【一日目夜】マンション最上階 その①
サイドブレーキを引く音が車内に響く。
「ほい、おつかれさん」
ハクの一言でドロップはようやく生を実感した。安堵の息を漏らしシートベルトから手を放す。まだ体が揺さぶられている気分だ。どうにか足元のレジ袋へ手を伸ばしミネラルウォーターを取り出す。これが炭酸飲料であったならどれほど過激な運転だったかの指標になっただろう。先程ティアラが炭酸水を選んでくれた幸運に感謝した。
「あー……生きてる。水、うめぇっスわー……」
「ドロップは大げさやなぁ」
「登り坂のてっぺんでふわっと浮いた時とか、カーブでアクセル踏み込まれた時とかマジで死ぬかと思ったっス」
「高速道路はもうちっと早くなるで。覚悟しなおしとくんやな」
「ういっス……」
シートベルトを外したハクが座席を倒す。両手を上に伸ばし大きく伸びてから、スマホを取り出した。まだ日付は変わっていない。なかなかに良い記録が出たと心の中で満足した。
疲れ気味の後輩へヒラリと手を振る。これも愛の鞭なのだと理解されはしないだろう。
「ほな、ティアラはんと上、行ってきぃ。ワイはスノーはんに定時報告や」
「了解っス」
降車し、ドアを閉める音が灰色の地下駐車場にこだまする。高層マンションの真下にある専用駐車場であったが車の数は少ない。ただ、そのどれもが手入れの行き届いた高級車であり、ドロップはごくりと喉を鳴らす。中にはグレーのボディカバーに包まれた車もあり、なんともいえない近づきがたさを感じた。
怪しい人影がないかだけしっかりと確認し、ティアラの座る席のドアを開ける。逡巡するもすぐに覚悟を決めて、慣れない仕草で手を差し出す。
「えぇっと、よろしければお手をどうぞっス」
「触れる前から赤くなってるわよ」
「さ、さーせん!」
ティアラが目を細めた。仕方なしといった風に手を預けて降車する。
ドロップがドアを閉めて振り返ると、すでにティアラはエレベーターへ向かって歩き出していた。小走りで後を追いかけ、そのまま追い越すとエレベーターのボタンを押す。ティアラの到着と同時に扉が開き、揃って乗り込んだ。
「ウィザードさんの部屋って何階っスか?」
「このエレベーター、最上階直通よ」
「パネェ……」
格式の違いに愕然としつつ、ドロップは衝撃的な事実に気付いた。
超がいくつ付いても足りないスーパーアイドルと密室で二人きり。とっさに視線を壁へと向けるも、いつの間にやらティアラを見ている自分がいた。あの宝ノ木 姫華と認識した上で彼女の立ち姿を見たのは今日初めてである。
白のオフショルダーセーターに紺のクロップドパンツというシンプルな服装。それ故にプロポーションの良さが際立っていた。白い肌に浮く鎖骨は品のある色気を感じさせ、薄手のセーターに隠された豊満な胸へ無限の夢と欲望をかき立てる。制服を脱ぐだけで大人にしか見えないのだから恐ろしい。
足のラインをなぞるように密着したクロップドパンツは計算しつくされた美しさと凛々しさを兼ね備えた魅力を十二分に引き立てた。足を閉じ、膝同士がついているにもかかわらず、太ももの間にはわずかな隙間ができている。そこへ手を差し込みたくなる衝動をどうにか抑え、無意味な咳払いを繰り返す。
「なに?」
「いえ、なんもないっス!」
怪訝そうな顔をしつつもそれ以上の追及は無い。
ため息とも深呼吸ともつかない長い長い吐息が一つ。
「えっと、なんか怒ってます?」
「別に。今のうちにまともな空気を吸いたかっただけよ。ウィザードの部屋ってどこも消毒液のにおいというか、病院臭いの。内装は至って普通のマンションなんだけどね」
「へー。なんかイメージ通りっすねー。っつか普通のマンションって直通エレベーターとかあるんスか?」
「庶民的ね」
「そりゃ庶民っスから」
「あら、怒らないの?」
意外と言わんばかりのティアラへここぞとばかりに胸を張る。
