我、迷わず。(1)
朝から曇天なのがほんの少しだけ憂鬱だった。
降水確率は五割ほど、傘を持っていくか迷うところではあった。
結局折り畳み傘を持って家を出る。
「いってきます」もなければ「いってらっしゃい」もない。それが、普通の家庭であった。
「おはよう」と家族に言わなくなったのはいつ頃からであったか。
自発的に家族と距離を取っているというわけではない。物理的に無理なのである。
菖蒲の父親は単身赴任でそもそも自宅にはいないし、母親は早朝から仕事が始まるので夜明け前には家を出る生活である。忙しい両親であったから、子どもは菖蒲ひとりだけ。兄弟を強請ったこともないではなかったけれど、そのわがままが通ることはついぞなかった。
ひとりであることを寂しいと思う時期は過ぎた。共働きが一般化している今、家族と共に食事を取らないことだってざらにあるだろう。そこに不満を抱いたところで「お前は子どもだ」と言われておしまいである。菖蒲だって、そう思う。
菖蒲は公立高校に通う学生である。学年は一年で、他の生徒よりも遅れて学校に慣れた少年だった。
菖蒲は自身の名がそんなに好きではない。
五月生まれだからといって『菖蒲』と安易に名付けられたのをそこはかとなく恨んでいる。
この名で女だと勘違いされたこともあったし、揶揄われたことだってあった。女男だなんて言われたこともある。
それに、両親が本当は男ではなく女の子どもが欲しかったことだって親戚筋から聞かされた身である。幼少期から適当にあしらわれ続けている現実への不満の種火は燻っていても、諦めのほうが種火に水をかけては消そうと試みているのが常態化していた。
成人したら改名して、両親とは距離を置こうと思う程度には家族に対する心情は複雑だ。
最近言われるようになった『毒親』だとか『親ガチャ失敗』なのかは菖蒲には判断しかねる。
そういうのはそれこそ大人になって両親と距離を置いてからわかることなのだろうなと思っている。
バスと電車を乗り継いで学校へと辿り着く。
教室では既にクラスメイトが何人か来ていて軽く挨拶をして席につき、課題の処理漏れがないかを確認した。
学校は好きでも嫌いでもない。
それなりに話す人はいるし、名前を弄られることこそあるが過度なものではないし、虐められてもいない。
成績は平均点より少し上、部活だって嫌いではない。
頃合いを見てバイトを始めたいと思ってはいるが、まだ学校に慣れきっていない感じがするので様子を見ている。
授業は滞りなく進み、昼休みになって購買へと急ぐ。
今日は地元のパン屋がやってくる日だ。急がねば目当てのパンが売り切れて購買でラスクを買うハメになる。
ラスクも嫌いではないけれど、口はすっかり焼きそばパンとカレーパンのそれに染まっていた。
生徒が密集しているのが遠目からも理解出来、これは心して挑まねばと気合を入れて一歩進む。
どうにかして目当てのパンを手にして会計をし、中庭は逃げてひとつ息を吐いて近くにあったベンチに腰掛ければ風がそよりと頬を撫でた。
夏服となって一週間。普段であれば陽射しは強くなる一方だった。
菖蒲の通う高校は公立だが新校舎に建て替えて築年数が浅い。冷暖房も完備されているので、もう少しすれば外で食事をするより教室で食べたほうが居心地がいいだろう。
曇天の隙間からわずかに見える太陽が木漏れ日を刺す。焼きそばパンを頬張り、のんびりと空を見上げ早く晴れればいいのにと思いながら昼休みを過ごした。
他の生徒は友人たちと食事をしていることだろう。羨ましい限りである。
「なあん」
友人がいないことを密かに憂いていると隣りから猫の鳴き声が聞こえて意識がそちらに向いた。
見れば、一匹の猫と視線が合った。
黄金色の長い毛並みをした猫である。瞳も黄金に輝いており、なんとも豪奢な姿であった。
「金色の、猫?」
陽射しのせいで茶トラが金色に見えるのだろうと思ったが生憎ベンチのある位置は日陰である。
世の中にはアルビノという存在もいるし、雄の三毛猫だってごく稀にいる。稀有な毛並みの猫が他にもいても可笑しくはあるまい。
「君、何処から来たの」
「うー、なん!」
問い掛けてみれば猫はくゆりと尻尾を振ってひと鳴きする。それから菖蒲の膝の上に乗ると当たり前のようにスラックスをかじり、或いは膝を叩いて何事かを訴え始めた。
「何か言いたいことがあるの?」
問い掛けると猫は菖蒲の膝から降りて「なあん!」と鳴きこちらを見詰める。
ついてくるのを待っているかのような視線に、菖蒲はどうしたものかと頬を指で引っ掻いた。
