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未発表の一枚 ≪ある画家のトラウマ 横浜大空襲≫

作者: 本間敏治

本間[1] 壁(30才)


 青年画家、本田龍一(ほんだりゅういち)は、最後の力を筆先に込めた。

 涙が止まらなかった。へなへなと椅子に座り込んだ。今、描き上げた100号の絵を、暫く、泪目(なみだめ)で呆然と眺めていた。疲れ果てていた。何かをやり遂げた後の達成感が、なんとかその疲労を支えていた。

 一つの壁を乗り越えられたと、微かに思えた。脱力感に身を任せながら、ようやく解き放たれることができたと実感した。


 彼は、絵のモチーフを探しあぐねていた。原因は、分かっている。戦争体験のトラウマのせいだ。平和を願う気持ちから、自分の戦争体験を表現したいと、あの()まわしい場面を絵にしようと何度も試みたが、いつも挫折してきた。涙脆い彼は、描き進むうちに涙が止まらなくなるからだった。

 今、大きく立ちふさがっていたこの大きな壁を、言わば乗り越えた瞬間だった。




[2] 予感(15才)


 1945年(昭和20年)5月29日、空は、雲ひとつなく晴れ渡っていた。

 明けても暮れても続く空襲は、すでに今日まで、東京で100回以上、横浜でも30回近くを数えていた。しかし、3月10日、死者10万人とも言われる東京大空襲以来、横浜の人びとは、『いつかは来る大規模空襲』に過敏になっていた。


 朝8時に発動された警戒警報が、9時過ぎ、空襲警報に変わった。

 「みんな、すぐ家に帰れ!退却だ!」 教官が、大きく手を振って退却命令のポーズをとって叫んだ。龍一は、ある軍需工場に駆り出され、飛行機の部品の設計助手として働いていた。おなじ年頃の少年が何人かいた。

 防空頭巾にリュック、水筒を、慣れた手つきで身につけ、鉄かぶとを手にする。教官に一礼後、みんな一斉に外に出た。工場のその作業場は、一瞬にしてガラーンとなった。

 龍一は、「ついに来たな」と思った。


 家々のラジオから、「南方洋上から敵機が、本土めがけ北上中…!」と、緊張した声が聞こえてきた。

 帰り道が同じ方向の、友人の市川良太(いちかわりょうた)と一緒に、市電の停留所に急いだ。街が次第に騒然としてきた。ますます人の流れが大きく、速くなっていった。

 市電が、来ない!…待ちくたびれた。

 「龍一、行こう」 小太りの良太にうながされ、龍一も、良太の後を小走りに歩き始めた。


 ウーウ! 突然、空襲警報が鳴り響いた。予感が、現実となった。いつもと様子が違う。すれ違ったサラリーマン風の男が、「いよいよ、横浜にも来たな」と(つぶや)いた。

 晴れ渡った西の空から、B29の十文字の編隊が幾重にも見えてきた。

 「退避! 退避!」 見回りの警官が、逃げまどう人びとの背中に大声をかける。


挿絵(By みてみん)


[3] B29、そして焼夷弾


 ゴォ~ン!! 敵機襲来! 人びとは、口々に「来たぞー!」「危ない!」「逃げろー!」と叫んだ。

 見たこともない数の大群が、これまでにない低空飛行でみるみる近づいてくる。龍一は、恐怖で足がすくんだ。

 B29の弾倉から、筒状のものが落ち、跳ねた。ドーン! 轟音とともに、ドロッとした液体を吐く。焼夷弾だ! ザァーッ 雨のように落ちてきた。みるみる、一面、火の海となった。

 龍一は、咄嗟(とっさ)に洋館風の頑丈そうなコンクリート壁の陰に飛び込んだ。猛烈な熱風が、全身を舐めた。息が出来ない…と感じた。そのまま気を失った。


 熱かった。激しく喉の痛みを覚えて、我に返った。至る所、炎に包まれている。火が風を呼ぶ。所々、竜巻が巻き起こる。向かいのビルの壁に、吹き飛ばされたそのままの形で、真っ黒く焼き爛れた少年が貼りついていた。…小太り、あっ、良太だ! たった今、前を小走りに走っていた良太の姿だった。”焼き殺される”、と思った。その瞬間、立ち上がっていた。そして、無我夢中で走った。火の粉と黒煙で目がふさがれる。少しでも火の気がない所を目指して、突っ走った。

 空が、激しい炎と黒煙に一変した。火ダルマで逃げまどう人びとが叫ぶ、みるみる内に、黒く焼け爛れた人びとが折り重なる。それは、阿鼻叫喚(あびきょうかん)渦巻く地獄絵だった。

