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アカイオニ

作者: シウタ

 原生林"六月"

 森に囲まれた丘、天辺には一本の大樹が構えている。


 僕は臆病で、まだ木の葉に包まれないと眠れない小鬼だったけど、それでもやらなきゃいけないときがある。僕は男の子だから。


「やっちまえ!」

 茂みからトンジの声を合図にヤスとハゲが飛び出て走る。僕は両手に棒を持って、巨木が植わるこの見晴らしの良い"六月の丘"で待ち構える。

 ヤスとハゲが左右分かれて先行しその後ろ、中央から彼らのリーダートンジが向かってくる。

「くらえ」

 襲い掛かるヤスとハゲ。

 僕の棒が届く前に砂を投げつける。

 目に砂が入って視界を遮られた直後、重い衝撃。

 トンジの突進を腹に受け、土草を刈りながら丘を転がり落ちる。

「やりましたですぜ」

 ヤスが手でゴマをすりながらトンジの後ろに付く。

「へっへっへっへっ」

 ハゲはいつもあまりしゃべるのが得意ではない。

 三人は降りてきてまだ動けないでいる僕のもとにやってくる。少し見えるようになった目をあける。トンジは背中に隠していた木で出来た斧を取り出し「死んじまいな」と僕の眼の前に振り上げた。

「こん!ちくしょうお!」

 僕はトンジの足にしがみついて、噛みつく。この危機を打開しようとするがトンジは重く動かない。

「痛くもないんだよ、離れろこの野郎」

 足蹴りにされ、僕は再び地面に伏す。

「どうした、あいつがいないと簡単だな。ようやくこの森は俺んだ」

 トンジは僕の顔を踏みつけて斧を振りおろした。

 僕は終りを感じて身を屈め、目を閉じて震えるしかなかった。

 次の瞬間、トンジはそこにはいなかった。

 セミが間一髪、刃が僕に達する前にトンジに体当たりして助けてくれた。

「いいところだったのにいつも邪魔ばかりしやがって、気持ち悪い蟲め」

 トンジは受け身を取って立ち上がる。

 セミの皮膚は固い、斧なんて効かない。セミはトンジの眼前に迫ると足をはらって地面に倒して、顔面にのしかかる。

「おやぶん」

 ヤスとハゲが助けに向かう。

 その後ろから僕は彼らめがけて殴りかかる。

 トンジは強いがこの二人は大したことはない、そしてトンジよりセミは強い。

 顔面をつぶされて鼻から血をたらしながら、トンジはそれでもなんとかセミを押しのけて距離を取る。

 ヤスとハゲはその後ろに逃げる。

「き、今日はこれまでだ。知らないぞ、きっと後悔するんだな今日負けなかったことを……お、覚えてろ」

「覚えてやがれです」

「あう」

 三人は逃げていった。

 力が抜けてその場に座り込む、体中急に痛みがやってくる。情けない。

「危なかったね。大丈夫かい、なんともない?」

 セミは笑って僕のもとにきて、全身くまなく見てくれた。

「助けてくれてありがとう」

「私のいない間を狙うなんて卑怯なやつらだ。大丈夫骨は折れてないみたい」

 僕一人じゃ何もできない。

 君が助けに来なかったらきっと生きてはいないだろう。

 でもそんなに心配するなよ、僕は大丈夫でも。

「ちょっとだけ休ませて……」

 僕は横になって目を閉じる。気が遠くにいくが、頬に鋭い衝撃が一往復。

「まだダメ。ほらそんな体で寝たら明日動けないよ。それにまず泥だらけの体を洗わないとね、沢にいこう」

 動こうとしない僕の手をひっぱり引きずって沢へと向かった。

 十尺も引きずられたあたりで僕は観念し立ち上がって一緒に歩く。手はつないだまま。

「ごめんね、まさか私のいない少しの間を狙うなんて」

「いいよ、助けてくれたじゃない。それにいつか一人であいつらを倒さないといけないんだ、僕は」

 セミの手は冷たく硬かった。


 この森、”六月”は昔からある森で人の手が入っていない。昔はそんな山しかなかったけど人間が沢山の木を切って自分たちのいいように木を並べていった。だから昔の森はどんどんなくなっていく。そして人間たちの次の標的はこの六月になった。

