【一日目深夜】マンション最上階 その②
誰も口をつけなかったグラス。中の液体はシンクを流れていく。後を追うように泡立った水が駆け抜けた。
ウィザードは水を止め、タオルで手を拭う。白いクロスを取り、丁寧に磨いていく。耳に心地の良い音がリビングまで響いた。リビングの明かりはすでに落とされ、ウィザードのいるダイニングキッチンだけが白い光に照らされる。
もう一つのグラスを手に取り同じように磨く。食洗器が完備されておりハウスキーパーとの契約もある為、本来ならばこのような雑務をウィザードが行う必要は無かった。それでも時折こうしてグラスを磨くのは、戯れに楽器を奏でる気分に等しい。これもまた豊かさとウィザードは目を細めた。
磨き終えたグラスは冷蔵庫へしまわれる。中は食品よりも薬の瓶や栓のなされた試験管が多く収められていた。家主の事を知らない人が見れば清潔感と不気味さの調和にぞくりとするだろう。もちろん、生鮮食品と共に保管しても問題ないと判断された物だけしかない。それでもなお、一抹の不安を抱かせるには十分な光景であった。
片付けを終えたウィザードが廊下へ出てすぐ左にある部屋へと移動する。
そこは彼の私室であった。パソコンの置かれたデスク。現代的な機能性を持ちながらも自己主張を抑えたキャスター付きチェアー。部屋の三方にはガラス戸のついた棚がそれぞれ置かれており、薬品、医学書、カルテなどが整然と並んでいた。一部のガラスはすりガラスで鍵も取り付けられており、中の様子は窺えない。棚の引き出しも同じように鍵がついている箇所もあり、その中身はウィザードしか知りえなかった。
チェアーの上に清潔な白衣が畳んでおいてある。ウィザードは現在着用している白衣を脱ぎ、着替えを行う。見た目に大きな変わりは無い。だが彼の表情には人間味のある変化が生じた。纏う穏やかさはそのままに、胸の内から溢れる歓喜に口元を歪ませ、瞳の奥には仄暗い欲望が燃えている。
どこの国の言語ともつかない鼻歌を奏でながら白衣の襟を正す。我ながら子供じみた喜び方だと自嘲しつつ部屋を出る。扉の開閉と共に歌は途切れた。
私室の向かいにある扉は一見して私室の扉とほとんど変わらない。決定的な違いとして三重の鍵が取り付けられていることだろう。ウィザードはまず、スラックスから取り出した銀色の鍵で扉本来の鍵を解除する。次にドアノブ上に取り付けられたテンキーへ暗証番号を入力し、壁際のパネルに右手をかざす。
認証クリア。ドアノブは不躾なほど大きな音を上げ、それとは対照的に扉は音も無く開く。途端に頭の芯まで痺れそうな甘いにおいが暖かい風にのって押し寄せる。ウィザードは躊躇うことなく歩を進め、においを閉じ込めるように扉を閉めた。
カチャリと内鍵のかかる音がする。ウィザードの許可無しには何人たりとも出入りできない空間が構築された。絶対的な支配者はようやく口を開く。愛おし気で嬉しそうに、空間を満たすにおいよりも甘い甘い声で。
「待たせたな、ナイト」
その部屋は寝室であった。キングサイズよりも大きな特注のベッドが一台と、サイドテーブルが左右に一つずつ。左のサイドテーブルにはガラスのランプ。右には香炉があり、ランプの光と同じ色をした灯が煙を吐き出しながら瞬いていた。
ウィザードは静かに歩み寄り、ベッドへ腰かける。
「言いつけ通り、大人しくしていたようだな。実に喜ばしい」
情欲の入り混じる眼差しの先には、うつぶせに横たわるナイトの姿があった。両腕で枕を抱きかかえながら頬を擦りよせており、のびのびと足を伸ばしている。ぱっと見た限りではリラックス状態であった。しかしそれぞれの手足には銀色の細い鎖と青いリボンが巻かれ、その先はベッドの下へと消えている。彼女の自由を奪うには十分なほど強固でありながら、華奢なアクセサリーの体を保っていた。
