【三日目午後】私室 その②
コーヒーカップの割れる音が響き、肉を叩きつける鈍い音をかき消す。無いに等しい残響の中、イヤホンマイクが床を転がった。
「さすがにナメすぎっス。それがクライアントへ繋がっているって説明したの、ウィザードさんじゃないっスか」
ウィザードは平然とドロップを見上げる。上半身をデスクの上に押し付けられ、両腕を背へ拘束されてもなお余裕が感じられた。
ドロップは振りほどかれないよう体重をかけながら息を整える。無我夢中で何をどうしたか分からなかった。しかしながら結果は最上だ。ウィザードを組み伏したという現実が達成感をもたらす。積み重なっていた鬱憤が晴れていくようだった。
「もうメンドイんで裏切り者確定でいいっスよね? 俺がクロって言えばクロになってもらえるっスよね?」
「もっと論じてくれるかと思ったが限界のようだな。ハクの口利きでここへ加入したと聞いてから表の人間ではないと分かっていた。特技は荒事か? ハクの劣化複製品ならばこの組織に居場所はないだろう」
「自慢できるような特技は何もないっス。今さら表の世界に行ったって役に立たないし、そうかといって外道になる覚悟もない半端者っスよ」
自嘲しかできない。人に言われるまでもなく自分がクズだと分かっていた。
ナイフで人を刺せても殺したくはない。
拳銃の引き金を引けても眉間や心臓は狙いたくない。
自分が直接的な原因になりたくなかった。責任を負いたくない。失血死や衰弱死なら自分に言い訳ができると勝手な理屈で納得できた。そういった面ではハクより性質が悪いと自覚している。罪を認め、背負い、引きずっていけるほど強靭な精神を持ち合わせていなかった。
「俺はただ生ぬるいアウトローに浸っていたいんスよね。だから情報屋って結構気に入ってるんスよ。出世に興味はないっスけど今のままだとちょっと不安っス。ここらでナイトさんの命の恩人になっておけば楽できるかなって思いやした。しかもほら、ウィザードさんがいなくなったら正規メンバー入りの確率上がりそうじゃないっスか! これもう一石何兆円っスかね!」
自然と舌が躍る。へらへらとした笑いが止まらない。
心のどこかに冷静な怒りもあるのか、押さえつける力は一切抜けなかった。以前ならば隙の一つもあっただろう。油断はせず常に思考を怠るなと、ハクの教育が知らずの内に身についていた。
しっかりと苦痛を与えながらも視線は部屋の四方へ散っていく。ちぐはぐな言動は理解しがたく、どこか不気味だ。彼の中に息づく狂気がついにその姿を現す。
不躾で物珍し気な視線が部屋を一周すると、ウィザードを見下ろした。
「ここはめっちゃ面白そうな薬品がありそうっス。ウィザードさんはどんな薬でイキたいっスか? 目玉飛び出して、鼻から脳みそ出たら楽しいっスよね」
「ああそうだな。ここにある物のみで劇薬生成も可能だろう。できるものならやってみるといい」
「とりま、そのウゼェ舌融かすの決定っスわ。苛性のドロップなんてどうっスか? もちろんソーダ味っスよ」
ウィザードの目の色が変わる。今、自身を拘束している人物がドロップなのかと確かめるような目だ。
苛性ソーダは水酸化ナトリウムの別名。皮膚や粘膜などのタンパク質を分解し、場合によっては骨まで到達する程の劇薬だ。名称と用途を踏まえた上での軽口がドロップの口から出るとは思いもよらなかった。
「随分と博識でいらっしゃる。今までの言動は演技か? 大したものだ」
「国語ができないだけっス。にしてもやっと俺を見てくれたっスね。今まで道端のゴミくらいにしか思ってなかったんじゃないっスか?」
「そんなつもりはない。貴様と違ってゴミは喋らないだろう」
「っのやろっ――!」
我慢の限界だ。
片手でウィザードの腕をまとめて押さえつけ、空いた手で頭を鷲掴む。そのまま容赦なくデスクへ叩きつける。ウィザードの表情が痛みに歪んだ。
沸点から1℃だけ下がった身体で吠える。ドスの利いた声は彼の見た目に相応しいと誰もが思うだろう。