 森に意思はない。

 人間が来ればそれを受け入れるだけ、でも大好きな住処を作りかえられるのは許せなかった。僕とセミは協力してこの森、六月を守ろうと決めた。


 巨木が植わる六月の丘を下ってすぐに小さな沢がある。そこでいつも体を清める。セミは水が怖いので沢の中に入ることはないのだけど。

「水が冷たい、夏が終わっちゃうなもうすぐ」

 僕は体についた泥を洗い流す。

「私、探し物してくるね。ちゃんと洗うんだよ」

 セミは僕が体を洗っているのを見ると来た道とは反対の森に入っていった。

 水が傷に染みる。弱い僕はいつもこうだ。

 毎日やつらが来たら体がもたいないだろう。幸い人間、トンジとその手下はそんなに頻繁にはやってこない。

 忘れたころにやってくる、その程度だった。

 泥を落とし終え、沢を後にし丘を登る。

 赤い空に照らされて六月の丘は一番きもちいい。木の根元にねころんで、やっと目を閉じる。一息大きく深呼吸すると自然と力が抜けて僕は寝た。


 トンジが僕に斧を振りかざしていた。

 それが僕に刺さると僕はたぶん死ぬ。赤い血が流れてる。

 人間と同じ赤い血。

 死んだら六月は人のものだ、他の動物たちは知らない顔してるからきっと別の森に移るか、変化を受け入れるか。

 僕と同じで死ぬのか。

 さようなら大好きな人、助けられないでごめんなさい。でも死んだら何かある気がした。そうじゃないと嫌だ。


「カジャ、カジャ、……カジャ」

 意識が現実に徐々に引き戻されて僕は目をうすらひらく。

「おきれる?きついだろうけど少し、起きてくれるとうれしいな」

「うん」

 僕のとなりにはセミがいた。それだけでいいのかもしれない。空はもう暗い。

「お腹すいただろう?」

 セミの手にはあけびが一つ。

「おお」

 僕は思わず、元気になる。あけびというのは非常に甘い果実で種が沢山あるのが難点なんだけど、この山一番の御馳走で僕の大好物だ。

 セミの手からそれをいただくと無心でかぶりついた。

「落ち着きなよ、種ちゃんと出さないとのどにつまるよ」

「わかってる」

 と、種をセミに吐きつけながら言う。

「そんなことするともう取ってきてあげない」

 セミはそっぽを向く。

「ごめんよ」

 と、種をセミに吐きつけながらあやまる。

「この!この!この!」

 セミは僕の吐いた種を起用に跳ね返して僕にあてる。そうして二人、いつの間にか笑いながら夜長の一時をすごした。

 昼にはあと一歩で死んでいたそんな今はどうでもいいことに違和感がある。

「いいかげん、あけびの生えてる場所おしえろよ」

「ダメだよおしえたら最後、カジャは全部食べちゃうだろ」

 遠い目をしてセミは僕を見る。

「そうやって、普段独り占めしてるんだろ」

「もういい、そんなこと言うなら取ってきてあげない」

 頬が膨れた。

「あう、ごめんなさい。もうそんなこと言いません。ゆるしてください」

「わかればよろしい」

「ったく。お腹いっぱい食べたいな」

「一個だからいいんだ、沢山食べると飽きちゃうよ」

「さては食べたんだな、あきるほど」

「もういい、そんなこと言うなら」

「ああ」

「…………ごめんね、今日は本当危なかった」

 とたんセミの顔は急に暗い表情に変わった。

「だから気にするなって。もう寝よう、たくさん、たくさん今日は疲れたよ」

「うん」

 焦った。二人一緒にいるのに暗い話は嫌だ。

 もっと強くなりたい、そうすれば毎日がもっともっと楽しいはず。

 すぐに強くなる方法があればよかったのに。

 落ち葉をかき集めてセミと寄り添う。セミの体はつめたくて硬い。僕はセミの腕を抱いて眠った。


 落ち葉が落ちる日、寒い朝が届かないように僕らは落ち葉にかくまってもらって眠る。赤い糸の花が並ぶ季節。

 次の日はいつもとは違わなかったけど。違った、違う日になった。

 目覚まし野鳩の声で目が覚めた。

「ホーヒーフーへー、うるさいぞ鳩」

 僕は飛び上がって、転がって、木を蹴り、手近な棒をふりまわして抗議するけど届かない。

 徹底的に無視され野鳩はからかって声三倍増しに太くする。

「空飛べるからって! 飛べないやつを見下しやがって」

「やめなよ、カジャ。それに六月をけっちゃだめ」

 さっき足蹴りにしたのは僕らが守る森の象徴、六月の大樹だった。

「あけび、あけび、あけび。あんなに種飛ばしたのに少しも生えやしない」

 体が痛んだ。

 寝て固まった体をほぐさないと、じゃないといよいよ明日は石像か何かだ。

「一晩で眼が出たりするもんか」

セミは木の根元でのんびり座っている。僕は両手をあげてガニ股で右、左と足踏みをして体をほぐす。

「きんちょろかん、きんちょろかん、かーらやん、かーらやん」

 僕の踊りは続く。

「きんちょろかん、きんちょろかん、かーらやんさ、かーらやんさ、えぐざんぽっ……えぐざんっぽ」

 セミが素早く突然立ちあがり、僕の横にきて踊りの真似をしはじめる。

「おなか減った」

 僕はセミに向かって訴える。もちろんただ言うだけでは意味がない。

 純真無垢、一点の曇りもない眼で、若干の湿り気をまじえながら、ほいほいとあけびの場所を今日こそ教えたくなるような眼光で見つめた。

「この踊りとその言葉何か意味あるの?」

「ないよ」

「なんだよ! 鬼の意味深げな儀式かと思ったよ」

「それよりあけび、食べようよ」

 つい本性を出してしまった、でも時すでに遅し。

「昨日食べだでしょ、一時はまたおあずけね」

 あけびを搾取する儀式は完全完璧、何一つ成果をのこさず失敗した。

 残ったのはこの空腹なお腹。

「魚、沢カニ、きのこ、その辺でいいでしょう。お腹がふくれれば満足するさ」

 セミは腕を組みうなずき一人笑顔で納得している。

「川にも入れないくせに取るのは僕なんだからね」

「食べるのもカジャだろ」

「き、きのこはごめんだ。こないだ食った毒キノコ、なぜだか急に笑いながら片手を鼻の穴に突っ込んで木に頭突きしたくなって大変だったんだかんね」

「止めるのも聞かずに食べたのはカジャじゃないか」

「う、うっこ、この野郎お」

 ありったけの抗議と負け惜しみを込めて、僕は鼻水たらしながらセミを連続でたたく。

「野郎じゃない……ま、しょうがないな。おいしそうなもの一緒に探してあげるから。いこう」

「うん」

 鼻をすすって、丘を一緒に降りた。

 沢へと続く道は細くて両脇に木がたくさんある。そのどれもが今日はおかしい。枝が折れ、幹が傷つき、なかには切り倒されているものもあった。

「何かあったのかな」

 僕は立ち止まる。

 セミもあたりを警戒している。

「なんだろうね、嫌な感じがする。何者だ! こんなことするやつは」

 セミの声があたりに響く、すこしの静寂。

「今日こそはだ!」

 それを破ったのはトンジだった。彼の合図とともに三方からトンジ、ヤス、ハゲが襲いかかってくる。

 僕は驚いて後ろに尻もちをついたおかげでその一撃をよけることができた。セミはまともに受けても涼しい顔をしている。

 そして腕を広げ、体を大きく振りまわして三人を取り払う。

 三人の手にはおおきな棍棒が握られていた。

 それは傷つけ倒した木から作ったようだ。

「どうだい? いい味だろ、おまえらの大好きな森の一撃は」

 口はつりあがり嫌な笑顔を浮かべるトンジ。

 距離をとってこちらの様子をうかがっている。

「嫌だね、こんなことされちゃ困るよ」

 セミは構えて一歩踏み出す。

 そのセミの脇から出現した黒い塊がセミをなぎ払った。

 セミは転げて木に体を打ち付ける。

 四人目の人間がそこに立っていた。手には黒く光る木じゃないもの、石よりも硬い鉄をもっていた。

「コウコウセイ様ありがとうございます」

 トンジはいつもの威張りをどこかにやって、コウコウセイと呼ばれるその人間にかしこまって尾振り犬のごとく頭を何度も下げている。

「弱いな、こんな蟲一匹に手間取っていたのか」

 コウコウセイはそう言うと鉄の塊をトンジめがけてふりあげた。

「ひゆああ」

 トンジは聞いたことのない奇声をあげ、おびえ縮こまる。

「まあ今日は特別だ」

 コウコウセイの手は振り下ろされず、おさまった。

 トンジは心底安堵しているようだった。

「君誰だい。見慣れないけど」

 セミは立ち上がって冷たい表情をむける。僕もセミのとこへ急いでかけよる。

 正確に言うとセミの後ろに隠れた。

「君たちを倒すものさ」

 そうコウコウセイは口を歪めてわらう。

「させないよ!」

 そう叫びセミはコウコウセイに向かって疾走した。

 繰り出されるされる鉄の塊をしゃがみ、紙一重でかわし眼前へと迫ると正面にフェイントをかけてコウコウセイの後ろへ回る。

 そして振り向きざまに重い一撃を顔面に叩き込む。

 宙を回転しながら舞い、やがてコウコウセイは地面に伏す。