二年や三年とは違い、一年生には空き時間なんて存在しない。朝から夕方まで授業がびっしり詰まっている。
此処で猫を追いかけるとなると午後の授業をサボることになる。テストの点は平均点をキープしているが、だからといって授業を怠けた後で勉強して理解度が変わらないかというとそうではない。
「カレーパンも食べてからじゃ、駄目?」
「なあ、うん!」
「駄目かあ」
カレーパンは猫にとっては匂いもきつかろう。なにより玉葱やスパイスが塩が入っている。猫にとっては危険な食べ物だ。持ち歩いたままでは誤食される可能性もないではない。とはいえ、まだ腹は空いているのに、このまま食事を終えるというのもキツいものがある。
けれども猫は何度も鳴いて「こっちへこい」と言うばかりである。
菖蒲の葛藤なぞつゆ知らずだ。
「……どうしよ」
午後の授業は古典と数学だったか。
古典は漢詩で、数学は──。
そこまで考えて、思考が止まった。
風が再び頬を撫で、鼻先に強い香りを突き付ける。
スパイスの芳醇なそれとはかけ離れた生臭さに知らず顔をしかめ、黒い雲が空を覆い始めているのを視界の隅に捉えてた。
瞬間だった。
「(見つけた)」
幾つもの声が重なったような響きだった。
たった一言、それだけだったのに背筋が寒くなり身体が震えた。
猫が「シャアアッ」と菖蒲の足元で威嚇し、毛を逆立てある一点に目を向けている。
それらはありてい言うなら『影』だった。
影は四方八方から忍び寄り、盛り上がって立体となって菖蒲を囲うようにして立ちはだかった。
「(見つけた)」
「(見つけた)」
「(見つけた)」
「(次の王)」
「(芽吹かせてはならぬ)」
「(芽吹かせてはならぬ)」
「(次などまだ早い)」
「(あってはならない)」
「(摘み取らねば)」
「(摘み取らねば)」
こだまするように次々と言葉が投げ掛けられる。
だが、菖蒲には理解出来ない言語であるから何を言っているかがわからない。
言葉の響きからして英語ではない。それどころか街中で聞くどの外国語とも違う様相である。
本当にそれは言葉であるのだろうか。
複雑な獣の鳴き声ではないのか。
いや、そんなことはどうでもいい。
「逃げなきゃ」
そうだ。逃げなければならぬ。
けれども四方は囲まれた隙間はあるようでない。
手にあるのはカレーパンだけで武器らしい武器もない。
ベンチの背もたれの一部が外れそうだからそれを振り回してしまおうか。
などと迷っていたのがいけなかった。
実体化した影たちは触手を振り上げしならせて菖蒲の足を絡め取ろうとする。
それをどうにか避け、猫を抱え上げると菖蒲は一心不乱に走った。
自分に被害が及ばないようにするには人の中に紛れるのがいいだろう。
けれども、誰かを巻き込んでいいのかと直ぐに疑問が出てしまい「お人好しめ!」と自身を恨みながら人がいない方向へと足を進めた。
向かったのは解体を待つばかりの旧校舎である。
道路を隔て現在の校舎の真向かいにある旧校舎に寄りつく人は生徒も教師もほとんどいない。
いるとすればオカルト研究会か一匹狼を気取っている不良だろうが、この時間帯からいるとは到底思えなかった。
影は変わらず菖蒲を追ってくる。
広々とした場所にいては襲ってくださいと言っているのも同然である。校舎内に入って軋む床に「うるさい!」と嘆きながら影を撹乱させようと行ける限り入り組んだ経路を辿る。
とはいえ、運動部に所属しているわけでもないし日頃から頻繁に運動をしているわけでもない。闇雲に走れば体力はあっという間に底をつき、菖蒲は教室に逃げ込んで教卓の中へと身を隠し息を整えることに専念した。
そうして聞こえたのは遠方から物が崩れ落ちる音と悲鳴、怒号であった。
何が起きたのか。
堪らず身を乗り出して窓の外を見てみれば校舎から煙が上がり、窓がヒビ割れ、生徒が何かから逃げ惑う姿が確認出来た。
生徒を襲っているのは巨大な獣で、一言では種類を断定出来ない姿をしていた。
しいていうなら、ゲームやアニメで見る合成獣のように見えた。様々な獣の特徴が混ざり合っているように感じられたからだ。
菖蒲を襲ってきた影が生徒たちを襲っているのではない。
けれども、このタイミングで起きたことを思えば無関係であるとも思えなかった。
もしかしなくとも、自分のせいなのか。
「いや、ちょっと、自意識過剰……」
ナルシストじゃないんだからさ、と続けたいのに口が上手く転がらない。
今起きていることが現実なのかと疑いたくなった。
抱き抱えた猫がまたひと鳴きして菖蒲の鼻先を舐める。
ざらりとした質感が、これは現実だと言っているようでまた身震いが起きた。
逃げなくては。
でも、何処に?