「そんなにバカにすんなら容赦しねぇぞゴラァア!!」
ビリビリと鼓膜が震える。彼自身、久々の怒声にうるさいと感じた。渦を巻いていた狂気が彼の理性を飲み込む。怒りはあくまで原動力。頭の中のスイッチが切り替わる。過去が、経験が、記憶が、ドロップになる前の彼へと塗り替えていく。久しく忘れていたサイケデリックな高揚感がやってきた。
眉根を寄せたウィザードへ顔を近づける。耳元で楽し気に囁きかけた。下手な敬語と脅し文句が入り混じった厭な話し方である。
「薬使って俺よりバカにしてやるよ。ハッピーに依存できる薬って言えばよゆーで分かるっしょ? 特に粉モノは最初に接種した方法へこだわる奴が多いんス。さあ、どこからハッピーになりたいっスか? 口とか鼻もいいっスけど注射器だってあるだろ? 血管からとか定番っスもんね。俺、けっこー打つのうまいっスよ。自慢できない特技っスわ」
「……生憎だがそういった目的の薬はここにない。アスピリンとモルヒネで我慢してくれないか」
「ないわけないじゃないっスか。毒も薬もドラッグも同じ物。マッドサイエンティストな闇医者が興味を持たない方がイカレてる」
「言い方を変えよう。この部屋にはない」
それきりウィザードは視線を逸らした。
ドロップはまたしても自身が景色の中へ溶け込んでいく錯覚に陥る。今、組み伏しているこの人物は興味が失せた途端に認識すらしない。ハクやナイトとも異なるがよく似た存在否定の目だ。だからこそ躍起になる。勝手に人を抹消するなと訴えたくて仕方ない。自己顕示欲という言葉をドロップは知らないでいた。名前のない感情に振り回され狂気と共に溺れていく。ついには右手をポケットへ差し込んだ。
手にしてしまえば戻れない。戻らない。光より早い速度で人を蝕む狂気の具現。
ポスッと軽い音がした。チャック付きの小さなポリ袋が二つ、机上へ放られる。
彼の唯一にして最凶の切り札だ。
「ほら、あるじゃないっスか――ドラッグ」
ウィザードは目を見開く。目の前に想像を絶する物が存在していた。
真っ白な粉の入った袋とラムネ菓子にも見えるカラフルな錠剤が入った袋だ。
危機感を覚えた体が反射的に身じろぐ。無駄な行為でありながらもドロップの嗜虐心をそそるには無意味ではなかった。
ウィザードの表情からは訝しむ気配はない。曲がりなりにも医者らしく、本物かどうかの判別は可能らしい。
「ブツも揃ったんでもう一回、訊くっスよ。どこから『おクスリ』味わいたいっスか?」
ウィザードの沈黙も最早気にならなかった。ドロップは快楽に耽っている。脳内から麻薬が分泌されているのだろう。使ってもいない身体が熱く、興奮が止まらなかった。銀のピアスが照明に何度も反射する。
「俺のおススメはケツっスよ。ソッコーで効くし、水も道具も要らない超お手軽方法。座薬の効きの良さは先生ご存知っスよね? あ、でも躾けたらサイコーに笑えるのは知らないんじゃないっスか。男だろうと女だろうと自分からケツ出して土下座して、涙流して俺の足元に這いつくばる。マジでウケるっスよね。汚いオッサンは吐くほどキモイんでやんねーっスけど、ウィザードさんならいいネタになるっスわ。ムービー撮ってメンバー全員にラリ顔見てもらいやしょ?」
想像するだけで快楽が満ちていく。ドラッグという甘い飴をチラつかせれば、どんな鞭でも受け入れる人間ができるのだ。媚びへつらい、無様な姿を晒してくれるだろう。プライドが高ければ高いほど堕ちていく様は見事だ。そんなウィザードならば愛せる気がした。
狂気がいよいよ宴をひらく。ドロップにしか見えない宴――否。それを受け入れた者にも見えるだろう。聞こえるだろう。狂宴の主催者が語りだすその様を。
だらしなく涎を溢して渇望しろ。俺がいないと生きていけないと言え。水よりも酸素よりも愛よりも俺が必要だろう。俺をもっともっともっと。
求める声がする。声が文字へと変わり、視界を漂い、纏わりつく。
