【一日目夜】Q局ラジオ館前 その②
はい――っと凛とした声が鳴る。
そのたった一声だけで意識の全てが聴覚に集中するだろう。
まるで自分の名を呼ばれたかと錯覚する。知らずのうちにこの声を求めていたのだと誰もが思った。それが彼女の持つカリスマ性である。
明確な意思を伴った声と言葉は曲のさわりを歌うようにカーステレオから飛び出した。
『濱千代さんの第一印象は穏やかで頼れる年上の方。それは撮影を重ねてきた今でも変わっていません。と、いうのも私は濱千代さんの一面しか見ていないからです』
『それはどういうことでしょうか』
『キススキ屈指の人気シーンである東堂先生の妄想シーンがありますよね。あまりにも吹っ切れていて濱千代さんがこんなことを言うなんて! っとファンの皆さんが口を揃えて驚いていらっしゃると伺っています。けれど私は一条 早苗から見た東堂のイメージ像を壊さない配慮として一度もそのシーンを見たことが無いんです。だからずっと印象が変わらないままなんですよ』
『初共演だからこそできる技ですね』
『えぇ。けれど少しだけ悔しいんですよね。私は濱千代さんの様々な演技を見て勉強したいという気持ちがありますし、そんな配慮がなくたって完璧な演技をする自信がありますから』
姫華の発言に誰もが笑みを溢す。その笑みが好意的であるなしに関わらず一つの共通認識を抱かせる。姫華の発言は姫華の本心そのものであり、そこに一切の嘘がないのだと。彼女らしい誇示であった。
「今日も絶好調っスね、姫華」
ドロップの嬉しそうな言葉にハクは快く同意した。するとドロップは自身が褒められた時以上に嬉し気で誇らしげな顔をする。音の出ない口笛を吹き、ハンドルを指で叩いて即興の喜びを奏でた。荒くれた見た目とは裏腹に屈託のない笑みが幼さともとれる若さを感じさせる。
ゆるやかに流れる時間の中、ラジオは休むことなく会話を続けた。
『東堂の妄想シーンを見ていないと仰っていますがどのような撮影の仕方をしているんでしょうか』
『先に私が水着やメイド服、エプロン姿などのコスプレをして撮影をします。監督からはグラビアのイメージPVのつもりでと言われているので、ドラマの仕事と思うよりはアイドルモードで臨んでいます』
『完成したPVを僕が見て、東堂らしい妄想をアテレコしたり、一人ベッドの上で悶えるシーンを撮影しています。お姫様抱っこや新婚生活など、マイルドかつ早苗もこれくらいの妄想はするよねっと判断されたところだけ二人揃って撮影しています。姫華さんは水着シーンも一緒に撮影してもいいと言ってくれるのですが、姫華さんのファンに怒られちゃいそうで……。妄想だから許されていますが女子高校生にしていい言動ではないですからね』
『た、確かにー。初めて見た時は笑いよりも驚きが先に来ました』
笑いあう二人の間に少しだけ拗ねたような姫華の声が重なる。
声だけで唇の動きや目の細め具合、表情の全てが容易に想像できるほど、瑞々しい感情に彩られた声であった。
『かなり際どい発言をしているらしいとは聞いているのですが、そんなに酷いんですか? 私が出ているドラマなのに私だけ知らないとか、すごく疎外感があります。こういうインタビューの時も話に混ざれなくって……』
『来週には全ての撮影が終わるのですが、そしたらスタッフ皆で東堂の妄想シーンだけを抜き出した総集編を姫華さんと鑑賞する予定なんですよ。その時の姫華さんの反応が今から楽しみでしょうがないです』
『和やかな現場のようですね』
ゆるやかにおだやかに夜が編まれていく。時間は波のようでもあるが誰かが編み物をしているようでもあった。いつだって同じようで違う夜。それはたくさんの人々の時間が交差しているからだろう。
ハクは微かな漣を聞く。綻びの元を辿るとドロップの指先へ辿り着く。ハンドルを叩く音が変わった気がしたのだ。実際にその通りで心地よいリズムではなく、どこか苛立ったようにも聞こえる落ち着きの無さが込められていた。
「なんやドロップ、トイレか?」問いかけにドロップの指が止まる。
「あ、いえ。タバコ吸いたくなってきただけっス。車内禁煙ってのは分かってるんで外行こうかなーとか思ったんスけど、外行ったらラジオ聞こえなくなるじゃないっスか。だからどうしようかと」
