君の『おはよう』が聞こえない世界で、僕はまだ歌っている
ある日、朝が来なくなった。
「おはよう」と言えなくなった相手を前に、私は歌い続ける。
壊れているのは世界か、それとも自分なのか。
消せない記憶と止まった時間の中で、彼は願う——
いつかまた、光の降る町で、手をつないで歩ける日が来るように。
心に染み入る言葉と幻想的な世界観で紡がれる、
一つの「愛」と「別れ」の物語。
この物語の最後に、あなたはきっと空を見上げたくなる。
メイン登場人物:佐倉 澪『主人公』
三上 悠真『彼』
第一章:壊れた世界の標本室
目覚ましのベルが鳴らない朝が、何度目かももう忘れてしまった。
それでも、私は毎朝ベッドの横に立ち、あなたに声をかける。
「おはよう、悠真」
──返事はない。まぶたひとつ、ぴくりとも動かない。
白いシーツ、白い壁、白い天井。すべてが静止したまま、まるで世界ごと"保管"されているかのようなこの部屋を、私はひそかに《標本室》と呼んでいた。
この場所では、時間は進まない。
それが、私とあなたにだけ適用された"特別なルール"。
外の街では、人々が朝を迎え、昼を過ごし、夜に沈む。だけどこの部屋にそれはない。窓の向こうに広がる空も、ずっと同じ色のまま。
くすんだ青。いや、もはや"青"と呼べるかも怪しい色。
私はあなたの手をとる。まだ温かい。でも、それは"命"の温度ではない。ただ、"存在"しているだけの熱。
言葉にできない違和感を抱えたまま、それでも私はこの部屋に通い続ける。
「ねえ、覚えてる?
空ってさ、もっと……鮮やかだったよね」
私の声は、壁に吸い込まれていく。反響さえ返ってこない。
それでも話しかけてしまうのは、ここだけが私にとっての世界だから。
他のすべてが、夢だったんじゃないかと思えるくらい、あの日を境に、現実は変わってしまった。
それは、ちょうど一年前の春。
学校帰り、ふたりで歩いた河川敷。
「風、気持ちいいね」と笑った悠真の顔を、私は一生忘れないと思っていた。
けれどそれは、"最後の笑顔"だった。
翌日、悠真は目を覚まさなくなった。
事故でも病気でもない。原因不明の"長い眠り"。
医学も、科学も、宗教も、何ひとつ答えをくれなかった。
それでも、私は諦められなかった。
何かの間違いだと、どこかに出口があるはずだと。
そして私は気づいたのだ。
壊れているのは、きっとこの世界のほうだ、と。
その日から、世界がゆっくりと色を失っていった。
まず青が消え、次に赤、やがて緑。
空の青さも、夕日の朱も、春の桜も。
すべてが"記憶の中だけのもの"になっていく。
人々は気づいていない。
あるいは気づいていても、見て見ぬふりをしているのかもしれない。
朝は来る、けれど"朝らしさ"はない。
笑い声はある、けれど本当の笑顔ではない。
生きているふりをして、皆、何かを演じているようだった。
私は、あなたのいるこの標本室に逃げ込んだ。
ここだけが、嘘のない場所。
本当のことを、悲しみを、思い出を、封じ込められる場所。
「ねえ、悠真」
私は今日も、あなたに問いかける。
「間違ってたのは、世界かな。それとも──あなた?」
もちろん答えはない。けれど私は、あなたがただ"いなくなった"わけじゃないと信じている。
だって、まだここにいるじゃない。
この世界の、"止まった朝"の中で。
私はあなたのそばで、今日も歌う。
声が枯れるまで、届かなくても、たったひとりでも。
「きっと、気づいてくれるよね──またいつか、光の降る町で」
第二章:灰色の太陽と白い嘘
朝は、やってくる。
けれど、太陽は灰色のままだ。
それが“普通”になってから、どれくらい経つのか、もう誰も覚えていない。
学校のチャイムは鳴る。スーパーは開く。ニュースキャスターは「今日は快晴です」と微笑む。
けれど──空は曇天、鳥のさえずりも、風の匂いもない。
