身の程をわきまえなさい。
「きゃあぁぁぁ!!!」
ひとりの男が舞踏会の会場へ姿を現した瞬間、あちこちから黄色い歓声が上がった。
貴族令嬢たちの視線が一斉に集まり、その男はたちまち会場の中心となる。
名はレオン・アルヴェイン。
白銀に近い淡い金髪はまったく乱れず、背は高く、服の上からでもわかるほど均整の取れた体つき。
王国騎士団副団長。
しかも史上最年少でその地位に就いた人物である。
名門伯爵家の出身でありながら家名に頼ることなく騎士団へ入団し、実力だけで現在の地位まで上り詰めたことで知られていた。
そのため、彼を射止めたいと願う令嬢は後を絶たない。
レオンが参加すると聞けば舞踏会の招待状の価値は跳ね上がり、時には参加希望者が殺到して抽選になることさえあった。
今夜もまた、令嬢たちは遠巻きに彼を見つめている。
だが、その視線の先にいる本人は、彼女たちとは別の方向を見ていた。
会場の隅。
大きな窓のそばに、一人の令嬢が静かに立っている。
ミリア・クローデン――男爵家の令嬢だった。
銀糸のような長い髪に、透き通るような白い肌。
その容姿だけを見れば、誰もが振り返るほどの美しさを持っている。
しかし、ミリアは、子息や令嬢から避けられている側面があった。
というのも、彼女はとても無愛想で、笑わず、言葉も発しないという舞踏会にいる令嬢としては行ってはいけないタブーのようなものをいくつか破っていたのだ。
いつしか彼女は社交界でこう呼ばれるようになる。
――氷の令嬢。
レオンが舞踏会の中心にいるとすれば、ミリアは屋敷の角を陣取り、交流もせずに、窓の外を眺めている一般人。
そんなミリアのもとへ、レオンは迷うことなく歩み寄る。
「ミリア嬢、今日もいらっしゃったのですね」
レオンだけは、彼女に毎回声をかけていた。
「レオンさま、私にお話をしていただけるのは光栄ですが、必要のないお気遣いです。私はただの男爵令嬢ですから」
「いえ、そのようなつもりは! 哀れみなんてございません! ただ――」
レオンが言葉を続けようとした、その時だった。
「レオンさま!」
甲高い声が響く。
数人の令嬢が駆け寄り、その中心にいた少女が当然のようにレオンの腕を取った。
イザベル・ヴォン・アーネル。
伯爵家の令嬢である。
「もう、こんなところにいらっしゃったのですか」
「イザベル嬢――」
「私たちともお話してくださいませ。あまりそのような方とばかりお話しされていると、レオンさままで暗くなってしまいますわ」
わざと聞こえるような声だったため、周囲の令嬢たちから小さな笑いが漏れる。
レオンは眉をひそめたが、同調して笑うことはなく、むしろ申し訳なさそうにミリアを見る。
――また後で。
そんな意味を込めて軽く手を振る。しかしミリアは表情一つ変えず、小さく一礼しただけだった。
やがてレオンはイザベルに連れられ、舞踏会の中央へ向かうと音楽が流れ始めた。
一曲踊り終える頃には、会場はレオンとイザベルは再び大きな拍手に包まれていた。
そして次の舞踏会でも、そのまた次の舞踏会でも、似たような光景は繰り返された。
しかし、そんなことが何度起きようとも、レオンもミリアも参加可能な舞踏会には必ず参加していた。
◇
今度の舞踏会、イザベルたちはミリアに嫌気がさしていた。
レオンが主催、あるいは参加する舞踏会は、王都でも有数の人気を誇る。
参加希望者は毎回殺到し、抽選になることも珍しくない。
令嬢たちは招待状を手に入れるために必死になり、外れた者は次の機会を何ヶ月も待たなければならない。
それほど貴重な場だにもかかわらず、ミリアだけは毎回のように姿を現していた。しかも不思議なことに、レオンが参加している舞踏会にだけ。
社交を楽しむわけでもなく、誰かと親しく話すわけでもない。ただ会場の隅に立ち、窓の外を眺めているだけ。
そんな女が、なぜ毎回いるのか。
その理由を考えるたびに、イザベルには苛立ちが募った。
――結局あの女も同じなのだ。
興味などないふりをして、無関心を装って、その実、レオンを狙っている。だからこそ、どの舞踏会にも顔を出しているのだ。
そう考えると、吐き気すら覚えた。
レオンは優しく、誰に対しても分け隔てなく接するからこそ、隅で一人ぼっちになっているミリアを放っておけないのだろう。
