傘になって、あなたを待つの。
「強いて言うのなら、雨になりたいかな」
彼はそう言うと、結露も気にせずサッシに片手をついた。ふいと私から目を逸らしてしまうと、窓の外に目をやった。
「あめ?」
「そう。雨。おれは、雨が好きだから」
「知ってるよ」
「まあ、そうだろうな」
そのまま外を見つめて無言になる彼をぼんやりと眺めながら、私はなんとも不思議な心地でいた。ただどこか遠くを眺めているだけの彼が、この部屋のすべてだった。そこにいたからといって、何かしら特別な存在であるわけでもなく、かと言っていなければ空間が成り立たない。少なくとも、あと一時間もしないうちに彼が去ってしまうだなんて、私には到底信じられなかった。
「ごめんな。本当は君も連れてってやるつもりだったんだ。でも、今のおれじゃ、無理」
「うん。知ってる」
「夏には一旦帰ってくるから、待ってて」
「うん」
彼の言葉にうんうんと答えて、聞き分けのいいふりをする。彼はずっと外を見ているから、私が不自然にまばたきを繰り返しても気づかない。気づいていて、見ないでいてくれているのだろうか。あまりにも彼がじぃっと外を見つめているから、私もそちらに視線を移す。窓の外では、冬らしい色をした雨がしきりに降っていた。
彼の転勤が決まったのは、今からたった二週間前のことだったらしい。でも、私が知ったのは、昨日。昨日の夜は彼が帰ってくるのを待って、私たちは一緒にお気に入りのイタリアンを食べた。彼が真剣な面持ちで転勤の話を始めたとき、私は驚くのではなく、ここ数日の彼の挙動不審の理由を知って、まずは納得したのだった。仕方がない、彼は、エリート研究者だから。ただの転勤ではなくて、今彼が行っている研究の成果が認められ、より設備の良い研究施設で研究することが決まったというのだ。言わば栄転であって、彼を応援する私は素直に嬉しかった。場所と、それからその期間がわからないと聞いて、絶望したけれど。エリートだとは言え、そんな遠いところに恋人を連れて行けるほど、彼の懐には余裕はない。金銭面だけでなく、その他あらゆる面を考えても、私が一緒に行くなんて無理だった。私にだって仕事がある。無理だとわかっていて、告げるのが悲しいから、昨日まで言えなかった、と彼は言う。どうしてそんな大事なことを、最後まで教えてくれなかったのか。
彼らしいきれいな小物が並んでいた部屋は、今はもうがらんとしている。ついこの前までは生活感に溢れていたのに、すっかり生き物の気配はなくなっていた。彼の部屋だったのに。
彼はじぃっと外を見つめている。よく見ると、下睫毛に涙がたくさん溜まっていた。私は何も言わない。
「新しい研究所の近くに、おいしいイタリアンあったらいいな」
しばらく沈黙が続いて、それから彼は無理に明るい声を出して話し出した。やっぱり少し濡れた目で、私を見ている。
「あるといいね」
「そしたら、いつか一緒に食べに行こう。何でも奢ってやるよ」
「本当? 楽しみにしてる」
彼はそのまま、向こうに行ったらやりたいことだとか、こんな景色が見えたらいいとか、そんなことを私に話す。彼は科学者のくせに、ロマンチストすぎるのだ。その空想が、全部いつか私に見せることが前提になっているものだから、いたたまれない。またすぐに会えるとわかっていても、この部屋から、彼がいなくなってしまうのが悲しくて仕方なかった。部屋の片隅に積み上げられた段ボール箱たちだけが彼の荷物で、それ以外は誰も彼についてはいけないのだ。彼の寝ていた安いベッドも私も、残されていく。どんなにまばたきをしても堪えられなかった。だんだんと部屋がぼやけていく。この部屋にいる彼の姿を、しっかりと見ておきたいのに。
「雨にね、なりたいよ」
唐突に話は戻って、彼は伏し目がちに私を見る。
「……どうして?」
「うん、雨になったらどこにでもいけるから」
もうすぐにでも私の知らない人がやってきて、ここに暮らし始めるたりするのだろうか。そうしてまた、誰かを招き入れて、思い出を作っていくのだろうか。
「雨になって、いつでも君のそばに流れ着きたい」
「そうしてよ、」
年甲斐もなく涙がこぼれる。ただ少し離れるだけなのに。彼は私の頭にそっと手を乗せると、すぐ電話するから、と呟いた。泣き止まなければいけないとわかっていたけれど、どうしようもなかった。
「そうしたら私、傘になるのに」
ふともう一度外に目を向けると、やっぱり雨は降り続いていた。せめてこの雨が、彼が向こうに着いた時も降っていますように。