すべてが“そうあるべき姿”を、ぎこちなく模倣しているだけ。
私は気づいてしまったのだ。
この世界は、悠真のいない現実を正当化するために作られた嘘だということに。
「佐倉さん、今日も早いね」
学校の屋上で、担任の坂井先生が話しかけてくる。
彼もまた、毎日同じ言葉をくり返す。声の抑揚も、表情の柔らかさも、寸分違わず。
「はい。眠れなかったので」
私もまた、毎日同じように返す。そうすれば世界は穏やかに流れていく。
決して、乱してはいけない。
"正常"を装うこの世界に、波紋を投げてはいけない。
「悠真くん、どう?変わりない?」
「変わりません」
「そうか……。でも、希望は捨てちゃダメだよ。医学も、AIも進化してるし。何が起こるか、わからないから」
優しい言葉だ。
けれどその言葉は、どこかで“プログラムされた優しさ”に感じられる。
まるで先生自身が、自分で自分に言い聞かせているように。
私の視界に映る人々は、皆、同じ動作、同じ口癖、同じルーティンを生きている。
まるで、「彼のいない世界」に順応したAIのように。
「澪、おはよう!」
校門をくぐると、クラスメイトの安藤楓が手を振ってくる。
それも、毎朝。
「今日、昼休み、一緒に購買行こうね!メロンパン、人気なんだから」
──今日も、同じ台詞。
メロンパンなど、購買に入荷されたことは一度もない。
それでも彼女は「ある」と言う。
そう“プログラムされている”かのように。
まるでこの世界そのものが、「悠真のいない日常を成立させるための虚構」でできているかのように──。
夜。
標本室に戻ると、私はベッドの隣に座る。
「ねえ、悠真。今日は何も変わらなかったよ」
天井を見上げる。ライトの光は昨日と同じ強さ、同じ色。
あなたの寝顔も、昨日と同じまま。
「でもね、私、知ってるの。この世界、きっと"本当"じゃない」
もし、神がいて、この世界を設計したのなら。
それは「あなたが目を覚まさなかったこと」を、誰にも苦しまないように仕立て直した優しい地獄だ。
みんなが同じセリフを言い、同じ表情で笑う。
変化のない世界に、私はひとり、取り残されている。
あなたの存在が、唯一の現実だったのに。
あなたがいないことが前提にされた世界なんて、私はいらない。
だけど、私はここにいる。
「ねえ、悠真……」
あなたの髪を撫でる。柔らかくて、温かい。
「もしも、もう一度やり直せるなら。
今度は私が──あなたを助けるから」
涙が落ちる。あなたの指先に、ひと粒。
「だから、声が枯れるまで歌い続けるよ」
その時だった。
あなたのまぶたが、ほんのわずかに震えたような気がした。
私は息を止めて、見つめる。けれど、動かない。
──それでも確かに、私は見た。
希望の、微かな揺らぎを。
第三章:言葉をなくした歌姫
声を発すると、世界が揺れることがある。
ほんのわずかな、風のざわめきほどの揺れ。
でも、その“揺らぎ”が、嘘でできたこの世界には致命的だった。
それを最初に気づいたのは、私だった。
「あなたが目覚めるまで、私は歌い続けるよ」
そう、標本室で歌ったあの夜。
悠真のまぶたが震えた、あの微かな奇跡。
それは偶然でも、錯覚でもない。
私の声が、閉じられた檻の鍵穴に、わずかに届いたのだ。
それ以来、私は“歌う”ことに執着するようになった。
言葉にならない想い。
届かないと知りながらも、それでも紡がずにはいられない音。
私は、歌姫になった。
言葉をなくした、ただひとりの。
「最近、君……変わったね」
ある日、坂井先生がぽつりと言った。
屋上で風に吹かれる私を見つめながら、まるで壊れかけのラジオのような声で。
「他の子たちと……違うように見えるよ」
「違ってるんです。私だけ、気づいてしまったから」
「気づくって、何に?」
「世界は、壊れてる。
でも、誰もそれに気づかない。
きっと、“気づけないように”されてるから」
坂井先生は黙った。