 喉が渇く、目が痛い、息苦しい、そして、火の海がどこまでも続く…絶望的になった。走っていられなくなった。しかし、立ち止まったら死ぬ、と実感した。用水路が目に入った。鉄かぶとで水をすくい、頭からかぶった。水をガブッと飲みこもうとした、が、吐いた。喉が渇いて仕様がないのに、息苦しくて飲みこめない。仕方なく、一口だけ口に含んだ。


挿絵(By みてみん)


[4] 市電


 もう走れない。火がない所を探して、もがきながら歩いた。どの位経っただろう、ようやく火も沈静化してきた。龍一は、少し冷静さを取り戻した。と同時に、周りの状況に目を見張った。焦土と化していた。木造家屋は焼け落ち、コンクリートもいくつか柱が残るのみでぺちゃんこ、電信柱も溶け、電線が無秩序にダラーンとぶら下がっている。あちらこちらに、真っ黒に焼け爛れた死体の山、ある人は目をむき、歯をむく。ある人は、虚空をつかんだまま死んでいった。生きながらえた人たちもほとんど全身に大やけど負って、右往左往する。人を呼ぶ声、救いを求める声、子供、赤ん坊の声。主人がいない馬車の馬が暴れている。燃えくすぶっている市電の横を通った。ドア、窓からあふれんばかりの死体がのぞいている。車内が火の通り道になったのだろう、炎の舌で一気に舐められたかのようだ。死体を見慣れた目にも、無残な光景だった。

 あの市電に自分も乗っていたかもしれないと思った。ゾッとした。思わず目を伏せた。心の中で手を合わせ、通り過ぎた。


挿絵(By みてみん)


[5] 良太の母


 どの道を通ったのか、皆目分からない。もう辺りは、うす暗くなっていた。ようやく鎮火したとはいえ、まだ余熱が残る。もうこの世とは思えない。一帯、焼け野原だった。黒煙はいまだ淀み、燃えるものは、ことごとくペチャンコに燃え尽きた。救援のトラックが通り過ぎた。人を探す声がした。どこかで赤ちゃんの泣き声がする。しかし、人びとは、疲れ切っていた。力なくうなだれている。身寄りを失った人びとは、折り重なった黒い死体の中でなす(すべ)もなく、途方にくれるだけだった。


 「りゅうちゃん?」 後ろから、弱々しく呼び止める声がした。

 龍一は、振り向いた。良太の母だった。いつもは人なつこい笑顔を見せるが、目の前の良太の母は、顔はすすけて黒く、髪は焼け焦げ、着ている服は血で赤く染まっている。その姿は普段の彼女とは似ても似つかないものだった。

 「やっぱり、りゅうちゃんね… よかった、無事で。怪我はない?」

 「うん、おばさんは?」

 「よかった、よかった」 自分のことより、龍一の無事を喜んだ。二人とも、身体中、火傷と傷だらけだった。

 良太の母は、龍一の顔を黙ってじっと見ていた。目の中がみるみるうるんでくるや、突然、ワーッ!と泣き出した。

 「どうしたの、おばさん」

 「ワーッ!、りゅちゃんごめんね、あそこ…」 龍一は、良太の母が指さした方を見た。


挿絵(By みてみん)


[6] 母と、弟


 黒い死体が並ぶ中に、一人の女性の両脇に、三人の子がよりそう死体が目に入った。一見して、分かった。母と三人の弟だ。母は、身ごもっていた。顔の部分は、燃え残りのトタン片のようなもので覆われていた。しかし、妊娠10ヵ月のそれと分かるお腹のふくらみで、母だと分かった。ふくらんだお腹に両手を重ね、その上に10才と7才、そして5才の幼い弟達の手が重なっていた。龍一は、一瞬のみこめず、突っ立たまま、助けを求めるような眼差しで良太の母を見た。

 「防空壕が、焼夷弾の直撃を受けてね…この辺は、みんな全滅だよ。たまたま、私は、買い物に行ってたもんで……?」 こう言うと、良太の母は、思い出したように、「りょうちゃん、うちの子は…?」と、訊き返してきた。龍一は、静かに首を横に振った。良太の母は、へなへなと座り込んだ。そんなへなった良太の母を見て、ようやく状況がつかめてきたのか、龍一は、我慢してきたものを一気に吐き出すように、手で顔を覆い、誰はばかりなくワーッ!と泣き出した。泣きながら、今日一日の出来事が走馬灯のようによみがえった。ブルブルと、震えが止まらなかった。


挿絵(By みてみん)


[7] 父の声、姿


 「おーい、りゅう!」 離れた所から、呼ぶ声がした。父の声だった。”父さんは、無事だった” 泣きじゃくっていた龍一は、泣きながらその声の方に向いた。

 「りゅーう!こっちーだ!」 火がまだくすぶっている焼け野原の、自宅とは離れたところに、父はいた。何か探している風だった。小柄でやせ男、そして大工の父の身体に、大きなシャベルは、必要以上に不釣り合いに映った。いつもは、カンナ、のこぎりを持つ手だ。

