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三話

暑い。


岩まで焼けていた。


身を伏せているだけで、じわじわと背中まで熱が回ってくる。額から流れた汗が目尻に入り、俺は小さく舌打ちして拭った。


少し先。

平屋よりでかい黒い鳥が、転がった酒樽に嘴を突っ込んでいた。


樽の縁から赤い葡萄酒がとろとろ零れ、乾いた土を濡らしている。酸っぱい匂いが風に混じり、鼻の奥にまとわりついた。


「……食ってるな」


俺が言うと、隣のカスパーがこくこく頷いた。


両腕で大剣を抱えている。自分の身体よりでかい鉄の塊を、妙に大事そうに。


「いいか。俺があいつを引く。お前は上から行け。狙うのは頭だ」


「うん」


返事だけはいい。


俺は横目でそいつを見た。


頬に土。髪はぼさぼさ。服もまだどこかちぐはぐだ。正直、傭兵より迷子のガキにしか見えない。


そのくせ、眼だけが妙に明るい。


「お前、怖くねえのか」


カスパーは首を傾げた。


「怖い?」


「……そこからかよ」


俺は舌打ちして、怪鳥を顎で示した。


「あんだけでけえ化け物、そうそう見たことねえだろ」


「ない。……と、おもう」


「その“おもう”便利だな、お前」


カスパーは剣の柄を撫でた。落ち着かねえときの癖だ。


「でも、ダンケもいる」


その一言で、喉の奥が妙に詰まった。


俺はすぐに舌打ちで潰す。


「そういう話じゃねえ。任務を舐めるなって言ってんだ」


「舐めてない」


「今ちょっと早かったな。成長したじゃねえか」


「……と、おもう」


「台無しだよ!」


気づけば胸倉を掴んでいた。引き寄せる。鼻先が触れそうな距離まで。


「よく聞け。お前が一人で死ぬのは勝手にしろ。だがな、お前の油断でこっちまで死ぬのは許さねえ」


カスパーの顔がくしゃりと歪んだ。


「……び」


「あ?」


「びえええええええええええ」


「泣くな!!」


やばい。


よりによって今か。


「ああもう、悪かった! 言いすぎた! だから静か――」


そこで、音が消えていることに気づいた。


酒の匂いはまだある。

だが、樽を引っかく不快な音がしない。


俺は振り向いた。


樽だけが転がっていた。


「いねえ」


頭上を影が横切る。


羽ばたき一発。

砂と小石が顔に叩きつけられた。


顔を上げたときには、もう遅い。


カスパーの身体が浮いていた。


黒い嘴に胴を咥えられ、そのまま谷の奥へ持っていかれる。


「おい!」


地を蹴る。手を伸ばす。届かねえ。


怪鳥は空高く逃げるんじゃない。地を這うような低空で、谷筋へ滑り込んでいく。風圧だけが乱暴に残った。


「くそっ!」


俺は追った。


岩を蹴る。斜面を滑る。喉が焼ける。

黒い背中がちらつく。長い首。でかい翼。


その先で、ぐらぐら揺れているのがカスパーだ。


「おい! 生きてるか!」


返事がない。


返事がないのが、一番まずい。


胸の奥が熱い。嫌な汗が背中を伝う。


泣かせた直後に攫われた。

判断が遅れた。

最悪だ。


「ちっ……!」


谷の向こうから、声がした。


鳥の悲鳴だった。


威嚇じゃない。怒りでもない。潰されたみたいな、引き裂かれたみたいな、情けねえ声。


俺は足を止めかけた。


嫌な予感が、別の形に変わる。


斜面を滑り降りる。

谷底へ飛び込む。


酒と血の匂いが、一気に鼻を刺した。


「……は?」


黒い怪鳥はいた。


いたが、もう怪鳥の形を半分なくしていた。


片翼はありえねえ方向へ折れ、喉には剣が深々と刺さっている。片眼は潰れ、裂けた嘴の端から泡混じりの血が垂れていた。羽毛も肉片も土に張りついている。


その胸の上に、カスパーハウザーが跨っていた。


頬に血。

髪に羽毛。

服はぼろぼろ。


なのに、こいつ自身には大した怪我が見えない。


カスパーは怪鳥の首へ腕を突っ込み、何か柔らかいものをずるずる引っ張り出していた。怪鳥がひゅう、と細い音を漏らす。


するとカスパーは、にぱっと笑った。


「いたぞ」


何がだよ。


カスパーは怪鳥の顔をぺしぺし叩く。


「お前、すごいな。口の力もすごかった」


怪鳥がびくりと痙攣した。


「おい」


自分でも分かるくらい、乾いた声が出た。


カスパーが振り向く。


「ダンケ」


「……何してやがる」


「こいつの中を見てる」


そう言って、また喉へ手を突っ込む。


俺は言葉が出なかった。


助けに来たはずだった。

攫われたガキを取り戻すつもりで、必死に追ってきた。


なのに現実はどうだ。


怪鳥のほうが、よっぽど助けを求めてる顔をしてやがる。


カスパーは血だらけの手を上げた。


「ダンケ、ここ食えるぞ!!」


俺は額を押さえた。


「……火は通せよ」


助かった。


だが、安心だけじゃ終わらなかった。


胸の中で、安堵と脱力と、わけの分からねえ不気味さがぐちゃぐちゃに混ざる。


「まず降りろ」


「わかった」


返事だけは、妙にいい子だった。


谷から戻るころには、日が傾きかけていた。


俺は怪鳥の討伐証明を縄で背負い、カスパーはその横をぴょこぴょこ歩いていた。さっきまで怪鳥の腹の中を探っていたくせに、今はもう鼻歌まじりだ。


「おい」


「何だ」


「さっきの、あんま人に言うなよ」


「どこだ?」


「どこって何だよ。中を見てたとか、食えるとこ探したとか、そのへん全部だよ」


カスパーは少し考えてから頷いた。


「わかった」


「ほんとかよ」


「ほんとだ」


俺は横目でそいつを見た。


耳の後ろに羽毛がまだ一本ついている。取る気もないらしい。


……まあ、今はいい。


拠点の門をくぐると、夕方の空気が少しだけ涼しく感じた。中庭の隅には洗った武器が立てかけられ、どこかで煮込みの匂いがしている。戦い帰りの鼻には、その匂いが妙に沁みた。