いや、“沈黙”させられたようにも見えた。
そのとき、私は悟った。
この世界の“作り手”は、感情を揺らがせるものを嫌っている。
だから歌うたびに、私は世界の“仕様外”へと足を踏み入れている。
私の声は、バグだ。
でも、それはきっと、唯一の希望でもある。
「悠真、聞いて」
その夜も、私はあなたのそばで歌った。
だけど、もう言葉は使わない。
口にする言葉はすべて、世界のもの。
それならば、私は旋律だけで語る。
悲しみも、喜びも、愛しさも、すべて音に託して。
歌うたびに、標本室の空気が震えた。
壁の白さがわずかに濁り、天井の灯が微かに揺れる。
そして──
「……っ」
あなたの喉が、かすかに鳴った。
水の底で声をあげようとするように。
そこに言葉はない。けれど、確かに“呼ばれた”気がした。
私は、あなたに呼ばれたんだ。
翌朝。
通学路の花壇に、一輪だけ咲いた花があった。
ずっと灰色だった町に、唯一の色が戻っていた。
白い、はずのチューリップが、ほんのりと“桃色”を帯びていた。
「ねぇ、悠真。見た? 春が、来たんだよ」
私はその日、初めて笑った。
第四章:反復する月と白昼夢
世界は、繰り返していた。
何度も、何度も。
まるで誰かが“間違い”を認めずに、同じ一日を微修正しながら保存しているように。
朝の登校、昼の笑顔、夕方の風景、そして夜の絶望。
ほんの少しずつ違って見えて、でも、本質は変わらない。
まるで、バグの修正ログの中に生きているみたいだった。
その違和感に決定的な形を与えたのは、
ある日、見つけた“自分自身の手帳”だった。
机の奥から、紙がこぼれた。
開いてみると、それは私の字だった。
──けれど、覚えのない言葉が並んでいた。
「3月10日。今日も悠真は目を覚まさない。世界は変わらない。けれど、空に色が戻っていた。これは、記録か、それとも祈りか。」
「3月11日。同じ会話。何度目? 楓の『メロンパン』、先生の『希望は捨てちゃダメだ』。それしか言わない。彼らはもう“人間”じゃないのかもしれない。」
私が、記録していた?
でも、覚えていない。まるで書いた記憶だけを誰かが削除しているかのように。
日付は、すべて“3月10日から3月15日”の間だけを、無限に反復していた。
その夜、私は、悠真の前で涙を流した。
「ごめんね。もしかしたら……私、あなたを救おうとしてるんじゃなくて、
あなたに依存してるだけかもしれない」
あなたが目覚めたら、この世界は終わる。
もしかしたら、それを無意識に恐れているのは、私の方じゃないのか。
「ねえ、悠真。
本当に、壊れていたのは世界じゃなくて、
“私”だったのかもしれないね」
それでも、私は歌う。
声が枯れても、届かなくても。
それだけが、私を私でいさせてくれる。
そんなある日。
再び、花壇に立つと、桃色のチューリップが黒く枯れていた。
それだけじゃない。
空の色が“反転”していた。
青は赤く、白は灰色に、光は逆流しているように感じた。
「──再起動だ」
誰かの声が聞こえた気がした。
“世界がリセットされる前兆”。
それは私の中の、記憶にすら残らない“第六感”が告げていた。
「……やだ、また忘れたくない」
この日々が、私とあなたの時間が、記録されずに消えるなら。
せめて、私のこの声だけは、何かを残して──
その瞬間、辺りが真っ白に染まった。
校舎も、空も、人々の顔も、すべてが滲んでいく。
まるで一枚の画用紙を水に溶かすように。
「悠真っ……!」
走った。息が詰まる。
それでも、標本室の扉を、私は両手で叩き続けた。
「お願い……忘れないで。私を、私たちを……!」
中にいるはずのあなたに、世界が溶けるその刹那、最後の叫びをぶつけた。
そして──
気がつくと、私は教室にいた。
朝のチャイムが鳴っていた。
「澪、おはよう!」
安藤楓が、あの言葉を繰り返す。
……でも。
彼女の目の奥が、かすかに揺れていた。
