第1話 雨上がりの境界
そのナワシロイチゴは、澪を山道から連れ去ろうとしていた。
森谷澪は濡れた登山道の脇で足を止め、少し先の斜面に目を凝らした。
雨は一時間ほど前に上がっている。空を覆う薄い雲から柔らかな光が落ち、洗われたばかりの葉が重たげに雫を抱えていた。
土と樹皮の匂いが濃い。時折、枝からまとまった水滴が落ちて、下草をぱらぱらと鳴らす。
見慣れた雨上がりの山だった。
今日も休日を費やし、一人で植物を見に来ている。澪は今年で二十歳。青嶺大学生命環境学部、生物資源科学科に通う二年生だ。
友人の佐和には、二十歳の休日として何かが間違っていると言われた。
澪としては、植物を見に山に行く以上に正しい休日の使い方はないと思っている。
そんな彼女だからこそ、その一角だけが目についた。
「……なんで、あそこだけ?」
澪は登山道から外れない位置でしゃがみ、小型のデジタルカメラを構えた。
ナワシロイチゴ。地面を這うように伸び、初夏に赤い実をつける野イチゴの一種で、澪には馴染みのある種類だ。
種類そのものは珍しくない。珍しいのは、生え方だった。
枝は妙に勢いよく伸びている。虫食いもほとんどない。
道沿いに広がらず、少し離れた場所に次の株が現れ、山の奥へ向かって点々と続いている。まるで植物の方が、こちらですよ、と案内しているように。
「植物についていって遭難しました、は、さすがに怒られるなあ」
両親がいた頃なら、母は呆れ、父は笑ったあとで二人そろって叱っただろう。
澪は撮影した画像を拡大した。やはりナワシロイチゴ。自信はある。むしろ、知っている植物だからこそ、この生え方が気持ち悪い。
次いでスマートフォンに現在地と時刻を保存する。
午後二時十四分。
日没まではまだ余裕がある。雨雲も遠ざかりつつあり、足場は湿っているものの、斜面そのものは緩やかだ。
山歩きには慣れている。両親が健在だった頃は、休みのたびに三人で山や湿原に出かけた。父が地図を持ち、母が弁当を作り、澪は二人を置いて植物の前まで駆けていく。
今でも、山に入る時の手順は変わらない。
天候。時刻。帰路。足場。
それを確認してから、澪は目印になる大木を写真に収めた。
「十分だけ」
誰にともなく宣言し、登山道を外れる。
最初の株までは、ほんの十数歩だった。
ルーペで葉を覗き、写真を撮り、ノートに場所と周囲の様子を書く。後で見返した自分が困らないだけの記録。何かを証明するには足りなくても、最初の手掛かりにはなる。
その先にも株がある。
さらに奥にも。
若い株ほど生育がよい。地面を覆う落ち葉の種類も、少しずつ変わっているように見えた。
「植えた……にしては、変」
誰が。何のために。こんな目立たない山中へ。
園芸種が逸出した可能性はある。鳥が実を食べ、種を運んだのかもしれない。それでも、もう少し散らばるはずだ。
疑問を一つ追うと、その先にもう一つ現れる。
楽しい。
いけない。とても楽しい。
気づけば、十分はとうに過ぎていた。
澪は腕時計を見て眉を寄せる。戻ろう。そう決めて顔を上げた時、濡れた枝葉の向こうに、妙に明るい場所が見えた。
木々の切れ間。
山中の小さな空地だろうか。
けれど、さっきまでそんなものがあっただろうか。
あと少しだけ。
友人は澪の行動を戒める時、よく呆れた顔で言う。好奇心は猫をも殺す、と。
けれど澪は知っている。そのことわざには、探求の末の満足が猫を生き返らせた、という続きがある。
実に素敵なことわざではないか。
そもそも、自分は猫ではない。大丈夫。
何ひとつ大丈夫の根拠になっていない言い訳を胸に、澪は足元を確かめて藪を抜けた。
一歩目で、足が止まった。
林が途切れている。
けれど、澪の視線は、足元から広がる地面に奪われた。
湿った日本の腐植質の土に、淡い灰白色を帯びた土が、大小の斑となって入り込んでいる。境目は一本の線にならず、互いの土が指を組み合わせるように入り交じり、その上で植物まで複雑に混生していた。
空は雨上がりの薄曇りのまま。
なのに、空地だけがひどく明るい。
足元の石に目を落とす。火山岩とも石灰岩とも違う。細かな孔が無数に開き、その奥で、濡れてもいない薄片が淡く光を返していた。
「何、これ……」
怖い、より先に胸が高鳴った。
澪はその場から動かず、まず目の前に開けた範囲を撮った。灰白色の地面。足元。二種類の植生が混じる場所。小型定規を添えられる近さの葉だけを選び、形を記録していく。