だが、ミリアはそれを利用しているのだとしたら、それはあまりにも卑しいと、イザベルはそう結論づけた。
ちょうどその時、レオンは別の貴族に呼ばれ、会場の反対側へ向かっていくのを見たイザベルはドレスの裾を翻しながら、窓辺へ向かった。
「あなた」
「なんでしょう、イザベルさま」
いつも通り、窓の外を眺めていたミリアに、イザベルは周囲に聞こえない程度まで声を落とす。
「ねえ、教えてくださらない? なぜ毎回、レオンさまが参加する舞踏会にしかあなたが来ないこと」
「偶然、彼がいるだけです」
「そうかしら? でもね、そんな言い訳をしても無駄なのよ。
あなたがレオンさまを好きなことくらい見え見えなんだから」
「そうですか。考察などご自由にしていただいてかまいませんが」
怒りもなく、言い返しもしないミリアの佇まいはかえってイザベルを苛立たせた。
「――ちっ」
全く動じないミリアに痺れを切らしたイザベルは、手に持っていた赤ワインをミリアにぶっかける。
鮮やかな赤色の液体が弧を描き、ミリアのドレスへと降りかかり、純白の布地が一瞬で汚された。
周囲から小さな悲鳴が上がる。
――まあっ!
――何があったのですか!?
使用人たちが慌てて駆け寄ってくるとイザベルは一瞬で表情を切り替えた。
先ほどまでの冷たい目は消え失せ、代わりに、善良な貴族令嬢の顔に切り替える。
「ミリアさま! 申し訳ございません!! ワインをこぼしてしまいまして!!」
高らかな声が会場に響き、事情を知らない者が見れば、完全な事故だった。
使用人たちは慌ててタオルを取りに走るなか、誰の目の届かなくなったその一瞬で、イザベルはミリアに顔を寄せた。
――身の程をわきまえなさい。
「あなたのような方が、レオンさまのお相手をするなんて勘違いも甚だしいわ」
その言葉にミリアは何も返さず、一礼した。
ちょうどタオルを使用人からもらい、自らのドレスを拭いている間、ミリアはこう言った。
「ご忠告承りました、イザベルさま」
◇
イザベルは、あの日のミリアの姿がどうしても忘れられなかった。
目の前でワインを浴びせられたというのに、彼女は眉一つ動かさなかった。
取り乱しもせずに、ただ静かに一礼し「ご忠告承りました」と言っただけ。
そのスマートさがどうしても気に入らなかった。
自室のソファに腰掛けたイザベルは、グラスに注がれた赤ワインをゆっくりと揺らしながら、その時の光景を思い返す。
「普通なら恥ずかしくてたまらないはずですわ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
「きっと私が高潔すぎて、そう思うのね。彼女はもともと期待されていないのだから、恥を晒しても別に構わない。きっとそんなくだらない理由ね」
そう結論づける。
だが、胸の中に残る苛立ちは消えずに、むしろ時間が経つほどに大きくなっていく。
自分を無視したような態度、それに見下されたわけでもないのに、なぜか見下された気分になるあの落ち着き。
考えれば考えるほど腹が立ったイザベルは立ち上がった。
自分で解決できないなら、解決してくれる人に頼めばいい。
そう思い、向かった先は父の執務室だった。
「お父様、実は私、とある方にいじめられていまして」
「そうなのか、イザベル。それは辛かったな。よくぞわしに言ってくれた」
イザベルの目にはうっすら涙まで浮かんでいた。
娘を溺愛している父にとって、その姿は十分すぎるほど効果的だったことをわかっていた上でのものだった
伯爵は椅子から立ち上がり、心配そうな表情で娘の頭を撫でる。
「お父様……」
「いじめてきたバカはどこのどいつだ? すぐに、破滅に追い込んでやろうじゃないか」
娘を傷つけた相手への怒りで、伯爵の顔が険しくなると、イザベルは内心で笑みを浮かべながら、その名前を口にした。
「ミリア・クローデンです、お父様」
「なんだ、あの貧乏男爵家か?」
伯爵は鼻で笑った。まるで相手にもならないと言わんばかりだった。
「簡単なことだ。お父様に任せておきなさい」
「本当に! 感謝いたします」
イザベルはぱっと表情を明るくし、そのまま父へ抱きつくと、伯爵も愛娘を抱きしめながら上機嫌で笑った。