「(見つけた)」
「──!?」
気配は唐突に生まれ、声音もまた唐突に室内に響いた。
振り返ってみれば、ひとりの男が立っていた。
出立ちからして怪しい風体である。痩躯の男は顔色が悪く、くたびれている印象を抱かせた。
「(お前が次の王か。随分と若い)」
「な、にを、言ってるの」
猫がまた毛を逆立て威嚇する。
落ち着かせるためにひと撫でし、窓際に追い詰められるとわかっていながら一歩退いた。
男は視線に敵意はない。代わりにあったのは憐れみで、何やら指を動かすとまた影が実体を持って現れた。
「(我らに禍人の王は要らぬとさ。
主上も耄碌したものだ。
もう、自分の時代が終わったことを受け止められないんだ。可哀想に。
だから、お前を殺せと言う。酷い話だ。酷い話だ。おれは『聴き人』で、『守護獣』からの神託は絶対なのに、それに逆らえと言いやがる)」
実体化した影が再び菖蒲に襲いかかる、が、不思議なことにそれらは弾かれ影が怯むと男も眉をひそめた。
「(舶の、あんたがでしゃばる必要はないと思うがね)」
「なあん」
「(今更普通に猫ぶられてもな。
それとも無理にこちらに来たから力がそこまで使えない類いかい)」
「うー、なん!」
猫が男の言葉に呼応するように鳴く。
それが合図だったのだろう。
影が三度触手を伸ばし菖蒲に迫ってくる。
だが、これも何かに弾かれると男は汚く舌打ちして眉間に皺を寄せると何やら叫んで空間から槍のような物が飛んでくる。
避ける技量なぞ菖蒲にはない。出来ることは猫を抱えて身を屈めるだけである。
槍も触手の攻撃と同様そのほとんどが弾き返される。それでも手数の多さには勝てなかったのか幾つかは窓に当たりその衝撃でガラスは割れ外の音や臭いが一気に情報として脳髄に叩き込まれた。
助けてくれという悲鳴。
化け物がと轟く怒号。
大きな物が砕け或いはへし折られる音と、肉が焦げる臭い。
足元から寒さが競り上がり、胃の中の物をぶち撒けたい衝動に駆られる。
身体の震えはいっこうに止まらず、ただ腹の中で助けを呼ぶことしか出来ない。
死にたくはない。だが、抗い方がわからない。
「(おれが怖いか、坊主)」
威圧感を感じて顔を上げてみれば男が目の前に立って菖蒲を見下ろしていた。
相変わらず、何を言っているかはわからない。
哀れみの眼差しだけで全てを理解するしかなかった。
「(おれも、怖いよ)」
男の腕に影がまとわりつき鋭利な刃物がかたどられる。
それを見て菖蒲は「死ぬんだ」と理解し、目を瞑る──と。
りんと鈴の音が何処からともなく聞こえた。
同時に身体の奥から熱がじわりと発生したのを感じ、菖蒲は自分の腹に手を添えた。よくよく見てみれば身体が白い光に包まれ始めており、光は次第に大きく広がっていくのが知れた。
何が起きている。
自分は何に巻き込まれている。
「えっ、えっ、なにこれ、なにこれ!」
そこにあったのは恐怖だった。
得体の知れない出来事ばかりで発狂するなというほうが難しい。
なのに、この期に及んで猫は大丈夫だと言いたげに菖蒲に向かって伸びやかに鳴いた。
「なあん」
その声を合図に菖蒲は光の中に包まれるのを感じながら意識を埋没させ──この世から消え失せたのである。