 セミはまだ気を緩めていない。

「じゃないか、痛いじゃないか、……痛いじゃないか!」

 立ち上がり語気を強めてコウコウセイは叫ぶ。

 その顔は鼻血を出しながら笑っていた。

「蟲風情が人間様にたて突くとはいいじゃないか、いいじゃないか、ええ!」

 コウコウセイはデタラメに鉄を振り回し、土煙がここら一帯をつつむ。

 静かになる、かすかに葉のすれる音しかしない。

 沈黙。

 刹那、雲間を爆弾のように縫い、コウコウセイは土煙の中からセミに迫ると鉄の塊を頭めがけて放つ。

 警戒していたセミだがその一撃を流しきれず、肩から腕にかけてまともに食らう。

 何かがはじける鈍い音が響いた。

 しかし負けじと、反動で体をくねらせ、セミもまたコウコウセイのわき腹に蹴りを見舞う。

 互いがはじかれた球のように飛びすさみ、距離を取ると、あたりはまた静寂が一時を満たす。

 二人の息づかいだけが聞こえる。

 僕とトンジとその子分たちは二人の戦闘に割り込めずにいた。

 参加するだけ邪魔というものだった。

 コウコウセイはセミを睨み下を向き、そして深く息を吸う。

「嗚呼ぶっ殺してやる」

 奇声といっしょに鉄の棒をデタラメに振り回し始める。

 ちぐはぐに動き、地を叩き、石を弾き飛ばし、木の幹を打ち付け――その様は滑稽な踊りに見えた。

 規則のない珍妙な踊り。そして鉄の棒はハゲの頭を弾き飛ばした。

「あっ」

 コウコウセイの動きが止まる。

 ハゲは倒れて痙攣し、得体の知れない"もの"を頭と尻から垂れ流し、動かなくなった。

 その場のすべてがハゲに気をとられている隙にセミは木へとよじのぼる。

 新緑が色あせてきているとはいえ、原生林六月の森の木の葉は深遠でいて、深く繋がっている。

 すぐさまセミの姿は木の中に消えた。

「やっちまったあ、すまんすまん。事故だよ事故、まあ生きてても仕方ないでしょ」

 大して動揺も悪びれる様子もなくコウコウセイはこちらへ向き直った。

「あれ? もう一匹はどこいった。ねえ、おい、聞いてる、ちびコラァ!」

 コウコウセイが肩をいわせながら近づいてきた。

 怖くて足が動かない。前に出る勇気はもちろん逃げることすらできないでその場に固まる。

「ここだ!」

 セミがコウコウセイの顔めがけて上から落ちてくる。鈍い音。セミは受け身を取って着地し僕のもとへ駆け寄る。コウコウセイは地面に倒れて、ゆっくり立ち上がる。顔が少しへこんでいた。

「あっあっひゅあ」

 コウコウセイはゆらゆら脱力、ゆれながら僕らめがけて猛進してきた。

 セミは僕を跳ね飛ばすと鉄の重い一撃を両手で受け止めた。セミの前に出した方の腕が本来まがることのない方向にゆがむ。 無事なもう一方でコウコウセイの顔、へこんだところめがけて拳を突き出す。

 後方に勢いよく飛ぶコウコウセイ。

「痛い、痛い痛い痛い痛いよ」

 力なく立ち上がり顔面を抑える。

「許さない、手前ら、殺す」

 コウコウセイは顔から手を離すと静かになった。こちらを睨み、その口もとはだんだん、歪んで不気味に笑う。

 セミは片手で構える。

 右腕は力が抜けたように体にぶら下がっていた。

「楽しみにしてろよな」

 そう言い残してコウコウセイは森の出口、人界の方向へ去っていく。

 トンジとヤスは動かないハゲを引きずり同じように森を出て行った。

「お腹すいたね」

 そういうセミの顔は無理して精いっぱい笑っているように見えた。

 片腕が死んだように脱力している。僕はその痛々しいすがたに目をそむけたかった。

「大丈夫? 怪我はないかい」

 僕より君がすごく心配だよ。その腕、硬い筈の殻が傷だらけで所々へこんでる。

「大丈夫みたいだね。どこも何ともない」

 僕は逃げてばかりだったから。

「お腹すいたでしょう?先に沢にいってて、大丈夫心配ないよ。あいつらならもう気配は感じないし私もあとからいくから」

 僕は沢に行くことにした。

 着いて、ご飯を食べて、そして、日が傾いてもセミが戻って来ることはなかった。

 丸いでっかい石の上でずっと待っていたけど、いつまでたっても姿は見えなかった。


 子鬼は泣いて夜道を歩いて丘の上に向かった。

 目をこすり露を払うけどあとからまた涙は続く。止めどなく永久に同じ。

 それが止まるころ子鬼は丘の樹の下で泣きつかれ眠っていた。

 彼に葉っぱの毛布をかける影が一つ。

 子鬼を愛おしく撫でると、樹の上に登っていった。


 朝の寒さが子鬼をいじめる。いつもの朝、聞きなれた声が子鬼を目覚めに誘う。

「起きてよカジャ、ねえ、ねえ、朝だよ。いつまで寝てるんだい」

「うるさいなあ、もうすこし寝かせてよ」

 薄目を擦りカジャは寝返りで拒否する。

「ほら、起きようよ」

 セミはカジャの腕を掴み無理やり引っ張る。

「なんだよ」

 セミの手を払い、目を見開くと聞きなれた声の発生源はみたこともない姿をしてこちらを見つめていた。

「ににっ人間、おっおっおまえ。い、いったい、誰だ!」

 カジャは飛び跳ね、転げ震えながら言った。

「私はセミだよ。ひどいなあ、たしかにちょっとくらい驚くとは思ったけど……さすがにその有様はきずつくよ」

 まっさらな砂地のように澄んだやわらかい肌、髪は光子のように朝日に照らされて輝き、無垢な瞳はまっすぐにカジャを見つめていた。

「だってだってだって、あんなごつごつの硬い、やつだったのに。声だけ同じであとはまるっきり変わってる」

 カジャは口開けすっとぼけて、変わったセミの姿に見とれた。

「セミ、人間になっちゃったの?」

「安心してよ、私はセミのまま」

 セミの背には透明な二対の羽が生えていた。

 それをすこし恥ずかしそうにいじりながら一回転して、カジャに体全部を見せた。

 彼女には右腕の1本が見あたらなかった。


「う、痛ててうっ痛てて」

 カジャは背伸びをする。

「関節の節々が、が」

「もうおじいちゃんだね」

「うるさいやい」

「ほら、私こんなに自由だよ」

 セミは手を広げ宙に浮かび空を飛んだ。

 カジャはセミを追いかけて六月の森を駆け回った。

 二人の声が日向の中を満たして紅葉に陰りが見え始めた森を照らす。

 特別なこともなかったのに、セミはカジャにあけびを1つとってきてあげた。

 カジャは涎をたらし目を銀色にかがやかせながら大口でほおばる。ひとしきり種をセミに向かって飛ばし終えると、突然黙り込んだ。

「どうしたの?」

 セミが彼の顔を覗き込もうとすると、カジャは走って六月の木まで逃げた。

 木の幹に顔をぴったりつけて止まる。追いかけていくセミ。

「だるまさんが転んだ!」

 カジャは突然叫ぶ、でも顔は幹につけたまま。セミはその声に立ち止まる。すこししてこっそり動く。

「だるまさんが転んだ……だるまさんが、転んだ、だあるまあすあんがああ!」

 だんだん近くにいく。

 後ろにつくとセミは強くカジャを抱き締めた。

「どうしたの?ベソなんてかいて、カジャらしくもないよ」

 カジャの足元は涙と鼻水でちょっとした水たまりができていた。

「昨日あんなことがあって。その今日で、セミが変わって。でも、なのに何もないのに、いつもどれだけねだってもたまにしかくれないあけびをセミがくれて」

「大丈夫」

 セミはその細い片腕でカジャを正面から抱きしめる。

「大丈夫よ、カジャ。いつかきっと振り返っていい思い出になる日がくる。怖いことも不安なことも今は泣きたくなるかもしれないけど、私がついてるから、だから泣くのをやめて」

 それでもいっとき、夕日が山の端から消えてなくなるくらいカジャは泣いた。

 常闇の夜、二人はありったけの落ち葉をかき集めてその中で寄り添い、お互いの温度をたしかめながら眠った。セミは彼を強くやさしく抱き寄せて良い声で歌い、カジャは気持ち良く安心して眠った。


 次の日、彼はまたやってきた。僕たち私たちの日常を壊し、森を奪いに。

 大切なものがなくなるのは早い。

 彼は段々近づいてくる。

 セミはいってしまった。

 カジャは奥歯を噛みしめて少し考えたあと、セミの後ろを追った。

 森はいつもと変わらない。大木は何千年生きていようと若い命に何もすることはない。

 二人が静かに会敵したとき、終りの靴音が鳴った。

 ………………。 

 手を洗った。念入りにこの赤が一滴も残らないように。隅々まで目を凝らして何度も何度も擦った。

「嫌だなあ、困ったな。まったく……まったく何をしたっていうんだ」

 沢の水は冷たい。少しずつ手がしびれ感覚がマヒしていく。それでも止めることはできない。ほんのちょびっとでも残ったら一大事だ。大騒ぎだ。

 世界が切れた。断線した。そこが行き止まりなのか。虚無、はじまりとか。とにかく一回弾け飛んで、意識とか常識とか、不条理、節操、禁忌、感覚だとかがいっぺんに亡くなってしまった。




