【一日目夜】車内 その①
ラジオ番組は一つの区切りを迎えたらしく、聞き覚えのあるJポップを流していた。キススキの主題歌でもあり、宝ノ木 姫華の最新ヒット曲でもある『ビターステラ』だ。
曲の出だしからパワフルな姫華の歌声が響き、思い通りにならない恋と運命に対してストレートな感情を叩きつけていた。誰もが思っていることをあえて言葉にすることで聴き手の共感を呼び、強い力で引き込んでいく。サビの手前では先に述べた感情を嘲笑するかのように挑発的な言葉が矢継ぎ早に並べられる。柔らかな舌が躍る様に英語歌詞を歌い上げサビへと突入した。華やかな鐘の音と共に曲調がガラリと変わる。ロック寄りのこれまでとは違い、高音の伸びがポップかつ美しく響いた。前向きで自信に満ちた歌詞がこれまでの歌詞の全てを肯定した上で、自分らしく進めと歌う。聴き手の背を押す応援歌へと変貌を遂げた。
願い星へ願うのも、願いを叶えるのも自分でやればいい。
姫華のキャラクター性を前面に押し出した魅力的な楽曲であった。
ワンコーラスが終わり、CMが差し込まれる。
ドロップはビターステラのサビを鼻で歌いながらその場へしゃがむ。アスファルトへ煙草を押し付けもみ消した。そのまま手近な植え込みへと放り捨てようと立ち上がったところで思いとどまる。この場にいないはずのハクの声が聞こえた気がしたのだ。いつだったかは忘れてしまったが今日のような待機の時間中の雑談を思い出す。
煙草のポイ捨ては禁止。煙草の吸い口には唾液が含まれており、DNAから本人を特定することも可能だという。情報屋としてむやみやたらと自身の痕跡を残すべきではないという旨の内容であった。それ以前にモラルの問題としてもやめろと言われ、返事をした記憶がある。
ドロップは即座にポイ捨てという選択肢を抹消した。
自身の浅知恵ではハクを欺くほどの技術も度胸もなく、なによりそうまでして背く理由がない。情報屋の組織に加入しハクと過ごすようになってからというもの、日常の何気ない所作を注意されることが多くなった。靴の踵を潰さなくなり、箸の持ち方も随分と変化したと自分でも思っている。口うるさく言われたわけでもなく、そうした方が得をすると説明され事実そのとおりだった為だ。
ただ、一番の理由としてはハクに対して嘘を吐けないと痛感していることに他ならない。
どこか気だるげで影のある瞳。その瞳が何をかもを見透かしているのではないかと思うのだ。正直でいなければと思わせる強迫観念をもたらす力もまた恐ろしい
嘘を吐きたくないと思わせる相手はスノーを筆頭に何人でも存在するが、嘘を吐けないと思わせたのはハクとナイトだけだった。
夜空のようにきらきらと輝くナイトの瞳は陰りのあるハクの瞳とは似ても似つかない印象だろう。だからこそこの感覚はドロップ特有の物なのかもしれない。それでも本質的には同じものではないかとドロップは感じているのだ。
ナイトの瞳の輝きは無数の情報が反射しているに過ぎない。彼女が持つのは夜だけである。そこへ雲がかかる様に白く濁らせた物がハクの瞳であった。それらの瞳を前にすると、どうにも不安を掻き立てられる。自身を保てなくなるばかりか、その瞳に何も映っていないのではないかと寒心するのだ。
どんな色の光でもいい。感情を灯したくなる。その為に自分の心を偽る余裕はない。全てを見透かす瞳の中に映る姿こそ本当の自分だ。だからこそ偽らず曝け出さなければならない。そして叶うならば好意的に捉えられたいのだ。
ドロップはそこまで思い至ると面倒な感情を放棄し辺りを見回す。考えるよりも行動が先だ。
喫煙所もしくは灰皿のあるコンビニを探すも見つからない。ここもまた非喫煙者によって淘汰された地域なのだろう。年々と言わず日々その数を減らしている気がし、一度も参加したことのない政治界に向かって唾を吐いた。今後選挙へ参加することがあれば一先ず喫煙者であるかどうかを最初の篩に使ってもいいかもしれないと考える。
「ってかここを離れたら怒られるっスよね。あっぶね」
初歩的なミスをなんとか回避しポケットを探った。出てきたものは煙草の箱とジッポー、電池が切れそうでゲームもできないスマホ、残りはチェーンで繋がれた財布だけだ。