眩暈がした。ぐるぐると、ぐるぐると、吐きそうだ。この感覚が心地よい。吐きたい時に吐きだせた方が、吐けないよりも何倍も気持ちがいいのだから。我慢こそ毒だろう。
堕ちろ。醜く無様にどこまでも。終わりのない夜の底で、極彩色の夢の終焉を恋焦がれろ。頭上の星屑がお前を嗤っている。卑しい、汚い、地を這う人の成れの果て。
穢れてこそ人間の美しさだろう。そんな人間しか愛せない。そんな人間を狂おしいほど愛してる。
そのくせ自分では薬をやらない。一緒に堕ちてたまるものか。舌に耳に体に穴をあけ、ピアスで理性を繋ぎとめる。狡いだろう。こんな屑でも愛される。お前の心臓よりも俺がお前にとって必要だ。
これだから薬はやめられない。
「ねえウィザードさん、もっと絶望してくださいよ。アンタの頭の中は全部薬でいっぱいになるんス。ナイトさんのことなんて考えられなくなるんスよ。アンタなら妄想の中でもナイトさんと楽しくやってるでしょうけど、俺がそれを許さないっス。薬でいっぱいにしてやるよ」
ナイトの名を聞くなり、ウィザードはドロップを睨みつけた。今にも喉笛を噛み切らんばかりの殺意を感じる。
「俺からナイトを奪うことなど不可能だ。万が一にもそんなことがあるならば死んだ方がいい。むしろその時点で俺は死んでいる」
「あぁ、やっとっスね。ウィザードさんガチになると俺って言うの、めっちゃ好きっス。本能剥き出しってカンジでゾクゾクしてたまらないっスわ」
「錯乱した俺が貴様に何をしても文句は言わせぬぞ」
「大丈夫っス。ちゃんとダウナー系挟んでいくんで。プロポフォールくらいあるっしょ。あれ、医療用だとディプリバンってラベルっスよね? ま、なにはともあれ百聞は一見に如かずって奴っスわ。ちゃんと純度高いの仕入れてきたんで最初は意識ぶっ飛ぶくらいに派手にイッてもらって、軽く死んでるうちに吊るしたり縛ったりするっス」
無言の攻防。
ウィザードはどうにか体勢を変えられないかと、腕に力が込める。ドロップは無駄な足掻きと嘲り、クロスさせた腕を左右に引っ張った。呻き声が食いしばった歯の隙間から零れ落ちる。しばらくの間続けてみるも、それ以上の苦痛の声は無い。その意気に免じて解かれない程度に緩めてやる。ウィザードの額にうっすらと汗が滲んでおり、体は正直だと俗っぽい揶揄を投げかけたくなった。
「けっこー動けないもんっスよね。この組織入ってからハクさんに教わったんっスけど、マジで便利っスわ。前の職場の頃から知ってれば楽だったんスけどね」
手首を束ねなおし、上から片膝を乗せ固定する。自由に使えるようになった自身の両手。これみよがしにワキワキと指を曲げ伸ばしてみせた。
「さてと、野郎脱がす趣味はないんすけどさせてもらうっス。あ、もちろんゴム手袋つけるんで安心っスね」
ウィザードがこれまでで最も重いため息をつく。仕方あるまいと強大な葛藤との戦いに終止符を打つ。
彼の心境を微塵と理解していないドロップがあけすけに尋ねた。
「なんスか? カンニンしたっスか? あれ、カンネンっスかね?」
「まったく……。私が平和主義であることに感謝してほしいものだな」
「散々挑発してきたくせに何言ってるんスか?」
質問に答えず目を閉じる。ドロップの存在を拒絶するかのようであった。
そして舌の先までようやく到達した言葉を絞り出す。
「――助けてくれ」
「お? …………おぉ?」
思いもよらぬ懇願は難読語のように聞こえた。理解が追いつくにつれ盛大なファンファーレと共に歓喜が湧きあがる。勝利の美酒を直接脳内へと注がれた気分であった。
白い歯と銀の舌ピアスをあらわにさせ、この上ない煽り文句をまくし立てる。
「もう一回! もう一回いいっスか!?」
「…………」
「あれー? 聞き間違いっスかねー? 聞こえるように言ってほしいっスよー! ほーらー!」
ここぞとばかりに挑発を繰り返すドロップ。
ウィザードは完全に彼を無視し、静かにその瞬間を待ち望む。ほんのわずかな待ち時間。ついにその時が訪れた。
「私にはちゃんと聞こえたから、二度目は必要ないよ」




