【一日目夜】車内 その③
「ドロップ、これからナイトはんの見舞いに行くで」
「今からっスか?」
「せやせや。着くまで大人しくできへんかったらドロップも入院やからな」
「ういっス。……ってことはウィザードさんのマンションっスね」
「道も覚えるんやで。今後一人で行かせることもままある」
「了解っス。でも俺、まだウィザードさんと一緒に仕事したこともないし、あんま仲良くないんスけどプライベート空間入って大丈夫っスかね」
「ちゃんと許可もろうたわ。それにウィザードはんは最低限のコミュニケーションも取れるし、ナイトはん隣に居ったら気持ち悪いくらいご機嫌やから安心せぇ」
ドロップは初めてウィザードと邂逅した日の事を思い出す。ナイトがティーパーティーを催し、三人だけの場を設けてくれた日だ。これまでの人生で一度も出会ったことのないタイプの人間を前にドロップは大いに戸惑った。苦い記憶もまだ鮮明だ。
「紅茶、ミルクティー、スコーン……クロテッドクリーム……う、頭がっ!」
「なしたんドロップ。腹減ったん?」
「大丈夫っス……。確かにあの人、ナイトさんいると何も問題ないっスよね。めちゃくちゃ敵意剥き出してくる時もあるっスけど」
「それはまあしゃあない。ウィザードはんからしたらナイトはんへ手を出しそうな危険人物にしか見えへんもん。いっそホンマに去勢してもらった方が信頼されるんとちゃう?」
「さすがに無理っスよ! そこまでしてようやくスタートラインとかないっス、無理っス、ありえないっス!」
「まあ困った時はナイトはんの名前出しときゃなんとかなるで」
「ういっス……」
カシュッと爽やかな音。いくらかの気力を削がれたドロップがエナジードリンクの缶を開けた。細長い缶の半分を一息に飲み干し、ドリンクホルダーへ収める。指の先がカーステレオのつまみを掠ったところで忘れていた疑問を思い出す。
生放送のラジオ番組であるにも関わらず、宝ノ木 姫華は放送中にこの車へと移動していた。これが不可解かつ、ドロップの意表を突くものであった。もしラジオ番組が終了した後にブロンドヘアーの芸能人が車内に乗り込んで来たならばドロップもあれほどまでに驚きはしなかっただろう。先入観が崩れてしまうと前も後ろも分からなくなる。初めから考え直そうにもその初めが分からなくなってしまうのだ。
ドロップは素直にハクへ尋ねる。すると拍子抜けするほどあっさりとした答えが返ってきた。
「あの番組、なんちゃって生放送なんや。番組始まる前からメッセージの募集して、生放送っぽく仕立ててるっちゅーわけ。ホンマに生放送しとる時が大半やから今日の新聞放送欄に生放送の文字なくても皆気付かんとちゃう?」
「なんでそんなことしてるんスか?」
「放送時間は21時から22時。姫華は未成年かつ事務所契約で22時までしか活動できへんのやわ。ほいでそういう事情に詳しい連中が出待ち狙ったりするんや。せやから時間ずらして姫華を安全に退局させるって寸法なんよ。秘密やで」
「大変っスねー……アイドル」
予想を裏切る殊勝な態度であった。感心した声がハクから漏れる。後部座席で黙って聞いているティアラもまた、興味を抱いたのかそっと足を組みなおした。
「裏切られたーとか言わへんの?」
「たぶん、ちょっと前の俺ならそう言うと思うっス。出待ちしたかったのはマジなんで。けどアイドルからしたらサービス残業だなって気付きやした。それに俺は出待ちして握手できたり喋ったりサイン貰えたらいいなーとか考えてたっスけど、ヤバイ奴ってもっとヤバイじゃないっスか。俺、そーゆー奴には思われたくないし、アイドル怖がらせたいわけじゃないんで。その……すっげぇ身近にアイドルがいて分かったんスけど、アイドルだって人間なんスよね。疲れてたり、休みたかったり、当たり前なのになんでか気付かなかったんスよ」
「アイドルは夢を見せる存在やからな。ドロップが思い込んでたのもアイドルだからこそ為せる技や。ちゃんと精神的に成長しているようでなによりやで。ええ子やええ子」
「あざっす。けどハクさん、俺もうガキって歳じゃないんでいい子はやめてくださいっスよー」
「おぉ、すまんすまん」
しみじみとハクは笑う。その内心では少しばかり気が緩んでいたと反省を行っていた。年下に弱いのが自身の弱点だと把握していたからだ。すぐに可愛がりたくなり、子供扱いをしたくなり、過剰なまでに世話をやきがちになってしまう。それが本人の為にならないと分かっていてもだ。そういった意味では調子にのりやすいドロップと自分の性分は相性が悪かった。気を引き締めるようにハンドルを握りなおす。さりげなくミラーへと視線を投げ、気の緩みの原因へと目を向けた。
黒いワンボックスカーが付かず離れずの距離を保っている。意識がそちらへ向いていたこともあり、返事に色が付いてしまったのだ。
ハクは思考を切り替える。現在の状況の再確認から始めることにした。
片側二車線道路。カーブはいくつかあるものの信号は少ない。歩道は人通りの少なさに比例して狭い為、仮に轢いても一人か二人で済みそうだと物騒な思考が過る。この時間帯は乗用車よりも大型トラックが多く、全体車両数は昼に比べて少なめ。振り切るには悪くないコンディションであった。
片手でガムの包み紙を開き、中身を口へ放り込む。ついでにコーヒーを流し込むと、ガツンとした衝撃が口の中で弾けた。
