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私のざまぁは気づかれない

作者: ミズアサギ
掲載日:2026/02/19

 

 まただ。

 今夜もブラッドは婚約者の私には声を掛けずに、ニコル・モーガン男爵令嬢をエスコートして夜会に参加する。


 リディア・フォード伯爵令嬢は今夜も壁の花として、夜会会場である公爵家にいた。

 婚約者であるブラッド・コリガン伯爵令息とは、ともに十七になる。リディアの両親が事業拡大のために強く願った婚約であったが、リディアはブラッド自身をとても慕っていた。ブラッドからも好意をたくさん告げられた。本当は結婚までダメなんだよと言いつつ、ブラッドは会うたびにリディアの額に唇を落としてくれた。このまま幸せな結婚を迎えられる……

 半年前まで、リディアはそう信じて疑わなかった。



 雲行きが変わったのは、ブラッドからの連絡が突然途絶えてから。公の場にブラッドがニコルという男爵令嬢を連れて現れるようになった。その頃の記憶はほとんど無い。それほど、ブラッドの裏切りは衝撃的だった。

 癖一つ無いグリーンの髪を褒めてくれたブラッドは、今ではニコルのふわふわしたピンク髪を弄ぶ。

 今夜もホールの中央で堂々と踊る二人。ぼんやりと眺めることしかできないリディアの視界は、冷たい涙で滲んだ。

 周りの誰もリディアに触れない。婚約者に心変わりされた気の毒で間抜けな令嬢だと思われているのだろう。リディアは涙が零れないように、キッと前を睨んだ。



 いつもは泣きながら退散するのだが、今夜は違う。リディアは二人に一矢報いる覚悟でここに来た。

 そうしているうちにワルツの演奏は終わり、ニコルはブラッドから体を離した。ニコルは化粧室にでも行くのだろうか、一人でホールから出て行った。

  リディアはそっとニコルを追う。気づかれないように後をつけ、そしてリディアが待ち望んだ時が来た。化粧を直したニコルが、ホールに戻るために階段の踊り場に立ったのである。神が味方したのか、周りには人がいない。ニコルだけだ。公爵家なんて呼ばれる機会がなかった男爵令嬢のニコルは、うっかり人気のない化粧室に来てしまったのだろう。


 チャンスだ! 


 リディアはそっとニコルに近づいた。ニコルには気づく様子もない。

 人の婚約者を奪っておきながら、全く呑気なものだ……

 リディアは怒りでおかしくなってしまいそうだったが、なんとか耐えた。目の前にはニコルの背中。強く押してしまえばいい。ニコルさえ消えてしまえば、きっとブラッドは自分の元に戻ってくるはず。

 リディアにだって罪悪感はある。こんな状況に陥るまでは他人を恨むことはなかったし、ましてや危害を加えようなんて考えたことすらなかった。しかし、精神的に限界を迎えつつあるリディアは引くに引けない。

 リディアは意を決して、目の前のニコルの背中に勢いよく手を伸ばした……

 手応えはなかった。その代わりに、リディアはものすごい力で手首を掴まれていた。


「っ!?」


 驚きと手首の痛さに声が出ない。手首を掴む手の先を見ようと顔を上げたリディアは、そのまま引き摺られて近くの部屋に押し込められた。


 薄暗い部屋でソファーに躓いたリディアは、そこで初めて恐怖を覚えた。

 公爵家の護衛にでも気づかれたか。あるいは、ニコルが一人になったこと自体が罠だったのか?

 そうであれば、もう八方塞がりだ。リディアの目からは、次々と冷たい涙が溢れた。


「あの人を消して、どうにかなるとでも思ったの?」


 閉められたドア付近から声が聞こえる。青年にしては高いような、でも声変わりはしているような不思議な声だ。リディアは涙もそのままに、声のする方に視線をやった。薄暗くても時間が経てば視界が開けてくる。

 声の主は、真っ黒なケープをフードごと被った人物だった。背の高さはリディアほどしかない。リディアより年下かもしれない。フードから見える金色のクルクルした癖毛は、その辺の貴族のものではなく位の高さを物語っている。リディアの息を飲んだ。