だが、こっちはまず報告だ。


「お前はそこらへんで待ってろ」


「どこらへんだ」


「そのへんだよ」


「わかった」


本当に分かってんのかと思いながら、俺は先生の部屋へ向かった。


扉を叩く。


「どうぞ」


いつもの声だ。


中へ入ると、先生は机に向かったまま書類をめくっていた。眼鏡の奥の眼だけがこっちへ上がる。


「お疲れさまです。問題はありませんでしたか」


問題。


頭に谷底の光景がそのまま蘇る。

裂けた嘴。抉れた喉。跨るガキ。食える場所を探す血まみれの手。


「……まあ」


先生が紙を置いた。


「歯切れが悪いですね」


「悪くもなるだろ」


俺は怪鳥の討伐証明を机の横へどさりと置いた。先生はそれを一瞥してから、また俺を見る。


「倒したんですね、ケクレンチョは」


「ああ。倒した」


「それなら――」


「ただし」


俺は息を吐いた。


「攫われた」


先生の眼がわずかに細くなる。


「彼が?」


「ああ」


「それで?」


この人はほんとに、人が全部言うまで絶対に話を先に進めねえ。


「助けに行った」


「それで?」


「着いたら、怪鳥のほうが半分死んでた」


数秒、部屋が静かになった。


先生は眼鏡を外し、布で軽く拭いてから、またかけた。


「詳しく」


「いや、ほんとにそのまんまだよ」


俺は見たものを、見たまま話した。


泣かせたこと。

その隙に攫われたこと。

追いかけたこと。

谷底で、怪鳥のほうが無残になっていたこと。

しかもカスパーが、その腹だの喉だのをほじくって、食える場所を探していたこと。


言葉にして口から出すほど、余計に意味が分からなくなってくる。


「……つまり」


先生が静かに言った。


「彼は攫われたあと、単独でケクレンチョを制圧した」


「制圧って言や聞こえはいいが、ありゃ半分遊んでたぞ」


「怪我は」


「見える範囲じゃ、ほとんどねえ」


「攫われたのに」


「だから言ってんだろ。変なんだよ、あいつは」


先生は少しだけ黙った。


責めるでもなく、驚くでもなく、ただ考えている顔だった。それが少しだけ癪に障る。


「……何だよ」


「いえ」


「“いえ”じゃねえだろ」


「思ったより早かったな、と」


「何がだよ」


「団の外へ出したときの反応です」


俺は眉をひそめた。


「試してたって言いてえのか」


「見てはいました」


先生は否定しなかった。


「すぐ手が届く距離で、ですが」


その言い方が気に食わなくて、俺は小さく舌打ちした。


「だったら、もっと早く出てこいよ」


「必要になる前に出ると、見えなくなるものがあります」


「見えた結果がこれかよ」


俺が言うと、先生は少しだけ視線を落とした。


「ええ。そこは反省しています」


珍しく、すぐそう言った。


俺は言葉に詰まる。


こういうところがずるい。この人は、本当に自分が悪いと思った時だけ、変にまっすぐだ。


先生は扉の方へ目を向けた。


「入ってきてください」


少し間があって、戸の隙間からカスパーの顔がぬっと出た。


「呼ばれたぞ」


「ええ、呼びました」


部屋へ入ってくる。


着替えはしたらしい。だが髪はまだ少し血で固まり、耳の後ろに羽毛が一本残っていた。


先生は引き出しを開け、小さな木札を取り出した。紐の通った、簡素な札だ。表には焼き印が押してある。


「これを渡しておきます」


カスパーが受け取る。


「何だこれ?」


「キュウソ傭兵団の証です。裏に数字が彫ってあります」


カスパーは札をひっくり返して、じっと眺めた。


「……ぐにゃぐにゃだ」


「九です」


「きゅう?」


指を折って数え始める。足りない。もう一回やる。やっぱり足りない。


俺は思わず鼻で笑った。


先生は静かに言った。


「今日から、あなたは仮ではなく、うちの正式な団員です」


カスパーがぱちぱちと瞬きをする。


「だんいん」


「ええ」


「きゅう」


「そうです」


数秒遅れて、顔がぱっと明るくなった。


「やったー」


