始まりはいつも終わりの後に DAY:04
陸上自衛隊を辞めた大門大和は貿易関係の仕事を高校生時代の知人に紹介してもらい、そこで働き始めた。
働き始めてもう一年が経過している。
彼はネクタイを緩めて、煙草に火を付ける。
彼は聡明だった。
知力も高い。
そのための努力だって怠らない。
朝早くから働き、帰りは遅い。
帰れない日だって多い。
もう交際して長い幼馴染ともなかなか連絡が出来ずにいた。
だがそれでも彼は勤勉に働いた。
移動時間には英語や、地政学などを学び、食事中には経済学などの学問を学ぶ。
形だけの休日にはマーケティングなどのセミナーに参加し、それと並行してプログラミング言語の学習も進める。
彼は、仕事と勉強で生活を塗り潰した。
彼は、目を背けたかったのだ。
綾瀬紬生は、彼の知らないうちに自衛隊を退職していた。
一年と半年の段階で、任期終了を待たずしての退職だったようだ。
理由は、夢を叶えられない事が確定したからだ。
彼は元々航空自衛隊希望だった。
某国のエースパイロット養成スクールを描く映画を見てから彼はずっとパイロットを夢見ていた。
航空学生も当然受験していた。
だが、機体の窓から見る景色で機体がどう傾いているかを判断し、適性を測る試験で適性無しと判断された。
航空学生を通らずに航空自衛隊に入隊してもパイロットへの道はかなり狭い。
なれない、と言っても過言ではないだろう。
であればと彼は陸上自衛隊の航空科でヘリのパイロットへと進路を変えた。
だが、それすらも叶わない事がわかり、彼は自衛隊に居続ける事すら諦めてしまったのだ。
そんな事、知りもしなかった。
そんな事も気付きもせずに、一年以上過ごしていた。
彼は今、ファッションデザイン業の見習いとして働いているようだった。
それも、最近知った事だった。
川崎誠は、変わらず連絡が取れていない。
もう、二年になる。
神谷真理は、もう日本にはいないようだ。
合同演習に参加した際に個人でも好成績を残し、本来は許されざる事だが、フランス陸軍参謀より声が掛かり、移籍する運びとなったらしい。
それ以降は、もう知らない。
彼はもう、大門大和の手の届かない所にまで行ってしまった。
いつものように、彼の背を追う事すら、もう出来ない。
その背中は、もう見えもしない。
そんな事すら、彼は知らなかった。
いや知る機会はあった。
神谷真理からは何度か不在着信があった。
綾瀬紬生からは進退で悩んでいる雰囲気は十分に感じられた。
だが、彼は、そこから目を逸らした。
自分のキャリア形成を優先した。
友人たちから、目を逸らした。
もう共にいれる存在ではないと、勝手に拒絶してしまっていた。
その感情に押し潰されそうだった。
だから考える暇を作らないために常に多忙であろうとした。
なんてことはないはずなのだ。
ただ自衛隊時代の同期が、それぞれの人生を進んだだけ。
それを知るのが、ただ少し遅れただけ。
たったそれだけなのに、あの頃常にそばにいたはずの存在が遠くに流れていったような感情になった。
ホテルに戻り、ジャケットを放り投げた。
狭い部屋で、ベッドに腰掛ける。
古いホテルで、喫煙が許可されている。
排気窓を開けて、煙草に火を着ける。
また、扉を振り返った。
そこに川崎誠はいなかった。
今でも、呼びに来るのではないかと考えている。
スマホを操作し、川崎誠へ電話を掛ける。
ずっと、コールが流れた。
ずっと。
ずっと。
だけれど、出はしなかった。
だが、届いてはいるようだ。
留守番電話サービスに繋がった。
通話が掛かってきたことを画面越しに川崎誠は確実に認識していた。
だが、それでも、彼はそれを取りはしなかったのだ。
画面を戻す。
神谷真理と登録された連絡先を開く。
フランスにいるらしいから、向こうはまだ日中だろう。
折り返しをくれるかもしれない。
それこそ留守電でも残そうかと考える。
彼の事だ、フランス陸軍でも活躍しているのだろう。
調子はどうだ、そう、声を掛けるだけだ。
だが、それが彼には、出来なかった。
画面を切り替えて、綾瀬紬生に電話を掛ける。
すぐに出た。
「どったんだい」
軽い、声だった。
しかし奥からミシンのような音が聞こえる。
今も作業中のようだ。