「もしかすると、王族かしら?」


 だったら何をしても手遅れ……そう考えたリディアの恐怖心は消えていく。開き直ったのだ。

 フードの少年は、ハーッとため息をついた。


「そんな訳ない。通りすがりの平民だよ」


 使用人か。リディアは全身から力が抜けて、ソファーの背もたれに体を預けた。少年はリディアに少し近づいた。


「で、あの人消したら何かが変わったの?」


 少年がもう一度問う。ニコルに怪我を負わせるにしろ命を奪うにしろ、今の状況は絶対に変わる。

 リディアは少年を睨みつけ、力強く頷いた。少年は呆れたように、しかし諭すように言った。


「人の心なんて簡単に変わるよ。男女なんて特に。今の状況を受け入れなくちゃ。悔しくたって自分も心を変えないと、いつまで経っても……」


「うるさい、うるさい、うるさい! あなたに何がわかるのよっ!」


 リディアは堰を切ったように、誰にも言えなかった半年間の出来事を泣きながらぶちまけた。

 あんなに想い合っていた婚約者の裏切り。何度も説明を求めたが無視されていること。誰一人としてリディアの味方になってくれないこと。婚約を大喜びしていた両親がまったく口をきいてくれなくなったこと……


 話し切ったリディアは、ふと冷静になる。なぜ平民の少年にこんな話をしているんだろう。その少年はというと、まったく興味なさそうに自分の爪を眺めている。リディアの話なんて受け流しているようだ。なんだか馬鹿馬鹿しくなり、リディアの肩から力が抜けた。


「大体ね。世の秩序を乱すのは、いつも男爵令嬢なのよ」


 リディアのとんでもない発言に、暇そうにしていた少年の目が見開いた。その瞳は、金色の髪からは想像もできないほどの漆黒。リディアは続けた。


「第二王子の婚約破棄も、あの侯爵家、子爵家の破談も……全部、男爵令嬢の仕業よ! しかも全員ピンク髪!」


「偏見が過ぎない?」


 少年は思わず吹き出した。笑った顔は幼い。リディアに見つめられていることに気づいたのか、少年はフードを深く被り直して言った。


「まあ、君がやりたいようにすればいいんじゃない? 気が済んだ時には、君の心も変わっているかもよ」


「私がブラッドを想う気持ちは変わらないけれど……」


 やりたいこと……リディアは考えた。やはりこのままでは悔しい。話してくれないのなら、せめてギャフンと言わせたい。


「やってみるわ。でもブラッドには嫌われたくない。だから、あの恥知らずのニコルを痛い目に合わせてやる!」


 声高に宣言したリディアは少年の方を向いた。


「あなた、名前は?」


「……タナトス」


「タナトス? 平民って不思議な名前をつけるのね。でも悪くないわ。あと、レディの手首を強く掴んじゃダメ。跡がついちゃったじゃない」


 手首をさすりながら文句を言うリディアを、タナトスはじっと見つめていた。



 *



 何をすれば、ニコルを痛い目に合わせることが出来るのだろう。そのことで頭がいっぱいのリディアは、いつの間にか自宅であるフォード伯爵家に辿り着いてしまっていた。

 リディアは両親に帰宅の挨拶をするために、エントランスからホールを抜ける。使用人や侍女とすれ違ったが、皆リディアとは目も合わさない。屋敷中に話が広まっているのだろう、あの頃からリディアをまともに扱ってくれる者などいない。リディアはため息を吐き、ラウンジへと向かった。どうやら両親以外に兄もいるらしい。三人の話し声が漏れ聞こえる。


「ただいま戻りました」


 リディアは少し開いていたドアから声を掛けた。母が会話を切り上げる。リディアは緊張しながら誰かの言葉を待つ。しかし、誰もリディアを見ようとしない。父は難しそうな表情を浮かべて目を閉じ、兄は両手で顔を覆ってしまう。リディアは礼をすると踵を返した。

 事業のための婚約とはいえ、三人はリディアの結婚を楽しみにしてくれていた。変わってしまった家族の態度にショックを受けたが、半年も続くと悲しみよりも虚無感の方が強くなる。リディアは自室へ向かった。



 自室には専属侍女のマリーがいた。マリーはドレスを数着丁寧に片付けている。

 マリーとは仲が良かった。が、最近のリディアはマリーにすら声を掛けていない。どうせ腫れ物に障るかのように扱われるから。

 リディアは一人で夜会用のドレスを脱ぎ、マリーが出していたドレスをひとつ選んだ。半年もあれば、一人でドレスを着られるようになるものだ。素早く着替えたリディアが姿見の前に立つと、マリーは無言でその姿見にレースを掛け部屋を出て行ってしまった。リディアは憮然として椅子に腰掛けた。