林の切れ目では、ナワシロイチゴの茎が幾重にも絡み、低い藪を作っていた。明るい空地へ向かうものだけではない。横へ逸れるものも、林へ戻るように曲がるものもある。
黒い土に根づいた株。その娘株らしいものが、少し離れた灰白色の土に根を下ろしている。さらにそこから、何本もの茎が好き勝手な方向へ伸びていた。
中でも、灰白色の土に生えて見える一つの娘株が、異様な勢いで繁っている。
同じ茎につながっているのに、葉の厚さが違う。
「嘘でしょう」
声が弾んだ。
その娘株には、虫食いひとつない。葉は厚く、色も濃く、薄曇りの光を受けて妙な艶を返している。
澪は地面に触れないよう身体を傾け、ルーペを近づけた。
見間違いではない。
葉脈に沿うように、ごく淡い金色の線がある。
反射だろうか。角度を変えると消え、戻すとまた浮かんだ。
その隣には、シダに似た植物がある。
そこまではいい。
問題は、どう見ても花のようなものを咲かせていることだった。
「シダに、花?」
そんなはずはない。
葉の下にのぞく花らしきものは、澪の親指の先よりひと回り大きい。くすんだ赤の外層、その内側に淡い黄色が重なり、中心だけが、吸い込まれそうな青をしている。
一つの器官の中で、花弁のような層が二重に開いていた。
もちろん、本当に花とは限らない。澪が知らないだけの、花によく似た何かという可能性もある。
しかし、知らない植物を見た時の「あとで調べよう」とは違う。これは「教科書をどこから読み直せばいいのだろう」の方だ。
澪は夢中でスケッチを始めた。
全体の形と大きさ。葉の表裏。花らしき部分がどこから伸びているか。あとで見た自分が、興奮のあまり肝心なところを撮り忘れた自分を殴らずに済むよう、順番に残していく。
風はない。
それなのに、花らしき器官が澪の方へわずかに傾いた。
ぞくりと腕に鳥肌が立つ。
ようやく警戒心が好奇心に追いついた。
澪は顔を上げ、凝った背を伸ばした。
身体がわずかに横へずれる。
重なって見えていた低木と若木の間から、縦長の窓と、深く張り出した軒が現れた。
空地のすぐ向こうに、家がある。
植物に夢中で、低木の向こうまで見ていなかったらしい。
木造に見えるが、日本の古民家とも山小屋とも違う。深く張り出した屋根を、植物の蔓に似た曲線の柱が支えている。窓は縦に長く、軒下には見たことのない金属板が規則正しく吊られていた。
廃屋ではない。
煙突から細い煙が上がり、窓の一つが開いている。
生活している人がいる。
その事実に安堵するべきか、逃げるべきか。判断できないまま視線を巡らせた時、低木の葉に並ぶ赤いものが目に入った。
実――に見えた。
厚みのある葉の縁に、珊瑚色の珠が五つ、六つと連なっている。どれもサクランボより一回り小さく、半透明の内部を淡い金色の筋が走っていた。
果柄がない。
子房が育った形にも見えない。葉の組織そのものが膨らみ、繁殖器官と栄養組織を同時に作っているような――。
「少しだけ、近くで」
採るつもりはない。もっと詳しく観察するだけ。
澪はカメラを首から下げ、実の表面をルーペで見るために手を伸ばした。
「――ラ・シェナ、ティア!」
意味の分からない鋭い声が飛んだ。
反射的に手を引く。
家の方から、一人の男性が歩いてきていた。
背が高い。緩やかに波打つ黒髪は、短髪と呼ぶには少し長く、額や頬に柔らかくかかっている。
見慣れない意匠の服。長い上着の裾と袖に、光を吸うような刺繍が施されていた。
そして、金色の目。
薄曇りの空の下でも、その瞳だけは内側に光を含んでいる。
端正、という言葉では足りない。ひどく整った顔立ちなのに冷たくはなく、こちらを案じる表情にさえ、目をそらしたくなるほどの色気があった。
完全に、好みの顔だった。
「……無理」
何が無理なのか自分でも分からない。澪は熱くなった顔を隠すように片手を上げた。
男性が足を止める。
「――――?」
柔らかな声で何かを尋ねられた。
まったく分からない。
日本語でも英語でもない。耳慣れない音が滑らかにつながり、問いかけの調子だけが伝わってくる。
「すみません。日本語、分かりますか?」
男性はわずかに眉を寄せた。
「ニホン……?」
一語だけ、不確かな形で繰り返す。
通じていない。
澪が低木を指し、次にルーペとカメラを見せると、男性は実と澪を交互に示した。自分の口元に指を運び、すぐに首を横へ振る。
「食べるな?」
澪も実を指し、食べる真似をしてから大きく首を振った。
「食べません。見るだけです」