「これが大人の余裕って奴らしいんで。キレて金持ちになれるなら苦労しないっス」
「アンタ、見かけによらずまともな所もあるのね。感心するわ」
「あざっス。これからも成人しやっス」
「……今の感心返してちょうだい」
◆◆◆
「本当に来るとはな」
玄関先で出迎えるなり、ウィザードはそう言った。夜も遅いこの時間でも白衣と眼鏡は欠かせないらしい。潔癖に近い清潔感を感じさせた。
「来ない理由がないでしょ。ナイト様の一大事ですもの」
棘のある声でティアラは返す。
その後ろから身を縮めてドロップも入室する。無意識の内に鼻が鳴った。どこかなつかしさのある甘いにおいがし、思わず顔を上げる。付近へ視線を巡らせるがにおいの元は不明だ。
きょろきょろと辺りを見回すドロップへティアラは呆れたように言い放つ。
「そんなにマンションが珍しいわけ?」
「あ、いえ、そういうんじゃ……」
「いいから行くわよ」
通された先はリビングであった。扉をくぐるやいなや、先刻告げられた通り消毒液のにおいが鼻をさす。しかしそれも気にならないほど、ドロップは目の前の光景に呆然としていた。
「広っ……」
夜景を一望できる大きな窓を背景に、ダブルベッドサイズのソファーが余裕を持って置かれている。ダークトーンの床材を照らすのは主張の強すぎないアンティーク調のシャンデリア。直射日光の当たらない部屋の奥まった場所にはグランドピアノが一台置かれていた。どこを切り取ってもカタログに載りそうな洗練された部屋に対して現実感が追いつかない。自身の存在がひどくこの場に不釣り合いであった。
「適当に座るといい。茶くらいのもてなしはしよう」
ティアラはさも当然のごとくソファへ腰かけ、マスクと帽子を取る。まるでこの部屋の主と言わんばかりに足を組む姿が美しい。
生きる芸術品を前に、ドロップは立ち尽くす。何度もテレビや写真で見た姿が手の届く距離にある。それが信じられなかった。
「マジで、ホンモノの姫華っスね……」
「そういう目線嫌いって言ってるでしょ」
「アイドルとか関係ないっスよ。綺麗な人がいたら見惚れるっス。すんません、マジで目が離せないんスよ」
「ふぅん? 言われ慣れてるけど喜んであげるわ。ほら、そこにでも座ったら? アタシの隣でアタシの美しさに感動なさい」
「失礼するっス」
足が沈み込むほどの上質な長毛カーペットへ踏み入り、隣のソファーへ腰を下ろす。快適さを追求したソファーだろうと実感しつつもどうにも居心地が悪かった。
そこへウィザードが銀盆を手に戻ってくる。テーブルに置かれたグラスには琥珀色の茶が入っており、青々としたミントが添えられていた。ティアラの正面に座るなり淡々とした口調で告げる。
「生憎だがナイトはもう眠っている。二人が来たことは伝えよう」
「あら……。まあそうよね。こんな時間ですもの」
「姫君のラジオは録音を頼まれている。明日の朝聴かせる予定だ」
パッと華が咲くようにティアラは微笑んだ。年相応の恋をする乙女のような無垢の笑み。ドラマでもバラエティーでも見たことのない彼女本来の笑顔であった。
「嬉しい。ナイト様、覚えてくれてたんだ」
「そういうわけだ。茶を飲んだら立ち去れ。私も忙しい」
「全然忙しそうに見えないわ。どうせナイト様が退院するまで仕事しないつもりでしょ」
ウィザードへ向ける表情は不愛想だ。しかしそれもいつも通りなのだろう。ウィザードもまた義務的に応える。
「ナイトの治療は趣味と実益を兼ねた立派な仕事だ。ついでに言うなれば、別のクライアントもいる」
ウィザードが自身の右耳を指す。そこにはワイヤレスのイヤホンマイクが装着されていた。スタンバイ状態を表す青いランプが穏やかな呼吸をするかのように点滅を繰り返す。
「今のクライアントが心配症でな。やたらと連絡を取りたがる。終始監視されているのとなんら変わりない」
「あーいるっスよね。そーゆー奴」
