プロローグ
不夜城――神宿区、傾舞奇町。
昼から夜へと変わりゆく夕暮れ時、この街は本来の姿を取り戻し始める。
クリスマスカラーも鮮やかな十二月の通りに、ネオンが灯り始める頃には、着飾った女性たちや客引きの姿。華やかな外観と人々の往来に、どこからと知れず纏わりつくのは合法、非合法取り混ぜた独特の空気。
それが東洋一の歓楽街、不夜城と呼ばれる街。大規模な浄化作戦が敢行されつつあったとして、この街が眠らない街であり続けることに変わりはない。
そんな夜の住人達が行き交い始めた歓楽街を、一人の少女が駆け抜けていった。
お世辞にも上手とはいえないフォーム。白い息を切って駆けるたび、ふたつに結ったおさげが揺れる。それは、トリコロールのビーズ玉で結われたナチュラルなブロンド。
大きな瞳は澄んだ空のような紺碧の色をしていたが、そこには恐怖が張り付いている。
身に着けているものがキャメル色のブレザーじゃなければ、小学生でも通りそうな華奢で小柄な体躯は、文字通りの少女のからだ。砂埃にまみれ、未成熟なからだのあちこちに擦り傷を負った少女は、いまだ大人の庇護が必要と思えそうな程に弱々しい。それは他人から見れば虐待からの逃避として映ったかもしれない。
だが、人の波は次から次へ。ただのシルエットとして少女の傍を通り過ぎていくだけ。
その影に少女は何度も「助けて下さい」と叫んだ。
なのに、彼女の声は誰にも聞こえない――。
そして、彼女の姿は誰にも見えない――。
少女のすぐ後ろで獣が息を荒くするような音が聞こえた。
細い足で必死に駆けながらも、少女は背後を覗き見るように首を動かす。見るなと言われればこそに見てしまう、人の性に逆らえないように……。
しかし少女は背後を見る前に、視線を止めた――『それ』を見つけたからだった。
彼女の視界に突如出現した、一際濃い黒。賑わい始めた街のネオンとネオンの間にポッカリと開いたそれは、眠らない街には場違いな一本の細い路地。
少女にはそれが壊れ始めた現実の象徴、つまりは世界の歪に見えた。
だったら――、と彼女は思った。
「だったら、こっちから飛び込んでやるんだ」
思いを口にした少女は全力で駆けると、躊躇する間もなく、黒で覆いつくされた路地へと飛び込む。まるで不思議の国へと通じる穴へとアリスが飛び込んだように――。
彼女のからだは一瞬のうちに闇に呑みこまれた。
そして、『物語』は始まる――。