言葉は通じなくても、否定は伝わったらしい。男性の肩からわずかに力が抜けた。
今度は地面を示し、空地の奥を指す。何かを説明しようとしている。危険。入るな。ここにいろ。
その程度しか読み取れない。
澪は頷きながら、男性の視線が時折、自分の背後へ向くことに気づいた。
振り返っても、そこには狭い空地と林の境しかない。
彼は何を見ているのだろう。
不意に、足元のシダに似た植物が揺れた。
風はない。
一株だけではなかった。ナワシロイチゴも、葉の縁に実を並べた低木も、示し合わせたように同じ方向に身を傾ける。
その葉の下で、三色を重ねた器官がゆっくり開き、その中心を淡い光が走った。
「今の……」
男性の表情が変わる。
家の軒下で、金属板が一斉に鳴った。
硬い警告音。
男性は振り返り、すぐに澪に向き直った。地面を指す。両手でその場を押さえるような動きをしてから、もう一度、実を示して首を振る。
「ここにいろ、ですね。これは食べない」
澪が自分の足元を指して頷くと、彼は一瞬迷ったように見えた。
金属板は鳴り続けている。
男性は短く何かを告げ、空地を囲む木々に向かった。
迷いなく幹に向かって走っていく。ぶつかる――澪がそう思った瞬間、黒髪も長い上着も、木の手前で景色に溶けた。
「え?」
木の陰に回ったのではない。人ひとりが通れる隙間などなかった。まるで、当然のように木の中に入ってしまった。
澪は数秒、動けなかった。
駆け寄りかけて、止まる。
ここにいろ。
あの身振りだけは間違いない。
「……分かりました。動きません」
いなくなった相手に返事をし、澪は境界に近い場所まで下がった。
帰った方がいい。
理性はそう告げている。
だが、目の前には説明できない植物がある。しかも、ここに暮らすらしい男性は、澪を追い払わなかった。食べるな、ここにいろと伝えて去った。
少なくとも、戻ってくるつもりなのだろう。
待つ間、触れず、食べず、境界から離れずに記録するだけなら。
「写真だけ。あと、測るだけ。採らない、触らない、食べない。完璧」
自分に言い聞かせ、澪はカメラを構え直した。
完璧な人間は、そもそも意味不明な空地に一人で残らないのではないか。
友人ならきっとそう突っ込むだろうが、その意見は聞かなかったことにした。
植物の揺れはすでに収まっている。
葉の金色も消え、雨粒だけが静かに残っていた。
澪は同じ位置から数分おきに写真を撮り、温度と湿度を記録した。日本側と空地側で、温度はほとんど変わらない。湿度にも大差はない。それなのに、植物の状態は明らかに違う。
灰白色の土に直接触れないようメジャーを伸ばし、黒い土の斑や、異様に繁った娘株までの距離を測る。先ほどのスケッチに続いて、ノートには土の斑と株の図が増えていった。
測った距離を書き込み、見えている茎を線でつなぐ。葉を描き添えては顔を上げた。
背を伸ばすと、男性が消えた木々が目に入った。まだ人影はない。澪は来た方の林を確かめ、それから開いた頁に目を落とした。
上から描いた輪郭だけでは、二つの株の葉がよく似て見える。あの厚さの違いが、まだ残せていない。
「横からも、描いておこう」
澪はまた身をかがめ、厚い葉と目の高さを合わせた。同じ茎につながる黒い土の株にも目を戻し、二枚の葉の厚みを図の脇に描き添える。
気づけば雲の向こうの光が傾いていた。
腕時計を見る。
「まずい」
午後六時を回っている。
六月で日が長いとはいえ、山中でのんびりしてよい時刻ではない。男性には悪いが、登山道に戻るべきだ。
ノートを閉じようとした時、低木の根元に小さな窪みを見つけた。
足跡。
細長い窪みが、二つ並んでいる。近くの葉には食いちぎられた痕があり、その下に乾きかけた黒い粒が落ちていた。
「動物もいる……」
鹿ではない。鼠より大きい。形だけなら兎に近いが、足跡の間隔が妙だった。
カメラを向ける。
その時、空地の端で草が揺れた。
男性が消えたのと同じ方向。
澪は息を止めた。
次の瞬間、何もいなかった空地の端から、一頭の獣が突然現れた。
真っ先に目に飛び込んだのは、濡れたように黒い一本の角。
長い耳、灰褐色の身体、丸い目。大きさは中型犬ほどもあるが、姿は兎によく似ていた。
「かわ――角?」
可愛いと危ないが、頭の中で正面衝突した。
角のある兎は、澪を見た瞬間に身体を低くした。
後脚が地面を蹴る。
速い。
避けようとした身体が、間に合わない。
脇腹に、硬い衝撃。
痛みは一瞬遅れてやってきた。
