あの日々は二度と戻らず
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正義の味方になりたかった訳ではなかった。
ただ彼は不条理や不合理が許せなかった。
ただ彼は、それに抗おうとした。
筋だ仁義だと彼はそう言って、それを胸に戦い続けた。
その思いは十代から既に備わっていた。
それを貫いて、いや、惰性だったのかもしれない、あるいは、退き際を失ったのかもしれない、ともかく、彼はそれを、この期に及んでもまた、辞める事が出来ずにいた。
目の前には無数の死体が転がっている。
いやそれは死体ですらないのかもしれない。
それは、欠片であった。
もはやただの液体になった赤黒い血液だったものに浮くそれは、元は人の血肉だった。
だが、今は細胞同士の繋がりを綺麗に断たれて地面に無数に転がっている。
シュレッダーにかけた上でもう一度シュレッダーにかけたような、徹底的な断裁。
転がっている血肉を眺める。
その一つが、彼を見た。
唯一、形を保っているそれは、人の頭部の上半分ほどだった。
鼻から上しかないそれは、当然ながら生気もない瞳孔が開ききった網膜に彼の姿を反射させている。
虚ろな目が、彼を見ている。
彼も、虚ろな目でそれを見つめ返した。
彼を見つめるその目は、生前と同じように心なしか微笑んでいるように見えた。
生きていた頃に見せた、嫌味らしい、皮肉を込めた、人を子馬鹿にした、もっと言えば見下した小さな笑みだ。
死してなお、彼女は彼にそんな目線を向ける。
彼はその目から目を逸らすようにしてサングラスをかけた。
スポーツサングラス。
普通のサングラスではないのか、市販のよりも若干分厚い。
彼は、顔に付いた血液を拭い取った。
もう一度、転がった顔半分を振り返った。
その顔は、何か言いたげだった。
選択を迫った彼女を拒んだ、彼は、その顔を見下ろすしかなかった。
彼は考える。
彼なら、どうしただろうかと。
数年前、わずか三か月間だけ共に過ごした、恐ろしいまでに歪んだ雰囲気を放っていた彼なら、彼女の問いにどう答えたのだろう。
彼は、選んだのでは、あるいはなかったのかもしれない。
選択肢があるようで、それ以外選ぶ権利を与えられてはいなかった彼は、拒絶する他になかった。
だが彼なら、どうしたのだろう?
一年前に数時間だけ再会したっきりもう連絡すら取り合っていない彼なら。
この期に及んで、彼はまだ、過去を憂いている。
過去に縋っている。
だが、彼はそうするしかなかった。
もうずっと会っていない。
だけれどどこかできっと戦っているはずだと信じて、彼は、生きているかどうかもわからない彼に全てを委ねた。
彼なら、終わりのない戦いを抑え込めるかもしれないと、そう信じて。
彼は体中の返り血を叩き落としていく。
もう乾いているものはどうしようもない。
彼は、体に巻き付けてある防具を外していく。
衝撃で砕けた防具はもうその役割を失っており、もう意味がない。
全てを取り切った彼は、下に着ていたスポーツウェアの袖を捲った。
血に濡れた灰色の迷彩。
同色のハーフパンツにアンダーウェア。
膝下まであるブーツ。
腰に留めてあったキャップを外して被る。
血濡れた指ぬきグローブを放り捨て替える。
そして、腰に左手を当てる。
そこにあったのは、日本刀だった。
二本。
彼は、それを抜くことはせず、ただ遠くを見つめた。
暗澹たる空模様。
煙と砂埃。
風には血が混じり飛んでいる。
その向こうには無数の兵器の陰が見えた。
攻撃ヘリ、戦車、そして、兵士達。
彼らはそれぞれ違う装備だ。
多数の国の兵士達だとわかる。
それらが360度漏らすことなく彼を取り囲むようにして接近している。
彼は選択を迫られた。
永遠に続く戦争の日々か。
一極化した世界大戦後の破滅か。
彼は、前者を選んだ。
不条理を嫌い、不合理を拒絶した彼は、いつかの平和を望んだ。
それは家族との時間かもしれない。
もう戻れないあの日々なのかもしれない。
だがそれを天秤にかけてなお、彼はその日々にはもう戻れない選択を選んだ。
彼は、世界大戦を止める代わりに、世界を制御していた『力』を排除した。
『絶大』ではなく『永遠』を選んでしまった。
それは罪か、罰か。
彼は煙草を取り出した。
火を着け、一気に吸い込む。
兵器や兵士達が、500mの距離で停止した。
空気が、凝固したように張り詰めた。
彼は煙草を左手にとって天に掲げた。
「十全。俺の人生、これで良し」
彼は煙草を天に掲げたまま握りつぶした。
火の粉が舞った。
「疑問。なあ、真理。神谷真理。我が旧友よ。お前なら、俺とは違う道を選んだんだろうか? ……許せ、真理。お前なら、きっとこの永遠を終わらせられる」
彼は日本刀を抜いた。
その顔は、怒ってはいなかった。
だけれど、なのだけれど。
彼のその目には、涙が浮かんでいる気がする。
『夜』は終わらない。
永遠の毒となって世界を駆け巡る。
正義の味方とは程遠い、血塗られた姿となって。