【三日目午後】リビング その①
能不能便宜点儿(中)
これを安くすることはできますか。
Нет,не можем(露)
いいえ、できません。
片仮名を振るならば「ニェット、ニ モージェム」
リビングから見える窓の景色は夜へと移りつつある。日は沈み、紫交じりの青空に夕陽色の雲が浮かんでいた。刻一刻と夜へと変化していく様を眺めることはできても感慨に耽るまでの余裕をドロップは持てない。理由は対面へ座るウィザードにあった。冷却ジェルで頭部を冷やしながらこちらへプレッシャーを放っている。つい先ほどドロップが彼の頭を掴みデスクへ叩きつけた結果だ。外傷は無いものの、きちんと念押しをするあたり医者らしいといえよう。
L字型ソファーをコの字に並べ、両端をウィザードとドロップが座り、仲を取り持つように一番広い中央をナイトが座っていた。三人が囲むローテーブルはどっしりと構え、三つのグラスを真摯に受け止めている。淡い色の紅茶が入ったグラスには色鮮やかなオレンジとミントが添えられており、舌だけでなく目をも楽しませる。各々がグラスへ口づけ、何度か喉を上下させた。
ナイトは静かにグラスを置き、さて――と口火を切る。
「話したいことはたくさんあると思うけれど順番に話していこうね。まずはドロップの紹介を改めてしようか」
「よろしく頼む。多少の興味が湧いた」
「ハクが元々居た世間的によろしくない組織があったでしょ? そこが壊滅したのを機にいくつかのグループが独立したの。ドロップはその中の一つ、竜蘭会に所属していて、違法な薬物を売っていたんだって」
「売人か。どうりで詳しいわけだ」
冷ややかな視線がドロップへ注がれた。居たたまれなさを感じ、拳を膝の上にのせて背筋を伸ばす。縮こまるより堂々としていた方が粘着質な叱られ方はしないという経験則に基づいた行為だ。
「製造から販売、負債回収や証拠隠滅まで一通りの経験はあるみたい。特技は脱法ハープの調合だってさ」
「ういっス、仕入単価の高いハーブをなるべく使わずブレンドして、サイコーにぶっ飛べるモノを大量生産できるっス。あとはまあ需要っていうんスかね。そーゆーの見ながら輸出入のルート手配とか、簡単な外国語使って値段交渉とかもしてたっスよ」
「ほう……。能不能便宜点儿?」
「ニェット、ニ モージェム!」
ぱちくりと音が聞こえそうな程、ウィザードは大きく瞬きをした。拙さこそあれど会話は成立している。日本語ですら満足に通じないと見くびっていた相手だ。驚きもひとしおだろう。
ナイトはウィザードのリアクションに満足したようだ。誇らしげに紹介を続ける。
「ポテンシャルはあるんだよ。経済用語は知らないけれど肌で理解している部分もあるし、薬物市場に限ればすぐにでも景気予測できるくらい。将来的に見ればうちで一番商売上手になるんじゃないかな」
「マジっスか?」当人が一番の驚きを見せた。
「うん。皆は割と儲けが二の次だったりするし」
「ナイトさんがその筆頭って奴じゃないっスかね」
「否定はしなーい」
談笑の最中、ウィザードがふと思い浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「ああなるほど。ドラッグ呼びを避けてのドロップか。単純明快でいいものだ」
「俺はもうちょいカッコイイコードネームが良かったんスけどね」
「命名者がここにいるんだけどー」
「ドロップって名前、なんか可愛いイメージなくないっスか?」
「コードネームで素性が予測できるんじゃ意味ないじゃん。ティアラは可愛くなきゃ嫌っていうからティアラにしたけどさ、ちょっとミスマッチくらいがちょうどいいと思うよ。仮にドロップを変更するならなんだろ? クロコダイルとかサルビアとかザナックスとか? 本物扱う時に紛らわしいしなー」
「扱う予定があるのか?」
「今のところはないけれどエキスパートがいるなら眠らせておくのももったいないよね。もちろん情報屋の枠に収まる範囲で」
期待の眼差しを受け、思わず視線を逸らす。彼女がドロップを組織へ迎え入れた理由もたった今初めて聞いたばかりだ。求められる能力と実力の釣り合いが取れていないと感じている。失望させるべきではないとも考えたが安請け合いによって背負うリスクの方が高かった。