“自分でも気づかない違和感”のようなものを、はっきりと湛えて。
私は静かに笑った。
たぶん、一巡目じゃない“私”たちだけが、少しずつ“思い出している”。
歌が、届き始めている。
第五章:残響の中の約束
その朝、教室の空気はいつもより重かった。
誰もそれを言葉にしない。
でも全員、どこか――妙に“疲れた”ような目をしていた。
それはまるで、記憶にない長旅から戻ってきた後のような、
“説明できない喪失感”を共有しているかのようだった。
「……昨日、何してたんだっけ?」
安藤楓が呟く。
何気ないその一言に、私は思わずペンを落とした。
「ねえ澪。夢でさ……チューリップが黒く枯れてるの、見た気がするの。変だよね?」
「……私も、見たよ」
言葉に出したとたん、胸の奥がざわついた。
この会話は、何かを“思い出させる”。
その感覚が、鼓動の裏側で震えている。
昼休み。屋上。
風が、わずかに温かくなっていた。
「これ、君に渡したことあったかな」
坂井先生が、ポケットから差し出したのは、
銀色の鍵だった。
「これ、旧校舎の地下倉庫の鍵なんだ。
今じゃ誰も使ってなくてさ、記録上は“存在しない場所”になってる」
「どうして私に?」
「わからない。……でも、“そうするべきだ”って思ったんだ。根拠はない。けど……君もそういうこと、増えてないかい?」
先生の目が、確かに揺れていた。
この世界に“綻び”が生じている。
少しずつ、でも確かに。
その夜。私はひとりで旧校舎に向かった。
風もない。月もない。
ただ、自分の靴音だけが反響する。
倉庫の扉を開けると、そこには無数の記録媒体が並んでいた。
ディスク、ノート、ビデオテープ、USB……
どれも日付のない、“記録されるはずのなかった”記録。
その中で、ひとつのファイルに目が留まった。
タイトルは、《悠真 03-13 version》。
再生すると、白黒の映像が映った。
標本室。
私が、悠真の前で歌っている姿。
でも──その私の口から、声が出ていなかった。
否、**“声だけが抜かれていた”**のだ。
画面の右上には、【データ削除中】の文字。
誰かが、“私の歌声”だけを切り取って、捨てていた。
「誰が、こんなことを……」
まるで、感情の発露そのものを、世界の外側にいる誰かが
管理し、制限しているようだった。
映像の最後、モニターの端に映った。
それは、“私”だった。
画面の外側から見ていた私。
つまり、記録を残していたのは、もう一人の私自身だったのだ。
そして、その“彼女”は言った。
「あなたは何度でもここに戻ってくる。
でも、今度こそ、“本当の言葉”で彼に会いに行って」
第六章:世界の設計者
標本室の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
世界の“ノイズ”が一斉に止んだような、静寂。
時計の針の音さえ聞こえない。
ただ、私の鼓動と、ベッドに横たわる悠真の呼吸だけが確かにそこにあった。
でも、彼に近づくその途中で、
私は“もうひとつの影”に気づいた。
──椅子に座る、見知らぬ少女。
年齢は私と同じくらい。けれどその目は、まるで千年分の時間を生きてきたように冷たく、澄んでいた。
「やっとここまで来たんだね、澪」
少女は、私の名前を知っていた。
でも、私は彼女を知らない。
「誰……なの?」
「私は、この世界を“保守してる”もの。名前は……ない。けど、君たちは私のことを“設計者”って呼ぶことがある」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
「あなたが……この世界を?」
「いいえ。私は、ただ壊れた“記憶と魂”を修復してるだけ。君と悠真が“本来辿った世界”が、崩壊寸前だったから」
──本来、辿った世界。
それは、つまり……私たちは何かを間違えたということ?