煙草の箱を開け中を確認すると未使用の煙草が二本入っていた。残り一本ならば迷いなく火をつけ、空箱を簡易的な灰皿にしようと目論んだものの当てが外れてしまう。今ここで新たに二本吸うのは惜しい。それにハクがいつ戻ってくるか分からない以上、最後まで落ち着いて味わうこともできないだろう。貧乏性を分かっていてもこればかりは育った環境のせいだと棚に上げる。
次第に考えるのが面倒になり、先程抹消したはずの選択肢が回帰した。怒られてもその時に反省すればいいと内なる悪魔が囁きかけてくる。どうにか振り払おうと激しく首を振って否定した。
「いやいや、ハクさんが優しいのは一回目だけだから!」
なおもしつこい悪魔を殴り飛ばし、何も解決していない現状に立ち尽くす。
そうこうしている内にQ局ラジオ館の中からハクが姿を見せた。すぐ隣に白いマスクをつけた女性が歩いている。キャスケット帽からこぼれるブロンドヘアーはドロップの髪と比べるまでもなく手入れの行き届いた煌びやかさを放っていた。
察しが悪いと自負しているドロップも二人を目にした瞬間に自分の為すべきことを理解する。猫背気味の姿勢を正し、煙草の吸殻を隠すように握りしめ深々と頭を下げた。
「お疲れ様っス!」
一礼した後に後部座席のドアを開けてそのまま抑える。
ピンのハイヒールの音がすぐそばまでやってきた。失礼な態度と思われぬよう、足元を確認するような素振りで視線を下げる。女性はドロップを一瞥することなく車へ乗り込んだ。華やかな香りがドロップの鼻先を労うように撫でた。
ドロップは音を立てぬよう丁寧にドアを閉める。それから答案用紙を受け取る小学生の顔でハクを見上げた。ハクからのおだやかな頷きにホッと胸をなでおろす。どうやら対応は間違っていないらしい。心象の良い今が好機と見切り、おずおずと左手を広げて見せる。ひしゃげた吸殻がポツンと手中に取り残されていた。
「あの、コレ、その辺に捨てたら良くないっスよね? すんません、俺、ケータイ灰皿的なのを持ってなくて……」
「喫煙者なら持ってなアカンで。今日は車内の灰皿使うてええけど、降りる時に新品同様になるまで掃除するんやぞ?」
「はい! さーせんした!」
「ほいじゃドロップは助手席な。ワイが運転するわ」
「ういっス! オネシャス!」
素早く助手席へ乗り込みドアを閉める。備え付けの灰皿へ吸殻を押し込み、手に着いた灰は黒のダメージジーンズの太ももへ擦りつけて落とす。
ハクは周囲を見回しつつ運転席へ乗り込む。シートベルトを締め、バックミラーを調整する様はドロップよりもこの車の持ち主に相応しい所作であった。
「ほな行くで。二人共シートベルトするんやぞ。捕まるのワイなんやからな」
「ういっス!」
ドロップがシートベルトを装着しながら耳をそばだてると後部座席でも同じような金具の音が聞こえた。カーテンで仕切られており中も暗い為、相手の手元もよく確認できない。顔を隠すようなマスクといい、ハクがわざわざ出迎えるほどの対応といい、彼女が芸能人であるのは間違いないだろう。ドロップは誰に言われるまでもなく背筋を伸ばしてシートへ深く座りなおした。
静かに走り出す車。二人きりであった先程とは異なり雑談も憚られる気がし、ラジオへ集中することにした。そうでもしなければ後方の人物をむやみに詮索しかねない。何が不敬へあたるのか掴めないドロップなりの最善策であった。
『キススキの放映は毎週木曜夜21時から。――このあとはゲストの濱千代 百重さんと宝ノ木 姫華さんへ届いているメッセージをご紹介していきます』
カーステレオからは変わらず三人の談笑が聞こえてくる。姫華は未だQ局ラジオ館に居るのだ。車はどんどんと姫華との距離を広げていく。物理的な距離感を少しでも拭おうとドロップは目を閉じる。たったそれだけで姫華との距離が縮まった気がした。まるですぐ傍に姫華がいるかのような錯覚に耽る。そのまま、頭の中にある記憶のノートを開く。世間が手放しで褒め称えてくれるほど大それたノートではない。それでも自分が興味を持った全てが詰まった宝であった。
ノートへ姫華の情報を書き込んでいく。
好きな食べ物、お気に入りのファッションアイテム、よく聴く音楽、多ジャンルに及ぶ嗜好性を姫華は淀みなく答えた。歌や芝居などの芸能活動には一際熱弁を奮う。ただ愛されるだけのアイドルという枠に収まるのを良しとせず、愛される為に必要な努力を模索し続けるという決意表明は姫華ならば理想論に終わらせないだろう。実績の伴う約束された勝利の宣言だ。