息ができない。
カメラが手から落ちる。膝が崩れ、濡れた地面が急に近づいた。
角のある兎は数歩先で振り返った。澪の血に驚いたように耳を伏せると、身を翻して空地の端に駆け戻る。
茂みに飛び込んだ瞬間、その全身が一度に消えた。
澪は脇腹を押さえた。
温かいものが指の間からあふれる。
救急用品。圧迫。助けを呼ぶ。
知識だけが頭を巡り、身体は動かなかった。
スマートフォンは鞄の中。笛は肩紐についている。手を伸ばしても、指先が届かない。
空はまだ薄曇りだった。
灰色の光を透かした枝が、ゆっくり揺れている。
こんな時なのに、葉の形が目に入った。
父に笑われたことがある。澪は転んだ時ですら、地面の草を見ている、と。
息を吸おうとして、喉から小さな音だけが漏れた。
視界が暗くなる。
誰かが呼んでいた。
意味の分からない声。
先ほどの男性が、澪のそばに膝をつく。金色の目から、穏やかだった色が消えていた。
もう一人いる。
セピア色の髪と、同じ色の目をした男性。ひどく心配そうにのぞき込みながら、布を傷口に押し当てる。
痛いはずなのに、感覚が遠い。
黒髪の男性が何かを言った。
返事をしたのは、セピア色の男性だろうか。
短い声が飛び交う。どれも分からない。
頬に手が添えられた。
唇に、柔らかなものが触れる。
知らない実だ。けれど、先ほど手を伸ばしかけた、あの低木の実に見える。
香りは、なぜかライチに似ていた。
瑞々しい甘さ。花を溶かしたような匂い。舌から喉へ、淡い冷たさが落ちていく。
食べてはいけないと、あの人が言ったもの。
そう思った時には、身体が勝手に飲み込んでいた。
指先が痺れる。
痺れは腕を上り、胸を抜け、全身に細い根を張るように広がっていく。
世界のどこかで、何かが澪を見つけた。
そんな感覚があった。
黒髪の男性――彼の向こうには、雨上がりの薄曇りがあったはずなのに。
灰色が、眩しい青に変わる。
澪を囲んでいた木々が消えた。
狭かった世界が、音もなく開いていく。遠い山。光を返す水辺。空の下に横たわる、白いもの。
何を見ているのか考える力は、もう残っていなかった。ただ、世界はこんなに広かったのだと、ひどく場違いな感動だけが胸に落ちる。
理解するより先に、黒髪の男性の手から光があふれた。
温かい。
痛みが遠のく。
青空を背負った金色の目が滲む。
その肩越しに、緑の目をした黒猫がいた。
いつからいたのだろう。猫は澪をまっすぐ見つめ、何かを言うように口を開いた。
声を聞く前に、世界が暗くなった。
* * *
次に澪が目を開けた時、白い天井があった。
木目の細かな板を組み合わせた、見知らぬ天井。
身体が重い。
脇腹に痛みはない。恐る恐る手を当てても、包帯の感触すらなかった。
起き上がろうとした途端、血の気が引く。
視界が狭まり、耳の奥で音が鳴った。
「動かないでください」
柔らかな声。
澪は息を止めた。
寝台の傍らに、あの男性が座っている。
黒い髪。金色の目。
やはり、まともに見るには心臓に悪い顔だった。
けれど今、問題なのはそこではない。
「言葉……」
分かる。
発音も音の区切りも知らない。それなのに、彼が何を伝えたのか、意味だけが最初から澪の中にある。
部屋には土とも木とも違う、淡い香りが満ちていた。机。水差し。椅子。壁に埋め込まれた光る石。
あまりにも多くのものから、気配がする。
温かい。静か。落ち着かない。眠い。
物に感情があるのではない。それでも、今まで存在しなかった感覚が薄い膜のように重なり、頭の中に押し寄せてくる。
澪は逃げるように窓の外へ目を向けた。
快晴だった。
眠っている間に晴れた。それだけなら、何もおかしくない。
けれど窓の向こうにあるのは、濡れた日本の林ではなかった。
家のある場所よりずっと低く、湿地が広がっている。鏡のような水面では、半透明の植物が揺れている。
その奥から、ひとつの山がぽつりと立ち上がっている。
山の肩越しには、さらに信じがたいものが見えた。
小さな大地がひとつ、青空の中に浮かんでいる。
気を失う直前に見た景色。
夢ではなかった。
窓辺には、緑色の目をした黒猫が座っていた。
澪と目が合う。
猫は何も言わず、ゆっくりと尾を揺らした。
男性が寝台の脇で姿勢を正す。
その顔には、初めて会った時の柔らかな微笑みがなかった。
「お目覚めになったばかりで申し訳ありません」
彼は、澪から目をそらさずに告げた。
「まず、あなたに謝らなければなりません」