「それ、テレビ見たいからトイレ我慢しとるガキと大差ないで。ホンマにもう……。助手席の窓開けて、ラジオの音量上げたるわ。ほれ降りた降りた」
「やった! ハクさん、さすがっス!」
ドロップが颯爽と降車し、助手席側へ回り込む。その間にハクが助手席の窓を下ろしながらカーステレオのボリュームを操作した。
「こんくらいでええか?」
「バッチリっス! あざっス!」
「煙、くれぐれも中に入らんようにな」
「もちろんっスよ」
尻ポケットから潰れた煙草の箱を取り出す。中から少し曲がった煙草の頭を摘まみ上げ、口で咥えて引き抜いた。箱をポケットへ戻すついでに銀色のジッポーへと持ち替える。慣れた手つきで火をつけると、ジッポーを躍らせるように弄びながらポケットへしまう。
建物や街灯の多い街中は夜といえど暗くはない。その只中で赤い灯が一つ増えたと気付く者はここにいる二人だけであった。
肺の中で渦を巻くように煙が溜まっていくのを感じつつ車体にもたれ掛かる。煙を吐きだすのと同時に胸に閊えていた焦燥が空へと上っていく。この瞬間の心地よさだけが煙草を吸う唯一の利点であった。紫煙を追って見上げた先にはQ局ラジオ館の建物があり、あちこちの窓から光が漏れている。こうしてラジオが流れているのだから、まだ誰かが働いているに違いない。
「ここのどっかに姫華がいるんスよねー……」
感慨というよりかは感想に近しい事実確認だ。灰を溢すわずかな沈黙を挟み、今度はハクに向かって疑問を投げかける。
「俺達何時まで待機なんスか? 姫華の出待ちとかできそうなんスけど」
「そないに姫華好きやったらオフの時にしたらええやん。自分、仮にも情報屋やろ? スキル磨きと思って挑戦してみたらええんとちゃう?」
情報屋ならではの正論にドロップがへらりと笑う。今から言うことに対し、誤解しないでほしいという前振りの代わりだ。使える言葉が少ないなりに自分の気持ちの機微を伝えたいという彼が身に着けた表現方法であった。
「いやぁ……。なんていうか奢りって言われたらラーメンでも焼肉でも嬉しいじゃないっスか。それと一緒で超人気アイドルに会えるなら会いたいなーって」
「ミーハーなやっちゃなぁ」
「っつか今、さらっとオフとか言ったっスよね? 情報屋にオフあるんスか?」
「あるっちゃあるで。ナイトはんかスノーはんに申請すれば仕事の調整してくれるんや。オフの日は緊急以外で連絡も来ぃひん。ゆうてあんま使うことないで。ワイら自己管理である程度調整できるし、休みの日に街中ほっつき歩いて拾った情報が金になる時もあるしなぁ。なにより世間の情報は休むわけあらへん。年中無休の24時間営業、ご苦労なこっちゃ」
ハクは手の平に収まるスマホを見下ろした。こんな小さな道具の中に世界中の情報が詰まっている。望めば望むだけ、知りたければ知りたいだけ。常にそれは更新をし続ける。一生をかけてもその全容は誰にも掴めないだろう。だから人々は求めるのだ。自分に合った最適解を。しかしそれは簡単には見つからない。機械はまだオーダーメイドに対応しておらず、個人個人の求める情報を選別するには自ら手を伸ばさなければ口に入らない。中途半端に便利で不便な時代の弊害だ。
故に情報屋という商売が成り立つ。さながら人と世界の仲介人。人より多くの世界を知り、世界よりも一個人に寄り添わなければならない。恐らくは休むことなど不可能だろう。時間は果て無く、世界は進み、人は立ち止まれば死んでしまうのだから。
そこまで考えて、顔を上げる。思考を続ければ人間らしさの全てを手放してしまう気がしたのだ。他人よりも達観しているとは自負していれど、まだ人間を辞めるつもりは無かった。
「仕事は一生終わらへん。せやからドロップ、自分がやりたいと思ったことはためらったらアカンで。仕事だけで人生終わらせたくないやろ」
「ういっス。じゃあ今から俺、そこの建物の中潜入してきていいっスか!」
「今は待機の仕事中じゃボケェ」
「さーせん!」
ドロップは言葉通りにしか受け取れなかった。