「俺、そんなすげぇ奴じゃないっスよ。ぶっちゃけ俺の知識なんてナイトさんへ喋ったら一発で覚えるじゃないっスか」
「知識だけならね。でも経験や人脈はそう簡単じゃないよ。例えば今日ドロップが買ってきた物だって、私とドロップで比べたら入手難易度が違うもの。私が価値を見出しているのはそういうところ」
「分かりやすいっス! 確かに俺が売ってる側だったらナイトさんへ金以外のモンよこせって言うっスよ。つか金より体――」
ドロップが言い終えるよりも早く、ウィザードがゆらりと立ち上がる。身の危険を感じたドロップは悪鬼羅刹の如き顔を前に硬直した。早くも走馬燈が駆け巡る。幾度となく死にかけた記憶ばかりだ。そしていつだって目の前の危機が最も恐ろしい。
「いや、その、うっかりっていうか、その……」
一歩、また一歩と歩み寄ってくる。ドロップは全身から汗を流し、ガタガタと歯を震わせた。迫りくるウィザードの手がやたらと大きく見える。恐怖の大きさそのものがドロップの頭を鷲掴む。なんと見事な意趣返しだろうか。耳元でゾッとする声が響く。
「俺の手術室へ入院するか?」
悲鳴が喉を切り裂いて飛び出すより早く、背中へ悪寒が駆け抜ける。ウィザードが手に持っていた冷却ジェルの袋を襟元から滑り込ませた為だ。ドロップは何が起きたのか分からなかった。掴まれた頭を振りほどく勢いでのたうち回る。それがかえってパニックを誘発してしまうが冷静な判断ができずにいた。
ナイトは器用に三人分のグラスを持ち、ドロップから避難させる。完全に他人事とみなし、一連の騒動をのんびり眺めていた。
ウィザードが席へ戻る頃にはドロップもどうにか落ち着きを取り戻す。疲れきった顔で冷却ジェルを机上へ叩きつける。広いソファーを転げ回ったおかげで打撲はないものの、背に痛みを感じていた。冷却ジェルの入った袋の端で切ってしまったかもしれない。
ナイトが避難させていたグラスを持ち主の正面へしっかりと戻す。どさくさに紛れてグラスを交換しようとするウィザードの目論見を阻んだ。ウィザードはそれはそれで自身を理解してくれているのだとポジティブに捉える。あえて口に出さないあたりが小賢しい。そのまま別の話をした。
「私はナイトのいる前で野蛮な行いはしない。感謝することだ」
ドロップは弱々しくも恨みがましい目をする。思ったことをそのまま口にだしてしまう性格が、いけないと分かっていながらも言わずにはいられなかった。
「俺に完封されたクセに……」
互いに平等な条件であったとは言い難いが、ウィザードを取り押さえた事実がある。ナイトが止めに入らなければ今頃は凄惨な光景が広がっていただろう。力で劣っているのはウィザードの方だと断言できた。
そんなドロップへナイトがあっさりと異を唱える。
「言っておくけれどドロップが教わっていることはウィザードも会得済みだからね」
「いやいやナイトさん、たとえそれでもあの場は俺の勝ちっスよー」
「貴様は大いに勘違いをしている。本来ならばあの状況は起こり得なかった。膳立てあっての結果だ。自惚れるな」
ドロップが沈黙した。不満気というよりは腑に落ちないと言いたげだ。ナイトが全てを見透かした目で微笑む。
「ドロップが気付いてないけれど、実はハンデがたくさんあったんだよ。だからあんまり威張るなーって意味」
「あ、そういう意味だったんっスね、あざまっス! で、どのあたりがハンデだったんスか?」
ナイトとウィザードの視線が交わる。ウィザードは解説する気も失せたようだ。易しい言葉に置き換えて解説をするほど甲斐甲斐しい真似はしたくないと顔に書いてあるかのようである。
仕方ないとナイトは笑った。視線だけの会話を終えてドロップへ向き直る。
「そもそもドロップが最上階まで来れたのは、ロビーでのやりとりを聞いて面白そうだなって思った私がお願いしたから。ドロップの話を聞いてほしいとも言ったし、多少の手荒い言動も多めにみてねとも言ったよ」
「そうなんスね……」
「理解したようだな。貴様はナイトの庇護を受ける存在であるということ、貴様がナイトを想ってこその強襲であったこと、この二点がなければ今すぐにでも生命活動を停止させている。貴様に取り押さえられようとも多少の怪我を覚悟すれば充分に抜けられた」
「うっはぁ……」