  大蛇の統べる森

  端のねぐら洞穴。


 気がつく。意識が自我を知覚したとき、ようやくその切れた線がまた枠を描きだした。君というものはどうやら変わっていないようだ。


「よかった」

「何がよかったよ、ちっともよくない」

 セミはカジャの肩にのしかかり頬をふくらませている。

「おはよう、朝からどうしたんだい? あと君がそんなに早起きだとは思わなかったよ」

 カジャはセミをやさしく撫で朝から不敬なあいさつをする。

「馬鹿にしないで私だって早く起きることくらいあるわ……野鳩のやつに負けない程度はね。そうよ、よくないの! カジャより早く起きるなんて癪だわ」

 胸を張り、明後日を向くこの澄まし顔はそう高らかに宣言した。

「ねぇ、彼彼女たちの方がずいぶんと早起きな気がするけど」

 少しの抗議でセミの頭をつっつく。

「気のせいよ、そうに決まってる」

「そうだね」

 二人はねぐらの洞窟を出る、新しい日差しが二人を仰ぐ。カジャは背伸びをして朝の澄んだ空気を胸に込める。

 セミは翡翠の色に体が染まる。

「いい朝」

「つまらない、ちっとも変り栄えのしない"ケ"よ」

「いいさ、同じでもそれが大事だったときが来るよ。おりゃ!」

 カジャは突然走り出す。

 平原にものすごい勢いで風が起き、セミは反動でカジャの肩からずれ落ち空を飛ぶことを余儀なくさせる。

「ちょっといきなりひどいじゃない」

 セミはカジャを追いかける。

「腹が減ってはなんとやら、いこう」

 一陣の風になってカジャは河がある森の向こう側へと駆けた。

「食いしん坊め」

 セミはカジャに追いついて彼の肩へとまた収まる。


 春の河原、水はまだ少しつめたいけど魚も沢山、木の芽もいっぱい、食べ物はそこらじゅうに広がっている。

 セミ大きな岩の上にじっと構えて水の中の様子をうかがう。

「そこだ、いけっ」

 カジャは手を振りかざし跳びはね騒がしくセミをせかす。

「うるさい、取れるものが、取れなくなるじゃない」

 水面を見つめたまま動くことなく、静かに抗議するセミ。

 そして河の中に吸い込まれ次にでてきたときにその口には小魚が一匹、くわえられていた。

 そいつを岩にたたきつけて〆ると丸呑み。

 満足げにカジャの方を見るとまた岩の上で水面下を見つめなおした。

「ちぇっ本職は違うなったく。おおおおおお」

 カジャは舌打ちをすると気合いを入れて地面に半分埋まっている身の丈はあろうかという岩を掴み、抱え上げた。

「ふんぬ」

 その岩を今度は河から突き出た別の岩に思い切りよく投げた。

 すさまじい音とともに岩同士はぶつかり合い、弾け飛ぶ。水しぶきをあげて投げた方は水の中にやがて埋没した。岩の周辺から音に気絶した魚が浮かんでくる。

「ほら見ろ」

 魚をかき集めながらカジャはお返しとばかりにアゴを突き出し笑顔でセミの方を見る。

「音で逃げちゃったじゃない」

 セミは振り向きもせずにいう。

「まったくだ、朝からせわしいやつらじゃ」

 しげみが騒がしくなる。

「誰だ!」

 カジャは両手いっぱいに魚を抱えた姿で声の方向をにらむ。

「森の主にでもなったつもりか若造よ」

 五丈はあろうかという巨大な青大将がしげみから出てくる。

「なんだ、大将か」

 表情をゆるめて巨大な蛇のもとへ歩みよる。

「なんだとは失敬な」

 大将はこのあたりではもっとも長生きで博識だから皆から頼りにされている大蛇。

「今日も大量だぜ大将」

 腕いっぱいの魚を見せびらかす。

「おまえさんそんなに食うのかい」

 大将は魚を眺めてゆっくりとため息。

 セミはもう獲るのをあきらめたのか、それともカジャが取った魚を横取りしにきたのか、上空をひとしきり飛んだあとカジャの肩にとまる。

「こんなには食べきれないよ」

 肩にいるセミに魚をさし出す。

「強欲だからね、こいつ」

 ちょうどいいやつを一匹見つけると、セミは素早くくわえてさっきの岩へと飛んでいく。

「結論から言うと取りすぎはよくないぞ。いつか魚がいなくなってしまったら困るからの」

 太陽がそろそろ真上に来そうな頃合いで、影はますます短くて、春なのにやけに日差しが痛い気がする。

「大将にもあげるよ」

 捕ったそれすべて一瞬で平らげそうな、巨大な蛇にカジャはしゃがんで魚をさし出す。

「うんまあ、ありがたくいただこう」

 大将は一匹だけくわえると天を仰いで丸のみにする。

「若者よ、ときにどうだね久しぶりに稽古でもつけようかと思っておるんだが」

 大将はぶ厚く存在感のある尻尾を右へ左へ――風のない河原で空気を切り刻み鋭い音が水音の合間をこだまする。

「お願いします、師匠」

 一礼して腕で十字を切ると抱えていた魚たちが一斉に下へ落ちる。「食べ物はそまつにしちゃだめよ」とセミが落ちた魚の一匹をくわえてまたどこかえ行った。

「でも魚食べてからで」

 カジャは落ちた魚を集める。

「そうか。うんうん、その間岩で日光浴と洒落こもう」

 大将はゆっくりと圧倒的な存在と質量をもって見える限り一番でかい岩の上へといきそこに鎮座する。

「春は気持ちがいい、体温の上昇がなんとも心地いい」

 目をとじ太陽と岩の温度を吸収していく。

 河原、沢山の鳥のさわぎ声、水流の反響音、木々の虚無な管楽、それらがざわめき混じりやがて消える。

 カジャは捕った魚をうるさく貪り食っている。

「口あけて食べないの! はしたない」

 またひとつセミが強奪していく。

「まだ食べれるかい?」

 カジャは遠くのセミに声をかける。残っりはあと五匹、一匹掴む。

 まだ生きているからあばれて最後の抵抗を見せる。尻尾を持って一発石に頭を叩きつけると大人しくなった。

「あれなんだっけ前にもこんなことあったはず、思い出せないな」

 動かなくなった魚を凝視して口に運ぶ。

「私こう見えても結構食べるのよね」

 魚は死んでいく。

「知ってる、残り食べていいよ」

 カジャが食べてきたものはその後どうなったんだろう。

「あと一匹だけ食べてくれたらうれしいな」

 それぞれに一つ一つ物語がある。

「じゃあこの大きいやつ」

 楽しいことは、うれしいことはあっただろうか。

 辛いのは死ぬことか。

「そうね、それは私の口には大きすぎるから助かるわ」

 魚を石に叩きつける。

 石に血がにじんで歪んでいく「魚の血も赤いんだな」そんなことをつぶやきながらそいつを口に入れるとお腹は満杯でたぬきのように腹を叩いてごちそうさまをした。

「こうして目を閉じて岩の上にいるとまた違った景色が見えてくる。目に見えるものがすべて蜃気楼のようになって音や肌の感じる温度、風が次の世界をつくっていく。そうは思わないかい」

