〈2〉原生林と池
―――身分違いの恋は、頑として秘めなければならない。
絶対に秘密が守られる懺悔室においても、この恋だけは明かせないはずだった。
でも。
もう死ぬのだから、秘め事を知られたところで何が怖いというのだろう。
ためらうことは何も無い。
そう思い、シェリィは懺悔室の扉を叩いた。
「2人はこの恋に殉じるのです」
懺悔室の格子越しに、自分の窮状を話した。
「魔術師は、命を断つための薬を持っているでしょう?私に分けてください」
「自ら命を断つことは罪なのです」
王室教会の魔術師ローグは、そう諭した。
「それでも私達は死ぬのです」
ためらいなく答えた。
澱のような沈黙が懺悔室を支配した。
「薬を分けていただけないのなら……」
シェリィが対話を終えようとすると、ローグは「ふぅん」と息混じりの声を出した。
「ならば、生まれ変わりの薬を差し上げましょうか」
ローグが寄越したのは、手のひらに収まるほどの小瓶だった。
「これは毒には違いありません。液体を飲み込んだ者はそれほど苦しまず死に至るでしょう」
瓶を小さく振りながら、魔術師はあまりにも魅惑的なことを言った。
「しかし、訪れるのは完全な死ではない。飲み込んで死んだ者は、別の何者かに転生する。そして新たな生を歩む」
願ってもないことだ、と思った。
身分違いの恋は現世では成就しない。
しかし、2人が生まれ変われたとしたらどうだろう!
きっと次の人生では、身分を気にする必要などない。
2人は2人の場所で、2人だけの愛を育んでいけるだろう。
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低い天井。古い木の匂い。
ゆっくり目を開けた。何か夢を見ていた気がする。
(ああ、そうか。私は追放されて……)
夢は夢。目覚めればすぐに消え失せる。そして現実はどこまでも現実だ。
身を起こす。部屋の隅に座って目を閉じていたローグは、その気配を察して目を開けた。
そして、静かな声で言った。
「準備が済んだら先へ進む」
相変わらず食欲はなかったが、宿の主人が用意してくれた簡単な朝食を食べた。
食料を喉に流し込む作業のように思えた。
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オアシスを抜け、砂漠を渡り、やがて草原へ。知らない街を抜け、山道へ。そして原生林へ。
聖獣は風のように駆ける。
随分遠くまできたがローグに迷いはない。聖獣に、的確に指示を送っている。
彼はいろいろな土地のことを知っているのだな、とシェリィはぼんやり考えた。
王都からどれだけ離れたのだろうか。シェリィにはもう分からない。
王都には帰れない。
あんなにも愛した人にも、もう逢えない。
流れるように過ぎていく森の風景の中に、愛しかった王子の残像がぼやりと霞んで消えた。
手つかずの森の中をしばらく駆けると、水音が聞こえてきた。
こぢんまりとした池があった。小さな滝がサラサラと清い音を響かせている。
池の中には、白く可憐な花が無数に咲いていた。
まるで絵画のような光景だ、としばし見惚れる。
「バイカモか……」
「?」
ローグがつぶやいた言葉の意味がよくわからず、少し首を傾げた。
「その花の名前だ」
「……」
この魔術師は何でも知っているのだな、と少し感心した。
静謐な森は空気が澄んでいて、爽やかだ。思わず見入ってしまう。
池の風景をシェリィが気に入ったと解釈したのかもしれない。ローグは黙ったまま、池の畔に厚い布を敷いた。
そうしてから、宿でもらってきた食料を並べる。彼はシェリィに構うこと無く食事を始めた。
勝手に食べろということなのだろう。
「別にあなたまで」
木漏れ日を受けて静かに輝く池をぼうっと眺めていたら、ずっと思っていたことをふと口に出してしまった。
その先を言おうとして少しためらう。
「……どうした」
促されて、言葉を続けた。
「あなたまで追放される必要はなかったのに……」
小さな声だった。
沈黙が場を支配した。
しばらくして、ローグはおもむろに口を開いた。
「客観的に見れば、共犯には違いないだろう」
「私には、そうは思えないけれど……」
この聡明な人を巻き込んでしまった、という思いは消えない。
「あなたの……」
没落し、追放された自分自身を哀れに思うような感情はもはや無い。仕方なかったと割り切れる。
しかし。
「あなたの人生まで変えてしまったのは、悪かったと思っているわ」
転がる石のようにどこまでも落ちていくのは、自分だけで十分だったはずだ。
シェリィを見つめる魔術師の目には、かすかに驚きの色があった。
悪かった、なんて言われるとは思ってもみなかったのだろう。
彼はしばらく黙り込む。それから、
「共犯なんだ」
静かな言葉を返した。
「王城の連中は、お前の追放先を最果ての修道院としたが……まあ、お前一人じゃたどり着けやしないだろう」
ローグはそんな風に呟いてから、わずかに口の端を上げた。
「だから、ちょうどよかったんだ」
それだけ言うと、彼は黙って目を閉じた。
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日暮れ後。
小さな山を越えたユニコーンたちはやっと小さな集落にたどり着く。
集落の外れの宿には幸い空きがあった。ローグは今度は、2部屋を取ってくれた。
シェリィは宿の部屋に入り、ふうと大きな息をつく。
追放の旅に出てからずっと一緒にいたローグと初めて離れた。息が詰まるような思いをしていたわけではないけれど、少し安らぐ気がする。
ベッドに倒れ込んだ。
疲れが蓄積しており、すぐにでも眠りに落ちてしまいそうだ。
(私は、このまま彼と離れてしまうこともできる)
宿を出てどこかへ隠遁してしまえば、彼と再び邂逅することはないだろう。
自分がそんなことを思っているうちに、ローグだって宿を出て逃げてしまうかもしれない。
(いっそ、そうしてくれたらいいのに)
だって、死にぞこなった無能な没落令嬢のお守りなんか、したくないだろう。
彼にはもっと別の、いい人生があったはずだ。
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―――「魔術師から秘策を授かったの!」
小瓶を手に入れたシェリィは、王子との逢瀬で興奮気味に告げた。
「一緒に死にましょう。そして、来世で一緒になりましょう」
庭園の片隅で紅茶を淹れた。2人だけの最後のお茶会だ。
小瓶に入った液体を、香り高い紅茶に数滴垂らす。
晴れやかな気分だった。
どちらからともなく、口づけを交わした。長い長い口づけだった。
肌を離してから、2人はそれぞれにティーカップを持ち上げる。
ああ、これで恋が成就する。
王子の口元にティーカップが触れたのを確認してから、シェリィも一気にお茶を呷った。
その瞬間、ふわりと力が抜けた。
死が自分を迎えにきてくれたのだな、と思った。
至福だった。
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