ハクはため息にならないように息を吐く。思わず語気が荒くなったと反省しつつ、誰に求めるでもない同情を募った。教えなければならないことが山積みだ。その大部分が教えるまでもなく身に着けていてほしい常識であったりするのが余計に彼を疲弊させる。ドロップに学ぶ意思がなければとうの昔に見限っていただろう。
ハクは自分の中に残る甘さに苦い顔をしつつも、とある伝達事項を伝える頃合いだと見定めていた。
「今日の仕事終わったらしばらく楽になるさかい、目の前にアイドルおっても辛抱せぇや」
「楽?」
「せや。ドロップは目先の物に釣られやすいと分かっとるから黙っといたんやけど、明日からしばらくは簡単な仕事だけや。少なくとも出先で泊まりの仕事はあらへん。ゼロやゼロ」
「マジっスか! ひゃっほう! ――って、あ……」
ドロップは目を輝かせるが途端に何故か青ざめる。
死刑宣告をしたつもりの無いハクは首を傾げ言葉を待つ。
ドロップの表情は暗い。目の前のおいしい餌を警戒しつつ、おそるおそる自分の抱いた疑念を口にした。
「アレっスか……俺がスケジュール調整ミスったから、徐々に仕事減らされていくデスペナルティ的な休みなんスか……?」
思ってもみなかった反応に対しハクは大いに笑った。同時に何やら喜ばしい気持ちが湧いてくる。情報の真偽はもちろんのこと、真意を疑えという教えが少しずつ芽吹いているのを実感したのだ。自分ではない誰かの成長を見るのはハクにとって、とても幸福なことであった。
「ちゃうちゃう。ナイトはんがこの間仕事中に怪我したんは知っとるやろ? そいで今ウィザードはんのとこへ入院しとるんやけど、上が休んどるのにあくせく働かせるのも気が引けるゆうて、デカい案件受けるなっちゅーお達しなんや。ウチの組織は仕事中毒者も多いからな、たまには休まんとアカン奴らばっかやねん。えぇ機会やわ」
話を理解するにつれて、再び両の眼に輝きが戻っていく。
ようやく手放しに喜んでいいと判断したらしく、嬉し気に手首を捻って見せる。そのジェスチャーはハクにも分かりやすい物であった。
「つまりパチスロ行ってもいいんスよね?」予想通りの回答である。
「仕事終わらせてからなら好きにせぇ。ワイの報告書を読む暇もないほど山積みなんやろ?」
「う……うっかりしてたっス」
どうやら本当に忘れていたらしい。先程の成長の喜びも霞むほどだ。
今更嘆くのも馬鹿らしくなり、最低限の注意に留める。
「新しい仕事始める前に終わらしとくんやで?」
「了解っス!」
見計らったようなタイミングでハクの持つスマホが短く震えた。画面に表示されるメッセージ発信者のアイコンを確認し、助手席のドアを開けた。
ドロップが煙草を咥え直すとすぐさまドアを支える。ほぼ反射的にドアマンに従事しつつ、思い浮かんだばかりの疑問を投げた。間違いなくスマホのバイブレーションには気付いていない様子だ。
「急にどうしたんスか? あ、トイレっスか?」
「仕事や仕事。ドロップは待機継続。10分もかからへんからちゃんと車見とくんやぞ。駐禁切られたら張っ倒すで」
「ういっス。キモにイメージしとくっスよ!」
何もない平坦な歩道をハクは踏み外した。とっさに体勢を整え事無きを得たが、ぶつけてもいない頭が異様なまでに痛い。単なる受け狙いのボケであったらツッコミを入れるのもやぶさかではないが、これが素だ。もはや憐憫しかあるまい。
「中途半端に覚えとる言葉洗いださんとこの先ホンマにアカンで……」
「俺また何かやっちゃったっスか?」
「ろくに本も読まず、ナイトはんみたいな高機能国語辞典と会話しとる弊害なんやろうなぁ……」
涙ながらに独り言ちるも当の本人は顔にクエスチョンマークを浮かべたままだ。
訂正を遮るように再び、手の中のスマホが震える。画面を確認するまでもなく内容を把握したハクが慌てる。
「あぁ急がな! ほな、行ってくるで!」
ハクが小走りに向かった先はQ局ラジオの正面玄関であった。ドロップはその背中を見送りつつドアを閉める。空いた手で短くなった煙草を持ち、再び紫煙を吐き出した。
「ハクさんは潜入するんスねー」
今度ばかりは完全な独り言だ。
ドロップの隣で話すラジオはその中だけで会話を完結させていた。