2日目
「――すみませんでした」
男はみすぼらしく謝る。しょうもない人間にだ。だが、男が生きていく為にはそうするしかなった。気味が悪い程スムーズに謝れたのは、この会社が男の精根を歪み殺してしまったせいであろう。
何も出来ない。何もしようとしない。威張ってばかりいるこの給料泥棒、大卒の老人に、男は為す術もなく頭を下げている。
周りは我関せずと見向きもせず、はたまた嘲笑っている。この職場はまるで昔のクラスのようだ。勉強して、イジメにあって、勉強して、イジメにあって、果てには引き籠った。父親はおらず、母親は現を抜かしてばかりいる。男に親戚はいるのだろう、その中に手を差し伸べてくれる救世主もいるのだろう。だが、男はそれらに一度も会ったことはない。
負け犬。クズ。社会の歯車にも成れぬカス。故に、この男には相応しい名誉だった。
(なんで俺がこんなこと言われなきゃならないんだクソ死ね全員通り魔にぐちゃぐちゃに殺されればいいんだよ!)
男はデスクに戻ると只管に呪う。しかしそれは顔には出ないし、出せない。みっともなく虚な顔でパソコンの画面を見ることしかできかった。
「ぁ」
ブルーライトが男を汚く照らす中、動かすマウスの真横に無言で書類の束を置いてきた。男は何も言えず、相手はそのまま奥に消えていく。休憩の時間だからだ。だが、男はそのまま作業を続ける。いつもの光景だ。自分だけ除け者にするくせに事務作業だけは擦り付けてくる。
馬鹿みたいだ。所詮相手も人間。いつでも酷く殺せる。何故どいつもこいつも背中を刺されないと慢心し、己よりも弱い者を虐めるのか。それは法律という、曖昧だが強固なる加害者が味方してくれていると思い込んでいるからだ。
法律の片側はこういう弱者を縛り、嬲らせていき、結果他人に殺害させる犯罪者。もう一方は救世主、しかし、男を救うのには力不足な出来損ない。
誰も助けてくれない見てくれない興味も持たない近寄らない。無残な死の後、漸く関心を持たれるのだ。生きている間には関わろうとしなかったくせに、死んだ途端に理解者、保護者、あるいは聖人に成り下がる。この世には馬鹿とクズしかいないのだ。
そんな男は下らぬ、価値のない腹を鳴らしながら、その場で一人作業を続ける。今日も残業だろう。現代において絶滅危惧種と思っていたブラック企業は未だに根を張り、竹のように増えている。
気色悪いと感じながら、誰も居ないので少し、ネットサーフィンをしてみることした。このぐらいの温情は貰えるべきだろう。今年の新作アニメ、新曲、上映中の映画、それらの新鮮さを伴う風は男の心には響かない。何もかもだ。
「何もねぇな、クソつまんねぇモン出してんじゃねえぞ……」
ボソボソと呟きながら薄汚れた目でオアシスを求めている最中、検索結果の一番上、男の心情を見透かしていたかのように オアシス というサイト名が挙がった。その下記には安い広告のような文がつらつらと書かれていたが、一文、男の目に止まる。
(死こそアピール……ふっ、なんだこれ。死にたがりか? 面倒くせぇ。さっさと死ねや)
思わず笑ってしまいそうになった男は、誰も居ないのに辺りを静かに見回す。相変わらず閑散とした空気だと感じながら、なんとなくクリックした。
「貴方は海岸で救助を待つ負け虫です! 痛みを常に他人の懐に忍ばせる貴方は負け犬です! 死ね! 死ね! 親の顔を剥ぎ取りながら宇宙の水溜りで飛び跳ねましょう!」
虹色の点滅と爆音が流れる。男は体の中心から氷水が湧き出すような感覚を覚えながら急いでサイトを閉じるが止まらない。爆音が止まらない。男は腰を浮かせながらボリュームをゼロにした。
――響く心音。吹き出す冷や汗。荒くなる息。
何も考えられない。どうしようか、もし誰かに聞かれていたら。それこそ殺すしかない。いや、それよりもウイルスだろうか。どうしようか、もし社内機密が漏れ出したら。それこそ殺すしかない。殺すしかない。殺すしかない殺すしかない殺すしか殺すしか。
「おい! なんださっきの声は!? ――お前かぁっ!! このクズが、何やってんだ!!」
「ぁ」
しょうもない老人がやって来て怒鳴る。男は静かに、近づいていく。
「何やってんだってこっちは聞いてんだよ、頭じゃなく耳が悪いのか? このクズが!!」
「ぁ」
男は静かに老人の目の前に立つと、唾を飛ばされながら叫ばれる。
「クビにするぞこの――」
「ぁ」
男は静かに老人の首を両手で絞める。体格では男に勝てず喘ぎ苦しむ。壁に押し付けられた頭に付属する顔がみるみる赤くなっていき、足のばたつきも収まっていく。しかし、男は突然右手だけを離すと、殴りつける。
老人は己の顔を守るように手で覆うが、その手ごと殴りつける。こちらに跳ね返ってくる顔を何度も何度も何度も殴りつける。
目が腫れ始め、歯は折れ、額は切れ。
目は潰れ、歯は無くなり、額はひしゃげ、老人は既に動かず。
「ぁ」
――男は歪な自身の手を見ながら何も言わず、そのまま奥に消えていった。
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爽やかな山々。優しく包み込む清涼な風。鳥のさえずりが心地よい。ここは静岡県の達磨山だ。人は居ないが、その分自然を楽しめる。舗装された道もあって登りやすい。
――血だらけの、男にとって。
落ち葉が川に流れていくように、男はナニカを目指して歩いてきた。絶叫も、悲鳴も、野次馬すら相手にせず、只管にだ。
半透明な男は、他人の血を浴びてこの世に顕現した。暫くは全国民の記憶に留まれるだろうか。最後に、最期に想ってくれるのならば、安心して法律に中指を立てられる。男は完全なる社会の除け者に成り上がるのか、それとも、可愛そうな人間として成り下がるのか、それは "この場所" に託された。
「ぁ はは は」
目の前の更地には、竹で作られた流しそうめん台。螺旋を描いている。真下には一つの墓石。
それを見ると、頭から幸福感と割れるほどの安堵感が勢いよく湧き出してくる。こんな幸せな日は一度も無かった、生きていてよかったと思える日は、一度も無かった。
男はゆらりゆらりと近づいてゆき、墓石に手を置くと裏を覗き込んだ。そこには丸い赤のボタンがある。押せば碌でもない事が起こるだろう。だが、もう、しかし、耐えられない。どんな制欲にも当てはまらない苦しみが一生襲う、押さなければ。押せ。押せ押せ押せ押せ押せ押せ押せ押せ押せ押せ押せ。
「は ぁ ぁ あ」
勢いよく押し込んだ。
――男の姿も尊厳も消え、後に残ったのは、流れ出る血・尿・脳髄と新鮮な腸だけだった。
《生き流しそうめん》 euclid
丁度いい息抜きになりました。
© 2021 風ビン小僧