 大将は語りかける。

 低い老蛇の声は、時を止めるかのようにやわらかく抜けていく。

 食事を終えたカジャの脇に二回りは小さい岩があって、そこに座して目を閉じ、無言でその言葉を聞く。

「時に自分の名というものを考えたことはあるかね」

「いいえ」

「"カジャ"とは"冠に者"と当てる。今日日の若い鬼はもうおまえさんくらいなもんだ。昔は結構いて山を守っていたがどこへ去ったのか……ともかく親御さんはそういう意味でつけたんだろうよ」

「王様?」

「冠するもの、皇とは限らない。勇みしものこそ見えない何かを湛えているものだよ」

 不確実な水のおとがいくつも交わって一定の調べを奏でる。

「蛇足だったね、さて実戦といこうか」

「お願いします」

 立ち上がり、一礼。

 ジイジと砂利を踏みしめ拳に見えない何かがあるように力を込める。

「参る」

 大蛇の尾は長い、この世のどこにも届かぬ場所がないように。

 カジャは一歩下がる、蛇の尾が風を紡ぐ音……目の前を石が跳ね跳び溝が出来上がる。

「いい間合いだ」

「どおりゃあ!」

 両足で地をけっ飛ばし尾の返しを潜り抜け、一歩で大将の眼前へと到達する。

 拳を遠慮もなく顔面へ突き出す。

 が、その拳は大きく開けた口へと腕ごと収まり。

 次にカジャの体は空から大将を眺め。

 最後に尻尾で景気よく跳ね飛ばされ、地面へとカカシのごとく突き刺さった。

「口、口かよ」

 地面から這い出て泥を拭い、口の砂利を吐きだす。

「ふん! まだだな、わしに手も足もない当然のことじゃ」

 大将の尻尾は右、左、と力を持て余しうなりをあげている。

 「次はないぜ」と、言いながらカジャは河原を左に大きく迂回しはじめる。

 彼の行く手を阻む巨大な尾。

 次から次へとカジャを狙い強靭な筋肉の塊である極太の尾が道を割っていく。

 驚いたことに大将の頭の位置はずっと、大岩のところから少しも変わっていない。

 カジャは走る。

 走って左右に小刻みにぶれる。

 身の丈がおさまるくらいの岩陰に身をひそめると、とどまったところへ大ぶりの一撃が岩を二つにする。

 尻尾はちょうど伸びきった位置だ。

「こんどはあ!」

 跳ねる二枚岩をこじ開けて、最短距離、つまり尻尾の上ふみつけ疾走する。

 風よりも音よりも早く、でないとまき戻ってきている尻尾に追いつかれ、終いには縛り首だ。

「おしいなあ」

 と、眼光鋭くカジャを睨む大将。

「どっこらしょ」

 口を大きく開け頭を走ってくるカジャにむけて発射する。

 カジャは地(大将の体)を蹴って地面すれすれ、黒点のように空いた大将の口めがけて突っ込む。

 頭から。

 大蛇の口内、そこから鬼の頭突きをあびせた。

 カジャはすぐさま抜け出し後方に飛び距離を稼ぎ様子をうかがう。

 攻撃を逆に利用された大将、体が風に晒された木綿のように揺れ、脳震盪でも起こしたのかしばらく反応がなかった。

「してやったぜ」

 勝利を確信し、頭上へ高々と拳を振り上げ宣言するカジャ。

 お天道様がすばらしく綺麗だと感じ、目から徐々に水分が蒸発していく、余韻。

 まぶたをとじて目に水分をとりもどすと、横なぎの衝撃が慈悲も容赦も遠慮もなく尊大に絶大にカジャの体を襲う。

 勝利は短かった。

 目の前は闇に変わり口の中では砂利が踊る。

「石おいしい、おなかいっぱい」

 突っ伏したカジャの尻にセミがとまり「いつも結局はこうなるのよね」そう言いながらつつく。

「やってくれるわ! 阿呆な靴下野郎でもそんな戦法は思いつくまい、ほれ」

 尻尾でカジャを引き上げ、大岩で声高に笑う大将。

「ひどいや、ひどいや、少しくらい俺が勝ったっていいじゃないか」

 つるされ再び日の目を見たカジャ、口から砂利がとどろき落ちる。

「やらん! まだまだじゃ、くやしいのう? ああ、くやしいのう!」

 大岩のうえへ乱暴に彼を離す。

 「うげっ」と地面に落ちる。

 岩が太陽の熱を受けて心地良い温度だ。

 晴天、突きぬけて円転描いて広がる。

 無垢な静寂が睡魔となってカジャを襲う。

 食って動いて今度は、というやつだ。

 ………………。


「はは、まったくすばらしい光景だ。美しい渓谷、そこに見紛うことなき偉大なる巨竜と世にも珍しい鬼一匹に翡翠が一羽、仲良くお昼寝ですか。わたしも是非混ざりたいものです」

 人だ。

 人は鋭利な金属を片手に持ち、こちらにくる。

 眠気を跳ね飛ばし起き上がるカジャ。

「おまえ悪さしにきたのか」

 握った拳が震える。

「そうですよ、子鬼さん」

「なら、そんな考え今日でさようならだ」

 無風を両手で振り払うと地面を踏みしめ、人を恨み憎しみ、眼光に捉える。

 カジャが跳びかかる寸で大将が大岩より降り、大地に立ち塞がる。

「まあ落ち着けやカジャ……人間さんよ、おもしろいものなんてここにはないよ。見ての通り昼寝の途中でね、まともなもてなしもできない有様。帰ってはくれまいか、いくらかまえ北の山をやったと聞く。それで充分じゃないか、ここには何もないあんたらの得になるようなもんはね」

「そんなご謙遜は人の専売特許、いらぬものと決まっている。山は必ず貰いますよ。人の世と子等と理と有無に懸けて」

「そうかいならこの話は、ここで終りだ」

 断ち割る砂塵は人の子を押しつぶそうと猛進する。大蛇の打突はまさに「終り」の言葉とともに放たれた。

 人の子は左右交互に飛びながら後方ではなく、前へ進み距離を詰める。

「ダイガクセイですよ私は」

「退くが勇気だ」

 大将も前進する。

「勇気を欲してはいない、押しつけはいけない。ああするな。こうでは、ない。相手がこうであると脳に擦りつけるのは傲慢だ。意外の一言が大罪である。世の常を知る蛇に勝ち目は見えてこない。まともな動物などいてはいけないんですよ」