「婚約者に相手にされないと、こんなに酷い扱いを受けなきゃいけないの?」


「そうかもね」


 ふと溢したひとりごとに返事が返ってきたことに、リディアは飛び上がらんばかりに驚いた。振り返ると、公爵家で別れたはずのタナトスが立っていた。マリーと入れ違いで入って来たらしい。リディアは呼吸を整えた。


「あなた、うちの使用人だったの?」


 公爵家の使用人だと思っていたリディアは納得した。最近では使用人と顔を合わせることすら少ない。知らない使用人がいてもおかしくはない。リディアにタナトスを付けてくれたのは父だろうか、母だろうか。まだ自分は心配されているかもしれないと、リディアは嬉しくなった。

 リディアの問いかけには答えないでキョロキョロと部屋を見渡していたタナトスは、ドカッとリディアの向かい側の椅子に腰掛けた。


「……あなた、使用人としての礼儀から学ぶべきね」


「それより、何か仕返し思いついた?」


 リディアの嫌味を無視して、タナトスが尋ねた。リディアは返答に詰まる。何一つ良い案が浮かばないのだ。


「まだだけど……でも明日、月に一度のお茶会があるの。仲良しの令嬢だけが集まるお茶会。しばらく招待されていなかったけれど、きっと私なら入れて貰えるわ」


 仲の良い令嬢たちに現状を訴えてやる、と鼻息を荒くするリディアを見てタナトスが言った。


「上手くいきそうにないけどね。ついて行ってあげる。目立たないところにいるからさ」


「あなた、面白がっているだけなんでしょう?」


「一応仕事だから」


 皆に何から話せば良いかしら……リディアが考え込んでいるうちに、いつの間にかタナトスは姿を消していた。



 *



「皆さん、聞いて! 私よ、リディアよ!」


 翌日。マーシャル伯爵家の屋敷前には、門前で叫ぶリディアと少し離れた木の影に立つタナトスがいた。

 おかしい。

 屋敷に入っていく馬車は、どれも昔からお付き合いのある家門のものばかり。リディアが一人で立っていようものなら、皆馬車から降りて声を掛けるはずだ。それに、顔見知りの門番も馬車を迎える使用人たちも、リディアのことが見えないかのように徹底して無視し続ける。


「帰ろうよ、リディア。飽きた」


 馬車の列が全て屋敷に入り門が固く閉じられた頃、タナトスがリディアの側まで来た。


「ニコルの男爵家が手を回したのね。卑怯だわ。貴族令嬢としての矜持はないのかしら!」


「こんなところで叫んでいる貴族令嬢の矜持も、見ていて恥ずかしくって面白いよ」


 怒りで顔を赤くするリディアとは対照的に、タナトスは涼しい顔でリディアに帰宅を促した。


「何よ、私が恥ずかしい子みたいじゃない!」


「だからそう言ってるけど」


「か、帰るわよ! 作戦の練り直しよ!」



 *



 伯爵家突撃からしばらく経った。

 あれからのリディアは色々な作戦を練り実行した。ブラッドとニコルが参加する夜会に出ては、二人の前に立ちはだかる。他の招待客に片っ端から声を掛けて不遇を訴える。ブラッドとニコルの屋敷に直談判しに行ったこともあった。タナトスは「仕事だから」と毎回それに付き合った。

 結果から言うと、リディアは誰にも相手にされなかった。さすがのリディアも心が折れ始める。



「そんなに私、悪いことしたのかしら? 心変わりされただけなのに」


 珍しく気弱なリディアに、タナトスは首を傾げた。


「本当に心当たりはないの? 何があったか覚えていないの?」


 リディアはキッとタナトスを睨む。


「まったくないわ! 急にニコルが現れて、あっと言う間にブラッドの隣を奪われたのよ」


 タナトスは何か考えていたが、急に立ち上がった。


「気分転換。散歩に行こう」


「とてもそんな気分に……」


「いいから行くよ」


 行くよ、嫌よ……

 リディアの腕を引っ張るタナトスと、机にしがみつき抵抗するリディアは激しくやり合う。少年とはいえタナトスの力が勝り、机の上のペンやら本やらを薙ぎ倒しながらリディアは引き摺られて部屋を出た。