「いいか、イザベル。男爵家など権力ではなく、支援で生きている。
実際、我々の位から仕事をもらったり、商人の紹介で生きているところがある」
「そうなのですね!」
「クローデンのとこを仕切ってる伯爵家の男に掛け合ってみるわい。すれば、あいつら親子ともに奈落の底まっしぐらよ」
「さすが、お父様!!」
イザベルの顔に笑みが広がった。男爵家がどれほど伯爵家の影響を受けるかくらい、彼女にも理解できた。
取引先を失い、支援を失い、紹介を失う。それだけで小さな貴族は簡単に立ち行かなくなる。
まして相手は貧乏呼ばわりされているあのクローデン男爵家だ。
ひとたまりもないだろう。
――これで目障りな女は消えた。
そう確信したイザベルは満足そうに執務室を後にし、
廊下を鼻歌でも歌い出しそうなほど機嫌よく、自室への廊下を進んでいった。
◇
それから三ヵ月が経ったころ――。
季節は冬となり、舞踏会シーズンは終わりを迎えていた。
ミリアといえば、イザベルが伯爵に頼み込んだ数週間後から舞踏会には一切来なくなった。
あの陰気な男爵令嬢がいなくなったと、それだけで舞踏会が明るくなった気さえした。
――はずだった。
だが、同時期からレオンの参加頻度まで目に見えて減ったのだ。
以前ならどの舞踏会にも顔を出していた彼が、今では一ヵ月に一度現れるかどうか。
イザベルと令嬢たちは当然落胆した。ミリアが消えたことは喜ばしいのだが、肝心のレオンまで来なくなっては意味がない。
そんな不満を抱えながら迎えたのが、今季最後の舞踏会だった。
最後というのもあり、会場には王都中の有力貴族が集まっている。そして当然、レオン・アルヴェインの姿もあった。
――レオンさま!
――かっこいいですわ!!
――今夜も素敵ですの!
相変わらず彼の周囲には令嬢たちが群がっていたが、今夜の主役は、必ずしもレオンだけではなかった。
会場の一角に、もう一人の注目人物がいたのである。
アルフォンス・ローゼンベルク卿。
艶やかな黒髪に、彫刻のように整った顔立ちで、その場に立っているだけで周囲の空気が変わるような存在感があった。
ウェンブルッフェン公爵家当主。
十四歳という若さで家督を継ぎ、荒れていた領地を立て直し、王国内でも有数の繁栄を築いた人物として知られている。
その一方で社交界にはほとんど姿を見せないため、こうして舞踏会へ現れること自体が珍しかった。
――なんて素敵な方……。
レオンとはまた違う魅力があった彼に、イザベルの目が輝き、自然と足がそちらへ向かう。
「アルフォンス卿、わたくし、アーネル伯爵家のイザベル・ヴォン・アーネルと申します。以後お見知り置きを」
「あぁ、アルフォンスだ。よろしく頼む」
アルフォンスはレオンと何か話していたらしく、視線もそちらへ向いている。
それでもイザベルはめげなかった。
「アルフォンス卿、とても急ではありますが、私と一曲踊ってもらえないでしょうか? この中の令嬢で言えば、私が最も上手に踊れると自負しております」
「そうか。それはすごいことだ」
感心したような返事をアルフォンスはしたのだが、それだけだった。
彼は再びレオンとの会話へ戻ってしまう。
「アルフォンス卿!」
思わず声が大きくなったイザベルに周囲の視線が集まった。
「私と踊ってくれますでしょうか?」
「イザベルと言ったか。すまないが、私は踊るような立場ではなくてだな」
その口調はとても穏やかだったが、断りの意思は明確なものだった。
だが、アルフォンスはイザベルの落胆を気取ったのか、ふとレオンに視線を向けた。
「レオン。君が踊ってやったらどうだ」
「え、ええ。わかりました」
レオンは少し困ったように笑いながらも頷き、そしてイザベルへ手を差し出す。
「よろしくお願いします、イザベル嬢」
「いえ、こちらこそ」
ちょうど楽団が演奏を始めると、二人はフロアの中央へ進み、優雅に踊り始めた。
アルフォンスは目立たないためにも、ミリアが普段いるような屋敷の角で彼らが踊っているのを見る。
すると、誰かが彼の背中をツンとつついた。
その頃、レオンとイザベルは、令嬢たちの羨望の視線が集まる中、優雅に踊っていると、先に口を開いたのはレオンの方からだった。
「今度、どこかでお茶でもしませんか?」
