「頼れるお姉ちゃん」を捨てた私が、その夜拾ったものは
にゃんにゃん、カリカリ。みゃう、カリカリ。
ぼんやりと覚醒を始めた意識の中でその音を聞く。
──ああ、またやってしまった……
起きたくないな、と少しばかり毛布に後ろ髪を引かれつつ、えいやと勢いをつけて身体を起こす。
案の定というべきか、狭い我が家の寝室の、その隅には見覚えのない木箱があって。
にゃんにゃん、カリカリ。みゃう、カリカリ。
「──猫、ね」
とりあえず鳴いて動き回れるだけの元気がある子だっただけ、今回は良かったと思うことにしよう。
朝から、人生いくつ目になるのか分からないお墓を掘るのは気分が良いものではないし、パッと見て猫だと判明するだけありがたいというものだ。
私はジェシカ、花も恥じらう20歳。3年前にこの副都に出て来て、ドレスメーカーでお針子をしながら暮らしている。
田舎の両親は娘の私から見てもうんざりするほど仲が良く、長女の私を皮切りにドンドコドンドコと子供を作った。可愛がられなかったわけではない、と思う。けれどまあ、こさえた子供たち以上に、お互いのことの方が大事な夫婦だったのだ。弟妹たちは、可愛い。最初は必要に迫られてだったけれど、まあ頼られるのも悪い気分ではなかったし。『ジェシカがいるから助かるわ』と、年がら年中妊婦の母は朗らかに笑った。
洗濯や掃除などの家事をこなし、大鍋いっぱいのご飯を作り。それでも食べ盛りのチビたちは足りない足りないと騒ぎ立てた。途中で席を立ち走り回るチビを諌め、泣くチビを宥め、皿をひっくり返したチビを抱き上げ、床を拭いて。おかわりなんて余裕はないから、自分の食事を差し出した。
「お姉ちゃん、抱っこ」
「お姉ちゃん、これ美味しくない」
「お姉ちゃん、この服着たくない」
「お姉ちゃん、お腹すいた」
「お姉ちゃん、トイレ」
「お姉ちゃんなんか嫌い」
お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん──。
「お姉ちゃんちょっといい? 次の春にね、妹か弟が増えるのよ。うふふ、きっとまたパパに似て可愛いでしょうね。それでね、今のおうちって少し手狭になってきたじゃない? ママ、パパとゆっくりする部屋が欲しくて。だからね、お姉ちゃんにもう少し家賃を入れて貰えれば、今より広いおうちに引っ越せるかなぁって──」
「……あ、そう。分かった」
「まぁ! やっぱりお姉ちゃんは優しくて素敵ね! さすが頼れるお姉ちゃんよ!」
「私、この家出るね。そうすればひとり分の場所、空くでしょう。良かったわね、広くなって。あとは好きにして。さよなら、どうぞ仲良くね」
「えっ、お姉ちゃん?! どうしたの、お姉ちゃんたら!」
駅のホーム、小さなトランクを地面に置いてぐぐっと背中を伸ばす。肺が広がって空気が美味しい。いつだって分刻みのスケジュールで、走りながら買い出しに出るくらいだったから。こんな風に身体を伸ばすことさえ久しぶりだったのだなと改めて気付く。
もう、癇癪を起こす弟妹たちはここにいない。私を「お姉ちゃん」と呼ぶ人はいないのだ。
「お疲れ様でした! お先に失礼しまーす!」
「ジェシカ、お疲れ様ー!」
「今日は飲んで帰るんでしょう? 裏道には入らないように気をつけるのよ!」
「分かってますよう。給料日くらいはパーッと飲みたいですからね!」
自分がジェシカという人間であることを、自分でさえ忘れていたような気がする。飲みすぎてはいけないよ、と。危ない道には気をつけてね、と、当たり前のように心配してくれる職場の先輩たちがいて。
私は幼い弟妹たちを守り世話するだけの「頼れるお姉ちゃん」から、普通の女の子になることが出来たのだと改めて感動を覚えた。
いまだに両親からは、帰って来て欲しいという手紙が送られてくる。私のすぐ下の弟は13歳で騎士見習いになったので早くに家を出ているし、その次の妹はたいそう美人だったので商家の跡取りに見初められ嫁いで行った。思春期真っ盛りの弟妹たちは親の愛情を十分得られなかったせいか反抗期を拗らせ、ろくに家に帰らないらしい──私には手紙が届いているけれど。流石に乳飲み子を放置するほどクズでなかっただけ良かったと言うべきか、ここに来て初めてまともな子育てを経験し、夜も眠れずノイローゼになりかけているのだろう。夫婦の時間が取れないだとか。ストレスで吹き出物が治らないだとか。