「君たちは、ある選択をした。世界を救うために、悠真が自らを封じ、“この記憶修復領域”が生まれたの」
少女は、ベッドの悠真に視線を落とした。
「でも、君が何度もここに戻ってくるうちに、“想い”だけが反復を超えて残り続けた。だから世界が揺らぎ始めてる」
「私は……彼を目覚めさせたいだけ」
「それが“彼の意思に反すること”だったら?」
少女の問いが、胸に突き刺さった。
「悠真は、自分が消えることを望んだ。“君が前に進めるなら”と。彼の“本音”を、君は本当に知ってる?」
私は、答えられなかった。
少女は立ち上がり、私に向かって歩み寄った。
「もし、君が本気で彼と向き合いたいのなら……この領域を破壊しなさい。
本当の“記憶”と“感情”が、その先にある」
「破壊って……どうやって?」
少女は、小さな銀のペンダントを差し出した。
その中には、私の“歌声”が封じ込められていた。
「君の歌は、この世界に干渉できる唯一の力。声が枯れても、感情が砕けても、それだけは嘘をつけない」
「でも、歌ったら……この世界は消えるんでしょ?」
少女は静かに頷いた。
「世界を壊すことは、終わりじゃない。再構築のための始まり。彼の意志を尊重しながら、本当の再会を果たすために」
私は、ペンダントを握りしめた。
迷いが、完全に消えたわけじゃない。
でも、それでも――
「悠真。私は、あなたにもう一度、**“おはよう”**を言いたい」
その一言だけで、足は自然に前へ出た。
私はベッドの傍に立ち、静かに瞳を閉じた。
そして──
──歌い始めた。
あの日、彼が教えてくれた“朝の歌”を。
繰り返し、何度でも、何度でも。
声が震えても、涙で音が揺れても、想いだけはまっすぐに。
空間が、音を巻き込んで崩れていく。
記録も、名前も、全ての境界線が溶けていく。
でも、私は歌う。
あなたを、忘れたくないから。
視界が真っ白に染まり、世界がゆっくりと“終わって”いく中、
私は最後の言葉を、心の中で彼に届けた。
「悠真。
あなたに、もう一度、会えますように」
第七章:そして、朝が来る
目を開けると、私はまた見慣れた風景の中にいた。
違和感を覚えたのは、その朝の空気がいつもより鮮明で、
まるで一度も経験したことのないような「新しさ」を感じたからだ。
気づけば、太陽が昇っていた。
それが、ひとつの信号だった。
目の前に広がる光景、空、街並み、すべてが“以前とは少しだけ違って”見えた。
それでも、私はこの世界が完全に新しく作り直されたことに気づくまでに、数秒の時間を要した。
その間、胸の中では何度も、何度も繰り返し思い出していた。
――私は、何を忘れたんだろう?
──悠真のこと、だったか。
それを思い出した瞬間、心の中に大きな穴ができたような気がした。
その穴を埋めるように、私は足を動かしていた。
もはや、意識すらせずに。
そして、私は目の前にあった「場所」に気づく。
それは、
学校だった。
ただし、今は――
“誰もいない、でも誰かの気配がする”場所。
教室に入ると、そこにいたのは見知らぬ人たちだった。
そして、その中でひときわ目を引く人物がいた。
彼は、私と目が合うと、ゆっくりと歩み寄ってきた。
その目に宿るのは、どこか遠くを見つめるような深い思索。
「君は……?」
その声に、私は驚いた。
誰かと話している気がするけれど、どこか違う。
「僕は、…そうだね、君とは初めて会うけれど、君のことを知っている気がする。君の目には何かが見えているんだ」
その言葉に、私の心はざわついた。
「どうして、君は僕に――」
私は声を出しそうになったが、言葉が出ない。
その人は、悠真だった。
でも、これは「本物の悠真」ではなく、どこか異質な「新しい悠真」だった。
「君に、僕のことを話すべきなのかもしれない。でも、それは君が選ぶべきことだ」
その言葉を最後に、彼は微笑みながら手を差し出してきた。
その手は、以前の悠真のものと全く変わらない。
それが、私をさらに混乱させた。
「君は、本当に…悠真?」
「僕が誰か、君はすぐに答えを出さなければいけないわけじゃない。でも、もし君が覚えているのなら、僕は君を忘れたことがない。ずっと、ここにいる。」
