沈む
茹る夏の昼下がりのこと。床に寝転んだ男が浅く息を繰り返している。
ひゅうひゅうと、浅く、鳥の鳴き声より陰鬱な呼吸音は、酷く不気味であった。
男は何度も何度も浅い呼吸で、ただ1人の名前を呟き続ける。
絢、絢と何度も名を呼んで、天井を虚ろな瞳で見つめている。
虚ろで曇った黒瞳に生気はなく、あるのは孤独と執着と救済の意思のみ。そう、男は絢という存在に救済を求めていた。
助けて下さい、助けて下さいと。何度も何度も何度も。
苦悶を含んだ救済の声は、外で鳴く蝉の声よりも耳障りで、人を不快にさせるに違いない。事実、そうであった。
男の家族は男の声を不快だと云った。
男のすること全てが不快なのだと、そう男を睨んでねちねちと文句を延々と云い続けた。
しかし、男は思う。
自身を疎む奴らは、一体どこがどうして自分にうんざりだと云えるのか……と。
男に文句を延々と吐くのは、男の実弟である。
男の実弟はあまりにも最低な人間であった。
定職に就く訳でもなく、家事は女任せと古風を気取った頭の固い愚か者。
家族を食わせている訳でもないのに、偉ぶるその態度は彼の年々と脂肪で膨らむ腹のように醜かった。
しかし、男は軟弱過ぎた。
そんな愚か者の声など耳を貸さなくてもいいと云うのに、いつだって男は弟の声を聴いては心を病む。
兄弟揃ってこうも軟弱で、ここまで堕ちてしまえば仕様がない。男は事実、軟弱な心しか持てない自分を蔑んでいた。
ああ、俺は莫迦だなぁ。どうして、あの愚か者の言葉をいちいち間に受けるのだと。
そう苦笑すれば、仕方ないと誰かが男の頬を撫でた。
「仕方ないよ、だってお前は弱いもの。弱くて、愚かで、気が弱くて、世界の全てが怖いのだから」
ああ、そうだともと男は頬に添えられた手をそっと握り返して、頷き返す。
そうさ、俺は世界そのものが怖いのさ。世界が怖いからこそ、万象全てに怯えて、こうも息苦しい生活を送っているのだよとしゃがれた声で呟いた。
男は云う。罵っておくれ、そうして俺の恐怖を肯定してくれと。
俺の恐怖をその白い手で掬って、取って、識って欲しい。君にならばそうされて構わないと。
男は唯一、今自身の目の前にいる青年だけには畏れなど抱いていなかった。
むしろ青年にあるのは、感謝と崇拝と恋慕の情。ただそれだけだ。
まだ実ったばかりなはずなのに、腐った果実のような、そんな醜さだけが見え隠れしている。
しかし、そこが愛いのだと青年は男を肯定した。
男は白い手で頬を撫でられると、徐々に浅い呼吸が正常に戻っていく。
ひゅうひゅうと浅い呼吸は、ようやく息吹を得る。
ようやく呼吸が出来たと安堵し、頬を緩める男は、最愛の人へと手を伸ばす。
だが、その手はただ天井の灯りを翳すだけ。そこに人の姿はない。
男はまた愛しい青年の名を呼ぶ。
絢、絢と狂ったように彼の名を呼んで、ただただ涙を目尻へと溜めた。
男は目尻から流れる涙の感触を知りつつも、先程から撫でられている心地がする右頬に手を添える。
そうとも、君は俺を肯定してくれ。
そうして俺の名を呼んでくれ。今、俺がこうしているようにと。
また、男の呼吸は擦り切れるように、段々と浅くなっていく。
所詮、男が今出来ることなどこれぐらいだ。
世界を畏れて、周囲に恐怖を抱き、ただ人の目を気にして幻に手を伸ばす。
恐怖で擦り切れて、他愛ない言葉で出来た傷を、勝手に膿ませて、傷んで、放置して、現実と向き合わない。
いいや、それこそが幸せなのだよと男は今ある現実を甘受する。
君とならばそれだけで幸福なのだよ、と途切れ途切れに呟く。
これが男の現実ではあるが、さてこれは他者からすれば如何様な世界か。
幻を見るだけの譫妄患者の見る夢か。
だとすれば、男が中途覚醒の際に垣間見る世界は一体なんだろうか。
その答えなど、どこにもない。
ただ、男は延々と愛しい人の名前を呼んで、意識を鎮めることが幸せなのだから、答えなど用意しようがない。
いや、そもそも答えは不要だ。それでいい。それで終わりだ。
ちょっと突発的ですが、短編を1本程書かせてもらいました。
正直、ただのぼやきなのですぐに消すかもしれません。
本当、妄想って怖いですよね。はたしてこれが現実なのか夢なのかは明言はしませんが。