もう、日付も変わる時刻だというのに。
「調子はどうだ」
煙草の煙を吐きながら訪ねる彼に綾瀬紬生はため息を漏らす。
「セッタ?」
「だから?」
「最近、加熱煙草とか多くない? うちも買っちゃったよ」
「……そうか。俺は、いいな。……うち? お前自分の事うちって言ってたか?」
「ううん。違うよ。まあそれも今度話すよ」
少しだけ、拒絶のような雰囲気を感じた。
「ホントにこっちの調子が聞きたいんじゃないんでしょ? どうしたの」
一転、やわらかい口調になる彼は、それ以降口を出さない。
ミシンの音も止まっている。
大門大和が言葉を紡ぐのを待っている。
「……神谷真理と、最近話したか」
「ああ、いや話してはいないよ。凄く忙しいってだけ、この間鬼電したらメールくれてさ」
「鬼電は止めろよあいつ陸軍だぞ。任務中だったらどうする」
「あの子がそんな時にスマホの通知入れてるわけないでしょ。もう半年前くらいの話だけど、竜騎兵っていう部隊に入ったんだって」
聞きながら大門大和は検索する。
フランス陸軍の落下傘連隊、精鋭部隊だ。
彼らしいなと、大門大和はいつからか忘れていた嫉妬心が蘇ったのを感じた。
「実戦経験もしたって言ってたよ。大変そう」
「……そうか」
「……ね」
「あ?」
「疎遠になるの、怖がってる?」
図星、ではない。
ただ関係性が疎遠になることを恐れているわけではない。
ただ同じスタート地点から始まったはずなのに、もうお互いがお互いを認識出来ない位置まで動いている事、それを共有しない関係性に変わってしまった事実、その上で、ただずっと真っすぐ彼だけが進み続けている事に対する嫉妬心。
あらゆる感情が大門大和の心をざわつかせている。
「……馬鹿を言え。今もこうして話してる」
必死の取り繕いだった。
それには何の、意味もなかった。
「……大丈夫だよ。大ちゃん。うちらはずっと、友達だから。皆、大ちゃんが好きだし、大ちゃんだって、みんなが好きでしょ? 神谷真理の事は少し嫌いかもだけど」
「……そんなことは」
「わかるよ。みんなわかってる。神谷真理もわかってたよ。そりゃいつもあんな顔で見てれば、誰だって気付く」
「俺は、どんな顔をしていた」
「苦しそうだったよ。いつも」
「……そうか」
大門大和は、煙草を灰皿に押し付けた。
表情にまで出していた。
それを本人に見せ続けていた。
今思えば、神谷真理は、大門大和とあまり会話をしてはくれていなかったのかもしれない。
そう、思い出した。
「だから、あいつは俺と話したがらなかったのか」
「それは違うよ」
切断するような声だった。
それ以上は許さないといった声。
綾瀬紬生は昔からそうだ。
柔らかそうに見えて、時々棘のような声を出す。
「神谷真理は待っていたんだよ。君が、話してくれることを。だから、君がいつも何かを言いそうになってた時、目を逸らさなかった。いつも目を逸らしていたのは君だよ、大ちゃん」
「……」
「神谷真理はずっと待ってたんだ。君が何で苦しんでるのか、それを話してくれるのを。君の一歩が足りなかったんだ。神谷真理は、君と話したいってずっと言ってたよ。この前のメールにも書いてあった」
「なんて、言ってた」
「後期教育に別れる時、出発するバスの中にいる大ちゃんに神谷真理は敬礼したと言ってた。でも、それに返礼がなかった。一瞬だったからしょうがないと考えているけど、どうしても、その時の敬礼を、下ろせずにいるって」
「……」
そんな事、とっくに彼は忘れていたのに。
欠礼など、あってはならないことをしておいて、それを忘れていたのに。
神谷真理はそれを忘れていなかった。
ずっと、大門大和を待っていたのか。
「そうか」
「多分さ、君を待っているから、神谷真理も身動き取れないんだと思う。落ち着いたらでいいから、メールしたげてね。あ、あんまり仕事ばっかりしたらだめだよ。過労死したら元も子もない」
「そうだな」
「ごめんそろそろ仕事再開しないと」
「邪魔したな。また」
「うん。またね」
通話が切れた。
大門大和はそのまま、連絡帳アプリを操作し、神谷真理を開く。
その画面を見つめて、彼は目頭押さえた。
ホテルのカーペットに一滴の雫が落ちた。
彼は、結局そのままスマホの電源を切った。