その声の中には、確かにあの温かさと優しさが込められていた。
私は一歩踏み出した。
そして、その手を取った。
手が触れる瞬間に、あの日の記憶が―「歌」「約束」「傷」―すべてが一気に蘇る。
悠真の瞳を見つめる。
その瞳の奥には、確かにあの“彼”がいた。
私は、少しだけ目を閉じ、そして息を吐いた。
「本当に…忘れていたわけじゃないんだね。
でも、私は…どこから始めていいのか分からない」
悠真は、優しく私の手を握り直して、こう言った。
「だから、僕がそばにいる。
一緒に歩いて行こう。
何も知らない君でも、何も覚えていない僕でも、
一緒に歩けば、きっと未来が見えてくる」
その言葉が、まるですべてを繋げてくれるような気がした。
その日、私たちは再び“歩き始めた”。
歩きながら、話をしたり、笑ったり。
それは、今の私たちにとって、最も大切なことだった。
悠真と出会い、また一歩を踏み出すこと。
そして、私たちの記憶がどうあれ、
これからの“未来”に向かって、
私たちが進む道が新しく描かれていくのだと信じた。
その夜、私はもう一度歌を口ずさんだ。
少しだけ違った歌詞で。
そして、心の中で囁いた。
「悠真。
何度でも、私たちはこの歌で繋がるよ。」
第八章:新たな歌
朝の光が、教室の窓から差し込む。
その光は、まるで新しい世界の始まりを告げるように、
柔らかく、優しく私を包み込んだ。
悠真は、隣の席に座っている。
目の前に広がる景色、周りの空気、すべてが以前とは少しだけ違っているように感じた。
けれど、その違和感は、今では心地よいものに変わりつつあった。
「ねえ、澪」
悠真が、いつものように少し笑って声をかけてきた。
その笑顔は、やはり昔と変わらない。
ただ、何かが少しずつ“新しい”という感覚があった。
「今日、どこか行こうか?」
私は少し考えた後、答える。
「うん、行こう。…どこか、遠くに」
悠真は嬉しそうに微笑んで、私の手を引いた。
それが、どれほど心強かったか、私はまだ言葉にできなかった。
二人で歩く道のりは、すべてが新しい。
知らない街並み、初めて見る風景。
だけど、不思議とそのすべてが温かくて、怖くなかった。
「ここは、どこだろう?」
私は立ち止まり、目の前の広場を見つめる。
「さあ、僕も覚えていないけど、君と一緒なら、どこでもいい気がする」
悠真の言葉に、私は思わず微笑んだ。
その微笑みが、心の中にあったすべての不安を溶かしていく。
「じゃあ、このまま歩こう。何も考えずに、ただ手を繋いで」
私は悠真の手を、ぎゅっと握りしめた。
その手は、確かに私の手のひらの中で温かく、存在していた。
その後、私たちは街を歩きながら、少しずつお互いの過去について話し始めた。
最初は小さなことから。
好きな食べ物、行きたい場所、見てみたい映画…。
そして、少しずつ深い話へと進んでいった。
「悠真、あなたがあの時言ったこと、覚えてる?」
私はふと、あの日、あの世界の中で悠真に向かって歌った歌のことを思い出していた。
「……ああ、覚えてるよ」
悠真は静かに答える。
そして、少し考えた後、口を開いた。
「でも、それを歌ってくれたことが、僕にとっては本当に大切だったんだ」
その言葉に、私は胸が締め付けられるような気がした。
「だって、君の歌は、僕を支えてくれたから。
君が歌ってくれたことで、僕はずっと君の声を感じていた。
たとえ、それが届かなくても…ずっと、君の歌声を」
その瞬間、私は再び、胸の中で何かが崩れたような気がした。
それでも、それは“痛み”ではなく、むしろ温かい、懐かしい感情だった。
「悠真…」
私の声が震えた。
その言葉に続くものは、ただ一つだけだった。
「ありがとう、悠真。
私、あなたとまた、こうして一緒に歩けることが嬉しいよ」
悠真は優しく私を見つめ、微笑んだ。
「僕もだよ、澪」
その言葉が、すべてを物語っていた。
これまでのすべてが、無駄ではなかったと感じた。
その後、私たちは丘の上に登り、夕焼けを見ながら並んで座った。
それは、以前の私たちには想像できなかった光景だった。
「澪、これからは僕たち、もっといろんな場所に行こう。