囚われの彼女が身に纏うのは純白のベビードール。ウェディングベールをそのままランジェリーに仕立てたかのような上品さと透け感を併せ持つデザインだ。ウィザードがその姿を存分に楽しむ為に室温は高く、ナイトの体を隠すのはその服のみで、上にかける布団の類は存在しなかった。
「美しい……。貴女がただそこにいるという事実だけで、私は言葉にできない程の幸福な気持ちが込み上げてくる。この暖かな泉が愛なのだろう。そしてその根源に貴女がいるのだ」
ウィザードがそっとナイトの髪に触れる。上から下へなめらかになぞり、途中にあるレースのハンカチの結び目で止まった。ナイトの口にかませ、その声を、言葉を、助けを封じ込める為の物である。来訪者が去った今、それは不要となった。課した当人がうやうやしく結び目を解く。ハンカチと舌先を繋ぐ透明な唾液が糸を引き、やがて力なく途切れた。
ナイトからの抵抗は無い。呼吸という最低限の営みを行うべく、肺の奥まで詰め込まれた甘いにおいをもらすのみ。
おぼろげな意識を宿す瞳には、レースのハンカチに口づけるウィザードの姿も映っているだろう。だがその行為が何を意味しているのか、意図は何か、自身はどういった反応を示すべきかという思考へは繋がらない。甘いにおいのする靄が頭の中に満ちている。指先を動かすこと、瞼を持ち上げること、その程度の意思表示さえ甘く融かされ無為にされた。憤りももどかしさも感情の全てが生ぬるい夜の湖の底へと沈む。
「今宵はもう誰もここへは訪れない。私と二人きり。安心してその身を委ねるといい。さあ、先程の続きを行おう」
サイドテーブルへハンカチを置く。次に手を伸ばした先はランジェリーの背にあしらわれた白いリボンであった。編み込まれたリボンはレースの隙間をするすると抜けていく。ナイトの纏う羽衣のような鎧が一枚、瓦解した。
長いリボンがベッドの上に落ちる。
しなやかな指先が白いベールをめくった。その下にあるのは美しい背ではなく分厚いガーゼ。背全体を覆うガーゼを丁寧にはぎ取る。まるでガーゼが皮膚であったかのように生々しい赤い肉が露わになった。
わずかばかり残っている理性を以て語りかける。
「経過は順調だ。ナイト自身の持つ治癒力もさることながら、患部の洗浄を念入りに行っているのが効いている。並みの患者は痛みで暴れる故、こうもうまくはいくまい。ガーゼを取り換えるだけでも一苦労だと、貴女へ言っても信じてもらえるだろうか。完治した暁には瘢痕を目立たなくする処置を施すつもりであるが、想定よりも狭い範囲になるだろう」
ナイトからの返事は吐息に混じる微かな音。返事どころか聞こえたという確証すら持てないものであったが、ウィザードには充分であった。自身の紡ぐ言葉の半分も届いていないと理解しながらも饒舌に続ける。
「息は苦しくないだろうか。寝返りをうてない不自由さはさぞ辛かろう。しかしそれもあと数日の辛抱だ。本来ならば腕を動かしたり、頭を持ち上げるだけでも痛みを感じるのだが、ナイトにはその枷が無い。かるがゆえに目に見える形にしなければ貴女を守れないのだ」
ナイトの手首に巻かれた鎖に触れた。彼女へはめた鎖であるにも関わらず、ウィザードの心にも巻き付き苦しめる。おそらくはナイトの感じている苦しみよりも大きいだろう。
「自由を渇望する貴女を拘束するのは心苦しい。貴女にそれほどの深手がなければ、私がまがい物でありながらも医者という立場でなければ……。あぁ、いっそ私が本当に魔法を使えたならばどれほどよかっただろう。貴女の体の為に貴女の心を害する非力なウィザードへ、どうか赦しを……」