知ったこっちゃない、と思う。お前たちがこさえた子供だろうが。産んで終わりじゃないんだぞ。生まれたての子供など、数分目を離しただけで死ぬこともあるのだ。
求められるがまま、お金だけは毎月少しずつ送っている。田舎に帰る気はしないが、幼い弟妹たちを飢えさせたいわけでもないし。手紙でやりとりをしている騎士になった弟も少なくない額の仕送りをしているようだけれど、一体どこに消えていることやら……。
──カラン、カラン
ドアベルが軽やかに鳴る。
「いらっしゃいジェシカ。今月もお疲れ様」
「マスター、いつもの下さい!」
「はいはい、先に少しお腹に入れておきなさいね」
職場と借りている家の間にある小さなバーは、常連たちが集う隠れ家のような店だ。
慣れない仕事にふらふらになりながら迎えた初めての給料日、吸い寄せられるようにして入ったのがきっかけで。私はそれから毎月給料日にはこの店で飲んで帰ることに決めている。
贅沢は出来ないし、これからの将来をどう生きていくのかと不安に思う日もあるけれど──それよりも今のこの自由が嬉しくて。
「──それでぇ、まぁたお金送れとかぁ。それがダメなら帰って来て子供の面倒見るのがおねぇちゃんの役目だろーとかぁ。はぁ? ふざけるのも大概にしろよ、って話じゃないですかぁ」
「うんうん、そうねぇ」
「そもそもおねえちゃんとかぁ、なりたくてなった訳じゃないっつーんですよぉ。自分らで子供つくったんだから、自分らで責任とりなさいよってぇ」
「そうよねえ、その通りだわ」
「ますたぁー、私、弟妹たちを捨ててぇ、こんなに今自由でぇ……最低ですよねぇ」
「そんなことないわよ、ジェシカはジェシカの人生を生きていいのよ」
「うわぁん、マスター!!」
美味しいお酒と、おつまみと、愚痴を聞いてくれる優しいマスターと。
こうやって日々の疲れを癒して、また次の1ヶ月を乗り切るのだ。
自分で稼いだお金を自分の為に使って、自分の時間を自分の為に使って。そんなことでさえ、私は実家を出るまでやったこともなかったのだから。
みゃう!! ガリガリガリ
「ああ、ごめんごめん、待たせたね。お腹空いたの? どこか痛いところはある?」
狭い家だ、数歩歩いて木箱の元へ向かう。
中にいたのは案の定小さな猫で。
「うわぁ、なかなか……」
毛玉のような。ボロ雑巾のような。
「まずは……お風呂ね」
暴れる毛玉を取り押さえ、袖を捲って風呂場へ向かう。猫にも使える石鹸は常備しているし、洗い方とて慣れたものだ。
何故ならこうして私が目覚めた時に見知らぬ猫が家にいるのは初めてではないのだし。
「はいはい、嫌だったわね、ごくろうごくろう。次は病院に行くよ!」
猫をカゴに納め、近所の動物病院へ向かう。
「おう、ジェシカ。またか? ああ──給料日だったもんなぁ。どれ、今回は……ほう、なかなか美人じゃないか。これならすぐに貰い手も見つかるだろ」
「そう、良かった。最初はボロ雑巾より汚かったからどうかと思ったのだけど。洗ったら綺麗になったから良かったわ」
私は酔っ払って帰ると、無意識に落ちているものを拾って帰ってしまう癖があるらしいのだ。
捨て猫はもちろん、道端に捨てられたゴミでも、誰かが落とした財布なんかも何故だかよく遭遇してしまう。勿論ネコババなんてしないけれど、駐在所での手続きは案外時間を食われるので面倒なのだ。だからと言って見て見ぬふりをして良からぬ人に盗まれてしまうのも心が痛むし──結局悩んでも無意識で拾ってしまうのでどうしようもないのだけれど。
まあそんなおかげで動物病院では私は顔が売れている。拾った子を綺麗にして、場合によっては栄養を与えたり、飼い主が見つかるまでの世話をして、しかるべき家に譲り渡すのだ。その前段階として、拾った子の健康状態に問題がないかを診てもらう。後から病気だったと分かったとなれば、再び捨てられてしまう可能性もあるからだ。もう一度私が拾ってやれるならいいけれど、当然ながら私は全ての捨てられた命を拾ってやれるわけではない。そこまで驕ってもいないし、使命感もない。行きつけのバーから自分の家までの間だけ。たまたま出会ったものを、給料日の夜に拾うのだ。
