飯
「飯」
看板には、白地に黒の文字でただそれだけが書かれていた。
裏路地の奥、昨日まで確実に空き店舗だった場所に、その店は忽然として現れた。
渡辺は空腹に誘われるように暖簾をくぐった。
薄暗い店内。カウンターに一人、無表情な店主が立っている。
「何が食べたい?」
渡辺は考える間もなく、答えていた。
「母親の作ったオムライス」
二十年前、日曜の昼。小学生だった渡辺に、母は毎週オムライスを作ってくれた。
若くして母は交通事故で亡くなった。
運ばれてきた皿の蓋を開けた瞬間、渡辺は息を呑んだ。
ケチャップの色、卵の焼き加減、玉ねぎとピーマンの切り方。
すべてが完璧に一致していた。一口頬張ると、涙が溢れた。
味も、食感も、温度さえも、あの日曜日そのものだった。
「うまい、か?」
店主が問う。渡辺は何度も頷いた。
翌週、渡辺は早速親友の佐藤を連れてきた。
「高級ステーキが食いたい」
佐藤はそう注文したが、出てきたのは見るからに安い牛丼だった。
「は? なんだよこれ」
だが一口食べた佐藤の表情が歪んだ。
「これ、あいつと……」
学生時代の彼女。一緒に食べた牛丼チェーン店の味。
佐藤は黙って完食し、店を出るなり嗚咽を漏らした。
「本当に食べたいものが出るんだ」
渡辺はそう理解した。
表層の欲望ではなく、心の奥底に潜む真実が。
その後、渡辺は何度も店に通った。
同僚を連れて行ったこともある。
難病を患う吉田に出されたのは、何の具材もない真っ白な粥だった。
彼は食べながら、安堵したように微笑んでいた。
それは、最期の食事を受け入れた者の顔だった。
ある晩、疲弊したサラリーマンが入店した。
「何でもいい」
男は投げやりに答えた。店主が運んできた皿を覗き見て、渡辺は凍りついた。
血の滴る生肉の塊だった。
男は一瞬硬直したが、やがて獣のように笑い、両手でそれを鷲掴みにして貪り食った。
骨を砕く音。肉を引き裂く音。血が顎から垂れる。
食べ終わった男は、殺意に満ちた目で店を出ていった。
渡辺は店主に詰め寄った。
「何を食わせている!?」
「俺は何も作っちゃいない」
店主は淡々と答えた。
「客の心が作ってるんだ。この店はただの鏡だ」
渡辺はこの店に二度と来ないと決めた。
だが一週間後、気づけば店の前に立っていた。
体が勝手に店を求めていた。
「いらっしゃい」
店主は渡辺を見て、何も聞かずに厨房へ消えた。
この店は渡辺のことを知り尽くしていた。
やがて運ばれてきた皿。
渡辺は震える手で蓋を開けた。
盛られていたのは、肉片だった。
見覚えのある形。自分の左手の薬指によく似ていた。
いや、似ているのではない。これは——
「本当に食べたいものだ」
店主の声が遠くから聞こえる。
渡辺は理解した。
母のオムライスも、佐藤の牛丼も、吉田の粥も、すべては始まりに過ぎなかった。
人間の欲望は階段を降りていく。
懐かしさ、喪失、安楽、そして——
自己破壊。
「俺は、俺を食いたかったのか」
笑いが込み上げてくる。可笑しくて、可笑しくて仕方ない。
渡辺は肉片を口に運んだ。
歯が肉を裂く。血の味が広がる。
舌の奥が告げていた。
——これは、自分の味だ。
理由はわからない。けれど、渡辺には確信だけがあった。
存在の終わり。消滅への渇望。
咀嚼の途中で、渡辺はふと左手を見た。
薬指が、消えていた。
血も痛みもない。ただ、満たされていく。
それが、幸福にさえ思えた。
「お代わりは?」
店主が尋ねる。
渡辺は笑顔で頷いた。
次に運ばれてきた皿には、自分の右足首から先が丸ごと盛られていた。
店の外では、新しい客が暖簾をくぐろうとしている。
「飯」とだけ書かれた看板の下で、店主は今日も無表情に立っている。
鏡は、ただ映すだけだ。
なぜタイトル長文の異世界転生モノみたいなのが人気なのか
https://togetter.com/li/2620578
にて、XのDMを使って相互評価で星を増やす作者が、他作のタイトルを「長文でテンプレ」(意訳)とディスってました。
じゃあ、ってんでノリで書いた実験作品です。
(2025/10/27 カクヨムに投稿したものを転載)
Xでは5回ほどしか宣伝してませんが、読んだ方からは反響が大きかったので、こちらにも転載してみました。