両手を上げかけて、木札の紐が首に絡まりそうになって慌てる。


俺はまた笑った。


先生はそんな俺たちを見て、小さく息を吐く。


「ただし」


その一言で、カスパーの動きがぴたりと止まる。


「勝手に死なないこと。勝手に消えないこと。任務中は命令を聞くこと」


「わかった」


即答だった。


俺は横からぼそりと言う。


「ほんとかよ」


カスパーは木札を握ったまま、嬉しそうに笑っているだけだった。


夜になると、昼の熱気は嘘みたいに引いていた。


俺は軒先の柱にもたれ、煙草を咥えていた。火はつけていない。今日は何となく、口に挟んでるだけだった。


中庭の向こうじゃ、誰かが鍋を洗っている音がする。遠くで笑い声もした。そういう生活の音があるだけで、妙に疲れが出る。


軽い足音が近づいてくる。


見なくても分かる。


遠慮がなくて、でも全然重くない足音だ。


「ダンケ」


「何だよ」


カスパーが隣に立った。


首からは昼に渡された木札が下がっている。何度も触ったのか、表面が少し曇っていた。


「だんいんだぞ」


「見りゃ分かる」


「きゅうだぞ」


「それもさっき聞いた」


カスパーは満足そうに頷いた。


それから、俺の顔を覗き込む。


「痛いのはどうだ?」


「どうだって何だよ」


「痛いのは減ったか?」


「減った」


「そうか」


会話が止まる。


少しだけ風が吹いて、木札がかさ、と鳴った。


俺は煙草を指でいじったまま、ようやく口を開く。


「……助かった」


カスパーの眼がぱっと明るくなる。


「うん」


「ただし今回はだ。調子に乗るなよ」


「ちょうし?」


「いい気になるなってことだ」


「わかった」


「ほんとかよ」


俺は煙草を指で弾いた。火のついていないそれが、からりと床板に落ちる。


「今日みてえなのは二度とやるな」


カスパーが首を傾げる。


「何をだ?」


「何をじゃねえ。攫われるのもそうだし、そのあとだよ。その場でわけ分かんねえこと始めやがって」


「中を見てた」


「そこだよ!」


思わず声が大きくなる。

すぐに少しだけ落とした。


「任務中に何が面白くても、まず生き残るのが先だ。お前は自分の身体を雑に使いすぎる」


「雑?」


「そうだ。普通の人間はな、あんな嘴で咥えられたら終わりなんだよ。だから怖がる。だから逃げる。だからしくじらねえようにする」


カスパーは黙って聞いている。


怒られているのは分かるらしい。だが、どこがどう悪いのかまでは、やっぱり分かっていない顔だった。


俺は舌打ちを飲み込む。


「いいか。お前が勝手に死ぬだけならまだいい」


カスパーの眼がぱちりと動く。


「でもな、お前が死ねば、こっちは気分が悪い。助けに行かなきゃならねえ。余計な怪我もする。つまり、お前一人の話じゃ済まねえんだよ」


そこまで言って、自分で少しだけ気まずくなる。言いすぎたかもしれねえ。だが、言わねえ方がもっと気持ち悪い。


「……わかったか」


カスパーは少し考えた。


夜風が木札を揺らす。

かさ、とまた小さく鳴る。


それから、当然みたいに言った。


「死なないよ」


俺はしばらく何も言えなかった。


火のついていない煙草を拾い上げて、指先で弄ぶ。


こいつは、たぶん本気でそう思ってる。


強がりでも、見栄でも、俺を安心させようとしてるわけでもない。

ただ、当たり前のことを言ったみたいな顔だった。


夜風がまた吹く。


俺は煙草を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「……そういうとこだよ」


カスパーは首を傾げる。


「何がだ?」


「うるせえ。もう寝ろ」


「わかった」


カスパーは本当にそれで納得して、軽い足音のまま去っていった。


木札が揺れて、また一度だけ鳴る。


俺は一人になった軒先で、ようやく煙草に火をつけた。


苦い煙が喉に落ちる。


見上げた夜空は、妙なほど静かだった。


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