20. 祈りの石 願いの水
いつからだろう?――ふとした瞬間に幸せだ、と思うようになったのは。
時々、自分の笑い声に驚く事がある。キアランといる時のふわふわとした感情にも。
それと同時に、不安も感じる。
こんな穏やかな日々が続くのは、いつまでだろう?
「早起きですね」
寝台の中から、キアランが眠そうな声で言った。
「習慣ですから」
私は身繕いしながら答えた。
キアランは時々、夜中に寝床を抜け出す。戻った時はいつも、冷たい外の空気を身にまとって。その翌朝は、こんな風に起きるのがつらそうだ。
『何処へ行っていたの?』
何度も問いかけそうになりながらも、私は未だに訊けずにいる。
「貴方はまだ寝てらして。今日は王都に行く日でしょう?」
キアランが何か言った。もごもごとした返事は、『うん』とも『ええ』ともつかなかった。
早朝の、ピリッと引き締まるような冷たい空気の中、私は一人で礼拝堂に向かった。
礼拝堂はまだ暗かった。
色とりどりの硝子をはめ込んだ窓から、わずかな朝日が差し込んでいるだけだ。
さんざん修道女になると騒いだけれど、私はそれほど信心深いわけではない。ただ、私はマール修道院で、自分にも誰かのために出来る事があるのだと知った。ずっと嘆いてきたほど、自分はどうしようもない人間ではない事も。だから、それを忘れたくなかった。
早朝の礼拝は、修道院での日々を思い出させてくれる。
私は祭壇の蝋燭に火を灯した。
赤子を抱いた聖なる母の像を見上げ、指を組んで祈りの言葉を唱える。
――天なる母上
私は自分の母を知らない。
母は、一瞬でもこのように優しげな微笑みで私を見てくれただろうか?
ああ、きっと。
母が生きていたら、私を誰よりも可愛らしいと言ってくれただろう。あの厳しい父も、私に話しかけてくれたかも――駄目だ。考えるな。
私は震える唇を押さえた。
一度だけ、たった一度だけ、お父様と、呼びかけた事がある。父は振り向き……心底落胆したような表情を浮かべた。
嗚咽が漏れそうになり、思わず親指の付け根を噛む。ギリッとした痛みが、動揺を心の奥に押し込めていく。
『不幸の星』など、この世にはない。
私はキアランの側で、心静かに生きて行くのだ。
私は……私は……
息が苦しい。
まずい。呼吸を整えなければ。
子供の頃に何度か、こういう状態になった事がある。
大丈夫。落ち着いて。普通に息をすればいいだけよ。
ひとつ、ふたつ――息を上手く吸えない。みっつ、よっつ――浅く息をして――そう。いつつ、むっつ――大丈夫。大丈夫よ、ロサリンド。
祭壇の礎石にもたれかかって目を閉じていると、生暖かい何かが私の手に触れた。
重い瞼を上げると、ピンと耳を立てた、大きな緑色の犬と目が合った。
「お前、どこから入って来たの?」
そう言葉をかけると、犬は私の手を嘗めた。舌が触れたところがチリッと痛む。さっき、自分で噛んだ所だ。思ったより強く噛んで、傷になってしまったのだろう。
「ロージー?」
礼拝堂の入口の方から、キアランの声がした。安堵で涙が出そうになった。
「キアラン」
小さな声で呼ぶと、傍らの犬もバフッと声を上げた。
キアランは迷うことなく、真っ直ぐ私の方に向かって来た。犬が尻尾を振りながら場所を空け、キアランはそこに跪いた。
「どうしました?」
「少し気分が悪くなって……」
「医者を――」
私はキアランにすがり付いた。
「ロージー?」
「落ち着けばよくなるの。お医者様はそう言ってた」
キアランは私をそっと抱き締めた。私はキアランの胸に頭を預け、体の力を抜いた。
「こういう事はよくあるのですか?」
「子供の頃に何度か。最近はずっとなかったわ」
「どうして一人でいたのです?」
「一人……って?」
頭が上手く働かない。
「私が一緒ではない時は、ギャラガーを連れ歩くようにと言ったはずですが?」
「ああ……だって、早い時間だから」
「ロージー」
キアランはため息混じりに言った。
「あれに気遣いは無用です。家族持ちでもなければ、恋人もいない。朝だろうと、真夜中だろうと、叩き起こして構いません」
……それもどうかと思うわ。
「ギャラガーが貴女と一緒ではないと知って、血の気が引きました。もう、一人で出歩いてはいけませんよ?」
キアランの言葉は、私の心を温かく満たしていった。




