〈1〉砂漠とオアシス
愛していた。
死んでしまいたいほどに、心から愛していた。
ああ。私は最愛の人と一緒に死ぬはずだったのに。
そして転生して、新しい人生を歩むはずだったのに。
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アイボリーの毛並みをもつユニコーンは街外れへと走る。
その背に乗せられたシェリィは失意の底にいた。呼吸することすら、億劫に思える。
王都を追放されたことが苦しいのではない。最愛の人と引き離されたことが悲しくて仕方ないのだ。
「森の中には下級の魔物がいる」
同行者は、褐色のユニコーンを走らせながら注意を喚起した。
しかしシェリィには話を聞く気力もない。
「低位の魔物の多くは、ユニコーンの姿を見れば逃げていく。しかし警戒は怠らぬよう」
ローグというこの魔術師も、シェリィが上の空なことは分かっている。一応声を掛けたに過ぎないのだろう。
シェリィは白いユニコーンに体を預ける。
寂しくて苦しくて、心が砕けて無くなってしまいそうだった。
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―――ロレンソ王子との逢瀬は誰にもバレてはいけなかった。
城の下女と王位継承者との、身分違いの恋だった。
没落した貴族令嬢シェリィ・フローレスは、温情で王城に雇ってもらった身だ。
フローレス家はもともと、田舎の小金持ち程度の貴族だった。資金繰りが暗礁に乗り上げれば、凋落はすぐに訪れた。
父親はやむなく一人娘のシェリィを勤めに出した。それが王城の下女の仕事だった。
たかが貧乏貴族の娘。大国の王子との結婚など望めるわけがない。
それでも、いつしかシェリィとロレンソ王子は恋に落ちた。
王子は近いうちに隣国の王女を娶ることになっている。
「こんなに愛し合っているのに、どうして引き裂かれなければならないんだ」
王宮の庭園、誰もやってこない庭外れの茂みで、王子は愛を囁いた。
「いっそ、2人で死んでしまいたい」
王子は確かにそう言っていたはずだ。
「私もそうしたくてたまらない」
シェリィは夢のような心持ちで答えた。
立場もしがらみも捨ててしまえたら。
そんな空虚な妄想に2人は縋っていた。
「一緒に死んでしまえたら……」
「ええ……」
死の空想は、とろけるほど甘美に思えた。
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「あの王子は」
2体のユニコーンは随分遠くまで走った。
ローグは見晴らしのいい平原を休憩場所に選んだ。魔術で焚火を作り、草の上に厚手の布を敷く。
そして、シェリィを座らせながら語る。
「死ぬつもりはなかったと思う」
ローグは荷物をまさぐり、鴨ハムのホットサンドを取り出す。
シェリィに差し出した。
彼の言い草に気分を害した。顔を背ける。
「いらない……」
「食べておけ、先は長い」
ローグはシェリィの腕を取り、無理にホットサンドを握らせた。
鴨ハムは王都の名物だ。ほかの地域では鴨料理は盛んでないと聞く。
追放された2人が王都に戻る日は来ない。鴨ハムを味わうのも、これが最後かもしれない。
ローグがパンに思いきりかぶりつくのを、シェリィはぼんやりと眺めた。
「しばらくは砂漠地帯だ。少し暑いから、体力を消耗するかもしれない」
「私はあなたを赦していないの」
睨みつけながら告げたが、彼は動じなかった。
「食べておけ」
低くて静かだが、強い声だった。
彼が平然としていることが悔しいと思った。
それに、自分がここに生きていることも悔しい。
生きていれば空腹を感じる。それも悔しい。
だけど、生きている。仕方ない。自分は生きている。
口を開けるのも億劫だけど、すこしだけ齧ることにした。
鴨ハムの味はよく分からなかった。
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砂漠の砂は熱気を放っている。
しかしユニコーンは丈夫な聖獣で、環境を厭わず軽快に進む。
砂漠はシェリィが想像していた以上に広かった。
しばらく進んだら、シェリィの周囲はすべて砂の丘の風景になった。
大きな太陽はやがて西へと傾き、世界を黄金色に染め上げる。
砂漠の砂は陽の光を一心に受け、どんな宝石よりも強い輝きを放つ。
(私はあのとき死ぬはずだったのに)
こんなにも心が苦しい。
なのに、この景色に見惚れてしまった。
もしも死んでしまっていたのなら、視界すべてが黄金色に染まるこの絶景を見ることはなかっただろう。
ささくれ立った心で世界を眺める。
美しいものを美しいと認めることに強い抵抗を感じる。
自分の心はひどく捻じ曲がっているのだろうと思えた。
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砂漠のオアシスではこぢんまりとした火祭りが催されていた。
集落の住人たちが松明を持ち、列を成して街道を歩いていく。
天を衝くほどの巨大な松明に炎の矢が射られる。たくさんの火花が空からこぼれ落ちてきた。
人生に、そして世界に失望していたはずなのに。
勇壮な祭りを見ていると、心がじわりじわりと跳ねる感じがする。
荘厳な火祭りをずっと見ていたい。
でも、見ているのがつらい。
祭りの幽玄な風情から目を逸らす。
宿へと歩むローグをとぼとぼと追った。
「旅の人かい。申し訳ないね、一室だけなら用意できるんだが」
祭りで賑わっているオアシスに空室の宿はほとんどない。
宿の主人と交渉していたローグは、困り果てた顔でそっと振り向く。
「別に構いません」
捨て鉢だった。
一度死んだような心持ちでいるのだ。今さら男性と共寝することになろうが、どうでもいいと思った。
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「魔術師は頼まれたからといって、命を奪うような薬を渡したりはしない」
それほど広くない宿の部屋。
ベッドをシェリィに譲り、硬い床の上で毛布をまといながらローグは呟いた。
「あれは単なる眠り薬だった」
「つまり、あなたは私を騙したのね」
睨めつけながら詰る。
「……そうだ」
彼は何の弁明もしようとはしなかった。
「最低」
返答はなかった。
最低だと罵ることは、2人の間に頑然とした壁を作ることに等しい。
壁は高い。この夜に間違いが起きることはないだろう、とシェリィは思った。
あるいは、ローグがそう仕向けたのかもしれない。この夜に間違いを起こさないために。