彼女の思想や言葉全てをドロップは理解できなかった。難しい理屈や言葉にはついていけるほどの教養を持ち合わせてはいない。それでも丸ごとノートへ書き留める。分からないことは後でまとめて調べようと策定した。
熱意のこもった姫華の声。そこへ冷え切った姫華の声がピタリと重なる。
「ラジオの音、大きすぎ。うるさいから今すぐ切って。それと助手席の窓閉めてちょうだい。クーラーの意味ないでしょ」
「…………え?」
ドロップは己の耳を疑う。驚きのあまり目を見開いたまま、体のどこも動かせないでいた。その間にハクが唯々諾々とラジオを切り、窓を閉める。バックミラー越しに後方へ視線を向け伺いたてた。
「これでえぇ? 冷房寒過ぎたら言ってな」
「満足よ。あぁそうそう、別件があったわ。どこか適当にコンビニへ寄って。喉が渇いたの」
「了解。駐車場あるコンビニまで辛抱してなー」
「仕方ないわね。任せるわ」
ラジオは切断された。当然、カーステレオは無音である。それでいてドロップの耳には姫華の声が明瞭に聞こえた。それも、自身の背後で。
一つの答えに辿り着いたドロップはごくりと喉を鳴らす。急激に乾いた口から戸惑った声を絞り出す。
「ハ、ハクさん。俺、喋っても、いいっスか……?」
ドロップとは対照的にハクは普段通りの軽い口調で了承する。右手でハンドルを掴みながら、左手でシフトレバーを叩く。トトトンットンッと耳馴染みの良いリズムを刻み、ドロップからの言葉を待った。
「その、あ、えーっと、何からどう言えばいいんスかね……」
「何からやろうなぁ」
「ま、まず! これ、何の仕事っスか!」
「なんやと思う? ちなみに後ろのお方に聞かれて困ることはなんもあらへんで」
「ゆ、誘拐……?」
「後ろに聞かれたらアカン奴やん」
頭を掻きむしりたい衝動を押さえつけながらドロップは懸命に考える。
思考を阻むのは疑問だ。どうして、なぜと答えを求める声ばかりが大きくなり何も考えていないのと変わりない。突然のストレスに耐え切れなくなり、早々とさじを投げた。
「ギブっス、ギブ! 俺今混乱してて、いつもよりアホなんで無理っス!」
「答えは『送迎』やで。簡単やろ?」
「それ情報屋の仕事なんスか? トランスポーター始めちゃった感じっスか?」
「立派な仕事や。ナイトはんやスノーはんやって免許持ってへんからワイらが運転するやろ? それと一緒や」
「一緒、なんスかね……?」
疑問をうまく消化できないまま困惑するドロップ。さりげなく論点をずらされたと実感しつつもうまく言語化できずにいた。そこへ再び後部座席から声が掛かる。
「ハク、あんたってばアタシの説明何もしてないの?」
「ワイが説明しても冗談で済まされそうやし、浮足立たせてもええことないやろ。コイツ、熱烈とまではいかへんけど姫華ファンやもん」
「別にファンかどうかは問わないわ。私を知る人間はすべからく私のファンになる運命だもの」
その台詞にドロップは確信した。間違いないと。
こんなにも高飛車で自信に満ちた物言いは宝ノ木 姫華にしかできない。彼女の言葉はいつだって彼女自身が証明する真実だ。
ドロップはシートから背を剥がすように起き上がる。そして振り向こうと首を捻ったところで鋭い言葉が飛んできた。
「助手席、振り向くの禁止。アタシが許可するまで前だけ見ていなさい」
「はい! さーせんした!」
ふふっと満足げな彼女の笑い声が聞こえる。その短い笑いだけで彼女の表情や仕草まで想像できた。マスクの下に隠れた唇が紅い三日月をかたどる。誰もかれをも魅了する魔性の声で真実が告げられた。
「たった一度だけアタシの事を教えてあげる。私は宝ノ木 姫華。そしてアタシはとある情報屋組織のナンバースリー、コードネームはティアラよ」
確信し覚悟を固めていたドロップの想像を遥かに超える現実。
理解の追いつかない頭が思い浮かんだばかりの言葉をそのまま発した。
「え、ちょ、え!? 俺達の協力者とかじゃなくてガチのメンバー!? しかもスリーって三番目!?」
「えぇ。うちの組織に明確な序列なんてないけれど、加入順で言うならそこの運転手より早いわよ」
「言うてタッチの差やけどな。ナイトはんが一番、そっからスノーはん、ティアラはんときて、ワイが四番目」
