インド2
インドがさっぱり分からない。これは我々が自身の生について何一つとして分からないのとそっくりだ。インドの訳の分からなさと、生に関する不明瞭さには何か似通った部分があるのではないだろうか? 何かヒントが落ちているような気がする。
まず、インドについて分かっていることを記しておこう。とてつもなく広い、そして人がめちゃくちゃ多いということだ。次にインドについて分からないことを記す。それはインドとは何かということだ。インドを一口にまとめて描写しようとしても広大な土地、膨大な人口の前では無力である。インドは一体何からできていて、どのように形成され、どうなっていくのか。何を見て、何を思い、何を欲望するのかということが分からない。
ただインドには生がある。私はそこに生を見た。間違いなく存在するが、それが何かを明確に言うことはできない。なぜならそれは余りにも乏しい私の語彙のせいであるし、それらはいつも我々の手をすり抜けていくからだ。捕まえよう捕まえようとするたびに我々の奮闘をあざ笑うかのように脱落するからだ。
インドの寺院に祀られた複数の像をぼんやりと眺めている間に気づいたことがある。それは我々をあざ笑っているのではなくむしろ祝福しているのだ。そう見えるのは、我々から何か悪しきものを遠ざけようとするためである。生が睨みつけているのは、我々の行く末ではなく、また別の何か......。ではその何かとは何か? 何を退けているのか。彼らは何を押しとどめているのか。我々の想起するインドに対する像であり、我々の持ちうる生の写像である。
我々が生に関して描写し、分析し、定義し、捨象したところで、それがいったい何になるというのだろう? 生とはそのような類のものではない。それだけは確かだ。我々が表面上を着飾ったり、いくら上品に取り繕おうとも決して到達し得ない場所なのだ。我々が生について規定するなどあり得ない。もしできたとしたらそれはある種立派な虚偽である。しかし、だからといってそう易々とやめるわけにはいかない。兎にも角にも凡庸な像を我々の表面に出現させなければならなかったのだから。
私が今必死こいてインドについての事実を時間の限り羅列したところで、それ自体では決してインドには辿りつかない。どんなに最善を尽くしたとしても。インドに漸近するために必要なことは、インドについて蟻の子一匹漏らさないよう仔細に描写することではない。木を見て森を見ず。群盲象を評す。インドとは、インド人の考えるインドでもなければ外国人から見たインドでもない。インドのことはインドに聞け。きっと懇切丁寧に応えてくれることでしょう。でも......どうやって?
苦難なき救済は「救済」ではないように
闇を知らない光が「光」ではないように
外国を知らない日本人が「日本人」ではないように
インドを知らない人間が「人間」ではないように
我々の考える生がもはや「生」ではないように
それに触れて初めて分かるのだ。我々の知り得ることがほとんどすべて欺瞞であることを。それこそが生の誘惑であり、生の甘味であり、生の贈り物なのだ。