思考が冴えていく。終わりかけた会話を自分から繋ぐ気になったのもそのせいだろう。
「ホンにすまんな。ワイに手のかかる弟がおったらと思うとつい子供扱いしてまう」
ドロップは不思議そうな顔で首を傾げる。何かの言葉遊びかと思ったのか少しだけ考える素振りを見せ、今度は逆方向へ首を傾げた。
「ハクさん普通に弟いるじゃないっスか」
「ドロップと違うて手のかからへんええ子やもん。ホンマ可愛いで」
ウィンカーを出し、右車線へ移る。スピードメーターの針は数字の60を指していた。アクセルを踏み、少しずつ速度を上昇させていく。まだこのレベルなら尾行に気付かれたと思いはしないだろう。その認識が命取りだとハクは唇の端を持ち上げて笑った。その証拠にドロップものんびりとくつろいでいる。
「可愛いのは知ってるスよ。一昨日も会ってるんスから」
「いいや、ドロップはあの可愛らしさをこれっぽちも分かっとらん。毎朝味噌汁作って、お兄ちゃん今日のも自信作だよってはにかむ顔とか見たことないやろ?」
「それは見たことないっスねー」
「この間、ワイがズボンにポケットティッシュ入れっぱなしで洗濯機へ放り込んだ時も、最終チェックしてくれたおかげで惨事を免れたんや。しかも全然怒った顔せんと、お兄ちゃんもうっかりするんだねーって。ホンマ可愛いし気の利くええ弟やろー?」
時速75kmを超え、ドロップが窓の外の景色を見送る。すでに過去になった出来事を律義に拾い上げ、ハクへと差し出した。
「ハクさん、今さらっと信号無視しなかったっスか?」
「今日ポケットに入っとるハンカチも丁寧にアイロンかけてもろうた奴でな、お兄ちゃんに毎日お弁当を渡すつもりでやってるって言うて、ワイは思わず泣きそうになったんや……。心の優しいええ子に育っただけやない、アイロンがけの上達っぷりが嬉しくてなぁ。アカン、また泣きそうや」時速80kmへ到達。
「ハクさん、ハクさん、ここ高速道路じゃないんでこのスピードがアカンっスよ」
「夜中帰るとめっちゃきれいな顔して寝てるんやぞ。ワイも起こすつもりないんやけど、時々目を覚ますんや。ぼんやりとした顔と声で、おかえりお兄ちゃんって言うたり、今日も一日お疲れ様って言うたり……あぁー……もう! 一日の疲れ吹き飛ぶわ!」時速100kmを超えた。
「吹き飛びそうなのはドアなんスけど!」
車体が左右に揺れるのは無理な車線変更の為だ。大型トラックの合間を縫いながらも、決してアクセルから足を離さない。むしろ踏み込んでいく。
さすがに危機感を抱いたドロップがシートベルトを握りしめハクへと叫んだ。
「信号とかスピードメーターとか見えてるんすよね!? 寝顔の幻覚とか見えてないっスよね!?」
「幻覚やないで。ワイのイマジナリーブラザーは本物そっくりの可愛さや」
「見えちゃダメな奴っス! スピードスピード!」
「おう速いなぁ。うんうん、楽しいやろ? 兄ちゃんも楽しいで。ナイトはんの組織に籍移して、始めてもらった給料で遊園地行ったの覚えとる? あの時、身長届かんくて乗れへんかったジェットコースター……きっともっと速いんやろうなぁ」
もはやドロップとの会話を放棄し、しみじみ幻覚と語り合う。瞳に焼き付いた思い出の数々がスライドショー仕立てで浮かんでは消えを繰り返した。あたたかな過去はいつだって穏やかな時間を感じさせる。たとえ現実が時速130kmで移動し続ける車中であってもだ。
「マジでヤバイっス! 死ぬ死ぬ死ぬ! なんでなんスか!? なんか嫌なことあったんスか! スピードヤバすぎ! あぶなっ!!」
盛大に騒ぎ立てるドロップ。風を切り、揺れる車内の中なにより生命の危機に直面したゆえに大音量だ。
スピードメーターよりも先に頂点へ達したものがある。それは怒りのメーター。
ティアラがマスクを引き下げて、大きく息を吸った。
「黙りなさい!」
「ひぃ! さーせんっした!」
「おー、えらいすんまへん。ちぃと騒ぎすぎたな―」
謝罪しつつもスピードは維持したまま。そして心無い謝罪に対し、ティアラの怒りも継続中であった。
ハクに対して最も効力のある脅し文句を弾にし、容赦なく言い放つ。
「告げ口しようかしら。アンタのお兄ちゃん、お口チャックが出来なくてアタシに迷惑かけてるって」
効果は絶大であった。
ハクの表情から余裕が消え去り、怖気が全身を襲う。カチカチと歯を震わせ恐怖のあまりに叫びだす。
「ティアラはんやめたって!! 軽蔑でもされたらワイ、生きていけへん! 到着まで一っ言も喋らんから! なっ? なっ!?」
「ティアラさーん。ついでにスピード落としてくれるよう言ってくれないスかね?」
ティアラの表情は固い。絶対的な権力を握りしめた今、多少の溜飲は下がれど彼女からすればこの状況こそが本来ふさわしいのだ。誰もかれもが媚びへつらい、いっそ鬱陶しいまでにご機嫌とりをされるのが自分のあるべき姿だと信じて疑わない。
煩わし気で気の向くままに、それでいて優雅に命令を下すのが自身の役目。それを果たす為、淡々と指示を出す。
「一秒でも早くナイト様に会いたいわ。飛ばしなさい」
「ひっ――――!」
なおも叫ぼうとしたドロップの口を、ハクが乱暴に塞ぐ。ドロップは口をふさがれた恐怖よりも、このスピードの中で片手運転をしているというより現実的な恐怖に慄然する。
声にならない悲鳴は時速130kmを振り切って過ぎ去った。