1. 投じられた石
『不幸の星』なんてモノはこの世にない。
ないはずだ。
ないだろう。
ないことを期待する。
私、ロザリンド・マコーネルは『不幸の星』の存在を否定しながら、目の前にいる男に問い返した。
「兄上、今、何とおっしゃいまして?」
「嫁入り先が決まった。喜べ。と」
兄である、ロッド侯ゲラン・マコーネルは、端正な顔を嬉しそうに綻ばせた。
「嫁入りって……誰が?」
「お前が」
「どこに?」
「セルツ公のもとに」
「それ、どなたでしたっけ?」
「先代の王妃様の甥御だ」
「…………修道院に帰ります」
「おいおいおいおい、待て!」
兄は、部屋を出て行きかけた私を慌てて止めた。
「断る気か?」
「はい。妹は、病気だとでも言って下さい」
「相手は公爵だぞ。貴族の最高位だぞ。これを断れば、一生いかず後家だぞ」
兄は、頭の悪い子供に言い含めるように言った。
「か、ま、い、ま、せ、ん」
私も負けじと、一言一言区切るように答えた。もとより、結婚する気などない。
「殿」
それまで黙っていた義姉のデーリスが、口を開いた。
「あまり無理強いはよくありませんわ」
言葉は優しい。
でも、目が笑っていない。
明るい青色のドレスを着た義姉は小柄で、男性の庇護欲をかきたてるタイプだ。実際、兄も使用人達も、このかわいらしい侯爵夫人を愛している。
でも、私は騙されない。
一年半前、父が亡くなって兄が家督を継いだ途端、私を修道院に追い出したのは、この女だ。
ご自慢の淡い金色の髪も薬草による脱色だと、ちゃんと知っている。おまけに言わせていただければ、家にいるだけなのに、何故そのような上質の服を着ているのか。本気でロッド侯爵家の身代が心配になってくる。
「セルツといえば、名門中の名門。内気なロザリンド様には荷が重いとお返事されては?」
にっこりと微笑む妻に、兄はしかめっ面をした。
あら、珍しい。
「そういう訳にはいかぬ」
「でも、ほら、ロザリンド様はお母様もなくお育ちですし……社交も、ねぇ……苦手でいらっしゃるし……」
庇うようにして、貶す。
この女はいつもこう。
以前の私なら、落ち込んで泣き出したことだろう。
美しい母は、私を出産した時に亡くなった。そのためだろうか。妻を深く愛していた父は、私を疎んじ、声をかける事すらなかった。
『不幸の星の下に生まれた姫』
使用人達は、陰で私をそう呼んでいた。
私自身も、使用人が自分の事を何と呼んでいるか知っていた。そして子供心に、自分は不幸なのだと思い込んだ。
頭が痛いお腹が痛いと部屋に引きこもり、家族は見舞いにも来ないと涙し、不満と憤りを大袈裟な言葉で日記に綴っていた。
思い返せば、とても恥ずかしい。
けれど、今は違う。
良家の娘の教育を目的としたマール修道院での生活は、私の人生観を劇的に変えた。
そこで求められたのは、身分の高さや美貌ではなく、信心深く清廉で、なおかつ勤勉である事だった。
「とにかく」
義姉は可愛らしく首を傾げて夫を見た。
「親戚筋から何人か推挙しましょう。殿の養女として嫁がせればいい事ですもの。お従妹のメーガン様などいかがでしょう? わたくしの実家方にも美しい娘がいましてよ」
ああ、そういう事?
「では、それで決まりですわね」
私は、兄の方を見た。
「いや待て、二人とも。まずい……他の者では非常にまずいのだ……」
兄は深々とため息をついて、こめかみを押さえた。心なしか顔色も悪い。
「兄上?」
「殿?」
「先方からは、ロザリンドを、と名指しで言われている」
嫌な予感がした。
我がロッド侯爵家は、所謂名門貴族だ。
長子として大切に育てられた兄は、よく言えば鷹揚とした貴公子、はっきり言えばのほほんとしたお坊ちゃま育ちのバカ殿である。
そう。この兄に、自ら妹の結婚を取りまとめるなどという離れ業ができる訳がない。
「兄上、そもそも、このお話はどちらから?」
「先方からだが?」
「それは、セルツ公ご自身からということでしょうか?」
「ああ……いや」
「肯定、否定。どちらですの?」
「セルツ公の希望と聞いている」
直接申し込まれたのではないらしい。一族の長老が結婚を取りまとめる事は、貴族社会ではよくある事ではあるけれど――
「わたくし、セルツ公はおろか、ご親族さえ存じ上げませんが?」
兄は、厳しい目で私を見た。
「お一方だけいるだろう」
はい?
「お前が素直に喜んでくれたなら、言うつもりはなかったが……」
まさか……待って、嘘でしょう?
「この縁談は、国王様から直々に承った。ロザリンド、家長として命じる。結婚せよ」
義姉が息を飲むのが分かった。
王命――それは、『断れば、一族郎党打ち首』と同義語だ。
落ち着きなさい。
落ち着くのよ、ロザリンド。
まだ、打つ手はあってよ。
「せめて、一度でもお会いしてから決める事はできませんの?」
「会わせる事は出来るだろうが、断れないのは一緒だぞ」
向こうから断ってもらえばいいのよ。
長兄のゲラン、騎士として王都で勤めている次兄のセドリック――二人の兄は母親似で、さらさらとした黄金の髪と夏空のように真っ青な瞳の持ち主だ。
一方、私は父に似ていた。
量の多い巻き毛の黒髪。ややつり上がり気味の黒い瞳。
面長な顔立ちは、背の高い男性ならば理知的に見えたかもしれないが、女の子には地味で可愛げのない印象しか残さない。しかも、十九歳。貴族の姫としては、行き遅れになりかかっている。
そんな自分を嘆いた日もあったが、今この時、容姿の美醜などどうでもいい。
きっとできる。
私の夢には、結婚は含まれていないのだ。