「タナトスとお散歩って。しかも、なんて良いお天気なの。それに、ブラッドとの思い出の公園だなんて……」


「元気だね。ずっと話してるよ。息継ぎいらないの?」


 文句を言いながらもしっかり歩くリディアの手首を、タナトスは噴水が見えるベンチの前で離した。リディアはハンカチすら敷かずに、ベンチに腰掛ける。タナトスも隣に座った。


「痛い。また手首に跡が。タナトスの記憶力は鳥と同じなの?……あっ、あれは!」


 文句を垂れていたリディアが、突然大きな声を出して前方を指差した。タナトスがその方向を見ると、仲睦まじく寄り添いながら噴水を見ているブラッドとニコルがいた。

 二人はこちらに背中を向けていたが、微笑み合う時には横顔が見えた。


「お似合い。仲良さそう」


 タナトスは思ったことを口にした。怒鳴られるかなと思ったが、意外なことにリディアは何も言わない。タナトスはリディアの顔をちらりと見た。リディアの顔には、怒りよりも困惑の表情が浮かんでいる。


「……ブラッドは、本当にニコルのことが好きなのかしら?」


 タナトスはもう一度ブラッドとニコルを観察してみた。が、リディアの言っている意味がピンとこない。


「いや、わからな……」


 タナトスが言い終わらないうちに、ブラッドが少し腰を屈めてニコルの額に唇を落とした。

 タナトスは横目でリディアを見る。リディアの顔はみるみる赤くなり、そしてスッと立ち上がった。タナトスは慌ててリディアを止めようとしたが遅かった。リディアがスカートのポケットから出した何かを、ニコルに向かって全力で投げつけた後だった。



 *



「気は済んだ?」


 タナトスが呆れたように言う。リディアは憤然としながらハンカチーフで髪を拭いている。

 タナトスに部屋から出される時、リディアは必死に机にしがみついた。机から引き剥がされる瞬間、何かに掴まろうと手にしたインクの瓶をリディアは持ってきてしまったのだ。

 ブラッドがニコルの額にキスするのを目にした瞬間、リディアは怒りに任せてそのインク瓶をニコルに投げつけた。ニコルのピンク髪には黒いインクがベッタリ……となるはずだった。