「信用されていない証拠ね。そんなことよりナイト様が怪我をした件の報告書とカルテをいただけるかしら。それだけ見たら帰るわ」
「残念ながらどちらも未完成だ」
「途中でもなんでもいいの。とにかく……少しでもナイト様の情報を」
切実な声であった。アイドルでも情報屋でもない、他者を想うありのままの少女を誰が無下にできるというだろう。
ウィザードは何も言わずに席を立つ。姿が見えなくなったところで扉の開閉音がし、すぐに戻ってきた。手にしていた二冊のファイルをそれぞれ二人に一冊ずつ手渡した。再び腰を下ろし、静かに解説を始める。
「姫君へ渡したのが聖火を学ぶ会の概要。もう一点は私の書いた報告書だ。どうせカルテを見せても理解できまい」
二人がそれぞれのファイルを開く。当然というべきか、ティアラの情報処理速度の方が勝っていた。ページを捲る手も、眼の動きも早い。瞬く間に最後まで読み終え、額に手をあてた。
「読んでるだけで眩暈がするわ。ひどい組織もあったものね」
ファイルを閉じ、ドロップの持つファイルをもぎ取る。こちらもまたあっという間に目を通し読み終えると、机上へと放った。
眼を閉じ、長い息を吐く。膨大な情報を整理し、取捨選択を行う。それから、射殺すような目でウィザードを睨みつけた。常人であれば震えあがるだろう。
「確認したいんだけど。アンタ本当にナイト様を脱がせたわけ?」
「いかにも。背の広範囲にわたる火傷に対し適切な処置を施した。火傷の処置はいかに早く行うかで瘢痕の程度が変わる。着衣がどうと構っている余裕は無くドレスを引き裂いた」
「百歩譲ってパンセレーノンの最高級ドレスをズタボロにしたのはいいわ。アタシが問題視しているのはただ一つ。アンタがドレスを引き裂くことをナイト様が了承したかどうかよ。もしもナイト様が泣いて嫌がっていたのだとしたら、医療行為という大義名分があってもアタシが許さないわ」
激しい詰問口調のティアラを前に、ウィザードは動じない。後ろめたさを感じさせない目のまま返答をする。医者らしさもありながら、どこか人間味を滲ませているのは彼の記憶の中で傷ましいナイトの姿があるからだろう。
「ナイトには事前に説明をして了承を得ている。当初は自分で脱ぐと言っていたが、服で傷口を擦り、皮膚ごとめくってしまう恐れがあった。その為傷の位置を把握した私が細心の注意を払って行ったのだ」
「やましいことは無いのね」
「これでも真っ当な教育を受けている。あの傷を見て下心を抱くほどの余裕はなかった」
耐性があるならば見ておくといい、そう前置きをして白衣のポケットからいくつかの写真を取り出し机上に並べた。
ドロップは視線を落とし、うへぇっと露骨に舌を出す。目を逸らすのをはぐらかすようにティアラからもぎ取られたファイルへ手を伸ばした。
「松明あてると人間の皮膚ってそんな風になるんスね……」
「あくまでも信者への制裁が目的、これでも手加減された方だろう。穏やかな気持ちではいられないがな」
上辺だけをなぞった会話の中、ティアラは一人沈黙する。一枚の写真を手に取り一心に見つめ、苦し気に彼女の名を絞り出す。
「ナイト様……」
それは誰も知らない痛み。
火傷の痛みは長引きやすい。一時の休息も与えられず常に身を焼かれる痛みが延々と続く。寝ても覚めても何をしても痛む。終わりは告げられない。燃え盛る炎が幾度となく皮膚を舐めては這いずり回る。まさに現代における地獄を再現するものだ。
だがその痛みもナイトは感じない。ウィザードの言葉通りならば今頃穏やかな眠りの中だ。それを幸運と呼ぶべきだろうか。否、とティアラは首を振る。痛みを感じていれば予測も抵抗もでき、こんな事態にはならなかったのだ。そして誰よりも多くの情報を求めるナイトにとって、痛みというごく一般的な情報さえも伝わらない事実はどれほど彼女を苦しめていることだろう。
