菜の花畑
菜の花畑
星野☆明美
プロローグ
それは昭和の半ば頃。まだ住宅がそんなにいっぱい建ってなくて、ほとんどが田畑が広がっていた頃。
「藤崎の方に行っちゃいかんよ」
ある日。お母さんが幼い弟の世話をしながら、みさとに言いました。
「えー?なんで」
「なーんもない所だから、妖怪やら何やら出てきて悪さするかもしれん」
「なーんもない所だから?」
「そう」
「ふうん」
みさとはたてつけの悪い木造の一軒家の表に出ると、庭に放し飼いにしてあるニワトリとヒヨコたちをしばらく眺めていました。
スズメがこぼれている粟の実を拾って食べています。
太陽の光がぽかぽか照って、とても良い小春日和でした。
「みさとちゃーん、あーそーぼー」
幼稚園で一緒の子が少し離れた家からはるばる歩いて遊びに来ました。
「うん。りかちゃん。よくきたねー」
二人はくすくす笑いました。
「台所になにかあったかもしれない」
「わー」
二人は土間に靴を脱いで家にあがると、冷蔵庫からカルピスの瓶を出してきて、グラスに注ぎ、水と氷で割ってかき混ぜました。
「縁側で飲もう」
日当たりの良いところに座って、足をぶらぶらさせて、カルピスをごくごく飲みました。
「おかわり」
「私も」
台所にとって返すと、いつのまにかお母さんがいて、豆を湯がいていました。
「何杯目?」
お母さんに聞かれて、二人は右手の指を一本か二本あやふやにたてました。
お母さんは首を横に振りました。
「けちー」
「けちじゃありません。お腹こわすでしょ!」
みさとはぶうぶう言いながら、りかちゃんと家のなかを横切って自分の部屋に行き、虫かごと捕虫網を持って外へ出ました。
「あんまり遠くへ行っちゃだめよー」
お母さんの声が響きました。みさとは舌をべーっと出して、りかちゃんと庭で遊んでいました。
1☆お父さんとスズメ
みさとのお父さんは魚市場で働いていました。毎朝暗いうちから家を出て市場へ行き、昼前に家に帰ってきます。
だから、みさとの家ではお肉より魚料理方が圧倒的に多かったのです。
お父さんは、近所を流れる白川に仕掛けをしてカニを捕ったりいつもいろんなことをしていました。
「みさと。スズメを捕まえようか?」
「どうやって?」
お父さんは庭に小さな穴を掘りました。その穴の四方に赤レンガを立てて置いて、木の棒をレンガで挟んで斜めに置きました。穴の周囲にセキセイインコの餌をまいて、このくらいかな?と首をかしげました。
「みさと。この棒にスズメが留まると、棒が下に落ちて、上からレンガが蓋になる」
「ふーん。でももっと穴を深く掘った方が良いよ」
「このくらいが良い。逃げられないから」
みさとは穴が小さすぎると何回か言いましたが、お父さんはいいのいいのと言って聞きませんでした。
翌朝。
みさとが見ている前でお父さんは倒れたレンガの下に手を入れて、顔をしかめました。
「しまった。穴が小さすぎてつぶれて死んでる」
「やっぱり!」
みさとは泣きそうになりました。
「このスズメはかわいそうだったね。埋めてお墓をつくってやろう」
冷たくなったなきがらをお父さんは庭の隅に埋めて、かまぼこの板に「スズメのはか」と書いて立てました。
「今度は失敗しないからな」
そう言って、お父さんは穴を深く掘って仕掛けを作り直しました。
その翌朝。
果たして今度はちゃんとスズメが捕まりました。お父さんとみさとは大喜びで鳥かごにそのスズメを入れました。
「みさと。あれはまだ子どもだからわなに引っ掛かったんだよ」
少し離れて見ていると、親鳥らしいスズメが心配して鳥かごの周りをうろうろしていました。
「放してやろうな」
「うん」
「お父さんは凄いだろ?」
「んー」
みさとの髪をくしゃくしゃ手でかき混ぜて、お父さんは家のなかへ入って行きました。
2☆黄色い動くもの
朝からお母さんがニワトリ小屋を掃除して、餌やりをしていました。
みさとはコケコケ言っているニワトリの親を避けて、ピヨピヨ言っているヒヨコたちをじっと見ていました。
お母さんは台所に行って、ガラス製のレモン絞りに水をくんで戻ってきました。
「あっ!」
みさとは思わず目撃してしまいました。
「お母さん、ヒヨコ一匹足りないよ」
「あら本当?どこ行った」
「そこ」
レモン絞りの真ん中の部分を見ると、中でなにかがうごめいています。それは黄色いものでした。
「まさか」
お母さんがレモン絞りを持ち上げると、中に入っていたヒヨコが一目散に逃げていきました。
「この入れ物は水入れに良いと思ったんだけどなぁ」
とお母さんは何度も言っていました。
3☆錦鯉
みさとの住む家は借家でしたが、家の裏にお金持ちの家がありました。庭の池に錦鯉が泳いでいて、枝振りの良い松の木が植えてありました。
