【三日目夜】リビング その②
冷たい怒気の混じった声であった。
喉元に氷の刃を突きつけられる。目の錯覚と分かっていても命の危機を感じてしまう。あたたかな鮮血でしかこの刃を融かすことはできない。息が詰まる。喉を上下させるだけでも恐ろしかった。
ドロップは刃に触れぬよう慎重かつぎこちなく振り返る。油の切れたブリキ人形を思わせる動きであった。
「ス、スノーさん……いいいいつから……?」
「たった今だ」
ぶっきらぼうに返事をし、額の汗を拭う。彼にしては珍しく頬に薄い桃色が射していた。言葉通り走ってきたのだと見て取れる。
ウィザードが立ち上がった。スノーの隣へ並び立ち、肩に手を置く。ドロップへ見せつけるように不敵に笑い、隠匿事項を公開した。
「紹介しよう。私のクライアントだ」
瞬間、ドロップの脳内でフラッシュバックが巻き起こる。
連絡を取りたがるクライアント。ワイヤレスのイヤホンマイク。
小柴 俊也の特定はほんの片手間で、夜通しの活動はウィザードの監視の為だったのだろう。
納得と理解が胸をすくのに反し、腹の底からなんとも言い難い悔しさが込み上げる。どこで判断を誤ったのか、考えるまでもない。ウィザードへ特攻するより先にスノーへコンタクトを取ればよかった。そうしなかった理由は単なる欲目。スノーを出し抜き、ウィザードを引きずり落とせれば一番得をすると考えた為だ。
疲労感が肩へのしかかる。その上へ敗北感が重なり、後悔までも積み重なった。
ドロップが落胆している間、その他のメンバーはにべもない。
スノー用の飲み物を用意するウィザードへナイトが茶菓子を要求する。スノーは無言のままナイトの隣へ座った。さりげなくウィザードへ近い方を陣取るあたり、牽制の意味もあるのだろう。バックパックから10インチほどのタブレット端末を取り出し、専用のキーボードとドッキングさせる。ナイトが肩を寄せてタブレット端末を覗き込んだ。
「まだ宵口か。思ったより来るの早かったね」
「ウィルからの通信が途絶えたからな。仮にお前がウィルを出し抜いて脱走しても即捕まえてやる。余計な手間を掛けさせるなよ」
「やっぱ対策済みかー。ドロップがウィザード倒してても同じだったのかも」
「何させてんだよお前は」
「スー、そう叱ってやるな。ほんの戯れだ」
ウィザードがグラスを一つと菓子皿を置く。席に着き、スノーと視線を交わす。ナイトとの距離を空けられたことについて無言のまま異議申し立てる。スノーは何を言いたいのか分からないととぼけ、タブレット端末へ視線を落とした。二人の間に深い溝が生まれ、雪交じりの冷風が吹き抜ける。あだ名で呼び合うほど仲が良くとも譲れないものがあるらしい。
そんな攻防をよそにナイトは満面の笑みを浮かべた。視線の先は菓子皿である。
「今日のお菓子はなーにー?」
「ルルファミリアというコンフェクショナリーの定番焼き菓子の詰め合わせだ。好きな物を選ぶといい」
個包装の菓子の山。クッキーやマドレーヌ、フィナンシェなどバリエーション豊かだ。パッケージには五芒星をベースにした西洋風の家紋が描かれている。
ナイトはしげしげと観察し、一つを手にとっては戻しを繰り返す。ふいに顔を上げ、探るような目でウィザードを見つめた。
「いくつ食べていいの?」
「二つ、と言いたいところだ。しかし本日脱走を企んだ者は一つしか選べない」
「フロランタンとミニタルトタタンにしよーっと」
「ウィルの話を聞けよ」
「どっちも食べたいから、半分ずつならいいでしょ? ウィザード、一緒に食べてくれるよね」
「もちろんだとも」
「おい、ウィル。またインジテントレポート提出と再発防止カンファレンスをしたいのか? こいつを甘やかすな」
スノーが菓子皿ごとテーブルの端へと追いやり、ナイトの手からフロランタンを奪い取る。ナイトが取り返そうと手を伸ばすが届かない。
「うわーん、スノーの鬼! 冷酷無慈悲! どっちも半分ずつでいいじゃんかー!」
「騒ぐな。他の連中から日報が届いているからおとなしく読め」
「やった! 新着情報待ってましたー!」
「騒ぐなと言ってるだろ……。」
ナイトが膝の上にタブレット端末を乗せ、いそいそと菓子の封を切った。花のように敷き詰められたリンゴの果肉が柔く食まれる。キャラメリゼの甘い香りがリンゴの香りと混ざり合ってあたりを漂った。
ようやく大人しくなったナイトへ見切りをつけ、スノーはドロップへ視線を向ける。睨んでいるつもりはないのだろう。しかしドロップにとっては脅威であり、落胆状態からハッと覚醒する。
「ドロップ」
「はいっス!」名前を呼ばれただけで竦む。
「報告書と遺書を書いておけ」
「ひぃいい!」
ソファーから転がり落ちる勢いで退き、フローリングの上で両手と両膝をつく。恥も外聞も捨て額を床に擦りつける。これで命が助かるのならば安いものだ。
何を言うべきか分からないまま全力で叫ぶ。
「五体満足! 五臓六腑! 二つある臓器は片方だけで勘弁してくださいっス!!」
「あ、ドロップ、死刑宣告じゃないから安心してよ。遺書に関してはメンバー全員書いてるから怖くなーい」
「マジっスか! マジっスか!」
感涙にむせび泣く勢いでドロップは顔を上げた。
ナイトはにっこりと笑みを浮かべたままソファーを軽く叩く。
「そうだ、報告書書くよりも先に私へ報告してよ。ここ座っていいから、ね?」
「ナイトさん一生ついていきやっス!」
頭を下げ直し、顔を上げると世界が変わっていた。
ナイトの纏う空気が変質している。笑顔はそのままに、瞳はドロップから片時も離れず凝視していた。
「早く情報提供して。私――飢えてるの」
彼女の言葉とは違い、その眼はむしろ病んでいる。
ヒュッとドロップの喉が鳴った。軽口も愛想笑いも虚ろへ投げ捨てられ、ちっぽけな一人の人間が取り残される。生と死から最もかけ離れた虚無。心の奥底まで到達した恐怖さえあとかたもなく消え去った。
恐れおののくのは間違いだ。求められたのはそんなものではない。彼女の望みを叶えることこそ全て。
ドロップは足取りこそ確かであったが、どこかふわふわとした夢の中を歩く感覚を憶えた。元の席へ戻り、膝に拳をおいて彼女を見つめる。
「俺の報告から聞いてください」
ナイトはタブレット端末を傍らに置き、しっかりと頷いて見せた。
「うん。聞かせてほしいな」