 ”父さん、何している?”と思った。

 「何してるんだ、早くこい!!」 今度は、怒鳴った。龍一は、目をぬぐって走って行った。

 「お前は、あっちの方を探せ」 父親の忠吉(ただきち)は、シャベルで瓦礫、残土をかき分けながら、あごで方向を示す。

 「えっ?」

 「早くしろ」

 「……」

 「何しているんだ、お母さんだよ」

 「お母さん…って?」

 「頭だよ…お母さんの頭、吹き飛ばされたんだ、ちくしょう!」 忠吉の目に涙が光った。悔し涙に見えた。

 「頭?…はっ!」振り返って、母と弟の遺体を見た。母の頭を覆っていたトタン片に目が入った。ようやくのみこめた。血の気が引いた。再び、へたりとしゃがみこみ、泣いた。

 「こらーっ!泣いている暇ないぞ、早く手伝え!」

 龍一は、力なく立ち上がり、父が示した方向の焼跡の残骸を、あてもなく探し始めた。涙が止まらなかった。暗くなっていた。暫くして、周りを見回すと、何人もの、同じように何かを探す物音が聞こえた。あちこちから、すすり泣く声が聞こえた。


挿絵(By みてみん)

 

[8] あくる日の風景


 翌日も、よく晴れ渡った。しかし、建物という建物が燃え尽くされ、いつも見る朝の光景が一変した。建物、ビルに囲まれた世界が、昨日一日で全てとっぱわれてしまった。

 普段はここからは見えない、丹沢山脈の稜線(りょうせん)が見える。そして、その上に富士山の白い三角すいが、くっきり浮かんでいる。

 山々の稜線と富士山を、こんなにも身近に感じたことはない。建物がとっぱわれた、平らの世界が、なだらかに、その山々の稜線と富士山まで続いている。しかしそのなだらかな世界は、残骸と残土、そして折り重なった肢体の山が累々と続く丘だった。どこまでも続く黒い平らな丘に、焼け残った人間だいの金庫だけが、他の物体より高さを誇っていた。Y銀行があったところだ。変わらないのは、富士山の姿だけだった。白い富士山が、上から笑っているように見えた。


 龍一と父親の忠吉は、翌日も丸一日中探しまわった。しかし、母の頭は、結局、見つからなかった。


挿絵(By みてみん)


[9] 横浜大空襲(15才)


 横浜大空襲は、横浜市中心に行われた、白昼の空襲である。米空軍の、工業地・商業地・住宅地が混在した都市に、焼夷弾攻勢の火災の勢いがどのように広がるかのデータ収集のためだったとされている。言わば、実験だった。

 B29爆撃機による焼夷弾攻撃で、わずか1時間ばかりの時間で横浜市の1/3が焼け野原と化し、約1万人もの死者を出した。そのすさまじさは、3月10日の東京大空襲の半分の時間で、B29爆撃機は約2倍の500機、焼夷弾は約1.3倍が投下されたという数字を見ても分かる。そして、被害が最も甚大だったのは、現在の神奈川区反町、保土ヶ谷区星川町、南区真金町地区一帯とされている。

 龍一の生家は、その一つ神奈川区反町にあった。


挿絵(By みてみん)


[10] 1枚の絵(30才)


 若い女性が、身を(まと)わず、健康美を誇示している。見るもの全てをうっとりとさせる、みずみずしさだ。しかし、その背後には、焼け爛れた身重の女性と3体の幼子の死体が横たわっている。さらに、死体が横たわるその傍らには、助けようと、必死に死体に手を差し伸べる父親の姿がある。そして、死体に必死に手を伸ばす父の身体の上には、黒煙が舞う中、空から死の灰が降り注いでいた。


 龍一は、描き上げたその1枚の絵を暫くボーッと見ていた。暫くして、また目に涙があふててきた。


[11] 未発表(80才)

 

 その後、彼は、”破船”をモチーフに、滅びゆく物への挽歌・哀愁を長く描くこととなる。戦争絵画も、原爆と破船のフォルムとして表現している。80才を過ぎた今も、精力的に描き続け、作品は、ゆうに1,000点を超えた。しかし、反戦絵画として人の死を描いたのは、後にも先にもこの一枚だけである。


 この一枚の絵は、渾身の作品にかかわらず、画集にも掲載されず、未だどこにも発表しないまま、今も、アトリエの奥に眠っている。     

                                        

                                        画:本間龍松

     完 

   制作:2010年(平成22年)秋


挿絵(By みてみん)



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