「というわけで今日は私もいたし、相手もウィザードだったから良かったけれど、今度から特攻する時は事前に誰かへ連絡してね。以後の連絡がつかなければ失敗しちゃったんだーって分かるしさ」
「ういっス……。ウィザードさんマジ調子乗ってすんませんっした」
深々と頭を下げる。
状況を把握した今なら、ウィザードの煮え切らない対応にも納得できた。
ナイトはたとえ間違いであってもドロップの思考を知りたかったのだ。もしナイトの無事を確認できれば的外れの推測など恥ずかしくて披露することもなく終わってしまう。その為に自身は廊下で待機し、ウィザードを使って聞き出そうとした。ウィザードはドロップが語り終えるのをただ待つしかない。早々に話を終わらせるべく挑発行為へはしったのも、他の終わらせ方が見つからなかった為だ。
ウィザードにとって損しかない役回りだが、ナイトからのお願いを断れる男ではなかった。何もかもが腑に落ちる。
ドロップからの謝罪に返事は無い。空気が重くなるより早くナイトがさらりと本音を漏らす。
「ウィザードを気絶させて私を外へ逃がしてくれるならそれでも良かったんだけどね。ちょっとの怪我ならまだしも、薬漬けにするわけにはいかないから助けたよ」
「そういえばずっと訊きたかったんスけど、ナイトさんのそのエロ……あ、いや、えーっと寒そうな格好はなんスか?」
「90%くらいウィザードの趣味」
「治療にこれほど適した病衣はないだろう。温度、湿度を整えれば体温調節に問題もない。さらに検温、検診、洗浄作業の効率化も期待でき、当人でなくても着脱が容易だ。また患者とのふれあいは近年重要視されているものであり、医師による患者とのコミュニケーションはインフォームドコンセントを円滑に行うためにも必要不可欠である。そして――」
「あ、ナイトさんの説明で全部分かったんでそーゆーのいいっス」
ドロップはグラスに手を伸ばし、喉を潤した。改めて傍らに座るナイトを見ると、下着に白衣というフェチズム掻き立てる魅力的な服装であると否応なしに認めざるを得ない。紅茶を飲み干したばかりの喉が生唾によって上下する。新しい性癖の開拓を拒むように視線を彼女の足元へ逸らす。そこにはそれぞれの手足へ課せられている鎖が重なり合い、小さな山をつくっていた。
「にしてもウィザードさん、さすがに鎖はアブノーマル過ぎっスよ。スノーさんとかティアラさんには絶対見せられないじゃないっスか」
するとナイトは苦々しく笑う。いたずらが見つかった子供らしい無邪気さが香る笑みだ。ウィザードもいくらかの人間らしい感情がない交ぜになった顔をする。
「スノーは快諾とまではいかなくともOKしたよね」
「姫君も事情を話せば情状酌量の余地有りと結論づけるだろう。余計な労力を要するゆえ、なるべくなら見せずにいたいがな」
「マジっスか!? なんで!?」
「なんでだろーねー」
シラを切るナイトをよそに、ウィザードが静かに説明を始めた。
「ナイトが火傷を負った翌日のことだ。最低二週間の絶対安静及び入院を通達したところ、たちまち脱走を企て実行までに至った。こともあろうに二階の窓から飛び降り、素足で生け垣の中を逃げ、門を封鎖されたと知るなりバラ園の中に潜伏するという……」
「うお……デンジャラス……」
話を聞くだけでドロップは疲労感に襲われる。
ナイトの運動神経は人並みよりかは僅かに上回る程度だ。しかしながら痛みを感じない体質により恐怖心も麻痺しており、アクロバティックな行動へ拍車をかける。さらに自身の骨や筋肉が悲鳴を上げるレベルの能力を躊躇うことなく発揮するのだ。従って多大なる犠牲を伴う前提はあれどその運動能力は極めて高い。
そんなナイトが持ち前の情報処理能力を駆使して立ち回ったとするならば一筋縄ではいかないだろう。
「ナイトさん、骨折しなかったっスか?」
「五点着地使ったから大丈夫。つま先から着地して即座に体転がす奴」
「背中火傷してんのに何してるんっスか!?」
「骨折したら色々面倒だなって思ってさ」
「それ以前にもっと面倒なこと起こしてるっスよ!」
ウィザードが珍しくドロップへ同意を示す。しきりに頷き、ツッコミという名の注意喚起が終わるのを何も言わずに待ってから発言をする。
「幸いなことにこちらも警戒態勢を整えていた為、半日ほどで自首による確保ができた。事前にスーから忠告がなければ脱走されていただろう」