「え、ええ! もちろん、その誘いお受けいたします」
まさかの誘いに、イザベルは少し戸惑ったようにそう言ったが、すぐさま令嬢としての自覚を取り戻す。
しかし、憧れていたあの騎士団副団長。そんな人物から直々に誘われるなど、夢にも思っていなかった。
◇
夜会から二日後のこと、
王都の伯爵邸前には、一台の豪奢な馬車が停まっていた。
「お待たせいたしました、イザベル嬢」
「いえ。こちらこそ、お待たせしてしまいましたわ」
馬車の扉が開き、レオンが穏やかな笑みで馬車の扉を開けると、イザベルは気品ある所作で乗り込むが、その手はわずかに震えていた。
馬車は石畳を軽やかに進み、王都の名所を巡っていく。高級な宝飾店、歴史ある劇場、王立庭園、貴族街の美しい街並み――。
「イザベル嬢、こちらは王都でも特に由緒ある庭園です」
「まあ……なんて美しいのでしょう」
レオンは終始穏やかに案内し、イザベルの歩幅に合わせて歩いた。店員や衛兵たちも副団長である彼を見ると丁寧に頭を下げる。
そのたびに、イザベルの頬は緩んだ。
――やはり私は間違っていなかったのだ、と。
これまで貴族令嬢として気高く振る舞い、身分ある者として生きてきた。その努力が報われたからこそ、このような縁を得られたのだと、彼女は信じて疑わない。
やがて馬車は、王都でもひときわ厳重な建物の前で止まった。
「着きました」
見上げた先には、巨大な石造りの建物からなる王国騎士団本部。
「ここは……騎士団本部ですか?」
「ええ。一度、ご案内したいと思いまして」
中へ入ると、広い訓練場では数十人もの騎士たちが剣を交えていた。
――はっ!
――まだ甘い!
――もう一歩踏み込め!
木剣が打ち合う乾いた音が響きわたる中、鎧をまとった騎士たちが汗を流していると、騎士たちがレオンに気づき、一斉に頭を下げる
「す、すごい……」
イザベルは思わず息を呑んだ。これほど多くの騎士たちが、レオンの部下であり、彼を敬っている。
もし私がレオンさまと結ばれれば、とイザベルの脳裏には、そんなもしもな未来が浮かぶ。騎士たちから『副団長夫人』と呼ばれ、誰もが敬意を払う姿。
――これも、あれも……すべて私のものになるのね。
イザベルの口元はまた緩んだ。
「こちらです」
レオンに案内され、階段を上り、重みのある扉の前へとたどり着いた。
「この部屋は……?」
「騎士団長の執務室です」
「えっ……!」
イザベルが思わず声を上げるのも無理はない。王国最強と名高い騎士団長に会える機会など、高位貴族でもそうそうないことなのだから。
「そんな方に、お目通りできるのですか……?」
「ええ。団長も、ぜひ挨拶をと」
イザベルは胸の高鳴りを抑えながら、服の乱れを整えると、部屋には、見覚えのある男が入ってきた。
「おー、イザベルや」
「お父様!?」
父上が呼ばれていたことに驚いたイザベルだったが、疑念は確信に変わったのだ。伯爵まで呼ばれるとはどういうわけなのか。
レオンさまは本気で私との将来を考えた末で、父上も呼ばれたことだ。
――コンコン。
そのノックの音に心臓がドキッとしたイザベルだったが、中に入ってきたのはあろうことか――
あのミリアだった。
「ミ、ミリア……! 貴方の男爵家は破滅したと聞きましたが?」
イザベルはそう尋ねるが、いつも通りミリアは何も動じないまま、黙ったままだった。
だが、その姿を見るや否や、腑に落ちない点が一つだけあった。
――どうしてミリアが……ここに??
部屋の中央に立つミリアの姿を認識した瞬間、イザベルの思考は完全に停止した。
ついこの前まで、自分が見下して破滅に追いやったはずの男爵令嬢。
そのミリアが、なぜ騎士団長の執務室にいるのか。
なぜ当然のような顔でそこに立っているのか。
理解が追いつかず、イザベルは青ざめた顔のまま、隣に座っていたレオンへ視線を向ける。
するとレオンは静かに立ち上がり、普段よりもさらに丁寧な所作でミリアの前へ歩み出ると、その場で深々と頭を下げた。
「まさか……」
イザベルの喉から震える声が漏れる。とても嫌な予感がしたが、その予感を否定する材料はどこにもなかった。
「お疲れ様です、ミリア騎士団長」
その一言が、イザベルの世界を根底からひっくり返した。
騎士団長?