 台風の中へと飛び込む。

 行く手を左右から阻む巨大な鞭。

 それらすべて自身の軌道を変えずに、得物で尾をいなし、しゃがみ、跳躍でひるがえし、大将の眼前へと到達する。

 腰に刃物を構え、深く懐に突きたてた。

「痛いではないか」

 歪めた笑顔はやがて大口となってダイガクセイを覆わんとする。

 刃を抜き去り、飛翔、カジャの目の前に着地するダイガクセイ。

「鬼さんこちら」

 からかうように身を翻しさらに飛ぶ、大岩の上に降り立つ。

「ちょっとこっち来ないでよ」

 そこにいたセミは驚き飛び立つ。

「どうやらおまえさんを殺さねばならんようだ」

 大蛇の体には無数の切り傷が、そこから血が滲み、首もとには大きな裂断が一つ痛々しく存在を主張していた。

「嵐を切り裂くものお気に召しましたか」

 彼は刃を天にかざし、深深と頭を下げる。

「そうか、そうかあのときだっていつだって」

 カジャはうつむき何かを呟いている。

「どうしたっていうのよ、こんなときに陰鬱なんて場違いもいいとこよ」

 セミがカジャの肩へとやってくる。

「ごめんな、そう言えなくて」

 やさしく撫でるようにセミを肩から下ろすと、風が走った。

「やめろカジャ」

 大将は大岩へと猛進する。それは象が子猫の歩幅を気にする程度の短い距離だった。

 普段なら取るに足らない距離。

「嫌いだ!」

 拳をダイガクセイへと突きだす。

 刃物に先導され赤い血が宙を舞う、がもうそこにカジャは居なかった。

 後方に回り込むと両手でダイガクセイの体を捕まえる。刃が手を襲い顔を歪める。「痛てえ!」と叫びなら後方の地面へと一緒に勢いよく頭から落ちた。

「大丈夫か」

 大将が大岩に到達する。

「鬼の頭は石頭か」

 大将の気配を察知しすぐさま後方に、二歩、三歩と距離をつくるダイガクセイ。彼の頭から血が顔を伝い、体やがては足から地面へと落ちる。

 カジャがゆっくりと起き上がる。拳が震え血が両手から滴る。

「まだだ、まだ足りないじゃないか」

 真っ赤に染まった両手を広げて太陽にかざすと、赤い血は輝いて彼の顔へ。

 ”絶叫”。

 カジャは再び拳を握りますます震える。

 血が波をなして地へと吸い込まれる。その音は大地を揺るがす血の主の壮大な金切り声にかき消されている。

「どうしたカジャ、いったい」

 その声もわずかにしか聞こえない。

 大将の尾をすり抜け、狂騒は三度ダイガクセイの眼前へと赴いた。

 彼は待っていたとばかりに得物を湛えて前進した。

 そのとき人の子は奥に竜を見た。

 怒れる、津波であった。




  六月の森


 俺は今がいつなのか夢であるかのような……あれ。

 いままで敵だったはずのトンジは何か思いつめたように話しかける。

「おまえの協力が欲しい。さんざん酷いことしておいて虫のいい話と思うだろうが、おまえだって敵を討ちたいだろ」

 白黒の六月がやってこようとは夢にも思わなかった。

 弱い俺はただその申し出を受けるしかなかった。

「いいかカジャ、お前は弱い。俺が到底勝てない相手に二人で正面から行っても馬鹿だ。そこでだ」

 トンジの立てた作戦はこうだ。

 俺を餌にコウコウセイをうまく誘い出し、あらかじめ落とし穴を掘っておき、そこに落とすというものだった。

 決行は明日の昼。

「やるしかないよね」

 俺はうなずく、そして二人で穴を掘った。

 六月の大樹からすこし距離をおいた場所。丘に穴を掘るのは嫌だったけど、トンジに言わせるとここがもっともらしいとのことだった。

 土が硬い。いつも踏み鳴らしているからあたりまえか。

 すぐに手が痛くなる。よく見ると爪の間から血が滲んで震えていた。

「足りないよ、こんなのじゃ」

 俺がつぶやくとトンジは道具を探してくるといってどこかへ行ってしまった。

 このまま朝まで帰ってこないんじゃないか、そう思っていたら穴を掘る人間の道具を持って帰ってきた。

 こうしていよいよ事が重大なんだと実感が湧いた。

 道具を使って二人で深く穴を掘った。

 途中トンジは「今まで悪かったな」とか「この作戦が無事成功したら少しは仲良くしようぜ」などと彼からは到底出てきようのない言葉を発している気がしたが耳半分、あまりよく覚えていない。

「このくらいで十分だろう」

 六尺ぐらいは掘っただろうか、身の丈を超えるこの大穴をどうやって出るのかそれを考えていると、トンジが俺を肩車した。

 俺は穴から這い出る、まだトンジは穴の中。

 このままどこかへいったら彼は一生穴の中なのか。

 それもいいなと思ったけれど、彼をしっかりとひっぱり上げた。

「おまえ意外と力あるじゃねえか」

 トンジが笑っていた。

 あとは森に入って大きな枝と小さな枝、それに木の葉を集めた。夜の森は静かすぎて居心地が悪く不気味。

 丘にもどって大きな枝を尖らせる。それを穴の中へ無数に突きたてた。

 こいつがコウコウセイを倒してくれるはずだ。

 小さな枝と木の葉、それにこのあたりの土で穴をふさいで、落とし穴は完成した。

「太陽がこの木の上を過ぎるとき必ずあの野郎を連れてくる、おまえは準備して穴の前にいてくれ」

 トンジは肩を叩いて去って行った。

 人間と協力する日がくるとは思いもしなかった。

 どうしてこうなったのか今はどうでもいい。

 夜はもうすぐあけるけど、すごく眠い。お天道様がのぼるまでは……。


 起こしてくれる者はどこにもいない。

 俺は跳び起きて日の位置を確認した。

「もう天辺だ」

 走った。

 危ない穴に落ちてはいけない。

 遠くに人が二人確認できた。

 振り返るとやけにでかい樹はいつもと変わらずそこにある。これが失敗したら見納めになるのかな。

 トンジとコウコウセイの顔が確認できた。

 トンジの顔になぐられたような青あざがいくつもあった。

 昨日は暗くてよく見えなかったけど。あったのかなあのアザ、昨日から。

 コウコウセイは首が少し曲がってまっすぐは歩いていない。左右に揺れながらこちらへと近づいてくる。

 とんと先、あと一歩で落ちるとこまでやってきてコウコウセイは止まった。

「やい泣き虫んぼ、子鬼」

 戦慄、体か手か全てか、どこだかわからないけどふるえがとまらなかった。

「やい子鬼。突っ立ってどうした? 浅知恵にこんなものこしらえて、見えてるんだよ」

 コウコウセイは足元をつつく。

 そこはたしかに落とし穴を作った場所だ。

 トンジと二人してそれを作ったのは暗い闇夜。しっかりと隠したはずの二人の思惟は、白日のもとに晒されていた。

「鬼にはいっしょに見えるってか、人間様にゃかなわないんだよ」

 起こしてくれるものはもういなかった。俺には何も残ってない、彼を穴に突き落とす勇気や気概そんなものは。

「あっ」

 短い声。

 見上げる人間の顔は呆気にとられていた。

 それは音、音は波。コウコウセイはトンジに押されて穴へと吸い込まれる。トンジもひっぱられて一緒に真っさかさま。

 トンジは笑って穴に落ちていった。それは俺の願望かもしれない。トンジは恐かっただろうか。




  大蛇の統べる森

  夜、ねぐら洞窟の中、外に月が出ている。


「ジャ、カ、……カジャ、ちょっとカジャ!」

 セミはカジャを揺さぶり起す。

「なんだ君か」

「なんだじゃないわよ、すごい汗よ。悪い夢でも見たの? そりゃあんなことあれば当然だけどさ」

 常闇が暮らす洞窟、差し込むつきあかりがそれらを退けている。

「およ、いつ寝たっけ。あれなんで寝床に、それにもう夜だ」

「大将がここまで運んできてくれたのよ、手当てだって大変だったんだから。馬鹿が飛び出すから、大将の横槍がなければあんた今頃、永遠にお寝んねしてるとこよ。まったく大将にお礼ちゃんといっときなさいよ」

