19. 水の恋
執務室に戻ると、窓側にある寝椅子にキアランがだらけたように横になっていた。
「お待たせしました、キアラン様。今、お茶を入れますね」
私が声をかけると、キアランは顔をしかめながら起き上がった。
「今日はずいぶん時間がかかりましたね。何かありましたか?」
「何という訳ではないのですが――」
私は話を続けながら、薬草茶を三匙ほど小さなポットに入れた。
午後のこの時間にキアランとお茶を飲むのが、ここに来てからの私の日課だ。茶器とお湯入りの大きなポットは、厨房からコナーが運んでくれている。
「貴方、許嫁がいらしたのね」
「だ、誰がそんなことを」
キアランは、焦ったように口ごもった。
「ご本人ですわ。わたくしを見たかったとかで、質素な服装に身をやつして、わざわざいらして下さったのよ」
キアランは前髪をかき上げて、はぁっとため息をついた。
「不快な思いをさせて申し訳ありません。彼女とは五年前に婚約を解消しているので、言うほどではないと思ってました」
「なぜ解消したの? 彼女、未練たらたらでしたわよ」
「公爵夫人の地位にですか?」
「気づいてらしたのね」
私はお茶のカップをキアランに手渡して、彼の横に座った。
「ラナとは親同士が決めた婚約相手で。可愛い子でしょう?」
「ええ、そうね」
「まだ目が見えた頃は、一緒に遊んだ ものです。でも私が怪我をして……ほら、この傷ですから。 近寄ると、怖がって泣くようになってしまった」
「小さな女の子だったのですもの。無理はないわ」
「そうですね。ただ間の悪い事に、私は聞いてしまったのです」
キアランの二人の兄が謀反の罪での処刑された後、ヘイル伯はアラナを連れて密かに弔問に訪れたという。その日、キアランはアラナをたしなめるヘイル伯爵の声を、偶然聞いた。ちょうど死角になった場所にいたのだろう。キアランがいることに、彼らは気づかなかった。
「キアランに会うのは嫌。気持ち悪いもの」
そうぐずる娘を、ヘイル伯はきつく叱りつけた。
「醜いくらい我慢しろ。兄君達が亡くなった今、公爵家の跡取りはキアランだ。お前は公爵夫人になれるんだぞ」
それからアラナは、急にベタベタとまとわりつくようになったと、キアランは乾いた笑い声を上げた。
「ラナに『気持ちが悪い』と言われた時は、不思議と不快ではなかった。どこかでそうだろうなと思う気持ちがあったから。むしろ、『お顔に傷があっても大丈夫よ。私が結婚してあげるから』と絶えず言われるようになった事が嫌でたまらなかった。それで、王に婚約解消をお願いしたのです」
「で、代わりにわたくしを押し付けられたわけね」
からかうように言うと、キアランは慌てて首を横に振った。
「貴女は私の夢のレディです」
「ええ、うれしいわ」
「本気にしてませんね」
キアランはムッとしたように言うと、私の手からカップを取り上げ、自分のカップもろとも床に置いた。
「キアラン様?」
「愛しています、ロージー」
キアランは両手で私の頬を包み込んだ。
「少しは嫉妬してくれましたか?」
「まあ……少し面白くなかったわ」
私は正直に言った。
キアランは微かに笑みを浮かべると、両手の親指で、私の顔を確かめるように撫でた。されるがままになっていると、キアランの顔が間近に迫った。
少し近すぎないだろうかとぼんやり思った途端、唇を塞がれた。ついばむようなキスを繰り返して、キアランは私を寝椅子の上に押し倒した。
「えっ? 待って!」
「待てません」
あっという間に服を脱がされていく。
「誰か来たらどうするのっ!」
「叩き出します」
「キアラン!」
「愛しています、ロージー」
耳元で熱く囁かれ、思わず力が抜けてしまう。
「分かったわ。分かったから!」
「分かったなら、おとなしくして」
「だって……だって……こんな事……寝室でする事でしょう?」
半泣きの私に、キアランはにっこりと微笑んだ。
「可愛いロージー。そんな訳ないでしょう?」
そして後日――
私は魔法の通信手段を使って、アレクサンドラに愚痴った。
キアランがいつでも、どこでも事に及ぼうとするの。おかしいわよね、と。
アレクサンドラは、水盤の向こうで爆笑していた。