みさとは普段、錦鯉には興味はありませんでしたが、その日は違いました。
「なんで小川や白川や田んぼの魚は網ですくってもいいのに、錦鯉は違うんだろう」
どうしてもその疑問が離れず、みさとは持っていた捕虫網で錦鯉をすくいあげました。
「こらー!」
そこの家のおじさんが雷みたいな声で怒鳴りました。
「鯉を池に戻して!それから、おうちの人を呼んできなさい!」
みさとは言われた通りにしました。
「全く!とんでもないことをして!この錦鯉はいくらするか知っとるか?」
みさとは首を横に振りました。
「すみませんすみません」
お母さんが所在無げに謝り続けました。
「今度から家の敷地には入らせん!」
なぜこんなことをしてしまったのか、みさと自身よくわかりませんでした。
4☆観察
雨の日にコンクリートブロックのところをカタツムリが何匹もはっていました。
「これどこから来たんだろう?」
みさとはでっかいカタツムリを一匹捕まえると、手に持ったまま家に帰って、出迎えたお母さんに虫かごを持ってきてもらって、中に入れました。
「これ、どうしたの?」
「塀にいっぱいいた」
「いっぱいいた?!」
「うん。これ、何食べるの?」
「そうねぇ」
お母さんはキャベツをちぎって水で洗うとそのままみさとにくれました。
透明なプラスチック製の虫かごの中をカタツムリがヌメヌメとはっていきます。すぐに濡れたキャベツにくっついて、葉を食べ始めました。
「口だ」
みさとは不思議そうにキャベツをカタツムリが食べる様子を眺めていました。
「お母さん!なんでこんなになってるの?」
「なんでだろうねぇ」
この前は葉っぱをちぎっていくと最後に筆のようになる植物を虫かご一杯に入れて、緑色に光るカナブンを捕まるだけ捕まえて放り込んでいたけれど、葉っぱはあらかた食べつくされて虫のフンだらけになってから「お母さんこれ!」とみさとは持っていったのです。
お母さんは内心泣きそうでした。「虫は逃してあげなさい。虫かごは洗ったけれどキレイにならなかったよ」
「うん」
みさとはこうしていろんな生き物を観察しながら過ごしていました。
「みさと」
「何?」
「オケラがいるよ」
「オケラ?」
あんまり興味ありません。そんなのもありました。そのときはお母さんの方が面白がって、「オケラはお父さんのはこれくらい、これくらい、ってするのよ」と笑いながら言っていました。みさとにその意味がわかったのはだいぶ後のことでした。
5☆菜の花畑
「あーそーぼー」
みさとがカナブンを観察するのに熱中していたら、女の子の声がしました。
「えっ?誰」
知らない女の子が立っていました。おかっぱの髪型で色白で、どこかで会ったことがあるようなないような、不思議な感じの女の子でした。
「菜の花畑に行こう!迷路みたいになってる所知ってるんだ」
「迷路?面白そう。行く」
みさとは女の子と並んで歩いて行きました。
「私、みさと」
「知ってる」
「あなたは名前なに?」
「みーちゃん」
「みーちゃん?」
みさとは思わず苦笑しました。
「なんで私のこと知ってるの?」
「いつも見てるから」
「ふうん」
そりゃ知らなかった、とみさとは思いました。
「こっち、藤崎の方じゃない?」
「うん」
「お母さんが危ないから行くなって言ってた」
「危なくないよ」
みーちゃんはこともなげに言いました。それで、みさとはみーちゃんと歩き続けました。
「うわあ」
一面の黄色い花畑。本当にあったんだ!みさとは息をのみました。
「菜種油を採るために栽培してあるんだけど、私たちより菜の花の方が背が高いでしょ」
みーちゃんがにんまり笑いました。
「ここで鬼ごっこしよう!みさとちゃんが鬼」
「えー」
みーちゃんはあっという間に菜の花畑に飛び込んで行きました。
「待って!」
みさとはみーちゃんを追いかけました。
土と花の匂いが鼻をくすぐりました。モンシロチョウやミツバチが飛んでいます。
横に一列に植えてある菜の花をくぐり抜けて次の一列の前に出ましたが、みーちゃんの姿は見えません。
「みーちゃん!どこ?」
「こっち、こっち」
遠くで声がします。みさとはどんどん進んで行きました。
どぼん。
何が起こったのか一瞬わかりませんでした。みさとは水路に落ちて、溺れそうになりました。
もうだめだ。
そう思ったとき、偶然近くにいた農家のおじさんがみさとを引き上げました。
「大丈夫か?」
「みーちゃん、みーちゃんが・・・」
がたがた震えているみさとを上着で包んで、おじさんはみさとを家まで送ってくれました。
「だから言ったでしょう」
お母さんは怒りながら涙ぐんでいました。
「世の中には得体の知れないのがいるから、気を付けないと」
「うん」
みさとは神妙に聞きました。
本当にそんな時代があったのでした。
おしまい