「マスター! いつもの下さい!」
「ジェシカ、いらっしゃい。ひとまず座って」
「はぁぁ、疲れた。もうすぐ社交シーズンでしょう、今が1番忙しいんですよぉ」
「ああ、そうね。王都のドレスショップならもう少し後でしょうけれど。副都じゃ今がピークよね」
マスターは妙に貴族社会に詳しい。上品だし、もしかしたら元々貴族なのかもしれないと思う。私もドレスショップで働く以上貴族令嬢の相手をすることもあるのでそれなりの礼儀作法を学んではいるけれど、やはり平民と貴族では生まれ持ったオーラのようなものが違うのだ。
しかし今こうして小さなバーをやっているのだから、マスターの身にも昔何かがあったのだろう。事情は聞かないし、マスターも話さない。それでいいのだ。私たちはバーのマスターと常連客。それくらいがいいのだ。
ごそごそ、ガサ。──んん……。
微睡の中で物音を聞く。私はまた何かを拾って帰って来てしまったようだ。眠い……けど、起きなきゃ。
えいや、と勢いをつけて身体を起こす。いつものように部屋の隅に目をやると、そこには木箱……ではなくて。団子虫のように丸くなった、小汚い人間が落ちていたのだった。
「──あちゃぁ……」
「……んん……」
寝言? を言っているようだし、生きては、いる。サイズ感と声の感じからして、おそらくは男性。そして何より──めちゃめちゃ臭い。
何度も言うが狭い家だ。数歩歩けば辿り着くそこから漂うのは、路地裏のドブ……腐った食べ物……もしくは汚物……!
「いや、無理だわ。私なんで寝ていられたの」
気付いてしまえばあり得ない。狭いし、古いし、大した家ではないけれども。3年住んでそれなりに愛着もあるし、出来る範囲で丁寧に使い、綺麗に保っている我が城なのだ。汚物を置いておくなど許せない!
「怪我は……大きいものはなさそうね。病院だってこのままじゃ追い返されるわ。となればまずは──洗う!」
「──ン……うえっ?! なっ! えっ! や、や──っ」
本当は触りたくもないが、そもそもコレをどこかから拾って来たのはまず間違いなく私なのだ。拾って来てしまったからには責任は取らねばなるまい。
ご飯の後にはしゃぎ回って遊び、吐き戻した弟の面倒をみたこともあるじゃないの。赤子の世話だって汚物と吐瀉物はつきものだ。時折拾って来てしまうゴミの中には、ドブ臭い物だって沢山あったし。大丈夫。慣れてる。私なら出来る!
抵抗する男の汚い服を遠慮なく剥ぎ取り、丸裸にすると風呂場の中に押し込んだ。実家では弟妹たちを流れ作業のように洗っていたため、ゆっくりひとりで風呂に入ることなど皆無だった。だからこそこだわったポイントであるこの家の風呂は、拾って来た犬猫を洗うのにも大活躍を見せた。まさか色っぽさも何もなく、大人の男を迎え入れるとは思わなかったけれど。
「石鹸は……犬用でもいいか」
「おいっ、なにっ、さわ──」
「ん、猫用の方がいいです?」
「え、や……じゃあ……犬……?」
「犬ね! はいじゃあ目閉じててー」
脂ぎった髪の毛はくすんだ茶色かと思いきや、3回洗うとそれはそれは美しい金髪であった。黒ずんで汚れた肌は磨くと白くなり、しなやかな筋肉を纏っていることも分かる。ところどころ痣や傷があり、赤青黄色と色とりどりなのが痛々しい。幸いにも命に関わりそうな大怪我は見えないが、こけた頬と衰弱した様子からして満足な食事は取れていなかったことだろう。そうでなければこうして大人しく洗われてもくれなかったろうが。身体の前面を洗う時は流石のジェシカも躊躇した。男の裸は弟たちで見慣れているとはいえ、この男は20代も半ばから30の間くらいの歳だろう。汚い時は気にならなかったが、顔を洗ってしまえば美しい金髪に加えて顔の造作まで美しい。閉じられた瞼は緩くカーブした金のまつ毛に縁取られ、すっと通った鼻筋に薄めの唇。きりりとした眉が甘い印象を引き締めている。目の下の隈でさえ気怠げな印象はセクシーとも言え、そんな男を裸に剥いて好き勝手に洗い倒していることに今更心臓がどきりと跳ねる。
──でも! 拾ってきたからには責任を持って世話してやらないと!