 と、しゃべり終えて息を切らすセミ。

「あれ、アイツどうなったんだろ」

「人間は大将が倒してくれたわよ」

「……ンジ、おかしいな、力が入んないや」

「怪我してるんだからじっとしてるの!」

 カジャは再び闇に身を委ねた。




  六月の森

  丘の中腹、落とし穴の前。


「助けて、痛いよ、助けて…………けて」

 トンジなのか憎い人の声なのかわからず恐々、落とし穴を覗き込む。

「つかまえた」

 穴から飛び出してきた手は強い力で俺の足掴んだ。

 驚いて尻餅をつくと、後はもう必死でもがいた。気を抜けば戻れぬ奈落に吸い込まれる。

 這いつくばって土に指を食い込ませてその”落し物”ごとなんとか安全な場所まで離れることができた。

 全身汗でずぶ濡れ。

 足をつかんでいた手から力が抜けた。「死んだ?」近づくとコウコウセイは目を見開いてこちらを睨む。

 逃げよう、もう関わってはいられない。

 そう思ったとき言葉が聞こえた。

「あの羽の生えた人、綺麗だったな。暖かかった。すごく欲しかったけど手に入らなかった」

 コウコウセイはそう言って幸せそうに目をつぶり笑った。

 俺は向き直り座り込むと手を彼の赤い穴に突っ込んで中をかき回してやった。すごく動いてやがて動かなくなった。

「急いで沢に行かなきゃ、手を洗わないと」

 人を穴に蹴落として駿馬のごとく駆けた。




  大蛇の統べる森

  朝と昼の間、ねぐら洞窟。


「起きなさいカジャ! お願い起きて」

 セミは忙しなくまわりを飛び騒ぎ立てる。

 カジャはうすく目を開け「うるさいな」と寝返りをあさっての方向にうつ。

「お願い助けて、大将が、人が沢山攻めてきてもう」

 カジャは跳ね起きてねぐら洞窟を飛び出す。

「どうなってるんだ、さっき倒したんじゃ。どこから沸いてくるんだよ、人間なんてさ。穴に埋めたから増えちまったのかよ」

 平原に出て人間がどこにいるのかわからず右往左往していると、

「こっちよ、どこにいるかも聞かないで、もう」

 セミが瞬速で飛んでゆく。

 後を追う。

「なんでまた人間がこんなとこに」

 森と平行に走り大きく開けた場所に”それ”はいた。

 途中いくつも輪切りにされた肉塊が落ちていた。

 その点を線で結んだ先に、大将が体を半分以上失った姿で倒れていた。

 人の子はそれを取り囲みながめていたが、カジャたちに気づいたようだ。

「はて、小鬼がいるね」

「久しくみない鬼さんだ」

「今日は珍しいものばかり」

 同じ顔をした人が一、二、三、四、五、六、七、数えられない、とにかくたくさんいる。

「おまえらがあっ!」

 顔を真っ赤にして飛びかかるカジャ。

 握られた拳は一番手前にいた人の顔へと放たれた。

 人の子は吹っ飛ばされ若草と土と石ころを巻き上げながら二回転半転がり止まる。

「あっ」

「痛そう」

「いきなりひどいやつもいるもんだ」

「僕たちがやったって証拠がどこにあるのでしょう」

「でも僕たちがやったんだけどね」

 口々に何か一言いっては仲間が殴られたというのにただそよ風でもふいたかのように平然した顔をむける。

「僕が君に何をしたっていうんだ」

 と、殴られた人の子は立ち上がり腰から刃を抜いて駆け寄ってきた。

 静かに鋭利な金属は振り下ろされる。

 体を捻るが避けきれず左肩に食い込み、晴れやかな人の笑顔に血潮が舞う。

 「鬼さん鬼さん」と人の子がみんな集まってきた。

 人々の囲いの中心にカジャはいた。

 避けても飛び荒んでも、次の人間がそこにいて交代で彼を切りつけた。

 右を軸に回避を取るカジャは左肩の切り傷の数、深さ共に酷い。

 刃の雨がやんだときカジャは左肩を手でささえ立っているのが精一杯のようだった。

 息が荒く目の焦点も定まっていない。

「なんでこんなことするんだよ。ひどいやつだ人間は、ひどいやつらだ」

 歯を食いしばり頑張って立っていても、血と涙が体からこぼれて今にも力がなくなりそうだ。

「鬼が逃げてばかりじゃつまらないよ」

「そうだ」

「そうだ」

「きっとあの森にいたっていう鬼だろ」

「逃げても逃げても、追いかけない鬼は追いかけられるんだよ」

「羽虫のようにね」

 セミがカジャの上を一回り旋回して、太陽に向かって上昇、急降下。大将のところへ飛んだ。

「大将! カジャがやられちゃうよ、もう死んじゃったの、ねぇねぇ」

 空の嘆願はとどいた。

「やれやれ世話のやける坊主だ」

 口だけが微かに動いたかと思うと、地面の刺草、枝葉に石片が一斉に逆立ちカジャのもとまでたどり着く。

 大将は残った半身をカジャに結びつけ、鎧のように覆う。

 蛇の囁きはもうわずか、聞くものは鬼しかいない。

「こうやって絞めとけば少しは違うだろう。しっかりしろ、わしがお前の盾になる。カジャ、鬼の力を人にみせてやれ」

「こんなの無理だよ、勝てっこない」

「弱音とはめずらしいな、智慧を尽くせ。人の刃は鬼には届かない、人の刃は鬼には」

「ぐるぐる巻きの蛇の服は格好良いですね」

 人が鬼の前で茶化して舞う。

「どっかいっちゃえ」

 自由になった右腕を人間の胸に突きはなった。

 正面にいた人間は心臓を射ぬかれ血を吹いて顔面から地面に倒れる。

 倒れたとき顔でも折れたのかにぶい破裂音が響いた。

 人の子の顔に灯が消えて、カジャの所へ収束、再び取り囲む。

 誰も笑わず、怒らず、泣かず、手に持った銀色の刃でカジャとその鎧となって動かない蛇を切り刻みはじめる。

 あばれてそのまとわりつく人々を振り払おうとするが、雲を手押しするようにすり抜けまた別の場所から突き刺さされる。

 一つは大将の身体へまた一つはカジャの腕へ、足、胸、顔、どこもかしこも痛みの走らない場所などない。

 一息に殺さないのは慈悲なのか恨み辛みの晴らしなのか。

 蛇の肉はみるみるそぎ落とされて、大将の頭は地に落ちた。




「大丈夫すぐに戻ってくるから、カジャはここにいて」

 セミがいた。

 デコボコだったのに人みたいになっちまった。

 彼女に頬ずりすると肌が暖かく、とても良い匂いがした。

 何考えてるかわからない。表情もないような顔だったのに、今はいとおしく笑って僕から遠ざかっていく。

「ダメだよセミ、君そんなやわらかい体なんだから何されるかわからない。一緒にいて、ねえここにいてよ」

 僕の欲なんて食欲くらいのものだったけど、ついさっきもう一つ芽生えた。

 独り占めしたい、セミを僕のものにしたい。

 僕しか触れず、見れない宝物。僕に笑ってくれる。楽しいこと一緒にしてくれる。

 セミはそうだと思ってた。永久にそうしてくれるものだと。

 でも遅いんだ、気づいたときにはいつも手遅れ。思っても過去は結果だから変わらない。駆けていく彼女の姿を追うけど見えない。

 走りつかれやっとこさ追いついたとき、彼女は蹂躙され弄ばれていた。

 やわらかい肌も良い匂いも、優美さや、尊厳、そして命すら彼女には残っていなかった。

 抱き上げる彼女の体から暖かいものがこぼれる、血だ。赤い血が手について離れない。




「僕はすぐに昨夜見た夢を忘れてしまうんだ」

「なんのことです?」

 人の子が一人反応した。

「どうせこれからすべて忘れるんだからきにするなよ」

 人の子もう一人は首をかしげて見合い笑った。

「だから僕はこの手が赤い意味も知らなかったんだ」

 涙が落ちても拭えない。叫ぶしかない、空間を揺さぶって人を襲うしかもう夢を思い出す方法はカジャには残されていなかった。

「嗚呼」

 カジャは跪き、天を仰ぐ。

「みんなしんじゃえ!」

 大声で叫び、喚き続け、空間を揺さぶる。

 聞こえない。

 カジャの声にかき消され、風の擦れる音も、虫のさざめきも、鳩の朝礼、魚跳ねる川音、岩の軋み、愉快な話、暗い噂、赤ん坊の泣き色、命途絶える最後の一息、命の歓喜、陵辱の欲宴、星の誕生、惑星の終わり、空間の広がりすべて一切聞こえない。