一緒に歩いて、色んなことをして、思い出を作ろう」
悠真の言葉に、私はただ頷いた。
その頷きだけで、私たちの未来が確かなものになったような気がした。
「うん、そうしよう。
どんな未来が待っていても、私は悠真と一緒なら、きっと大丈夫だから」
その時、ふと、空に浮かぶ雲が、ひとつの形を作った。
それはまるで、私たちの手を繋ぐ姿のように見えた。
「これからも、ずっと一緒にいよう」
私は悠真にそう言い、再び手を握り直した。
そして、私たちの歩みは、これから先もずっと続いていくのだろう。
それが、私たちの新しい“始まり”だった。
物語はここで終わりを迎えます。
けれど、澪と悠真の歩む道は、決して終わることはない。
これからも、二人だけの歌が続いていく。
第九章:目覚めた世界
悠真と澪が手を繋いで歩くその道は、確かに美しく、輝いていた。しかし、その輝きの裏には、深い闇が隠れていることを、悠真はまだ知らなかった。
彼が目を覚ましたその瞬間から、すべてが変わっていった。
「あれ? ここは…どこだ?」
悠真は目を開けると、見慣れた教室の景色が広がっていた。
ただし、その教室の空気は、以前とはまったく違った。
まるで時間が、すべてのものを引き裂いた後に再生されたような、そんな感覚を覚えた。
それでも、どこかで聞いたことがあるような気がした。
「澪…」
その名前を心の中でつぶやくと、突然、何かが浮かんできた。
「澪、どうして?」
その問いは、自分に向けられているわけではない。
それは、あの頃の記憶が語りかけてくるような、そんな錯覚だった。
数時間前、悠真は目を覚ました。
自分の手が、無意識のうちに澪の手を握っていたことに気づいた時、彼は信じられない思いを抱えた。
今、彼がいる場所が、現実の世界なのか、記憶の中の幻だったのか――その区別がつかなかった。
悠真の記憶の中では、澪が目の前にいて、何度も歌を歌っていた。
その歌声が、彼を引き寄せ、迷わせ、導いてきた。
けれど、少しずつその歌声が薄れていく。
澪が微笑んで歌っていたその瞬間、ふと彼は感じた。
――それが、どこか「遠くからの回想」だったような気がする。
そして、悠真はようやく気づく。
「俺が見ていたのは…もしかして、澪の夢だったのか?」
その瞬間、すべてが理解できた。
この世界で彼が歩んでいた道は、澪が眠り続けている間の夢の中の出来事だったのだ。
第十章:澪の眠り
悠真がふと振り返ると、澪が横たわっている場所が目に入った。
それは、先程まで彼が手を握っていた場所――それが今では、静かな眠りの世界になっている。
「澪…」
悠真はゆっくりとその場所に歩み寄る。
澪の顔は、優しく穏やかで、まるで眠っているだけのように見える。
けれど、悠真は知っていた。
この眠りは、ただの休息ではないことを。
澪の目の前には、彼が見たことのない真っ白な光景が広がっている。
その光景の中には、時折澪の影が漂うが、それ以外は何もない。
悠真は静かに息を呑み、その場に座り込んだ。
今、彼が体験しているのは、澪の「眠りの回想」の中で、悠真が自分を投影した世界だったのだ。
「澪…俺は、君が目覚めるために、ずっとここにいたのか?」
彼は自分の声に、少しだけ震えが混じった。
けれど、それでも彼は澪を見守りながら思った。
「君の夢が、ここに存在している限り、僕は君を支え続ける」
その瞬間、澪の手が微かに動いた。
そして、悠真の目の前に、澪の優しい笑顔が広がった。
「悠真…」
澪の声が、悠真の耳に届いた。
それは、現実と夢の境界が曖昧になっていく中で、彼の心に直接響くように。
「澪、君は、ずっと眠っていたんだね。」
悠真は、今、ようやく理解することができた。
あの世界で彼が過ごした日々のすべては、澪が深い眠りの中で、何度も回想し、繰り返し思い出していたことだった。
「でも、君が目覚める時、僕は君の側にいるよ。
君が本当に目を覚ます時、僕が君を迎えに行くから」
悠真は、澪の手を静かに握りしめ、目を閉じた。
君の『おはよう』が聞こえない世界で、僕はまだ歌っている
sakanaです10000字を超える小説を作るのは初です。結構頑張りました!