男爵令嬢のミリアが?
あの……ミリアが?
理解したとて、意味がない。
なぜなら、今まで自分がしてきたこと、投げつけた暴言、壊した私物、嫌がらせ。数え切れないほどの行為が脳裏によみがえったからだ。
「か、帰りますわ……!」
「そ、そうだな。何かの間違いだ。帰るぞ」
イザベルと伯爵は椅子を乱暴に引いて立ち上がり、二人は顔を見合わせることなく出口へ向かう。
しかし――。
逃げるように扉へ向かった伯爵は、外から入ってきた人物に真正面からぶつかり、弾き返されるようにして無様にも床へ尻もちをついた。
「ぐあっ!」
鈍い音とともに床へ転がり、すぐさま伯爵は顔を真っ赤にして立ち上がろうとしながら怒鳴った。
「だ、誰を怪我させたと思っておる!」
怒鳴りながら顔を上げると、伯爵の表情が凍り付き、呼吸がピタッと止まった。
扉の前に立っていたのは、一人の黒髪の男。王国においてその名を知らぬ貴族はいない名家の青年。
「「ア、アルフォンス卿……!」」
イザベルと伯爵の声が見事なほど重なった。
伯爵は慌てて立ち上がり、服についた埃を払い落とし、乱れた襟を整え、必死に笑顔を作った。
「アルフォンス卿、失礼ですが、そこをお通しさせていただくことはー」
「――ダメだ」
「ですよねー」
返答は一瞬で、迷いも配慮もなく、伯爵は乾いた笑いを浮かべながらそう答える。
すると、伯爵とイザベルは抵抗する気力すら失ったように、その場へ座り込んだ。
逃げ道が完全に塞がれたことを理解したのだろう。二人は罪人のように床へ座った。
そんな二人を見下ろしながら、ミリアが静かに一歩前へ出た。
「イザベル、そして伯爵、あなたたちがなぜここにいるか、理解できていないようですね」
怒鳴り声ではない落ち着いた声でミリアはそう告げた。
「な、なぜって、レオンさまに誘われて――」
「そういうことではないのは……ご理解いただけているかと思いますが」
言い訳を始めようとしたイザベルの言葉を、ミリアは静かに遮る。
その一言だけで、イザベルは続きを口にできなくなった。
「数多くの令嬢、貴族があなたたちの権力行使によって被害に遭っております。 そのような被害が、何度か報告されております」
「い、いや、ただの報告ですわよね! そんな証拠もないのに……」
淡々と告げられるのはすべて事実だったが、追い詰められたイザベルは叫ぶように反論する。
だが、その声には先ほどまでの余裕も高慢さもなかった。
「証拠ならございます、よね? 器物損壊、暴言、暴行。これらはすべてあなたがわたしにしてきたことです」
ミリアは静かに言った。
反論もなければ否定もしないイザベルはただ唇を震わせていて、完全に言葉を失っていた。
そして今度はアルフォンスが口を開く。
「それに、伯爵。いや、トンプソン」
伯爵の顔が強張る。
敬称ではなく名前で呼ばれたことを察した伯爵はそれだけでこれから何を言われるのかなんて想像ができていた。
「お前がしてきた権力行使による多数の貴族からの証言が寄せられている。ミリアの一家にも同じ手を使おうとしたみたいじゃないか」
伯爵は顔面を蒼白にしながら俯き、もはや弁解する気力すら残っていなかった。
やがて騎士たちが部屋へ入り、二人は抵抗することもなく立ち上がらされ、そのまま騎士団の留置所へ連行されることとなった。
だが、部屋を出る直前。
「イザベル」
ミリアが、彼女の名を呼んだ。そして一言こう告げた。
――身の程をわきまえなさい。
◇
それから数ヶ月後、
レオンは時折、調査で訪れていた舞踏会という場所に魅了され、その末に一人の子爵令嬢と出会い、婚約を結んだ。
その令嬢もまた屋敷の片隅に佇んでいた目立たない子だったという。
イザベルと伯爵の判決では、爵位剥奪、そして社交界追放の二つの罰が下された。その後の二人の消息を知る者はいない。
ミリアは、婚約者であったアルフォンス卿との結婚式を、無事に挙げた。
式を終えたあと、二人はウェンブルッフェン公爵邸の大きな窓辺に並び、仲睦まじく並んで立つ。
二人の視線は、窓の向こうへ――ようやく平和が訪れ始めた王都へと、静かに注がれていた。
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