お姉ちゃんモードが発動したジェシカは強い。10kgを超えた弟が新鮮な魚のようにビチビチと跳ねようが、小脇に抱えて走ることができたし。ギャーギャーとうるさい時には気合を込めた「しっ!」の一言で黙らせることも可能だ。
後から考えれば自分で出来る部分は自分でやらせても良かったのではと思わないでもなかったが、裸に剥いた時以外は大人しく洗われていたあの様子からして普段から世話をされることに慣れている立場だったのだろうと思う。
おそらくは、貴族。それも特大の訳アリだ。そうでなければあんな痣だらけで衰弱したところをジェシカに拾われるわけがないのだから。
「──うまく飼い主が見つかるといいけれど」
ジェシカは酔うと色々なものを拾って帰るが、それらは大概数日のうちに新しい貰い手の元に旅立っていく。ゴミは分別して焼いたり回収に出し、貴重品は駐在所に届けて、猫は手入れをして里親の元へ。
これまでに数匹、どうしても貰い手が決まらずジェシカ自身で飼った猫もいたが、その子たちはもれなく病気や怪我を抱えていた。だからこそ貰い手がつかなかったのだし、精一杯愛情を込めて世話をしたけれども長くはもたずに女神の元へ帰っていってしまった。意味があるのかは分からない。けれど、道端で誰にも見向きもされずに消え行くよりは、最期に抱きしめて愛しているよと伝えながら、この世界の素敵なところも教えてあげたいと思ったのだ。もしかしたら、ジェシカ自身が誰よりもそうして貰いたかったのかもしれないけれど。
ジェシカには親に抱きしめられた記憶がない。幼い弟妹たちの世話をして褒めてもらってからは、ただそのためだけに頑張ってきた気もする。偉いね、助かるわ、と。さすがお姉ちゃんね──と。頼られ褒められることはあっても、どこか皆それを当然だと思っている節もあった。風邪気味で体調が悪くても誰も気付いてはくれなかったし、大事にしていたハンカチを妹が欲しがった時には「お姉ちゃんなんだから譲ってあげて」と窘められた。1番最初に生まれたというだけで。ただそれだけで、ケーキの上のイチゴも、温かなお風呂のお湯も、諦めて生きてきたのだ。全員が入り終わった後の残りわずかな冷めた湯で頭を洗い、余計に冷えた身体で風呂掃除をする侘しさを誰か知っていたのだろうか? 頼られるのが嫌いなわけではない。元来世話焼きな気質なのだろうし、あるべきものがあるべき場所に収まるのは気持ちがいい。ただ──私にも、寄りかかれる場所が欲しかった。いつでも「頼れるお姉ちゃん」であった私には、「頼れる誰か」がいなかった。
あの家を出て初めて、職場の先輩や上司、そして行きつけのバーのマスターや常連客のおじさま方など、愚痴を言ったりわがままを言ったり、そういうことができる相手に出会えたのだ。
弱くなったのかもしれない。でも──気付いてしまったらもう、ひとりで背負うには荷が勝ちすぎた。
「──僕を捨てるのかい?」
「……え?」
「新しい主を探そうとしているのだろう?」
「え、ええ、まあ。貴方なら自分でも見つけられそうだけど」
「……それなりに利用価値のある血筋だと思うよ。5ヶ国語は話せるし、他国にも顔が利くしね。まあ……それでもこうして捨てられたんだけど」
はは、と笑う男の顔はこの街では見たこともないほど綺麗だ。それなのに、そのどこか諦めたような笑みは少しも惹かれるところがなくて。
「──貴方みたいな人に、私との暮らしは合わないだろうと思ったのだけど」
「もしかして僕のために……?」
「ええ、貴方って、着替えもお風呂も手伝って貰える立場の人でしょう? 私は見ての通り平民だし、まあ仕事は順調だけれど貴方が今まで食べてきたような豪華な食事は出せないわ。拾って来てしまった責任があるから、怪我が治るまで面倒をみるつもりはあるけれど……あとは元来たところに戻るか、貴方のその利用価値を理解してくれる場所に行った方がいいのでは?」