祈りの言葉。世界から切り離された時間と空間。たった二人の世界。
香炉が酸素を飲み、甘いにおいを注ぎ続ける。仄かな光が夢へと誘う。
酩酊するにこれほど条件の整った夜はないだろう。祈りは情欲に溺れた。
「言い訳ばかり思い浮かぶのだ。正当化できるはずのない事柄を正当化しようと、曖昧な言葉が秩序を無視して押し寄せてくる。私も香に酔ったと言ったら、貴女は嘘を信じてくれるだろうか」
ウィザードの指先がナイトの膝裏に触れ、太腿をなぞりあげる。すでに上半身ははだけており、最後の一枚を守るのはくびれた腰回りを彩る二つの蝶々結びのみ。解くだけで陥落するのは明白だ。
蝋燭へ息を吹きかけるよりも容易い行為。太腿に触れていた指をリボンに絡ませる。蝶の羽が片方、捥がれていくように小さく、小さく……。
「貴女へ煽情的な格好をさせたのは私。貴女から全ての抵抗を奪ったのも私。そう……すべて私のせいにしてほしい。私は貴女から自由を取り上げてここへ閉じ込めてしまう悪者だ。貴女の貪欲なまでの知識欲を快楽の探求へと誘導し、永遠に私と共に――」
不自然な沈黙。ウィザードの肩がピクリと動いたかと思うと、指が止まった。
眉間に皺を寄せ、長い長いため息をつく。リボンから指を離し、そのままでサイドテーブルへ。香炉の穴を塞ぐように蓋を回す。
本能をむき出しにしていた瞳はいくらかの理性を取り戻し、意識はサイドテーブルの引き出しの中にある医療器具へと向いている。
誰に言うでもない義務的な言葉が現実を呼び戻す。
「今夜からガーゼを用いらない湿潤療法へ移る。言葉通り創面を乾燥させない療法だ。ナイトには無用の気遣いであるが、より痛みが少なく痕も残りにくいとされている。これは従来の消毒と乾燥を繰り返す療法とは異なり……」
再度、不自然な沈黙が訪れる。誰かがウィザードの言葉を遮るように押し黙らせる。しかしこの部屋にはナイトとウィザードだけしかいない。そしてナイトは今、夢と現実の境目を彷徨う夢想の住人だ。こうしてウィザードが軟膏を塗布しようとも目立った反応は無い。
「すまない。貴女といると時間を忘れて語りたくなってしまうのだ。私の愛しい人よ、もう意識を手放すといい。明日また解説しよう。貴女の眠りに安らぎがあらんことを。私が全ての危険を取り払うと誓う」
ナイトの瞼が静かに閉じられた。
ウィザードは適切な処置を施し、先程解いた背のリボンを編み込んでいく。それから小さな装置を取り出しナイトの腕に巻き付ける。一見して小型のデジタル時計に見えるそれと同じ物がすでに同じ箇所に取り付けられていた。予め取り付けられていた方が回収され、白衣のポケットへと消える。それは最新の医療機器の一つ。呼吸、心拍数、血圧に異常があればアラームが知らせるという優れものだ。充電式であり常に記録を続けるには二台交互に使用するのが効率的であった。
「業務連絡だ。早朝三時に体位変換を行う。無理に目覚める必要は無い。それと喉の渇きや不浄の用があれば気軽にコールを押すといい。私はいつでも貴女の元へ駆けつけよう」
ナイトの髪を一房すくい取り、唇を落とす。続いてランプの明かりを消すと、部屋は静寂な闇に包まれた。耳を澄ませば互いの心音が聞こえてくるかのようである。ウィザードはいくらかの眠気を覚え、立ち上がった。
「許可さえ下りれば同衾も辞さないというのに……。リビングが寝室になってしまいそうだ」
使い終わった器具を手に歩き出す。勝手知ったる部屋だ。足取りに迷いは無い。
内鍵を外し、扉を開け部屋の外へ。甘い誘惑がその背を追いかけるもウィザードはすげなく遮断した。そして今日もまた穏やかな夜が過ぎていく。