「へぇー。なんかすごい話っスねー」
一通り驚き終え、シートへ体を預ける。それからまた思いついたばかりの疑問をハクへと投げかけた。
「ちなみに俺って何番っスか?」
「正式にメンバー入りするんやったら九番やな。うちの組織図はもう説明せんでもええな?」
「もちろんっス。まずナイトさんを筆頭に。それでナイトさんから番号とコードネームもらっている正規メンバーが、えぇっと俺が九番予定ならナンバーエイトまでいるってことっスね。で、俺みたいな見習いとか色んな事情でコードネームだけもらっている準メンバーがまあわちゃわちゃいるって感じで。さらに正規メンバー個人の持つ協力者や手下が必要に応じてうちの組織の活動ができる――で合ってるっスか?」
「おぉ、ようやっと覚えたなぁ」
「いよっしゃ!」
胸の高さでガッツポーズ。勉強めいた暗記事項、教わった当時は覚えられるわけがないと諦観していたものの、幾度と問いと解を繰り返されようやく身に着いた。学生時代にこのような勉強で褒められたのは小学一年生の漢字テスト以来かもしれないとさえ思った。九九の時点で暗記を挫折してからというもの、差し迫った状況でないと何も身に付かず、習熟したところで褒められることはなかったのだ。
上機嫌に鼻を鳴らすドロップへティアラが呼びかける。
「復習は済んだかしら」
「ばっちりっス!」
「アタシの価値が理解できて?」意図せずとも艶やかな声であった。
「そりゃもう! だってナンバースリーって…………。ハクさん、さーせん。シートベルト外してもいいっスか。ちょ、マジ俺、時代劇でいうところの頭が高い奴ってか、ここは切腹して挨拶するところっスよね!?」
誰よりも早くハクの左手が助手席のシートベルトの差込口を掴む。涼しい顔で運転しつつドロップとささやかな攻防を戯れ代わりに行った。ドロップの手の甲を鋭く叩き撤退させ、ハンドルへと手を戻す。
「切腹は挨拶ちゃうからそのままで居れや。ちゅーかティアラはんのすごさが分かったんなら、ワイにもなんかあらへんの?」
「何言ってるんスか! 俺、この組織へ入る前からずっとハクさんを尊敬してるっスよ。ここへ来れたのもハクさんのおかげだし、ホントもうマジ感謝一億百パーセントでリスペクト最上級っス!」
「ホンマ? 気分ええなぁ。これやるで」
ハクがジャケットの内ポケットを探る。四角形に折りたたんだ紙幣をドロップへ手渡した。暗がりで何を渡されたのか分かっていないドロップはゆっくりと紙を広げ、街灯へ照らす。うぉっと歓喜の声が湧いた。
「五千円札じゃないっスか! いいんスか? いいんスか?」
「あとちょいでコンビニ着くさかい、パシられてきてな。ワイにブラックコーヒーと眠気覚ましになりそうなもん。ティアラはんにはミネラルウォーターか無糖の炭酸水。釣りは好きにしてええで」
「うっひょー! 任せてくださいっス!」
ハクの言った通り三分もせずにコンビニエンスストアの看板が見つかる。繁華街から離れたこの場所には他に明かりも無く、煌々と光を発しながら存在を主張していた。広い駐車場は夜も遅いこの時間ではほぼ貸切状態で、店舗から最も離れた位置に従業員のものであろう車が停まっているだけだ。
後部座席への配慮として、店舗から少し離れた位置に停車する。
「行ってきやっス!」
エンジンを切るより早くドロップが飛び下りた。一目散に入口へ吸い込まれる様子は一種の清々しさを感じさせる。
エンジンが口を閉ざすと車内には静寂が訪れた。コンビニエンスストアからの光はかえって車内に影を落とす。カーテンで仕切られた後部座席にはことさら深い闇に包まれている。その中からほぅっと吐息が密やかに漏れ聞こえた。
「騒がしいのがいなくなると、より静かに感じられるわね」
「ワイは静かすぎても息がつまってなぁ。辛気臭い顔で会話するのも肩凝るし、いっそもう見なかったことにせぇへん?」
「職務怠慢。そもそも先に気付いたのはアンタでしょ」
トトトンットンッ。
先程ハクが運転中に奏でたリズムをティアラが窓のふちで再現する。これみよがしな意趣返しだ。
ハクは窓にもたれ、さりげなく視線をミラーからミラーへと移動させる。視線の先にあるそれをティアラがはっきりと言い当てた。
「尾行車一台。黒、ワンボックスカー」
ハクと相違ない回答だ。