 しかし今、なぜかリディアのグリーンの髪が黒いインクで汚されている。


「いいから、あなたのハンカチも貸しなさいよ」


 涙目になりながら命令してくるリディアに、タナトスは渋々自分のハンカチを差し出した。

 インクの瓶を投げた瞬間。きっとリディアの良心がブレーキを掛けたのだろう。リディアの手を離れたインク瓶は、そのままリディアの頭に落下したのである。


「インクがかかったパートナーの姿を見て、そのパートナーを嫌いになるほど狭量な男かな」


 リディアの髪を拭いてやりながらナタトスが聞く。が、リディアから返事はなかった。ブラッドがそんな人間ではないことは、リディアが一番よくわかっている。


「あなたは無事で良かったわね」


 リディアが鼻を啜りながら憎まれ口を叩く。タナトスは、リディアの目尻を自分のケープの袖で拭いてやりながら言った。


「このケープ、黒だから目立たないけど相当被害に遭っていると思う。袖とか」


 リディアは慌ててタナトスの手から顔を背けた。が、小さな声で「ごめんなさい」と呟いた。



「額にキスしてたでしょう? どうしても許せなかったの。だって、生涯キスをするのはリディアだけだってブラッドが……」


 そこまで言うと、リディアは俯いてしまった。タナトスは黙ってリディアの髪についたインクを拭き続けた。


「もう……いいかな」


 しばらくしてリディアが呟いた。タナトスは手を止めてじっとリディアを見つめる。


「もう、いいや。ブラッドなんて、どうでもいい」


 リディアはタナトスをまっすぐ見て言った。その目には怒りの色も諦めも色もない。「無」の色だけが浮かんでいた。

 タナトスは立ち上がり、リディアの手首を掴んで歩き出した。


「ちょっと、どこに行くのよ。まだ髪が汚れたままよ!」


「まだらの髪が毒虫みたいでかっこいい」




 タナトスはギャーギャーと騒ぐリディアを引っ張り、早足にどこかに向かう。リディアが疲れて大人しくなった頃、ようやくタナトスの足が止まった。


「ここは……」


 リディアは目の前の建物を見て息を呑んだ。

 そこは、リディアとブラッドが結婚式を挙げる予定の教会だった。

 呆然として動けないでいるリディアを気にすることなく、タナトスはリディアを教会の敷地内へと引っ張って行く。リディアは抵抗しようとしたが、あまりもの力強さに諦めた。


 タナトスは聖堂には入らず、裏手へと進む。そろそろ日が落ちる時間。教会には人の気配がない。

 タナトスは教会のシンボルである聖なる木の影に隠れるようして、リディアを屈ませた。黙って従うリディアは、タナトスが指差した先に人がいるのに気がついた。

 こちらに背中を向けて跪くブラッドに寄り添うニコル。落日の赤色の中にいる二人は、まるで永遠の愛を誓っているように美しく、リディアはこくりと喉を鳴らした。


「これを見せたかったの?」


 前を向いたままのリディアから掠れた声が出る。それを意図したのならタナトスは意地悪だ。リディアはそう思ったが、不思議と怒りは湧かない。それどころか、ブラッドとニコルの姿に驚くほど感情が動かない。ついさっきまでは怒りや恨みしかなかったのに、とリディアは首を傾げる。それより、かすかに感じる違和感の方が気になって二人を凝視した。


「投げるものが無いから、大人しいね」


「えっ」


 タナトスが呑気に口を開くと同時に、違和感の正体に気づいたリディアは声を上げた。

 跪いたブラッドが両手をついて深く項垂れる。リディアは気づかなかったが、ブラッドはたくさんの花で埋もれる墓石の前にいたのだ。そこに刻まれた名を見て、リディアは息を止めた。


 跪くブラッドの肩は震え、嗚咽が漏れ聞こえてくる。その背中を、ニコルが抱くように支えていた。寄り添い合うように見えていた二人だが、今は悲痛そうにしか見えない。

 ブラッドの元へ歩き出そうとするリディアの手首を掴み、タナトスは自分の唇に人差し指を当てて見せた。


「まだ近くにいるような気がするんだ」


 ブラッドが声を絞り出す。ニコルは、そんなブラッドの背中を黙って撫で続けた。


「家業のための婚約だったが、愛していた人をすぐに忘れられやしない。その上、ニコルにも酷いことをしている。君にも最愛の人がいただろうに」


 ニコルが首を振る。その手はブラッドを一人にしないというように、ずっとブラッドに触れている。


「彼とは身分が違い過ぎました。それに投資を条件にして、喪が明けてすぐのブラッド様に婚約を申し出たのは私の父です」


 タナトスがリディアを窺う。リディアもタナトスを見つめる。


 そうか。そうだったわ。全部思い出した。

 あなたの心は変わっていなかったのにね。信じられなくてごめんなさい、ブラッド。逆恨みしてごめんなさい、ニコル……


 リディアが心の中で二人に謝罪した時。リディアの目の前から景色が消えた。



 *



「思い出した?」


 どれぐらい時間が経っただろうか。タナトスの声にリディアは我に返る。

 リディアが今いる場所は、先ほどの教会の墓地ではなかった。ここは光も闇もない、音も遠い不思議な場所だ。ただ、なんとなく行くべき先はわかる。リディアが見つめる先には、薄い光が差していた。


「皆、私のことを無視していた訳じゃなかったのね」


「そうだね」


「あなたは?」


「迎えに来た」


「そっか」


「うん。行こう」



 リディアを漆黒の瞳で見つめていたタナトスが、光の方向に歩き出した。リディアは慌ててタナトスを追うと、そのケープの裾をギュッと握った。


「あなた、本当に意地悪ね。最初に教えてくれたら良かったのに」


「きっと信じなかったよ。それに、けっこう面白かった」


「……いい性格してるわね」


「初めて言われた」


「でしょうね」



 他愛もない話をしながら、いつの間にかリディアはタナトスの隣に並んでいた。タナトスのケープをしっかりと握ったまま。


「もしかして私、勘が悪い方なのかしら」


「相当ね。あと、素行も口も」


「普段は素行も口も悪くはないわ。ねぇ、他の人はそんなすぐに受け入れられるものなの?」


「うーん、君の場合は……」



 タナトスは黙った。リディアが亡くなった日。本来ならすぐに見つかるはずのリディアの魂を、タナトスは見つけることが出来なかった。死神(タナトス)にとって一番厄介なことに、リディアを強く想う人が多過ぎたからだ。リディアを失いたくないという多くの想いと、自分の死に気づかず日常を諦めないリディアの魂が、長い間タナトスの目を曇らせていた。