「さすがスノーさん、お見通しって奴っスね」
「スノーってばホント用意周到だよねー。こっちは不意打ち短期決戦しかないっていうの分かってて先回りしてくるんだもん」
ナイトは頬を膨らませ、不満気に足を投げ出す。よくよく見ると足の裏には細かいかさぶたがいくつも確認できる。雄弁に死闘の過酷さを物語っていた。
「二週間もベッド上とか信じられない。退屈過ぎて死んじゃうよ」
まったくもって同情の余地がない。ウィザードの判断は英断である。
「ナイトさんのじごーじとくじゃないっスか」
「鎖はもちろんのこと、その服装も脱走防止を兼ねている。おいそれと外へは出られまい。本邸からこちらのマンションへ移動したのも同様だ」
「この格好でもいざとなったら逃げられるよ。外で服を調達できるし、最悪この格好のままでも問題ない……」
高い金属音がしたかと思うと、ナイトの左足の鎖がローテーブルへ繋がれる。無論ウィザードの行いだ。重い黒のローテーブルは天板の下にも一段板が敷いてあり、テーブルの足を持ち上げても鎖が抜けない仕組みになっている。
ナイトは左足を引き、解ける可能性がないと悟るやいなやドロップへ同情を募る顔をしてみせた。
「ドロップー……」
「どっちかだけの味方にはなれないっスよ。どっちも上司なんで。ナイトさんはボスでもプレジデントはウィザードさんじゃないっスか」
「わーん。ドロップが至極まともなこと言ってるー」
「まともついでに忠告するっスけど、ウィザードさんにはマジで気を付けてくださいっスよ? ナイトさん限定っスけどこの人、そこらのヤンキーよりも激ヤバデンジャラスな獣なんスから」
「貴様には口は禍の元という言葉を教えておこう」
婉曲的な死刑宣告だ。ハクからすでに教わったことわざであるが、運用方法のあまりの違いに初めて耳にする新鮮さがあった。
猫背になりかけていた背筋を正し、慌てて謝罪と弁解をする。
「さーせん、マジさーせん! でもホントのことじゃないっスか!」
「何を根拠に。私はどこぞの人間と違い、暴力に訴えるまねはしない。極めて品行方正たる人間だ」
「じゃああの妙な匂いも、なんの問題もないって言えるんスよね? 今度はちゃんと答えてもらうっスよ!」
ウィザードが僅かに言いよどむ。焦りというよりも何をはぐらかすべきか思案を巡らせていた。
その隙をいち早く突いたのはナイトだ。
「あれはすごく眠くなる奴だよ。私が薬物耐性少し付けたかったからお願いしたの。お医者様監修のもと安全性には気を遣ってもらえるし、脱走防止にもなるんだからお互い利点はあるでしょ?」
「それにしたって――」
意味ありげなウィンクでドロップを黙らせる。意図をくめずキョトンとするも、ややあって合点がいく。眠くなるのはナイトだけでなくウィザードも同じだ。
「他に保険のかけ方ないんスか。ほら例えば今この状況ってナイトさんヤバイんスよ。ウィザードさんが後先考えない俺みたいな特攻モードになったらどーするんスか?」
「うーん、私が望まないことをウィザードがするとは思えないんだけどー」
「ナイトさんを眠らせてから別の場所へ動かすとかもできるっスよ」
「ちゃんとスノーの監視もついてるから誤魔化せないと思うよ」
「へっ?」
予期せぬ人物の名に素っ頓狂な声が出た。しかし考えてみれば順当である。
ドロップですら予期する危機に対し、スノーが何も手を打たない方が不自然だ。
思考と共に加速する心拍数。急激に喉が渇きを訴え、吸ったはずの空気が肺に到達するより早く口から逃げていく。すぐには声が出ない。
犬のように口を開け、舌をのぞかせる。銀色のピアスがせわしなく歯の裏を擦った。
一言一言区切りをつけてどうにか言葉を組み立てる。
「ナ、イ、ト、さ、ん」
「んー? なーにー?」
「スノーさんって……今も、監視中、なんスか……?」
交わっていたはずの視線が違った。ナイトはドロップを通り抜けた先を見て微笑む。彼女の瞳は雄弁に語る。待っていたと。歓迎すると。彼の名を。
音も無く、室内の気温が下がったのは気のせいだろうか。ドロップは背中へ突き刺さるプレッシャーに抗えず、掠れた悲鳴を漏らす。
永遠のような刹那の沈黙。終わらせたのは本日二人目の来訪者。
「その通り。ここで監視中だ」