ジェシカがそう告げると、男はしばしその美しい瞳を丸く見開いた後、花が咲いたように笑った。
「──僕は、君がいいな」
アレンズワースと名乗った男は、なんと隣国の公爵子息であったらしい。さらに驚くことには王太女の婚約者であり、未来の王配となる立場であったそうだ。スケールがデカすぎてジェシカにはちょっと意味が分からなかった。
そんなノーブルでファビュラスなお方がなぜ汚物の臭いを漂わせていたかといえば、その王女様にパーティの場で婚約破棄されて国外追放を言い渡されたのだとか。曰く、王女様は自身の護衛騎士とやんごとない関係になり、また国内でも有数の権力を持つアレンズワースの実家が気に入らなかったとか。だったら最初から婚約などしなければいいのに……。
国外追放はもちろん冤罪によるものであったが、狙ったかのように国王やアレンズワースの両親が不在の時を狙われた為に逃げることができなかったらしい。また、彼自身も睡眠時間を削ってまで王女の仕事を押し付けられる生活に疲れ果て、逃げ出せるものならそれでもいいと思ったのだとか。ただ計算外だったのは、捨てられる際に王女の浮気相手である護衛騎士から手酷い暴力を受け、またそれ以前から蓄積していた疲労により気絶して倒れてしまったことだ。寝ている間に仕立ての良い服や貴金属は軒並み強奪され、そうなってしまうと坂を転げ落ちるようにノーブルでファビュラスな公爵子息は道端の汚物に成り果てたのだ。
で、ジェシカに拾われた、と。
「そもそも国外追放ってなんなのよ。よその国をゴミ捨て場みたいに言わないで欲しいわ。お貴族様なんて放っておいたら遅かれ早かれ死ぬのだろうし、死体を処理するのだって手間もお金もかかるじゃない。自分の国の問題は自分の国で始末して欲しいんだけど」
「──まぁ、概ね賛同するけれど。なんだか複雑だね……? 死体になる前にジェシカに拾われた僕の幸運を神に感謝すればいいのかな……?」
「アレンが幸運だと思ってくれるなら私はそれで良いけど。で、お風呂先入る? ご飯?」
「ん、ご飯にしようか。手伝うよ」
アレンズワースは確かに優秀だった。ご自慢の外国語を使う場面などここでは全くないが、怪我が良くなりある程度動けるようになると家事を手伝うようになり、あっという間にものにした。元来手先が器用なのだろう。ジェシカが仕事から帰ると部屋が掃除されており、温かなご飯が出来ているし、なんなら清潔な風呂にお湯も沸かしてある。「背中洗おうか?」とまで言ってくる、その姿には幻の耳とブンブン振られる尻尾まで見える気がする。犬か。犬だったのか。
すっかり怪我が治ると、ふらりと出かけたかと思えば働き口をあっさり決めて来て、生活費と称した金もきっちり渡してくるようになった。
白かった肌は日に焼けて、肌は細かな傷だらけになっていく。元々しなやかな筋肉を纏ってはいたが、それが街の労働者たちと同じようにさらに逞しい体躯に変わっていって。感情を見せない穏やかな微笑みは、白い歯を輝かせて快活に笑う明るい表情へと変わった。
元々輝く金髪に美しい顔をした男だったのだ。突然街に現れた美男子に年頃の女たちはこぞって秋波を送ったが、そんな時ばかりはかつての穏やかな微笑みを繰り出し、鮮やかな手並みでやり過ごしていた。曰く副都の娘ごとき「あの頃の貴族令嬢達に比べれば全然マシ」なんだそうだ。
アレンズワースの服はジェシカが縫った。初めてそれを渡した時に、彼はびっくりするくらい泣いた。ちょっと引くぐらい泣いていた。ノーブルでファビュラスな出身なのだから、それまで着ていた服など全部がオートクチュールだっただろうに。ジェシカが縫ったのは普通の庶民服だ。飾りも刺繍も特にない、そこら辺にある木綿の生地の。
嬉しい、ありがとう、一生の宝にすると。そう言ってぎゅうっと抱きしめられた時、ジェシカも何故か一生の宝を貰ったような気持ちになった。