 タナトスが隣にいるリディアを見る。リディアは黙ってタナトスの言葉を待っていた。



「びっくりするほど鈍かったから」


 タナトスが誤魔化すと、何よそれと、リディアはタナトスの背中を叩いた。

 未だにリディアの両親と兄は毎夜泣いている。夜会にはリディアを悼む声が溢れ、リディアが押しかけたお茶会は友人たちがリディアを偲んで涙を流していた。

 特にブラッドの想いは、タナトスに眩暈を起こさせるほど強かった。

 タナトスはそのことをリディアには言わないでいた。



「あの人、泣いていたわね」


 タナトスは思わず立ち止まった。リディアはちらりとタナトスを見たが、歩みを止めない。ケープの裾を引っ張られ、慌ててタナトスはリディアの後ろを歩く。リディアは前を向いたまま、後ろのタナトスに話し掛ける。


「人の心は変わるって言ってたわよね」


 以前、タナトスが言った言葉だ。そうとも限らなかったよ……タナトスは心の中で答える。


「今は変わって欲しいと思ってるの」


 タナトスは、リディアの墓の前で泣いていたブラッドを思い浮かべた。二人はしばらく黙って歩いた。

 やがてリディアが立ち止まる。薄い光はいつの間にか目に前にあった。

 リディアは、タナトスのケープから手を離した。


「行くわ」


 前を向いたままのリディアが光の向こう側に進む。

 タナトスは思わず、リディアの手首を掴んだ。


「っ! だから痛いってば。タナトスの記憶力ってミミズ以下なの?」


 せっかくアザが消えたのにと、リディアが恨めしそうに言う。タナトスは慌てて手を離した。


「記憶力、毒虫よりは悪くない」


「やめてよ、その毒虫」


「毒虫、かっこいいよ。まだらで」


 何それと、リディアが睨む。タナトスは黙ってリディアを見つめた。


「今までありがとうね、タナトス」


「……仕事だから」


 仕事じゃ仕方ないなと笑ったリディアだったが、ふと寂しげな顔をして言った。


「人の心が変わるって本当ね。あの人のこと大好きだったのに、もう名前が思い出せない。あんなに隣にいたかったのに」


 リディアは、タナトスのケープを見つめる。


「それに今は、タナトスともっと話していたかったって思っている」


 そう言うと、リディアはパッと笑顔になった。その目には暖かそうな涙が浮かんでいる。


 ……その涙に触れてみたい。


 そう感じた自分に、タナトスは動揺して目を揺らした。


「行って」


「行くわ」


 光の中にリディアが消えて行く。リディアが見えなくなる瞬間、タナトスの耳にかすかにリディアの声が届いた。


「また心は変わるのよ。きっと」



 やがて光は消え、リディアの気配もなくなり、また光も闇もない音も遠い世界が戻ってきた。

 タナトスはしばらくその場に立ち尽くした。ふと視線を落とす。リディアが握っていたケープの裾は、不恰好な皺になっていた。


「心が変わってくれないとつらいくせに。心が変わられても寂しいくせに」


 タナトスは呟く。もう、それに答える声は聞こえてこない。


 毒虫みたい……タナトスはケープの皺を指でなぞり、ふふっと笑った。そしてフードを深く被り直す。


「またね、毒虫ちゃん」



 踵を返す。色も音もない世界に、タナトスの足音だけが溶けていった。





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最後まで読んで、もう一度読み直して、もう一度……。 登場人物達の態度、花の意味などを深く理解するためにも、読み直しを非常に推奨するような作品でした。 想いはいつまでも忘れずに、でも気持ちは変わって欲し…
心が変わって欲しいと変わると言ってる人と心は変わらないと言って変わってしまった人(神?)の気持ちがなんだが寂しい もはや去るしか無いのに消えるしか無いのに心を変えられ残されて 心は代わり変わって欲しい…
帰宅時の家族の様子に、これはもしや……と思いました。 その後の描写に確信を持ち、やっぱりそうなのかと、悲しさ切なさが湧き出してきました。 令嬢がずっと馬車にも乗らず移動しているのも、そういうことなんで…
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