21. 浄められる水
「立てますか?」
キアランの問いに私は『はい』と答え、彼の手を借りて立ち上がった。
まだ少し頭がふらつく。
私は思わずキアランの腕にすがり付いた。細身とはいえ、男性のしっかりとした腕に支えられて、安堵の息をつく。
もう一度抱き締めてくれないかしら――ぼんやりとそう考えた後、私は慌ててパッと手を離した。
「ロージー?」
「あ……蝋燭を消してしまいますね」
何とか落ち着いた声を出せた。
何をしているのかしら、私は。年下の、大人になったばかりと言ってもいい相手に、甘えて寄りかかろうとするなんて。
恥ずかしくて、顔が熱くなる。
両手で頬を押さえておろおろしている私の足元に、犬がまとわりつく様に身をすり寄せて来た。ずいぶんと人慣れしているようだ。
「この犬はどこの子なのかしら?」
「その苔みたいな緑色をした犬の事ですか?」
「ええ、そう――えっ?」
どうして、キアランに犬の毛色が分かるのだろう?
「それは、妖精犬ですよ」
「クー・シーって、幻獣の?」
「見るのは初めてですか?」
「ええ。ロッドは水系魔力の強い血筋ですから。妖精犬は風元素の幻獣でしょう?」
「よくご存知で」
「一通りは学びましたのよ。でも、妖精犬って、もっと大きいのだと思っていましたわ」
「大きいのもいますよ。貴女を怖がらせないように、少し小さいのを召喚しました」
「わたくし――?」
「貴女を捜すために召喚したのですよ」
「まあ……」
キアランは、クスクスと笑った。
「貴女はまだ分かっていないようですね」
「何をですの?」
「そうですね……先ずは戻って朝食にしませんか? そうすれば少しは分かると思いますよ」
キアランは片手を差し出した。
私は少しためらってから、その手を取った。
いつも過ごしている城の中心部に戻る途中で最初に会ったのは、ギャラガーだった。
「奥方様! ご無事でしたか!」
ギャラガーの大きな声と、飛びついて来そうな勢いに私はピクリとおののいた。
「奥方は、早朝からお前を起こすのを遠慮したそうだ」
キアランの声が冷ややかに響く。
「早く奥方の信頼を勝ち取る事だな。次はないと思え」
「御意」
ギャラガーは胸に手を当て、頭を下げた。
ギャラガーは悪くないと思うのだけれど、二人とも私の考えとは違うらしい。
「ネズミは捕らえたのか?」
「全て。ダンカン殿が牢に入れました」
「見張りを増やすように伝えろ。その後は、いつものように待機するように」
「承りました」
ダンカンは一礼すると、風のように走り去った。
少し行くと、ギャラガーが去った方からパタパタと足音がして、今度は私の侍女見習いの少女、エリーが顔を出した。
「ほんとだ! 奥方様いたぁ! ご無事だったんですね」
言葉遣いを直したいところだったけれど、彼女の泣きそうな顔を見て、私は言葉を飲み込んだ。
ただ私の姿が見えないだけでこんな騒ぎになるはずがない。この短時間で何かがあったのだ。
「キアラン様?」
「話は後にしましょう――エリー、奥方は気分が優れぬ。今日は執務は休み、部屋で過ごす。食事は部屋に運ばせよ」
「はいっ! じゃ、厨房に知らせて来ます」
エリーは軽く膝を曲げて礼をして、淑やかに戻って行った――と、思ったのだけれど。廊下の角を曲がったなと思った途端、
「みんなぁ! 奥方様いたよぉっ!」
「あれは、侍女としてはどうなんです?」
キアランが苦笑した。
「失格ですわね。でも三年もすれば、一人前になれると思っていますの」
「気の長い話だ」
それから会う人ごとに『ご無事で何より』と笑顔を向けられた。厨房のコナーに『精の付くもの食べた方がいい』と、よく分からないお薦めを受けた頃には、私は、キアランの言葉の意味が分かった気がした。
「自分で思っていたよりずっと、わたくしは重要人物だったのね」
私はキアランを見上げて言った。
「貴女はここに無くてはならない人になってしまったのですよ」
キアランが面白がるように答える。
「奥方様はリンゴのハチミツ煮の方がお気に召すよ。男は何にも分かっちゃいないんだから」
厨房の、古参の老婆が呆れたようにコナーの背中を叩いた。
私はこらえきれずに声を立てて笑った。
キアランが驚いたような顔をした。
「わたくし、ここが好きだわ」
キアランは繋いでいた手を手繰り寄せ、私を胸に抱き締めた。
「私もですよ。ようやく、この地が好きになれそうです」
それは、振り絞るような小さな声だった。