ティアラは自分が代わりに苦しんだところで何も変わらないという現実を知っていても苦しまずにはいられなかった。誰も知らない痛みを抱きしめる。
悼むような祈りを捧げ、写真を机に戻す。感傷に浸る姿を長々と見せられるほどウィザードとドロップに気を許してはいない。
先程の詰問口調を和らげ、わずかばかりの詫びを滲ませた顔でウィザードへ向き直る。
「疑って悪かったわ。あなたがナイト様を救ったことは心の底から感謝しているの。だから……えぇ、そうね、ごめんなさい」
「そう詫びることもない。私が姫君の立場であったら同じように取り乱していただろう。むしろあって然るべきだ」
二人が沈黙の語りを始めたところで、ドロップはその空気を読めずにいた。読みかけのファイルから顔を上げ、二人の顔を交互に見る。分からないことはすぐに訊けという教えを忠実に守り、あけすけな物言いで尋ねた。
「お二人ってどういう関係なんっスか?」
ティアラが眉根を寄せた。腹立たしいというよりも質問の意図が分からないと言いたげである。それでも即座に返答を用意するあたり、芸能界で磨かれたトークスキルの賜物であろう。
「どうって、見ての通りよ。ナイト様に変な事をしないよう釘を刺す方と刺される方。本当はこんな危険な場所にナイト様を泊まらせたくはないのだけれどこの怪我じゃ仕方ないわ。ウィザード、何回も言っているけどナイト様へ手を出したらタダじゃおかないから」
「釘……あぁ、糠に釘って奴っスね」
瞬間的に場の空気が凍り付く。ウィザードは誰に宛てるでもなく、ユーモラスだなとつぶやいた。
キッとティアラが鋭い視線をドロップへ向ける。表現力の塊ともいうべきその瞳は容易に相手を震え上がらせた。ドロップは恐怖と同時に奇妙な幸福感が込み上げてくるのを感じた。ライブ中に推しと目が合ったファンの気分だ。だが今この状況でそれを悟られようものなら彼女の青い怒りの炎に油を注ぐ行為に他ならない。怒りの理由は分からずとも自分に非があるのは明らかであった。
「悪意がないからといって、なんでも許されるとは思わないことね」
「す、すんません……。俺、またなんかやっちゃいました……?」
にべもなくティアラが立ち上がる。マスクと帽子を取りつけ、これみよがしにドロップを無視してため息をつく。わざとらしさがあるにも関わらず演技くささが無いのは、彼女の本心からの行動ゆえだ。
「ここで騒いだらナイト様に迷惑だわ。欲しい情報も手に入ったし帰る」
「見送ろう」
ウィザードが立ち上がったのを機にドロップも慌てて後に続く。
玄関までの短い道のりの最中、ドロップは今度こそ空気を読んで二人の会話を黙って聞いた。意思表示も兼ねて、両手を口で抑え込むも二人は気にも留めない。
「姫君が多忙と知った上で言わせてもらおう。ナイトは治療中ゆえ、夜間の面会はさせぬぞ。次は昼間に来るといい」
「ここがもう少し他の拠点と近ければどうにかなったのだけど」
「拠点を集中させても利点が少ない」
「分かってるわ。――それじゃあ、ナイト様によろしく」
「あぁ」
そのまま立ち去るのも憚られ、ドロップは深々と頭を下げてから立ち去った。
エレベーターへ移動し、ドアが閉まっても会話が生まれることはない。一人、針のむしろに立たされたドロップは沈黙に耐え切れなかった。
「ティアラさん……まだ怒ってるっスよね?」
「別に。話には聞いてたんだけどこんなに馬鹿とは思わなかっただけよ」
「誰にどう聞いているんスか」
「…………」フイッと視線がそれる。
「こっち向いてくれさえしない!?」
また別の種類の居心地の悪さを味わいつつ、エレベーターのドアが開くのをひたすらに待つ。それ以降、車に乗るまで会話もなくどこか足早だったのは仕方のないことだろう。
もしもドロップがここで足を止めて振り返っていたならば、何かが変わったかもしれないし、何も変わらなかったのかもしれない。