ジェシカの家は広くない。リビングの他には、寝室がひとつあるだけだ。
ここでの暮らしを始めた時に買ったシングルベッドはいつのまにかダブルベッドに代わり、ますます部屋が狭くなった。少し文句を言ったら「ジェシカは狭いベッドでくっついて寝る方が好みだった?」と怪しげに微笑まれたので、その日はわざと広いベッドの中心で大の字になって寝てやった。「抱きしめてくれるのかい」などと言って上に重なって来たので流石に重さでオエッとなった。許すまじ。
「マスター! いつもの下さい!!」
「あらジェシカ、いらっしゃい。ちょっと待っててね」
「はぁーっ、これこれ。聞いてくださいよマスター、新しく入って来た若い子がめちゃめちゃ生意気で! やることやらないくせに文句ばっかり言うんです!」
「まあ、それはそれは。若い時の万能感みたいなのってあるわよねぇ」
「こっちは気ぃつかって優しく注意してるのに、オバさんこわぁい! とか言って来て! 私まだ21歳よ!」
「ジェシカでおばさんなら私なんて妖怪よねぇ」
「マスターは美人ですっ!」
「あらあら嬉しいわぁ」
──カラン、カラン
ドアベルが軽やかに鳴る。
「マスター、今晩は。ご迷惑をおかけしてすみませんね。引き取ります」
「まあ、迷惑なんてちっともよ。貴方も一緒に飲んで行ったらいいのに」
「いえ、ジェシカにはマスターと飲むこの時間も大事でしょうから。僕はこれ以上他のものを拾わないように見守るだけですよ」
「うふふ、ジェシカったらなんでも拾って帰っちゃうものね。責任感のある素敵な子だから」
「責任感……だけじゃないといいな、とは思いますけれど。では、また」
「はぁい、またのお越しを」
カランカランと扉が閉まる。
「あ、あそこ! 見てアレンー」
「ん? ジェシカ、また何か見つけたの?」
「うん、ほら、あそこー。かわいそうに、捨てられたのかな? おいでおいでー、うちにおいで。おねえちゃんが助けてあげるからねえ」
「お姉ちゃん……ね。分かった、この子は連れて帰ろうか。僕が運ぶから、ジェシカは腕に掴まっておいで」
「わぁい、ありがとアレン!」
ジェシカは給料日の夜に、何かを拾う。それはゴミだったり、誰かの落とし物であったり。
アレンズワースはこっそりと、拾われた子猫にも嫉妬する。どんなに頼んでも、ジェシカはなかなか一緒にお風呂に入ってはくれないのだ。犬用の石鹸でも良いから、また丸洗いされたいのに。子猫は洗ってもらえるからずるいと思う。
虎視眈々と機会を狙いつつ、アレンズワースは子猫の里親を必死で探す。まだ、2人の時間を邪魔されたくはないからだ。彼女は自分の、唯一の主。
彼女が余計なものを拾わない為に、この街の環境を整えるのもいいかもしれないな……などと思う。それが本当に出来てしまうのも、この元ノーブルでファビュラスな男なのである。
「さあジェシカ、水を飲んで。片付けはやっておくから、先に横になっていて」
「はぁい、おやすみい」
「──かわいいなぁ、本当に」
はぁ、と漏れるため息は熱い。
「これは明日駐在所に届けるとして、こっちのゴミは処分していいな。ああ──ついでにこの手紙も燃やしてしまおうかな」
笑いながら便箋を焼却炉に放り込む。
ジェシカが両親に煩わされることは、もう2度とないだろう。
拾ったばかりの子猫を洗うのは良くないとのご指摘をいただいております。作者は猫を飼った経験がなく、そのあたりの知識がございませんでした。
流れに影響する為内容の変更は致しませんが、せっかく異世界恋愛ジャンルということで執筆しましたので
「異世界の猫は地球の猫と生態が違う」もしくは「子猫を弱らせない為の不思議アイテムが存在する」等と読み流していただければ幸いです。
現実世界で猫を拾った際は是非専門家に指示を仰いでいただければと思います。
ご意見ご感想は楽しく拝見しております。
お読みいただきありがとうございました!