 カジャは残っていた左手の動かす糸を手繰り寄せ、蛇の鎧を脱ぎ破る。

 共振、狂信、強震、大地の震えが収まるとそこに赤い鬼神が存在した。

 先ほどと何が変わったのか。

 変わらず蛇の肉をはらい人を恨むだけ。

 睨む。

「いくぞ」

 超絶跳躍、一歩の踏み込みから一人目をめがけ飛ぶ。

 空間の風に身を狂わせ、わずかに体の軸をずらす。最初は緩やかなしなり、しかし終着の打点においては大きなうねりとなる。

 カジャは跳躍から横に一回転、カカトを人のアゴに見舞う。

 横薙ぎにより、上アゴと下アゴは肉を別ち、骨はえぐれ、永遠の離縁となって果て野へと飛んでいった。

 赤い噴水が顕現。

 失いし言葉は鈍い呻きとなり壮絶な痛みを伝えている。

 着地、再び跳躍。

 世界を遮るために、カジャは太陽の中へ吸い込まれる。

 二人目と三人目は同時に同じ形で死を迎えることとなった。

 注目せざるを得ないのは人の性であるのか。死をもたらす鬼が二人には見えない。まばゆい光りはいつもと変わらず照らすものを照らし続けている。

 そこにいるはずだけど見ることはかなわない、ただ目がくらだけ。

 刹那の埋没。

 カジャの落下点にいた二人は、見上げる顔にげんこつをもらい首が縮み頭が胸にうまる。間接も圧縮され、足首の上まで地面にうまり二つの人柱が完成、世界は限りなく静止する。

 もちろん残っている人の子らは黙ってはいない。

 腰に刃を構え四人が突撃体勢、三度飛立とうとする赤い風に四つのクサビを打ち込む。

 風はだた駆け抜けるのみ。

 それが一度遮られようものならば。

 風は怒り巻いてあたりを荒らし散らす。

 正面に二人、後ろに同じく二人。

 皆、目に燃え滾る闘志有り。

 まず正面から闘志を消す。

 右側は右手で喉を剥ぎ取り、左側へは噛み付き、砕き、噛み千切り、血肉の味を知った。 

 右振り向きざまに右手を刀のように居合い見舞う。

 首は跳ね上がり、空へと羽ばたく。

 クサビ四人の最後の一人。

「君、女の子なんだセミに似た匂いがする」

 カジャは肩をつかみ笑顔をむけた。

「…………たっ、たすけて、見逃してお願い」

 闘志はついえて願いが灯る。言葉は喉をやっと通過しつむぐが意思は儚くもろい。

 彼女は恐怖のあまり恥水と汚物を垂れ流していた。

 無理もない。

 わずかな時間の殺戮、なりふり構わぬ暴力。人外、鬼の力を知らなかった人の子らは開けてはいけない忘却の扉に、死と現実の鍵をさしこみ開けてしまったのだから。

 反撃の刃も深く鬼の胸に四本刺さっている、しかし元気に今も笑顔を放つ。

「嫌だ、君を殺して暖かいうちに嗅ぐ、すごく好きなんだその匂い」

 右手をはわせ背中へ回し、左手も腰へとやさしく導く。

 鬼の抱擁は体の骨を粉砕せしめ、灯火は風の前に必ず消えた。

 カジャはおもいきり息を吸い込んむ。

「やっぱり少し違うな」

 抱擁を解く、力なく女の子は地に伏した。

「まだいたっけ」

 体から刃を抜く、四本の空音が地をつたう。

「体が真っ赤でこれじゃもう血が出てもわらからないや」

 自嘲気味に笑ってあたりを見まわすと二人が奥に見えた。

「おい逃げよう、二手に別れれば…」

「バカな鬼だからどっちかは助かるはず」

 カジャは一瞬で加速、疾風よりも早く駆ける、人の子らとは反対の方向に。

「あれを見ろ、あっちから逃げていく」

「助かった」

 追いかけても二人が違う方向に逃げられてはたしかに面倒だ。そう岩だ、潰しちゃえ。

 カジャは地面に半分埋まった大きな岩を見つけると抱え込む。

 低い唸り声。

 爪は割れて血は岩に染み込む、わずかに土が盛り上がり持ち上がった。

 しかしまだ全てを見るには到底至らない、更なる力を込める。

 抱えた岩と腕の圧力であばらが軋み砕ける。

 まだだ、唸りは甲高く変わり、岩が持ち上がったと同時に左肩が外れる。

 右足も膝が逝った。よかった利き手は右あとは簡単、あの二人目掛けて投げるだけ。

「どりゃあ」

 語尾の「あ」がどれだけ続いただろうか、長く木霊しそれはあの人の子らにも聞こえたはず。

 でもでかい岩が空から降ってくる前触れとは思いにもよらないだろう。

 岩は鬼の腕より放たれ空を切り裂き、やがて点となり消えた。

 音はないが地が揺れるのがわかった。


 殺戮。

 終了。

 死が人の輪をえぐった。

 岩の落下地点に歩み寄るカジャ。

 岩を転がすとひと文字が赤く輝いて見えた。

「戦いが人々を倒したら君に会いにいくよ」

 と、遠くを見て。

 平地の奥、森の先、沢の彼方。




 大蛇の居ない森

 血染めの平原。


「いままでありがとう」

 カジャの背、遠くの山の端に太陽が差し掛かる。

「な、何いってるのよ。これからもあんたについていくわよ」

 西日に照らされて、セミが翡翠に輝いている。

「嘘だ、こんなになっちゃったし。俺はもう昔のことを思い出したよ」

 カジャが赤いのは端の間の差し日のせいだけじゃない。

「思いのセミが違うことを知ってても、それでもずっと僕を助けてきてくれたんだね」

「私はあなたのセミなんだから、これからも」

「思い出したから君とさよならしないと」

 歩き出すカジャにセミは引き止めようと肩口を一生懸命ひっぱる。

 カジャはセミを手で払う。

 彼は軽く払ったつもりの様だったけど、

「ひやっ」

 翡翠は地面に叩きつけられて死んでしまった。

「なんてことだ」

 

 カジャは大蛇のいない森を出て、忘れていた家路たどる。今はもう変わってしまったであろう六月の森へと急ぐ。

 それは恐ろしく勇気のいることだった。大事なときに彼が一番出せなかったものだから忘却の彼方からいま引っ張りあげて、遅すぎるけどそれを踏みしめる。

 森に光りなく、沢に息吹は感じられない。僕らの、あの六月の丘は不毛丘へと成れ果て。

 人の子らが遊び走りまわっていた。

 カジャを見て慄く。

「お、鬼だ」「真っ赤な鬼だ」「逃げろ、赤鬼だ食われるぞ!」

 中を断ち割り堂々と一直線に丘の上へ。


 六月の丘、緑は少なく一番上に大きな切り株が一つあった。株の中心には小さいセミの幼生が鬼を見つめていた。




                                                                                        [完]


前半では蝉、後半では翡翠を両方ともにセミとしています。

カジャとは冠者の意。

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