応の解答に至ったココロに頷き、なんとなく理解したようなキキに軽く肩を竦め、最後になんの事やら理解不能できょとんとしている神結を見て、舌打ちした。
「つまりだなァ……」口を開きかけて、完全に面倒くさくなったトランは、
「……コロ、ここの事、カミュに説明してやれ」さっさとココロに話を振った。
神宿区、傾舞奇町――『不夜城』と呼ばれる街。
大規模な浄化作戦が着々と進行するその中で些少の変化が生じたとしても、眠らない街であることに変わりはない。
その傾舞奇町の一角、人の往来も稀な逢魔ヶ通りに建つ、外見上は借り手も見つからぬまま野晒しにされたような三階建ての無人ビル。それをココロは――真の〝不夜城〟と呼んだ。
真の〝不夜城〟――。当初どのような姿をしていたか、もやは想像も出来ないが、それが初めてこの世界に出現したのは、今から数百年も昔の話と言われていた。
仮初めの平和など持て余すように、人同士が血で血を洗う歴史は今も昔も変わらない。
だが、その数百年の歴史の裏には、妖怪や人外と呼ばれる存在が確かに存在していた……。
「……例えばカミーユちゃんを追ってた、火トカゲの不知火と鎌鼬の旋って一族の二人も――」
一旦、話の腰を折って、ココロが先刻の顛末に触れようとした瞬間、
「お前の武勇伝はどォでもいいんだよ、コロ」無慈悲にトランが吐き捨てる。
自身の右手と左手に刻まれた〝陰陽五行風水術〟の印を介して、タトゥー男のザラキと、ピアス塗れのシイラギから喰らった〝火〟と〝風〟の力。それは、体内の脈を巡り、丹田に刻まれる五行の〝金〟術で厳重に封印された存在の糧となった。
龍を喰らう龍――〝波旬〟。
己が野望を成就する為、第六天魔王と呼ばれた男が持ち込んだとされるそれは、伊賀藤林家の末梢たるココロが託され、その肉体に封印した災厄。
いかにしてタトゥーとピアスの二人組を退けたのか――お気にのパーカとジーンズを消失する羽目になった件と、そしてそこには〝波旬〟の存在という結構繊細な事情なんかもあったりするのだが、実にバッサリとトランに割愛された。
乱暴な扱いを受けるココロの代弁者のように、彼の内なる存在が腹の音を鳴らしてみせた……。
歴史の裏に存在してきた、妖怪や人外。一括りにそうは呼んでも、一概に人に害を及ぼす訳ではない。
しかし、人の世など簡単に覆せる程の強大な力も、確かに存在していた。
今や〝不夜城〟の三強と称される三つの勢力。
天狗の『鞍馬』。
八岐の大妖、『大蛇』。
そして、強大な力を有する『鬼』と呼ばれる一族。
思惑は違えども互いを嫌悪しあう三者の間で踏み躙られてきたのは、人であれ、人外であれ、弱き命であった。
そんな時代が長らく続く中、この東洋のちっぽけな島国に、名も知れぬ『大魔導師』がやって来たとされるのが今から数百年もの昔の話とされている。
弱き命に心を痛めたかどうかはもはや解らないが、この島国をいたく気にいったらしい大魔導師は、三強にひとつの提案をしたそうだ。
場所は自分が用意してやるから、そこで好きなだけ暴れるがいい――。
元々が小さな島国ひとつ容易く壊滅させられる程の力を有する三つの勢力は、意外にもあっさりとそれを承諾した。
大魔導師は三日と掛からずに、三者が満足できるものを創り上げた。それが――〝不夜城〟。
現在とは外見も中の構造も違っていたが、自己演算により自動で膨張と拡大を続ける仮想現実の世界を、魔法の力を持って顕在させるシステムは、長き歴史において最初にして最高の〝大魔導〟と呼ばれている。
以降、未だ成功者の現れない、本来なら決して相容れぬはずの科学と魔法のハイブリッド。それを大魔導師は創り上げた。今から数百年もの昔に、だ。
以来、いつの間にか歴史から姿を消した大魔導師のことなど忘れ、三強は〝不夜城〟内で終わるとも知れぬ陣取りゲームに明け暮れているらしい。
三つの階層から成る〝不夜城〟。その最上階である第三階層、選ばれた者にしか立ち入ることの出来ない――〝私的楽園〟に三強はそれぞれ拠を構えている。
当初は人間社会での共生を目指していた妖の類や、闇に魅かれた人間たちで現在人口増加の著しい第二階層の名を――〝勝者生存の街〟。その割合は鞍馬一族傘下が三割、大蛇一族の傘下が二割、いかがわしい商売を体系的に取り扱う『組合』と呼ばれる連中が三割、残りの二割が白魅のようなフリーランスの連中といったところだ。
そして、最下の第一階層が、力無き者や〝勝者生存の街〟での競争に敗れ降ってきた者たちが隠れ住む――〝灰の街〟である。
「――搭を、〝灰の街〟から天を衝く、光の柱をカミーユちゃんは見た?」
ココロが尋ね、神結が頷く。
今、この瞬間にも白魅の灰ビルの奥に、その一端を微かに灯すぼんやりとした光の柱。
「あれは下の階と上の階、〝灰の街〟と〝勝者生存の街〟とを繋ぐエレベーターみたいなもの。通称、〝天国の扉〟。乗り降りは簡単。だけど命がけ。それでも、わざわざ案内人を雇ってまでやってくる、あの街の毒気におかされた人間も後を絶たないんだけどね」
苦笑を浮かべた後で、ココロは真っ直ぐに神結を見つめた。
「〝勝者生存の街〟から伸びる〝天国の扉〟は、当然最上階にも繋がってる。〝私的楽園〟進出に至る条件は特にないんだけど、下手に力を持ってると三強に対抗勢力と認知されて潰されかねない。最近〝私的楽園〟に進出した一族に、『黒薔薇』って呼ばれる連中がいるんだけど、少ない手駒は伏せてるはずだから、わざわざ白魅たちフリーランスの人間を雇って、隠密裏にカミーユちゃんを攫うつもりだったんだと思う」
なんのためにか――?
それを答えることは結局出来ないままに、ココロは話を締めくくった。